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デザインは幸せを運ぶものでなくてはならない。

たまにはデザイナーらしいことを書かないと、なんの人かわからなくなりそうだから、デザインのこと、自分のブランド「白いシャツの店レタル」のことを書こうと思う。

学生にデザインの授業をするときに、最初に言うのは「デザインとは問題解決である」ということだ。

これはあくまで私の考えであるので、「他に定義する人もいる」という前置詞を添える。

学生には、自分の教えだけが全てと思って欲しくないので、私の考えの場合は、必ず「私はそう考える」と伝えるよう心掛けている。

大学のデザインの授業の中で、英語のデザインに関する文献を読み、レポートを書かされた。

そのときから、私のデザインに対する考えは変わっていない。

アートとデザインを比較したときに、アートは自己愛であり、デザインは他者への愛であると私は考える。

これは、大きく美術というか、美的なものとして、アートもデザインもひっくるめたものから、分岐するときのことを考えてもそうかもしれないなと思う。

近代国家がいくつかの市民革命を経て、個人が確立していくようになるその時代と、アートとデザインの分岐は重なっている。

デザインは産業革命と資本主義が台頭しなければ、生まれなかった概念だとも思うし、そう考えれば、デザインと広告が結びつくのもよくわかる。

アートは自己愛、ナルシズムというのも、表現というのは、自己を掘り下げることだと思うし、もっと汚い言葉で言えばマスターベーションでもあると思うが、しかし、また宗教的な行為でもある。

他者を排斥することがストイックで宗教的でもあると考えると、そういったことなのかもしれない。

デザインはもっと生々しいように思う。

他者愛というか、自分すらも他者のように客観視しなければ作れない。

特に近年のデザインは、マーケティングが重点を置かれている訳だから、その視点は重要なのだろう。

以前、質問サイトで「レタルの白いシャツをどんな人に着て欲しいですか?」と聞かれた。

宣材用にモデルは使うけれど、だからと言ってモデルに使うような人間に着て欲しいというかというとまた別で、着たい人が着ればいいと思う。

私は「レタル自体には明確なターゲットがないので、これを着たら、より自分のことが好きになれそう、だとか、自信を持てそうと思う人に届いたらいいなと思います。そういう背中を押すシャツを作りたいです。」と答えた。

服は着る人を幸せにするものであって欲しいし、少なくとも私はそう思っている。

服は身につけるものだから、その人のそのときの印象を変えるし、それにより、その人自身の気持ちを変えてしまうと思っている。

だから、そんな簡単なことではないのだ。

買う行為から、荷物が届き、着て、洗い、また着る、その一連の行為が、幸せな行為になるものであって欲しいし、そういうものを作らなきゃいけない責任が私にはあると思っている。

勿論デザインするその瞬間はアート的に自分の中を潜り込んで、何かを見つけ出す作業があるけども、出来上がったものは私のものではなく、解釈は全てお客様の手に委ねられていると思っている。

だからか、私は少し宣伝が下手なところはある。

ヒグチさん=レタルと思われることもあるけど、私自体はそうとは思っていなくて、レタルは私が産み落としたものかもしれないけど、子どもと同じでレタルにはレタルの自我があり、手を離れて成長していくものだと感じている。

そして、どこか自分自体は「レタルに仕える者」のように思うこともある。

美しいシャツを作ろうと思っている。

美しいは強いし、やはり手に入れたい欲望をそそる。

尚且つ着た人が、服が一人歩きせず、グッと美しく見えるようになって欲しい。

うちのシャツは決して安くはないので、安くはないシャツとして、やるべき役割があると思っている。

お客様がここ一番のときに選んでもらえるシャツを作りたい。

ニッチな市場を狙うしかないと私は思っているし、白というプレーンな素材を使いながら、奥行きのあるブランドとして構成していきたい。

なにより白いシャツが好きな人が、その豊かさに圧倒されるようなブランドを作っていかねばと思う。

まだまだレタルは発展途上だし、やるべきことは山ほどあると思う。

そして、それらは全て、お客様の幸せに繋がるものとして働かないといけないのだと、しみじみ考えている。

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