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孤独と強がり。小学生のわたし。

はじめまして。の方もいるかもしれません。
この記事を見てくれて
ありがとうございます😊


私は現在、
 魂(心)からの本当の望みを叶えるマインドコーチ、レイキティーチャーをさせて頂いてます。
これまでエステカウンセリングも含めて
マインドセッションやレイキヒーリングを
のべ一万人以上の方にさせて頂いてます。
【頑張らずに ゆるっとHAPPY♡】をモットーに
自分らしく自立した女性を光り輝かせる為に
お仕事をさせて頂いてます。



46歳のシングルマザー(元旦那さんとは親友😎)で
発達障害の娘2人(16歳、12歳)を持ち
2人とも小学生の頃から不登校、自由登校で
普通と違う自由人家族です(笑)🤭



私が生まれてからこれまでの45年間を
自分の過去を受け入れるつもりで、
そして、同じような経験や悩みで
もし今、苦しんでたり悩んでいる人のために
書いていきたい!と思いました。


誰にも話していないことも多々あります。
これから不定期ではありますが
私の人生を書いていきたいと思います。


生まれてから小学生までの私。

昭和53年4月4日に3人兄弟の末っ子の長女として
 生まれました。
 父は電器関係の会社社長。
母は専業主婦。
兄2人は8つと6つ離れていて
真ん中の兄とは高校生まで
犬猿の仲で毎日毎日ケンカしてました笑
時には蹴り合い、殴り合い!!


母は念願の女の子の誕生で
とにかく嬉しくて嬉しくて
だからか小学生までは
すごく心配性で過保護に育てられた記憶があります。(心配性は今もですけどね😅)


父は熊本市街で電器屋さんの社長をしていて
記憶の限り、私が小学生1年生くらいまでは
割と裕福な生活をしていました。
よく家族みんなで旅行したり
良いレストランに外食もよく行ってたし
着る服ももうブランドの
フリフリのワンピースとか
花柄の可愛いお洋服ばかり着させられてました笑
ここまではごく普通というか
家族仲良くて楽しかった思い出があります。


状況が一変したのは
 小学2年生の時。
いつも通り母が作った夕飯を食べていたら、

『来月からお母さんはお昼も夜も家にいないから、ご飯はお兄ちゃんか自分で作って食べるようにしてね。』と言われました。

私『どうして?』
母『昼も夜も働くことになったから。』
私『え?なんで?』
母『お父さんと離婚するから、お母さんが働かないと。』

その会話するときも
母は私の顔を見ず、皿を洗いながら
淡々と私に話してきたのを覚えてます。
なぜか私はそれ以上何も言えず黙ったまま。
多分、これ以上聞いたら お母さんが困るだろうなと小さいながらに察知して 
寂しいとか、嫌とかそんな言葉が言いたくても言えなかった。


今思えば、わたしは当時から自分の気持ちより
いつもお母さんの気持ちを優先してきたように
思います。
お母さんが傷つかないように、
お母さんが大変な思いしないように、
お母さんがイライラしないように、とかね。

小学二年生なんてまだまだ
お母さんに甘えたいしワガママ言いたい歳なのにね🥺

お父さんとはそのまま疎遠になり、
(父の会社は倒産)
だけど母からはいつも父の悪口や恨みを聞かされていました。
それから私もいつの間にか父の事が大嫌いになりこの父への怒りや嫌悪感が
のちに私が男性に対しての不信感や怒りに繋がっていたことを知ります。

 

それから、母は本当に忙しく
わたしは1人で過ごすことが増えて
いつの間にか母に甘えることや悩みを打ち明けることもなくなりました。
どうせ話してもお母さんは聞いてくれない、
忙しいから大変そうだから話せない、
話しても伝えても分かってくれない。って
自分のことを家族にも学校の友達や先生にも話すことを諦めていた子でした。



『私はどうして生きてるんだろう?
何のためにここにいるんだろう?』

そんなことを毎日考えていて、
感情のないような
ちょっと変わってた子だったと思います。
(でも本当は不安で寂しくて子供ながらにそれを感じないようにしていただけ。)

 
今だに覚えてるのは
台風の時、大雨の時とか停電するときでも 
毎日毎日
真っ暗な部屋の中、ひとりで怖くて布団の中に潜ってお母さんの帰りを待っていたこと。
お母さんが仕事から夜中2時とかに帰ってきたら、
寝たふりして私の横にお母さんが一緒に寝てくれる時が本当に安心して眠れる瞬間でした。
(だから朝からいつも寝坊してギリセーフで学校行ってた(笑))
今思えば、この時から『不安』という感情を抑えて生きてきてたんだろうな。


それから私は中学生のときも
友達はいたけど心のどこかで距離を置いてるから 
一部の男子や女子からは
からかわれたり、陰口を言われてたこともありました。
もうその頃から、
友達にも母にも兄にも誰にも心を開くことなく
きっと今思えば、自分の心も閉ざしていました。
学校にも行く意味が分からないまま
ただ行かなきゃ行けない。という思考停止状態で
つまらなくて色のない世界を生きてきた感じでした。多分ほとんど笑ってなかったと思う。

 

実はその頃、家のすぐ近くに祖母やいとこの家もあったのですが
ある日の朝5時半頃、救急車の音で目が覚めました!
私はすぐにその救急車が
おばあちゃんかもしれない!と察知し
横で寝てた母を起こしました。
違うと言ってた母も、わたしがどうしても気になるからおばあちゃんの家に電話して欲しいと何度もお願いし、母が電話したらやはり
おばあちゃんが救急車に運ばれていました。


母だけすぐに病院に向かいました。  
命は助かったものの危ない状態で
次の日、私も一緒に病院に行く気でいたら
母から、『えりだけ行かなくていい。見ない方がいい。』とのことで
歳の離れた兄二人だけ病院に向かいました。
病院から帰ってきた兄達の様子を見たら
『もうヤバいのかもしれない。。』と
子供ながらに不安でたまらなかったのを覚えています。



結局、その数日後に祖母(当時64歳)は他界。
自殺でした。
大人になってから聞いた話によると
うつ病だったらしいです。

おばあちゃんはいつも優しくて笑っていて
穏やかで料理が美味しくて大好きでした。

そこから私は
さらに心を閉ざしつまらない毎日を
ただ生きていました。


続く。

※私がなぜ心のことに興味を持ち
心のお仕事をしてるのか
書きながらやはり使命だったんだなと
今実感しています。
また続きを見たい方は待っていてくださいね!✨
誰かの希望になりますように。


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