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ストーリーなんて知らない

文・短歌・写真●小野田光

 わたしは演劇や映画を観ることが好き。小説を読むことも好き。いわゆる物語に子供の頃から親しんできた。

 ...と思っていた。


 最近、わたしは物語に本当に親しんできたのか、しばしば立ち止まって考える。
 演劇や映画を観終わって、小説を読み終わって、1日も経たないうちにストーリーをすっかり忘れてしまっているのだ。歳を重ねて記憶力が落ちたのだろう。そう思っていた。しかし、子供の頃に夢中で辿ったストーリーもよく覚えていないことに気づいた。物語以外の分野では、いろいろとこびりついて離れない幼少期の思い出はたくさんあるというのに。
 『桃太郎』は鬼退治の話だということは知っているが、ディテールについての記憶はない。きびだんごは何のアイテムだったか。『一寸法師』や『金太郎』にいたっては、何の話かも忘れてしまった。いや、そもそも覚えていたのか。幼少期にも理解していなかったのではないか。
 この疑問を友人に尋ねてみた。
「子どもの頃に読んだ絵本とか、ストーリーを覚えている?」
「だいたい覚えているよ。自分の子供にも読み聞かせながら、懐かしんだりするし」
「ええ! 小さいころに触れた話も覚えていないんだけれど...」
「きっと、繰り返し読んだ話なら覚えているよ。あるでしょ、子供の頃に夢中になった本」
 もちろんある! 『ぐりとぐら』『あおくんときいろちゃん』『ちびくろサンボ』などなど。しかし...
 ページが破れるほど親しんだこれらの絵本も、やっぱりストーリーは思い出せない。記憶に焼きついているのは、ぐりとぐらが焼き上げたフライパンいっぱいのカステラや、あおときいろが混ざってできたみどりの丸や、ぐるぐる高速旋回したトラたちがバターになってしまうこと。どれも断片のシーンだ。
 大人になって演劇や映画をたくさん観た。映画会社に就職してからは、毎日のように「好きな映画は何?」と聞かれる。好きな映画は、いつだって好きなシーンがある映画だ。その映画の印象はシーンであって、決してストーリーではない。ということは、わたしは「ストーリーを楽しむ」ためではなく、「切り取られたシーンを楽しむ」ために長大な物語に触れているのか。そう思ったときに、何かが腑に落ちた気がする。
 日々って、ストーリー仕立てなんかじゃない。わたしたちはその時その時を全力でやり過ごしているではないか。知らず知らずのうちに死の方向に向かって。そう考えることが、わたしの性に合っている。生きやすくなる。だから、わたしには一瞬を切り取れる短歌や写真が必要なのだ、とふと思った。
 ストーリーが必要な人たちもいる。友人たちと話していると、むしろそういう人たちが多いとも思う。彼らはきっとわたしとは逆に、自分の長大な人生をストーリーに喩えたときに自分の生を支えられるのではないか、と想像する。人それぞれだ。
 ちなみにわたしの好きな映画は、ジュード・ロウ主演のギャングムービー『ロンドン・ドッグス』(原題は“LOVE, HONOUR AND OBEY”なのだが)。ストーリーの詳細は忘れたけれど、日本版の予告編がよかった。ジュード・ロウの抗争相手であるマフィアの長を紹介するのに、「歌う敵のボス」というテロップが出るところ。敵のボスはどういうわけか大好きなカラオケを楽しんでいる。その一瞬の「生きている」表情が忘れられない。

百二、三頁をひらき顔にのせ生の匂いを嗅ぐひるやすみ

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