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エロはするものではなく 22.9.23

※今日はちょっとオトナの話です。

「ポルノを書いて(描いて)いる作者は、自身の体験をもとに創作している」と誤解されやすい問題。


まず、前提として創作というものは原則フィクションである。事実を記すのはエッセイもしくはノンフィクション。それくらいは読者も分かっているはず。

もし、創作が作者自身の実体験を記すものであるならば、ミステリー作家はほぼ全員シャバにいられないだろう。


なぜ、ポルノは作者とキャラクターが同一視されやすいのか。

もちろん、「誰でもする」ことであるのも大きく影響はしているだろうが。



それについて考える前に――。

僕自身においては、このありがちな質問を誰からも投げかけられたことがない。なので、作者=キャラクター本人と混同されているかどうかわからない。


ただ、高校生の頃、小説っぽいものを書いていた時、同じクラスの男から、

「(作中で自分をモデルにしたキャラクターが他のキャラを)ぶっ飛ばしてストレス解消してるんだろう」

とドヤ顔で言われたことがある。

彼は学校の成績は良かったが、文学的素養は全くなかったようだ。

主人公は別に僕ではないし、仮にそのキャラクターが誰かをぶっ飛ばすシーンを書いたとしても、主人公は爽快かもしれないが作者自身はただ執筆しているだけなのでなんとも思わない。


だが、話はここで終わらない。


さらに時代を遡り中学時代は、同じクラスの仲が悪かった男を登場人物にして、ここに書くのは憚れるような行為を「ひみつノート」の中でさせていたので、その意味では確かにうさ晴らしはしていた。

そもそも、「飛田流」になってからも、作者本人を想像させるキャラクターはちょくちょく出てはきてるね。ミニコントが中心だけど。


創作の原点として「自分だったらこうしたい、ああしたい」の妄想が、作品として形になっていくと思う。

けれども、「したい」と「する」には大きな差がある。


僕の場合、登場するキャラクターは自己の憧れや投影ではなく、まして僕自身でもなく、作中の世界にふさわしい人々――になる。

なので、その人たちがモニターの上であっはんうっふんヤッていても、作者本人は楽しくもなんともない。


ただ、これはあくまで僕の場合であって、エッチシーンをノリノリで書いている人だっているかもしれない。人それぞれ。


ちなみに、「君の小説は全て実体験を書いている」と吉行淳之介に評されたのが官能小説の大家川上宗薫先生だが、「『性豪』と呼ばれることもあったが、実際には身長163センチ、体重55キロの小柄な体格だったので、初めて会った女性から『もっと大きい人かと思ったわ』『もっとギラギラした感じの人かと思ってました』と言われることが多かった」とのこと。(Wikipediaより)


「性豪=大男」というイメージが世間では定着しているのだろうか。



もし、僕がイケイケの偉丈夫であったならば、毎日パコパコタイピングなんかしてないで、外でパコパコ「実践」に勤しんでいただろう。



とにかくこの一言に尽きる。





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