見出し画像

ノンフィクション散策~「阿片王 満州の夜と霧」佐野眞一 

 予期せぬ出会いは人だけでない。
 本との出会いも同じ様なもので、たまたま立ち寄ったブックオフのノンフィクションの棚に、初版からかれこれもう20年以上経っているためか、はたまた一般にはマイナーなテーマなためか、ハードカバーの本の状態も良好にもかかわらずなんと200円の値札で売られているところを、見つけたのがこの作品。

 

 この作品を読むまでは、今まで里見 甫(はじめ)という人物の名前を、まったく聞いたことがなかった。
 1912年の清朝滅亡後、軍閥、匪賊、関東軍(大日本帝国陸軍)などが割拠する中国大陸で、新聞記者として頭角を現し、その卓越した中国語の語学力を武器に、軍閥や中華民国政府(国民党)の総帥らと人脈を築き、また持前のフットワークの軽さと人間力で関東軍や南満州鉄道の上層部とも密接な関係を結んだ。
 それらの人脈を背景に日中間の数々の枢要な局面で黒子として暗躍し、後に関東軍特務機関に属してからは、日本の大陸進出のための宣伝工作、諜報活動に従事した。
 更には自らの名を冠した「里見機関」なるアヘン売買組織を主催し、終戦を迎えるまで、上海を拠点に、関東軍の謀略資金調達を目的としてアヘン取引を手掛け、その規模は関東軍のみならず、南京の汪兆銘政権や青幇、紅幇といった地下秘密結社にまで及んだ。
 そんな彼を周囲の人間は畏敬の念をこめて「阿片王」と呼んだ。

 いわゆる「大陸浪人」と呼ばれる部類に属する人脈で、よく知るところでは笹川良一、児玉誉士夫などが、戦時中大陸での数々の「悪行」で一般に名を馳せているが、本書によると、この里見甫もその「活躍」と「実績」にかけては、彼らと比肩するかもしくは凌駕するほどの人物だったらしい。
 著者の佐野眞一氏が、里見甫の晩年の秘書のような存在だった男が暮らす東京都文京区内にあるアパートへ取材に訪れるところから、この阿片王と彼を取り巻く複雑怪奇な人間模様を探求する物語が始まる。

 著者の佐野眞一氏は、数多くの作品を世に出して、講談社ノンフィクション賞などを受賞、開高健ノンフィクション賞選考委員も務めていた、斯界の重鎮のうちの一人に数えられるノンフィクション作家で、晩年、当時大阪市長であった橋下徹にからむ記事問題が噴出して以後、いろいろおかしなことが明るみに出たみたいだが、当作品を読んだ限りでは、入手した資料をもとに、現地に足を運んで、ひとつひとつ丹念に裏をとっていく様は、読んでいる人間もその取材に同行し、昭和史の裏面で暗躍した主人公にまつわる謎解きに立ち会っているかのような臨場感を読中ずっと感じることができた。

 佐野氏(以下著者)が取材の眼目においたのは、1965年に亡くなった里見甫の遺児へ奨学金を募る目的で作成された後援会の発起人名簿に記載されている、過去に里見に関係があったと思われる面々をつぶさにあたっていくこと、そしてそのリストに載っている梅村淳という里見と深い関係にあった女性の戦前と戦後の足跡を辿ることとだった。
 いずれにしても著者が取材をおこなったのは2002年頃で、終戦から半世紀以上過ぎており、主要な関係者は他界しているか、高齢で取材対応が困難であったりと、細い糸を辿って僅かな記憶の痕跡をつなぎ合わせて事実に近づいていく以外に方法はなかった。

 著者は以前に手がけていた他の作品を執筆する取材中に、戦前帝国陸軍の肝いりで設立された「昭和通商」という商社の存在を知るに至る。
 その商社の表向きの看板は、軍需物資調達だが、裏の顔は中国大陸での諜報、謀略、アヘン売買を通じた資金調達を目的としたもので、また中国東北地方から内蒙古、大興安嶺山脈、中ソ国境付近の遊牧民族、少数民族の学術調査への資金提供を建前に、実体は対ソ戦をふまえた諜報活動支援にも関わっていた。
 その商社の深部をたどっていくと1932年に建国した満州国の暗部に突き当たり、その暗部で蠢いていた面々の一人が、「満州国の夜の帝王」と称され恐れられた甘粕四郎であり、そして「阿片王」の里見だった。

 筆者はこの「昭和通商」という商社に、戦時中に関わった人間の足跡をたどる過程で、里見甫の遺児への奨学金を募る後援会発起人名簿を偶然に入手する。
 その名簿に記載されていた名前は、それだけで昭和の歴史の表と裏の舞台を彩る大物達の面々だった。以下本書から引用する。 

「驚くべきは、そこに列記された発起人たちの顔ぶれだった。
  全部で百七十六名を数える発起人のうちから主だった名前を
  拾っただけでも、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、佐藤栄作という
   錚々たる顔ぶれである。
  このほか、甘粕正彦の実弟で満鉄調査部OBの甘粕四郎、
  満州国の首都・新京市元市長の関屋悌蔵、満州国の阿片政策を一手に
  コントロールした民生部禁煙総局長の難波恵一 
           ~中略~ 
  その顔ぶれは、満州、上海人脈を網羅してまさに圧巻だった。 
  さらに、すでにあげた岡田芳政らの元軍人、阪田誠盛ら旧特務関係者、
  あの笹川良一も恐れたといわれる上海浪人の岩田幸雄、前述した
  許斐氏利ら右翼の大立者の名前もみえる」

「阿片王 満州の夜と霧」より

 物語の冒頭で著者が訪ねた80歳近い老人は、晩年の里見の側近で、里見が代表を務めていた会社にも頻繁に出入りしていたという。
 著者はその老人に、これら発起人の顔ぶれを見せ、所在がわかる相手の連絡先を教えてもらい、その一人一人を訪ねながら、阿片王里見の実像に迫っていく。
 そしてその発起人の中に記載されていた一人の奇妙な女性にたどり着く。

「梅村淳って名前があるだろう。そいつは女なんだよ。
 里見とはとても親しい関係で、梅村は里見に勝手に惚れていたと思う。
 里見とは上海で知り合ったはずだ。やんごとなき家柄らしく、京言葉を
 使っていた」
 と老人は、その女性のことを著者に語った。また別の証人は、
 「ちょっと変わった人でした。一言でいうなら、男装の麗人です。
  いつも背広にネクタイ、ズボンという服装なんです。
  髪の毛も七・三の断髪でした。かなり高貴な生まれの方だと
  聞いています」
 「梅村さんはいつも男物の背広でした。履物も黒い男物の革靴です。
  髪の毛はオールバックで、一見すると本当に男性のようでした。
  性格も男勝りというか、さっぱりしてました。ただ世間的な常識とは
  かなりかけはなれた人でした」
  と述べている。

「阿片王 満州の夜と霧」より

 男装の麗人と言えば川島芳子を思い浮かべるが(本書曰く、里見は川島とも昵懇な間柄だったらしい)、里見の周辺にいた個性的な面々の中でもひときわ異彩を放っていた、この梅村淳といういつも男装をしていた女性に著者は興味を魅かれたらしく、その彼女の戦中戦後の足跡を追いながら、余人が窺い知れなかった里見との関わりも詳らかにしていく。

 本書によると、この梅村淳という女性はレズビアン、今で言うところの性的マイノリティ(LGBT)だった。
 ただ著者が本書を取材していた2002年当時は、マスコミに限らず世間的には、まだそういった性的指向は好奇の視線と偏見の対象であったのか、著者は梅村という女性に対して終始強い蔑意のようなものが行間から感じ取れる。
 これは筆者が彼女について取材してまわった関係先の反応も同様だった。しかしながら、阿片王と呼ばれる男に近侍し、アヘン取引という魔窟の世界にも何らかの関わりを持ったと思われる男装の女性が、温和で駘蕩な雰囲気を漂わせているはずもなく、周囲の一般人には、どこか際疾い(きわどい)、独特な個性を感じさせていたのであろう。
 著者はこの梅村と里見が戦後、二人共に入信していたという新興宗教団体での活動記録を遡って熊本県から鹿児島県へ、そして梅村が戦後長く居住していた鎌倉市内へと細い糸を伝っていくように当時の知人、関係者等に取材を重ねていく。
 出くわしたひとつの事実から他の事実へ共鳴していくように物語が展開していくところは、まさしくノンフィクションの醍醐味が味わえる。

 この後物語は、里見甫の生い立ちから中国の上海へ私費留学、卒業するまで様々なエピソードが詳述される。
 里見甫は1896年(明治29年)、秋田県の能代で元海軍医だった父乙三郎と母スミの間に長男として生まれた。下に二人弟がいた。
 父乙三郎は退官後、本書によると、医師として全国の無医村をまわったとある。甫が生まれた能代もそんな父の巡回先のひとつだったのだろう。
 その後里見は17歳の時、福岡の名門旧制中学を卒業後、上海の東亜同文書院へ進む。
 この東亜同文書院とは、日本を主体にしたアジアでの繁栄を唱える政治団体を経営母体に、1899年(明治32年)に当初は中国の南京で発足、その後上海へ拠点をうつした教育機関で、ウィキペディアによると商業実務が主要学科で、政治科、農工科なども併設されていた。
 日本政府や都道府県が学費を負担する公費留学生と、自らの私費でまかなう私費留学生の二つで構成されていたらしく、本書によると里見は後者の方であった。
 また形式的なものとはいえ入学には県か市の推薦状が必要で、里見は通っていた旧制中学と深いつながりがあった政治団体に働きかけて手続きを進めたとある。
 この政治団体というのは、旧福岡藩士頭山満らが中心となって設立され、日本における右翼団体の草分け存在となった玄洋社である。この設立者の一人である頭山満の孫は、先の里見遺児の後援会の名簿にも名を連ねているそうだ。
 多くの大陸浪人を中国に送り、孫文の辛亥革命とも深く関わった右翼政治団体が、里見の留学手続きの一助を担った事実は、後に大陸で八面六臂の活躍をした里見の先行きの何事かを暗示しているかのようである。

 里見はこの東亜同文書院に1913年(大正2年)に入学して、三年後の1916年(大正5年)に卒業している。
 里見が晩年に知り合いの大学教授に、自らの半生を口述した記録によると、在学中学友4人と連れ立って、北京から中国の主要都市を4カ月かけて巡る調査大旅行を敢行したことが特筆すべき思い出として語られている。
 里見は訪れた先々での人情、地理、風俗を「遠塞遍歴」という旅行記にまとめているが、内容は紀行文でありつつも時折、客観的かつ的確な解説を交えているあたり、後にジャーナリストとして名を馳せる片鱗がうかがえる。
 しかしそんな自分の才能に里見本人は気がついていないのか、卒業後の進路に関して明確なビジョンがなかったようで、また出席日数が足りず芳しくなかった成績も災いし、同学院の卒業生が進む外交官、商社マン、新聞記者といったお決まり三コースには進めなかった。
 後年、軍閥、秘密結社、関東軍を相手に阿片王として暗躍した里見であるが、この時期はまだ青年里見にとって、将来の生き方を模索するいわば青春の彷徨が続いていた。

 1916年(大正5年)、東亜同文書院を卒業後、里見は青島にある小さな貿易商社に籍を置いた。本書では何の商材を取り扱う商社で、この会社に入った経緯には触れられていない。
 ただその年は、おりしも第一次世界大戦のいわゆる「大戦景気」の真っ只中で、里見いた商社も大いに儲かっていた。
 まだ新人の商社マンに過ぎなかった里見もその恩恵にあずかったせいで、青島の遊里に入り浸って散財したあげく、何人もの芸妓を落籍したという。
 まるっきりの下戸で、まったく酒が飲めない里見にすれば、女色が道楽のひとつであったようだが、奇妙なことに身請けした芸妓はみなしばらくすると金をやって別れ、みなそれぞれ国元へ帰してやったらしい。
 借金のかたに売られたそんな芸妓達の救済を目的にしていたのではもちろんなかったであろうが、多くの人が里見を評するとき「飄々として」と言い表わしているあたり、女性も含め物事に執着しない、脂ぎったところが少ない、淡泊な気性の持ち主だったのであろう。
 ちなみにこの身請けした芸妓のうちの一人と後々入籍し里見の最初の妻となった。
 
 1918年(大正7年)にドイツの敗戦で第一次世界大戦が終結すると、これまで大戦景気を当て込んで拡大した投資と生産が、反転、過剰となって戦後恐慌となった。里見の商社もその煽りを食ってあえなく倒産、里見は後に妻となる元芸妓の女性を連れて日本へ帰国する。
 一旦、郷里福岡の実家に身を寄せたが、その後その女性と二人で上京した。本書では詮索されてないが、恐らく職を求めて、何らかの伝手を頼っての事だったのだろう。
 しかし恐慌で不況に喘ぐのは東京とて同じことで、まともな勤め先はあろうはずもなく、とりあえずおでん屋や蕎麦屋などの飲食業に手を染めてみたもののどれも長続きしなかった。やがて、蓄えも底をつきかけたのか同伴した女性を実家に帰す羽目になる。
 この時里見は24歳。気宇壮大な気概を秘めつつも、そのはけ口を求めて鬱勃たる毎日を送っている、しかし、そんな境遇に暗譚とすることなく、自らを嘲笑うかのように、青島時代の蓄えを蕩尽しながら吉原など遊郭での豪遊に興じて、鬱気を散じている・・・さすがに後年、阿片王と呼ばれる男だけあって、自分の未来を楽観的に見積もって、その時の流れに身を任せられるまさに豪傑の片鱗をうかがわせる。 
 しかし、まるっきりの徒手空拳というわけでもなかった。当時、東亜同文書院の卒業生は、満鉄や通信社、新聞社などに多く在籍しており、やがてそのつながりが里見を再び大陸への扉をひらく。
 東亜同文書院時代の後輩の斡旋で、里見は天津にある邦人向け新聞紙の記者の職に就く。

 1921年(大正10年)、里見は天津にて邦字新聞「京津日日新聞」の新聞記者となった。それは以後25年近くにも及ぶ、数奇に満ちた、彼の中国大陸での人生の始まりであった。
 里見の新聞記者生活は、本書によると1921年(大正10年)から、途中北京に創刊された別の邦字新聞社へ移った期間も含めると、1930年(昭和5年)ごろまでのほぼ10年間で、この頃の中国は、10年前の1911年(明治44年)に起きた清朝瓦解後の混乱がなおも継続していた。
 各地に割拠する地方軍閥同士の抗争は激化し、絶え間ない列強の干渉と日本の大陸進出で、中国国内の内政情況は混迷を極めていた。

1919年5月4日 - 五四運動
10月10日 - 孫文、中国国民党を結成。
1921年 - 外モンゴルが独立、モンゴル人民共和国へ。
7月23日 - 陳独秀、毛沢東らにより中国共産党結成。
1924年 - 第一次国共合作
1925年3月12日 - 孫文、死去。
1926年 - 蔣介石率いる国民政府、北伐を開始。
1927年 - 日本、山東出兵開始。
3月24日 - 南京事件
4月12日 - 上海クーデターにより国共合作解消。
4月18日 - 南京国民政府成立。
1928年5月3日 - 済南事件
6月4日 - 張作霖爆殺事件
6月9日 - 国民政府軍、北京に入城し北伐完了を宣言。
12月29日 - 張学良が南京国民政府に帰順。(易幟)
1931年9月18日 - 満州事変勃発。
11月7日 - 中国共産党、瑞金に中華ソビエト共和国の成立を宣言。

中国の歴史年表 - Wikipedia

 このような日中間の激動の時期に、大陸での報道現場の最前線にいた里見は、この上なく現場運に恵まれていた新聞記者だった。
 絶妙に相手の懐に飛び込むことに長け、中国語にも堪能な里見は、それ以上に当時の大陸の水が適っていたのだろう。張作霖、呉佩孚といった軍閥の指導者らへの単独取材を次々と成功させ、後に北伐を完成して北京に入城した蒋介石とも会見を果たす。
 本書の巻頭に掲載されている里見の写真は、両眼は油断なく一点を見つめているが、面長で鼻筋が通り真一文字に結んだ口元の風貌は、どこか飄逸で質朴な観がうかがえ、このあたり初対面の人間が抱きがちな警戒感、距離感を溶かしてしまうような人徳があったのかもしれない。
 著者は再び、前掲した晩年の里見が知り合いの大学教授に口述した記録内容から、里見が黒子として国民革命軍と日本軍の間にたって活躍したエピソードを載せている。
 1928年6月、北伐を完了せんと北京へ迫る蔣介石率いる国民革命軍と、北京市内の日本人居留民と駐留部隊の安全を危惧する日本軍との間で一触即発の緊張が走った。
 この時、双方に顔が利く里見が、水面下で事態の鎮静化に向けて周旋に奔走したとある。同年の5月に発生した国民革命軍と日本軍の間の武力衝突(済南事件)の再燃を回避したい日本軍首脳の意向を汲んだものだった。
 秘密裡に国民革命軍側首脳部と幾度か交渉を行った後、里見は国民革命軍側と居留民保護などを含む調停文書の取り付けに成功する。そして里見の表現曰く「明治維新の江戸城明け渡しの如く」国民革命軍の北京入城は、無事大きな衝突もなく行われた。
 周旋の役目は、機略だけでは務まらない。双方から信頼され、安心感を持たれる誠実さは言うまでもなく、それぞれの意図を双方に正確に伝える緻密さと、そして最後まで事を完遂する責任感が求められる。当時の里見は33歳の壮年であったが、これらをすべて兼ね備えていたのだろう。
 江戸城無血開城を引き合いに出しているあたり、里見も自分を西郷隆盛や勝海舟などといった幕末の著名人と自分を照らし合わせながら、使命感を燃やしつつ役目を果たしたはずだ。
 この時の働きは、日本軍の上層部や現地経済界に里見の名を轟かせた。里見はこの後、新聞記者の職を辞して、南京に移り満鉄南京事務所の嘱託となる。そしてその後更に、関東軍の対外宣伝工作を所管する課の嘱託となって、満州の奉天に赴く。1931年(昭和6年)の9月だった。

 里見が奉天に赴任した1931年の9月18日、「柳条湖事件」が発生、いわゆる「満州事変」の引き金となって、日本は中国大陸への侵略戦争を本格化していく。
 本書では、これらの歴史的な背景から当時の関東軍内部と現地報道機関の間で叫ばれ始めていた、現地でのニュース通信、対外宣伝事業を一社に統合し、新たなニュース通信社を設立する動きに、里見が深く関わった経緯に触れている。

 新聞用達会社の後身として,1892年創立の帝国通信社(帝通)は日清,日露戦争を通じて業務を拡大,1901年創立の日本電報通信社(電通)とともに日本の二大通信社として競争した。第1次大戦勃発直前の14年,ロイター通信社と結ぶ国際通信社(国際)が生まれ,26年東方通信社を合併して日本新聞聯合(れんごう)社(聯合,1928年新聞聯合社と改称)を組織,帝通の没落とともに,電通と聯合との激しい競争を特徴とする〈電聯時代〉を生んだ。この競争の結果は,国策により36年両社の通信業務を吸収した同盟通信社(同盟)の出現となり,同盟は日中戦争および第2次大戦を通じて東洋における最大の通信社としての地位を誇ったが,45年敗戦によって解体し,その施設を継承して,現在日本を代表する共同通信社と時事通信社が創設された。 

コトバンク〜新聞聯合社

 上掲の引用の通り、この「日本新聞聯合社」(共同通信社と時事通信社の全身)と「日本電報通信社」(今日の電通)が、1936年(昭和11年)にそれぞれの通信事業を統合して単独のニュース通信社を設立したとあるが、これよりもひと足早く大陸満州での両社のニュース通信事業を統合し、その結果、「満州国通信社」が設立された。
 この時、関東軍の意を汲んだ里見は、電通及び新聞聯合社双方の経営陣を相手に、その設立合意に向けた交渉において、再び周旋役として東西奔走する。
 この両社のニュース通信事業の統合に深く関わったことで、里見は満州国通信社の初代主幹(社長)に就くことになる。これは里見が後に岸信介ら満州国の高級官僚や阿片工作に関与する関東軍の将校らとの人脈を築いていくきっかけとなったとある。
 この満州国通信社は、本書によると、関東軍の意向により、「満州弘報協会」の通信部に吸収されるが、その時の協会の理事の一人に、元陸軍大尉で当時は満州内で軍属として水面下では関東軍の謀略工作に関わっており、戦後、満州国を舞台にした映画やドラマなどにも度々登場する甘粕正彦が名を連ねていたという。後に里見とは、阿片売買を通じて関東軍の資金調達に深く絡む。
 実はこれまで私は電通は純然たる広告代理店だとばかり思っていたが、統合されるまでは広告代理店業に加えて、国外に幅広いネットワークを持つニュース通信社であり、第一次世界大戦以後、日本が軍国主義の道を歩んでいった中、国策の意向によって広告代理店専業となったという歴史を、恥ずかしながら本書を読むまで知らなかった。
 本書の後半にも出てくるが、戦後、電通の隆盛を築いた人物も戦前の上海と深く関わっていたとあり、当時の親日傀儡政権下の官憲の日本人幹部や先の満州国通信社の関係者の多くが、戦後に電通入りしたとある。
 昨今、電通社員の過労死や自殺などの報道でクローズアップされた「斃れて後已む」的な組織体質(もっともこれ電通に限ったことではなく、つい最近までの日本の企業、役所、学校、その他多くの組織に共通する価値観だったと思うが・・)や、五輪招致に絡む疑惑で明るみにでた電通の会社組織としての談合、汚職体質は、戦前の軍国主義の下、国や軍部と癒着し、共存してきた企業が、戦後もその組織の中で代々受け継がれてきた遺伝子だったのだろう。

 この里見の電通と新聞聯合社の統合に関する経緯の後、よくやく本書はメインテーマであるアヘンにまつわるエピソードに入る。
 「アヘンを制する者が、支那を制する」と本書で著者は書いているが、これだけ読むとなにやらアヘンを巡る攻防のような印象を受けるが、要するにアヘンから上がる莫大な収益当て込んで、魑魅魍魎が群がったということで、この中にれっきとした帝国陸軍所属の関東軍も入る。
 まず中国とアヘンにまつわる歴史的経緯から、話は始まる。
 アヘン戦争(1840年~1842年)後も、アヘンの流入と富(銀)の国外流出に歯止めがかからない事に危機感を覚えた清国政府は、国内でのアヘン栽培を奨励して、輸入アヘンに対抗することを目論む。
 それらの主な国内栽培地の中には、雲南省も含まれており、ここは戦後、麻薬王クンサーが支配していた「黄金の三角地帯」に隣接していること思うと、その発端はアヘン戦争にまで遡るようだ。 

「その後、中国ではアヘン吸引に対し厳格な禁圧処置が何度もとられ、違反者を公開で銃殺刑に処することまで行われた。だが、アヘンを撲滅するには程遠かった。その温床となったのは、国民党政府が樹立されてもなお地方に数多く残存する軍閥の存在だった。
 彼らにとってアヘンは貴重な収入源であり、配下の者たちの闘争心を煽る恰好の向精神薬だった。各地の軍閥はケシの栽培を争って奨励し、アヘン争奪がしばしば内戦の火種となった。軽量で高価なアヘンは、通貨と同等にみなされ、満州国が建国される前には、中国は再び世界最大のアヘン市場となっていた。」

「阿片王 満州の夜と霧」より

 著者も述べている通り、アヘン戦争以後もアヘン吸引常習者が大陸各地に蔓延していた中国では、需要は安定しており、アヘン売買は地方軍閥にとって安定した資金源であった。
 清朝瓦解後、大陸の各地に割拠した軍閥は、いわば私兵の集団であり、その運営は自給自足だが、実態は商人や地主と癒着し、拠点を置く一帯の農村から収奪を繰り返していたようで、アヘン売買はもっとも手っ取り早く、見返りの大きい資金調達手段だったようだ。

 1919年(大正8年)に、大日本帝国陸軍内の軍単位にまで昇格した関東軍は、当初は満鉄の施設と日系企業、日本人居留民の保護が駐留目的であった。
 しかし第一次、二次奉直戦争(1922年~24年)や蒋介石率いる国民革命軍による北伐(1926年)への対応を巡り、本国の政府・内閣と関東軍首脳との間で、次第に溝が生まれていく。
 そして第二次山東出兵(1928年)以後、関東軍は独断で配下の特務機関を使って、張作霖爆殺事件(1928年)や柳条湖事件(1931年)などの謀略活動を繰り返す。
 このような本国指揮系統から外れ、独自に謀略工作を行う関東軍参謀本部所属の将校や特務機関員が、そのような謀略遂行の資金捻出手段として、アヘン売買に関与していくのは必然の成り行きだったのであろう。
 これらはアヘン売買は、軍事顧問として深く関わっていた軍閥などからノウハウを学んだのだろうか。本書を読みすすんでいくにつれて、関東軍が軍閥と接触、調略を繰り返すうちに、軍閥そのものの持つが腐敗体質が、関東軍上層部や配下の特務機関員に憑依してしまい、関東軍そのものが軍閥化し、本来厳正であるはずの本国政府や軍中枢との指揮命令系統から逸脱、麻痺して、やがて暴走してしまった観がある。
 後に「五族共和による王道楽土」建設のスローガンと共に満州国建国の原動力となった関東軍だが、当時その実態は、高級参謀の私物と化し、アヘン売買で獲た資金で、もっぱら謀略謀殺などの非正規活動に従事する、まさしく軍閥そのものになってしまった。
 満州事変(1931年)、第一次上海事変(1932年)、満州国成立(1932年)に続いて、1933年(昭和8年)満州に程近い熱河省を関東軍が侵攻した(熱河作戦)。侵攻理由は、熱河省一帯を満州国に併合することと、もう一つは熱河産アヘンを確保することだったとある。
 関東軍が収奪したアヘンは、陸路、天津まで運ばれて売り捌かれた。もっぱら中国側の買い手は青幇、紅幇といった秘密結社だった。
 この時点で、まだ満州の新京にいて前述した「満州国通信社」設立に注力していた里見は、アヘン売買には関与していないことになる。
 熱河省を侵攻し、影響下に置いた関東軍は、さらにその西方にある蒙疆地帯(旧察哈爾省・綏遠省)に触手を伸ばす。蒙疆地帯は熱河省同様にアヘンの産地で、ここのアヘンは蔣介石の国民革命軍へ供給されており、本書の解説では、その流れを遮断することと、そして熱河産アヘンに次ぐ供給地の確保が目的であったという。

 1937年(昭和12年)7月に盧溝橋事件が発生し、日中戦争の火蓋が切られた。同年8月に関東軍は蒙疆地帯(旧察哈爾省・綏遠省)への侵攻を開始、チアハル(察哈爾)作戦と名付けられた。
 同年10月に同地帯の制圧を完了し、11月に傀儡政権(蒙疆聯合委員会)を樹立する。
 この作戦計画立案から現地の謀略工作などに、後に東京裁判でA級戦犯として絞首刑になった板垣征四郎、東条英機らが深く関与しているそうだ。
 同年8月に中支那方面軍による上海攻略が開始され(第二次上海事変)、11月に上海の占領を完了するが、前年の1936年に天津の邦字新聞の社長におさまっていた里見は、この事変の勃発に合わせて上海へ赴く。
 本書では表向きは従軍取材だったが、中支那方面軍は国民革命軍側に知古が多い里見を使って、敵将に金銭による代償と引き換えに、戦場放棄及び退却を促す工作を行ったとある。ここでも里見の周旋の才が発揮されたようだ。
 同年12月に傀儡政権として華北4省と北京、青島、天津を統治する「中華民国臨時政府」樹立に続いて、翌年の1938年3月に華中3省と上海、北京を統治する「中華民国維新政府」が樹立される。これに合わせて里見も拠点を上海へ移す。

 里見が出した宏斉善堂は、蛇口の四川北路に面した第二歌舞伎座の近くにあった。宏斉善堂は元々、東京日日新聞の主筆だった岸田吟香が東京・銀座に出した楽善堂薬舗の上海分店として、明治十一(1878)年に出店したものだった。
              ~中略~
 里見はその店を買収して看板を宏斉善堂とかえ、アヘン販売の拠点とした。

「阿片王 満州の夜と霧」より

 日中戦争の拡大に伴い、蒙疆、華北、華中に相次いで傀儡政権を樹立した日本政府と軍部にとって、その財源の確保は急務であった。
 そんな中、アヘン売買はもっとも即効性のある収入源だった。軍部の要請を受けた里見は、上海にアヘン売買を宰領する拠点として「宏斉善堂」を設立する。
 本書の説明によると、満州国内や熱河省そして蒙疆地帯で収奪されたアヘンは、空輸または大連経由の海路で上海まで運ばれ、そこから特務機関が管理するコンテナに蔵置される。
 売買の窓口は「宏斉善堂」が一切を取り仕切る。主な顧客は青幇、紅幇といった大陸全土に販売ネットワークを持つ秘密結社と、日本による占領前に国民党政府が行っていたアヘン漸禁政策をそのまま引き継いだ事情で、各市内の公営アヘン吸引所を管理する傀儡政府だった。
 さらに本書では、中国大陸産ではなく、ペルシャ産のアヘンを20万ポンド(約90トン)を輸入し、上海で売り捌き二千万ドル、現在の貨幣価値で換算すると三十兆円になるというにわかに信じ難い金額の売り上げがもたらされたエピソードを載せている。
 これには関東軍ではなく、本国の陸軍省が深く関わっているとのことで、この商流には三井物産、そして本書の冒頭にでてきた昭和通商といった名前が登場する。
 中国大陸で対国民革命軍や共産党の紅軍との戦費だけでなく、相次いで樹立した傀儡政権の財政も賄わなければならない以上、その財源の確保に追い詰められている政府や軍上層部の焦りが容易に想像できる。

 里見が宏斉善堂を開いた一九三〇年代の上海は、街角という街角にコニャックと脂粉とアヘンと中国人のきつい体臭がこびりつき、ドルの札束が乱れ飛ぶ博打場のネオンサインが朝までさんざめいた。薄暗い路地には野鶏(イエチ)といわれる最下級の売春婦たちがや野卑な薄笑いを浮かべ、贅をつくした菜館では絶世の美女をはべらせた酒池肉林の饗宴がいつ果てるともなくつづいた。
 そして、蔣介石派の藍衣社やCC団と、影佐の「梅機関」が率いる汪兆銘政権擁立工作側の秘密組織ジェスフィールド76号らのテロリストたちが、白昼堂々、銃撃戦を繰り広げる、喧騒と狂乱と陰謀と硝煙と流血のにおいが激しく渦巻く国際都市だった。

「阿片王 満州の夜と霧」より

 里見が宏斉善堂の看板を掲げて、アヘン売買の宰領を始めた1939年頃の上海の都市の様子を筆者はこのように説明している。
 アヘン戦争以後、開港となった上海には多くの租界(外国人居留地)が設けられた。
 香港上海銀行などに代表される欧米各国の金融資本が進出し、第一次大戦を経た後、東アジア最大の国際都市へと変貌を遂げ「魔都」または「東洋のパリ」と呼称される一方、1921年には中国共産党が上海で結成され、1925年に5.30事件が発生するなど、中国人市民や労働者の間で強まる外国資本、帝国主義に対する反感は後の民族運動へ発展していく。
 また更には、共産主義勢力の伸長を脅威に感じた列強や現地資本の浙江財閥が、蒋介石ら国民党右派を後援、上海クーデター(1927年 )を実行して、反共勢力も勢いを増していった。
 当時の上海市内の「小東京」と呼ばれる日本人租界があった虹口地区に、里見は宏斉善堂の他、「ピアスアパート」という名の高級アパートの一室を借りて、住居兼事務所として使っていた。
 本書によると、普通は宏斉善堂よりこの「ピアスアパート」にいるほうが多かったらしい。訪問者との面談はもっぱらここを使っていた。
 上海時代、アヘン取引とそこからあがる巨額な金を一手に管理し、加えて深淵で幅広い人脈から「里見機関」と称されるほどの団体の宰領者の事務所というと、要塞のような建物と大勢のボディーガードに囲まれている風景をつい想像してしまうが、実はピアスアパート二階の小さな部屋の一室に、他は受付の女性一人いるだけで、電話が何本も置いてあるガラス製の机の前に里見はいつも座っていたという。 

 丸山氏が言うように、里見はその性格からいって、阿片で私腹を肥やすようなことはなかっただろう。そうした"私心"のなさこそが、里見が軍部から絶大な信頼をかち取った最大の理由でもあった。
               ~中略~
 ─── 里見さんは戒煙総局の顧問として桁はずれの俸給をもらっていましたから、人に金をくれてやることなんかくそとも思っていませんでした。だから、里見さんに金をせびりにくる油虫のような連中が後をたたなかった。
 里見さんの厄介にならなかった軍人さんはひとりもいなかったと言ってもいいんじゃないんでしょうか。東条さんを叱りに行ったというのは有名な話です。里見さんから金をもらっているから、東条さんといえども文句が言えない。

「阿片王 満州の夜と霧」より

 マキノも言っているように、里見の金ばなれのよさは常識はずれだった。
里見が阿片で稼いだ資金目当てに、小遣いをたかりにくる輩はあとをたたなかった。里見はピアスアパートの部屋に風呂敷に包んだ札束をいくつも用意しており、それを目当てに訪ねてくる憲兵、特務機関員から大陸浪人にいたるまで、いつも気前よく呉れてやった。
 昭和十七(一九四二)年四月の翼賛選挙に立候補して念願の政治家となった岸信介もその一人だった。前出の伊達によれば、このとき里見は岸に二百万円提供したという。
「鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた弟の佐藤栄作が運び屋になって岸に渡したんだ。これは里見自身から聞いた話だから間違いない」

「阿片王 満州の夜と霧」より

 想像力を働かせると、維新政府や興亜院(日本政府直属の占領地管理機関)、満鉄上海事務所、関東軍や支那派遣軍といった表の関係者だけでなく、特務機関、右翼団体や大陸浪人、青幇と紅幇などの秘密結社、そして中国共産党と気脈を通じていた左翼関係者などの裏の面々も含めた、いろいろな人間が、いろいろな相談事を抱え、絶えることなく里見のところを訪ねてきたのだろう。
 その相談事の大半は金の無心だったようだが、なかには大戦末期、日本政府側から依頼されたのだろうか、アヘン売買の中国側のネットワークを利用して、蔣介石に接触し、終戦に向けての和平工作を進めていたという里見の関係者が残した記録を筆者は紹介している。
 その真意の程はいろいろな見方があるのだろうが、いずれにしても筆者が再三強調しているように、里見には中国人社会や日本の政府、軍の要人から信頼されるだけの大きな人徳が備わっていて、またその飄々とした雰囲気は会う者の気持ちを和ませたのだろう。そんな里見が行き詰まりを見せていた日中戦争の双方の橋渡し役を担っていたとしても不思議ではない。 

 ピアスアパートの一室で、ひっきりなしに訪ねてくる"さまざまな訪問者"と会った里見は、日が暮れると、虹口界隈一の規模を誇ったといわれるナイトクラブ「ブルー・バード」に毎晩顔を出していた。
 軍服に身を包んだ将校連中が気勢を上げて店内を闊歩する中、颯々飄々として羽振りの良い里見は、恐らくクラブでも女性にもてただろうが、同席していた人間の記憶では、女好きを吹聴するもクラブで女性といるときは「無欲恬淡」で、酒は一切飲まず、いつもハムエッグを注文して、アメリカ産やイギリス産の高級シガレットを喫っていたという。ただ実際は懇ろになった女性は何人もいたそうで、そのほどんどが芸妓や水商売関係の女性だったそうだ。 
 これらのエピソードを読んだとき、二年前に76歳で亡くなったアウトロー作家こと宮崎学氏が著した「突破者」に登場する、戦後新宿界隈を拠点に、愚連隊の神様と呼ばれ、斯界で恐れられた万年東一のことが頭に浮かんだ。

 万年は不思議な男で、金が飛びかう裏社会に身を置きながら、金銭への執着心がまったくといっていいほどなかった。それも万年のダンディズムだったのだろうが、金を貯めるなどという発想がそもそもない。財布の中に、いつも一万円札が二、三枚入っているだけだった。ヤクザなどから手に入れた大金はそのまま若い衆や知人にぽんとやるのである。万年に接して、世の中には金に淡泊な人間がいるということを私は初めて知った。
 金がないから、自分の事務所ももっていない。新宿の三越裏の白十字という喫茶店を事務所代わりにしていた。毎日深夜まで白十字の隅の席に陣取って、次から次へと訪ねてくる裏社会の依頼者と面談していた。面白いことに、私がいつ訪ねても、チョコレートパフェやあんみつを美味しそうに食べていた。「愚連隊の神様」とチョコレートパフェの取り合わせは、いつ見てもやはり可笑しかった。

宮崎学「突破者」より

 阿片王とハムエッグの里見も、愚連隊の神様とチョコレートパフェの万年も、これら愛嬌を感じさせるエピソードが「ひとつの顔」だとすれば、二人には普通の人間が窺い知ることが出来ない世界にも属しているという「もうひとつの顔」がある。
 そんな彼らに共通するのは、個人的な蓄財にはてんで関心がなく、頼ってくる人間に惜しみなく散財する代わりに見返りを強いるわけでもなく、まったくといっていいほどしみったれた印象を周囲の人間に与えなかったという事のようだ。
 たとえ金に下卑ていても、事業などで成功し巨額の財産を築いたり、功成り名遂げた人間はいくらでもいる。生き方は人それぞれである。
 金に無頓着なように振舞っていたとしても、奇を衒っているだけだとスグにボロがでる。現実は金がないと生きてはいけない。それでも里見や万年のような例外がいたとすると、それらは人徳とか器の大きさとかといった陳腐な表現に納まりきるようなものではなく、人間界の摩訶不思議さとでも言おうか・・。
 阿片王と愚連隊の神様・・いずれもまっとうな生業ではないが、その生き様にはどこか小気味良さを感ずる。

 1945年(昭和20年)8月15日に日本は連合国に無条件降伏、終戦を迎える。その翌月の9月に、上海から中華航空の飛行機で帰国した里見の足跡を辿るところから、本書の後半は始まる。
 福岡からその後東京へ移動した里見は、"支援者"が用意した世田谷区成城にある邸宅に居を定めたものの、再び西に下って、今度は京都市内の銀閣寺に近い屋敷に身を潜める。
 この時点ですでに里見には、民間人としては第一号となるA級戦犯の容疑がかけられ、連合国GHQが里見の行方を追っていた。

 著者は、里見が潜伏していたとされる京都市左京区吉田神楽岡の周辺で、里見の潜伏時代の痕跡を求めて丹念に歩いて回る。
 この時で2004年、すでに終戦から60年近くがたつが、里見と大陸から彼に扈従する人間が暮らしていたと目される屋敷は現存されていた。

 里見が身を隠した京都の家には、上海や満州から帰国した正体不明の大陸浪人たちがどこからともなく集まり、一時は梁山泊のような様相を呈していたという。
 「主人の話では、その家には終戦直後の食糧難の時代だというのに、食料がふんだんにあって、大陸浪人たちが昼間から麻雀ばかりやっていたそうです。とにかく近所で評判の家だったという話でした。私も昔、その家を見た記憶がありますが、とても大きなお屋敷でした。」

「阿片王 満州の夜と霧」より

 里見とその周囲の連中は、他聞をはばかるどころか、あけすけにその無頼な日々を送っていたようで、近所の住民には異様な集団に見えたのも無理はない。 

 本書の前半にも登場する、京都で代々続く素封家で、そこのかつての当主は首相時代の東条英機の私設秘書を務め、里見とも懇意の仲だったとされる。当主はすでに物故したようだが、取材当時はその子女が後を継いでいたそうで、著者はその方から、里見が京都潜伏時代、足繫く通っていた祇園花見小路のお茶屋があったことを知らされる。
 この時に著者の取材に応じたお茶屋の主人の話した内容が、当時の里見が祇園に流連て散財しながら、戦前の大陸からのしがらみを抱えて過ごしていた様子がありありと窺える。

 主人の山村文男氏は店の中で仕込みの真っ最中だった。山村氏に「里見甫という人物について調べているんですが」と告げたとたん、まったく予想もしなかった答えが返ってきた。
 「里見さん?ああ、利根八郎さんのことかい」
 里見の変名を耳にするのはこれがはじめてだった。山村氏によれば、里見はそこに本名と変名の二種類の貯金通帳を預けて、支払いを済ませていたという。
 「うちは昭和の初めから戦後しばらくまで、『万いと』というお茶屋だったんです。このあたりではかなり知られた存在でしたよ。 
            ~中略~
 私がはっきり覚えているのは戦後の里見さんです。私はその時分まだ子どもでしたが、戦争に敗けてからまもなく、里見さんはうちに入り浸った記憶があります。何をしていたかって?そりゃ女ですよ。小柳さんという里見さんお気に入りの芸妓がいましてね。小柳さんと一緒に朝から晩まで・・・。里見さんっていう人は、酒もやらないし、バカ騒ぎするわけでもない。女と遊んでいるか、素性のよくわからん人を呼んでは密談みたいなことをしていましたわ。まあ、本当にわけのわからん人やった。」

「阿片王 満州の夜と霧」より

 利根八郎という変名を使っていたのは、この後連合国GHQに逮捕され、尋問の際、里見本人が理由を述べているが、普通にまっとうな事業をしていれば偽名など必要ないわけで、阿片王の素性を隠すための用心か、それとも何かしら後ろめたさがあったのか、恐らくいずれも入り混じったものだのだろう。
 また「素性のわからない人を呼んでは・・」の素性のわからない人とは、上海時代からの悪行のしがらみか、それとも連合国の捜査が迫っていることを知らせる日本政府あたりの旧知の線だったのだろうか。
 まだ日本全体が窮乏していた最中、お茶屋通いには読んでいて眉を顰めたくなるが、密談という形が必要だとすると、恐らくお茶屋はうってつけの場所だったかもしれず、左京区吉田神楽岡にはいつも大陸浪人が大勢たむろしていたことなどから、それらの連中には見られたくない、知られたくない相手だったのかもしれない。 

 里見はこのお茶屋に来るときは、いつも周という中国人と一緒だったという。

 「二人でジープに乗って祇園に来るんです。周さんは金持ちの中国人でしてね、店の支払いはたいてい周さんがしていました。まあ、周さんは里見さんの舎弟分だったんでしょううね。里見さんが中国から連れて来たと聞いたことがあります。でっぷりした丸顔の人でね。神戸に住んでいるって言っていました。周さんはその後、GHQに逮捕されて巣鴨に送られ、そこで獄死したそうです。里見さんに付き合っていたくらいだから、戦犯だったんでしょうね。
 しかし、里見さんって人は不思議な人だったね。食糧難でみんなが苦しんでいるときでも、どこで仕入れてきたのか、牛肉をもってきてね、うちのオカン(母親)に渡してた。あの人は何でも手に入れちゃうんです。私らにはよくわからんルートがあったんでしょうな。
               ~中略~
本当に里見さんって人はわけのわからん人やった」

「阿片王 満州の夜と霧」より

 この周さんという名の中国人は、本書では後にも先にもこのお茶屋の主人の証言のところだけである。羽振りがよくいつも里見と行動を共にしていた。しかしGHQに逮捕され巣鴨にて獄死となると、何らかの形で戦争犯罪に関わっていたということになる。宏斉善堂に出入りしていたアヘン売買の関係者で、旧日本軍の協力者だったのだろうか・・。著者がこの中国人の身元を洗っていないことを見ると、恐らくまったく取材の手がかりとなる痕跡がなかったのだろう。
 また庶民が食うや食わずの苦しい生活を送っているにもかかわらず、牛肉などの貴重品を手に入れたりすることができたのも、恐らく闇のルートにツテのある支援者が、あれこれ里見の身辺の面倒をみていたはずである。
 里見のような一筋縄ではいかない複雑な社会性を持った人間は、豪放な中に深淵な裏の部分を抱える不気味さを併せもった、一般人から見ればまさに「わけのわからん人」となるわけであろう。

 里見の京都での潜伏滞在期間は、約四か月程度だった。終戦翌年の1946年(昭和21年)2月末に左京区吉田神楽岡の邸宅を引き払い、再び東京世田谷区成城の屋敷に舞い戻ったところ、かねてより里見の行動を内偵していた連合国GHQのMP(憲兵隊)に踏み込まれて逮捕、A級戦犯容疑者として巣鴨拘置所へ連行される。
 里見が容疑をかけられたA級戦犯とは、ロンドン国際軍事裁判所憲章第6条a項と極東軍事裁判所条例第五条イ項に共に「平和に対する罪」にある
「平和に対する罪~すなわち、侵略戦争あるいは国際条約、協定、誓約に違反する戦争の計画、準備、開始、あるいは遂行、またこれらの各行為のいずれかの達成を目的とする共通の計画あるいは共同謀議への関与。」と定義されている。
 里見が宏斉善堂の元締めとして、アヘン売買を通じて日本軍の戦争遂行や傀儡政権への資金調達に深く関与したことが、この中の「共通の計画あるいは共同謀議への関与」に該当し、A級戦犯の容疑者として逮捕にいたった理由なのだろうか。
 本書では、ここから1946年(昭和21年)3月6日に、巣鴨拘置所内で行われた連合国の国際検察局(IPS)による里見への尋問の記録の中から、主要な部分を著者が抜粋して掲載している。
 この尋問のやりとりの中で、里見は検察官から再三、特務機関との関係を質問されるが、特務機関という秘密のベールに包まれた譎詐奸謀的な組織という認識にもとづいて尋問してくる検察官に対して、里見は一つ一つ自らが知っている特務機関の"実態"を説明しながら、検察官が抱いている特務機関に対するおどろおどろしいイメージを、冷静に修正しようとしている様子が窺える。 

 Q(検察官) 1931年に関東軍参謀本部で民間人として働くようになった後も、特務機関とその活動についてはいろいろ知っていたわけですね。
 A(里見) 質問傾向から判断すると、あなたは特務機関の活動を非常に重視しているようですね。しかし、私自身が観察したところによれば、特務機関はあなたが考えるほど有能だったわけではありません。有能な指揮官に率いられている時は確かに有能でしたが、それ以外の時は、単に大佐や他の高級武官に率いられた、統率のとれていない軍人の集まりに過ぎませんでした。 

「阿片王 満州の夜と霧」より

 これは戦時中、上海などを拠点にして暗躍した"大陸浪人"と呼ばれた人物についての尋問の時も同様であった。
 ここに登場するのは許斐氏利と児玉誉士夫だが、検察官は里見が許斐の外地での百鬼夜行ぶりの数々を詳細に供述することを期待して、許斐について仄聞したエピソードの数々をもとに、里見に尋問する。
 しかし特務機関の時と同じように、里見は本人が記憶している事実の範囲内でのみ回答するにとどめて、検察官が言うような許斐の誇張された逸話には概ね否定的だった。

 Q(検察官) 許斐は後に阿片取引に関わるようになりましたか。
 A(里見) 私が取引を行っていた間は、日本人には阿片を扱わせないというのが方針でしたから、彼がかかわったことはありあせんし、その後も阿片取引には関わらなかったのではないかと思います。
 Q(検察官) この男は浪人で、よくもめ事を起こしていましたね。
 A(里見) 東京にいた18、19、20歳の頃は、本当に乱暴者でした、柔道が得意でしたが、もう少し年をとって、お金を稼いでそれなりの地位を確立すると、私の説教の甲斐もあって、行いも多少改まったようです。
 Q(検察官) 中国での彼の評判は大変悪く、軍の兵士も彼をこわがっていたとか、荒くれ者の一統を率いて、頼まれれば、略奪でも殺人でもしたといいます。
 A(里見) 彼や彼の仲間がそんな乱暴を働いたことは聞いてませんが、率直に言って、日本の浪人は物事を大げさに話したり、自分の行動をさも勇敢そうに語ったりして、虚勢を張りたがるものです。実際には話半分のことも多いと思います。彼の蛮行のほとんどは学生時代に行われたもので、仲間も学生がほとんどだったことから、彼が噂ほど乱暴者だったとは思えません。
 Q(検察官) 分かりました。あなたの覚えている限りでは、許斐は中国で阿片・麻薬事業には手を出さなかったということですね。
 A(里見) そう思います。  

「阿片王 満州の夜と霧」より

 この許斐氏利という人物は戦後、銀座6丁目に今日の健康ランドやスーパー銭湯の走りともいうべき大入浴場を兼ね備えた複合商業施設「東京温泉」を開業したことで有名である。
 この「東京温泉」は入浴客にマッサージなどのサービスを、女性スタッフが提供する浴場もあり、それらが別名トルコ風呂と呼ばれて、後のソープランドの発祥となったようだ。
 この「東京温泉」のオーナー許斐氏利という名前を、本書の前に読んでいた別のノンフィクション作品「沢村忠に真空を飛ばせた男~昭和のプロモーター野口修」細田昌志著(新潮社)で私は偶然目にしていて、その名前に記憶があった。
 これは戦後のボクシングジムの草分けと言われる「野口拳闘クラブ」の設立者でもある野口進と息子である修の波乱に満ちた生涯を描いたこの内容の
作品であった。
 戦前とある右翼団体に所属していた野口進が政府要人へのテロ事件に関与して服役して出所後、上海へ渡りこの許斐氏利や児玉誉士夫らと親交を深め、戦後、許斐の「東京温泉」の建物内で「マージャンクラブ」いわゆる雀荘を営んでいた時期があった。
 この作品のなかで、里見との関わりについて、このような記述があった。

 1946年一月、佐世保港に降り立った野口家は、東京には戻らず、近畿地方を転々としている。
               ~中略~
 「親父は月のほとんどは京都にいた。日本の再建について話し合っていたらしいよ」(野口修)
 ただし、京都に誰がいたかまでは判らない。
               ~中略~
 関東軍と結んでアヘンの密売組織を立ち上げた里見甫と、上海で軍の慰問興行に従事した野口進。二人の関係を示す記述なないが、物語には、野口家と接点のある人物が頻繁に登場する。彼らは上海の児玉機関の一員として、里見人脈にも列なる人物ばかりとなる。
 野口進が京都に滞在していたのなら、往来があっても不思議ではないし、里見人脈に列なっていたのかもしれない。

「沢村忠に真空を飛ばせた男~昭和のプロモーター野口修」細田昌志著(新潮社)より

  児玉誉士夫に関して尋問された際、里見はこのように答えている。 

 Q(検察官) あなたは児玉を知っていますか。
 A(里見) ええ、知っています。
 Q(検察官) 彼は阿片事業に関わっていましたか。
 A(里見) いいえ、関わっていませんでした。彼は海軍の物資調達を担当
      していました。
 Q(検察官) 何を調達したのですか。
 A(里見) 鋼鉄や鉛、銅、機械です。それ以上は知りません。

「阿片王 満州の夜と霧」より

 児玉誉士夫については今更説明するまでもない。戦時中、上海で児玉機関を立ち上げ、右翼系の荒くれ者を使いながら、中国大陸にて戦略物資を調達、海軍へ納める傍ら、秘匿したダイヤモンドや貴金属を、戦後日本へ持ち帰り売り捌く事で大きな金を手に入れる。それらの金の一部は政治資金等となって後に保守政党の結党資金となった事は周知の通りである。
 このように政界への影響力を強めていく一方、かつて児玉機関と関わりの深かった右翼人脈を通じ関東の暴力団と親密な関係を維持した事も、児玉が戦後長らく政財界の黒幕として君臨した力の源泉のひとつだった。 
 著者は本書で、児玉や許斐らのアクの強い過去の逸話をあげることで、里見の飄逸さを際立たせようとしているように思える。
 しかし児玉にしろ許斐にしろ、戦前そして戦後と、多くの人間を動かし、そして"様々な事業"を遂行してきた人物で、それには単なる強欲さ強引さだけではなく、良くも悪くも周囲の人間を惹く力と、事を起こす実行力があったればこそであり、そんな彼らの猛猛しくも壮絶な生き様は、里見とはまた違った意味で興味をそそられる。

 1946年(昭和21年)3月1日に逮捕、巣鴨拘置所に拘留されてから、国際検察局による尋問を経て、同年6月に宣誓口述書を極東国際軍事裁判所宛てに提出した。 そして9月4日に極東国際軍事裁判の法廷で、証人として証言台に立った。
 その証言台での里見の映像は、今日、Youtubeの動画でも視聴できる。そこに映る里見は、戦犯容疑者としての後ろめたさなど微塵も感じさせず、低音で聞き取りやすい声で、堂々と質問に応じている。著者が里見に入れ込む気持ちも理解できる気がする。 

 証言台に立った同じ月の9月20日に、里見は巣鴨拘置所から釈放された。A級戦犯の罪には問われなかった。
 折しも中国大陸では第二次国共内戦が勃発していた。前年8月の日本の無条件降伏以来、国民党と共産党の連立による民主統一政府を樹立させ、大陸でのスターリンソ連の影響拡大を食い止めたい米国にとって、蔣介石との関係が次第に微妙になっていく中、国民党内に知古が多くいたであろう里見は貴重な存在だったかもしれない。
 奉天時代に関東軍の軍属として水面下の工作に関与し、上海では「宏斉善堂」を通じて、末端のアヘン商人から青幇、紅幇などの秘密結社、そして国民党にまで及ぶアヘン取引のネットワークに精通していた里見が、情報提供や何らかの協力と引き換えに、当時急速に反共に傾斜していった米国側と司法取引に応じたとしても何ら不思議ではないであろう。 
 人体実験、軍事目的での細菌研究で悪名高い七三一部隊を率いた石井四郎も、"対米協力"と引き換えに戦争犯罪の罪から逃れた。
 世界の情勢は東西冷戦へと突き進んでいく。時代の風向きが目まぐるしく変わっていく中、多くの人間の運命が翻弄されていった。

 巣鴨拘置所を出所した里見は、再び世田谷区成城の邸宅に戻り、日本商事という会社の代表の肩書を持ちながら、市井の中で暮らしていた。
 「宏斉善堂」のときと同様に、日々いろいろな人間が訪ねてきたようだが、ただ毎晩行きつけのナイトクラブやダンスホールで、色香と嬌声に囲まれていた上海時代とは打って変わって、華やぎの少ない地味な生活を送っていたようだ。

 物語の後半は、里見の最初の妻である相馬ウメと、前述した男装の麗人の梅村淳、そして梅村うたという戦前満州の湯崗子という温泉地にあった高級旅館の女支配人だった女性にまつわるエピソードに話が移る。この中で特に著者は、梅村うたという女性にかなりの紙幅を割いている。
 この梅村うたが支配人をつとめていた旅館があった湯崗子は、満州がある中国東北部でも有数の温泉地で、戦時中は温泉保養施設が軒を連ねており、なかでも「対翠閣」は関東軍の将校や政府関係者、満鉄幹部職員らの御用達であった高級旅館だった。
 また本書でも詳しく触れられているが、この旅館は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀が、満州国建国の前年1931年(昭和6年)11月に、清朝瓦解後の隠遁先であった天津から、日本軍の庇護の下脱出し、後の満州国の首都となる新京へ向かう途中、この「対翠閣」に一時逗留したことで有名な場所だった。
 この旅館の女将だった梅村うたを著者が取り上げたのは、この女性が男装の麗人こと梅村淳の養母だったという事実と、さらに梅村うたが流転の末に満州の湯崗子に辿り着くまでの過去に興味を惹かれたからであろう。
 繰り返すようにこの「対翠閣」は、軍の将官クラスや官僚などの政府関係者、満鉄幹部らが利用したところだった。
 そのようないわば高級サロンに、一介の女将だった梅村うた(本書によるとうたは、湯崗子に来る前は大連の料亭の女将だった)が支配人におさまることができた背景に、里見の影を著者は感じ取っている。
 梅村うたが日本から満州へ渡ってきたと思われる昭和5~6年あたりは、里見は関東軍の諜報、宣伝工作を受け持つ課の軍属として活動していた時期と重なる。
 その間、満州のどこかで里見とうたの邂逅があり、紆余曲折を経て、恐らく里見の介添えがあったのだろう、うたは後にラストエンペラー溥儀も滞在した格式高い高級温泉旅館の女支配人となった。
 終戦後、梅村うたは近親者が暮らす小田原、そして養女である梅村淳の住む鎌倉へと居を転々として、そして1948年(昭和23年)に他界する。享年55歳だったらしい。
 アヘン取引とは直接関係のない話であったが、著者は梅村うたと淳にゆかりの深かった人物をひとりひとり訪ね歩いては、二人についての記憶の断片を拾い集め、その数奇な過去の歴史を辿っていく様子から、当時見果てぬ夢と希望を胸に抱いて大陸に渡ったのであろう彼女たちの心情の一端が垣間見えた。

 里見は1965年(昭和40年)3月21日、新宿区にあった住居で亡くなった。家族と談笑中に突然襲ってきた心臓麻痺のためだった。享年69歳だった。
 戦後に最初に移り住んだ世田谷区成城の屋敷は、その後人手に渡り、この新宿区の寓居が終の棲家となった。借家であったそうである。
 本書では、里見は昭和34年に25歳年下の端唄の家元だった女性と再婚しており、新宿区の借家もその女性が借りていたものらしい。
 困窮するほどではなかったにせよ、華やぐようだった上海時代からすれば考えられないほど、戦後の里見の晩年はとても地味だった。
 再婚相手の女性が、生前、著者に本書の取材で語ったセリフが、当時の里見の様子が窺えて印象的である。

「よく見ず知らずのところから、新聞紙に包まれた現金が送られてきました。でもそれには指一本ふれず、目の前を素通りするだけでした。私なんか、少しぐらいいただいてもいいのに、と思いましたけどね(笑)。里見は、『児玉(誉士夫)くんや笹川(良一)くんはいかんなあ。オレにはあんなみっともないことはできんよ』と言っていました。
 里見の葬儀から一週間ほどした頃、税務署が税金の取り立てに来たことがあります。でも、家には払うお金がなかったので、家財道具にベタベタ赤紙を貼られたときは悔しかったですね。私の商売道具の三味線もろくに買えなかった時代もありました」

「阿片王 満州の夜と霧」より

 熊本に本部がある新興宗教に帰依する以外は、日本商事代表という肩書だけで、特に世間の耳目を集めるような疑獄事件などに関わったりすることも、名前が取り沙汰されたりすることもなかったようだが、本書では、里見は水面下でいくつかの経済スキャンダルの調停役などを頼まれたこともあったらしく、そのようなことでの幾ばくかの謝礼金などで、糊口をしのいでいたそうだ。 
 ロッキード事件によってその虚像が白日の下に晒されるまで、政財界の黒幕として戦後の長きにわたって君臨し続けた児玉誉士夫、そして戦後に競艇を創設し、全国モーターボート競走連合会の会長として競艇界を手中におさめ、巨額の資金力を背景にフィクサーとしてあらゆる方面に隠然たる影響力をもった笹川良一。
 同じA級戦犯でも彼ら二人は何かと世間の話題となったが、対照的に里見は隠遁者のように、目立たずひっそりと戦後の人生を生き、児玉や笹川のような脂ぎった因業な生き様を里見はしなかった。
 もちろん児玉や笹川同様に戦前満州や上海時代からの「裏と表の人脈」を利用できた里見がもし指向すれば、彼らと比肩しうるほどの斯界に影響力を持った大物にもなれたはずだった。
 しかし、かつて中国大陸を駆け巡り、うたかたの夢を追い求めた里見にとっては、敗戦国日本でのちっぽけな利権をめぐる角逐など、些末な事にしか見えかなったのかもしれない。戦前、大陸で培われた国士としてのプライドのようなものが、里見を孤高の人たらしめたように思える。
 本書の最後に、里見が眠る墓のことが述べてある。その墓石に刻まれた「里見家之墓」の文字は、岸信介が揮毫したものだった。どういう経緯で岸が揮毫を引き受けたのがは本書には書かれていないが、戦前大陸で、岸も里見から「多額の献金」を受けた面々の一人だった。岸の揮毫は、そんなかつての恩人への弔いの意味もこめたのだろうか。里見の墓は千葉県市川市内の古刹の中の墓地にある。

 19世紀以降、帝国主義の世界的な潮流の中で、列強各国に加わるべく、朝鮮半島周辺を蚕食し始めた日本は、1894年清朝と衝突(日清戦争)、さらに南下政策を続ける帝政ロシアと1904年に戦端を開き(日露戦争)、辛くもロシアの野心を食い止めた日本は、この頃から満州と深く関わり始めた。
 日露戦争後、日本の中国大陸への関心は野心となり、進出は侵略へと変貌を遂げていく中、軍国主義は後戻りできないまでに暴走を続けた。その間、自国も含め周辺国に甚大な惨禍をもたらした。
 軍隊でもって他国を蹂躙し、傀儡国を建る資金を得るために、アヘン売買に頼らざるを得ないほど、当時の日本の国力は逼迫していた。そんな日本が立ち上げた満州国はわずが十三年足らずで消滅した、まさしく蜃気楼に近いものだった。
 満州は日本の生命線、この言葉を小中学校の歴史の授業で何度聞かされたことだろう。元々私は小学校から歴史好きであった。しかし日本も含めた列強各国と清朝瓦解後に中国全土に割拠した軍閥の利害が入り乱れ、複雑な様相を呈した歴史が長々と続く中国の近世史は、私自身の理解が追いついていかなかったということもあり、正直あまり興味がなかった。
 だがこのノンフィクション作品を読んだおかげで、この辺りの時代に対する私の好奇心はとても刺激を受け、騎虎の勢いで、以下の書籍を購入した次第。

「キメラ~満州国の肖像」山室信一(中公新書)
「興亡の世界史 大日本・満州帝国の遺産」姜尚中・玄武岩(講談社学術文庫)
「ある情報将校の記録」塚本誠(中公文庫) 

 これからの歴史探索がとても楽しみだ。

 最後までお読みいただきありがとうございました。
 石本克彦

# 満州
# 中国大陸
# 関東軍
# ノンフィクション
# 阿片
# 戦後
# 蒋介石
# 国民党
# 特務機関
# 読書感想文
# 歴史好き
# 日中戦争
# 太平洋戦争
# 上海 

この記事が参加している募集

読書感想文

ノンフィクションが好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?