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第二稿。「これが何か」をすぐに知ることができても、「何でないか」には文脈の理解が必要だ


多いようで多くない

 「火水イリイ」アカウントでnote投稿を開始する前にも、漫画投稿用アカウントを作っていた。エッセイ用アカウントも作ったことがある。
 「火水イリイ」は作家や作家志望、編集者からの情報が集まるアカウントに育ってきたが、漫画投稿用の時には周りは漫画作家で溢れ、エッセイ用はビジネス関連やライフスタイル系の情報が集まった。俗にいうフィルターバブルである。

 「世の中に文筆家がこんなに多いのか」と自分が埋もれているような気がする。しかし実際は多くない。皆が同じ方向を目指しているようでそうでもない。一度その輪を抜ければ、自分がいたコミュニティというものはある種特殊な空間だったのだと気がつくし、希少性にも気がつくことができるだろう。その世界が全てではないけれど、自分の居場所は大切にしたい。

物語制作の二周目スタート

 ジャーナリストでライターの近藤康太郎氏によると、推敲作業は四周くらいはしろとおっしゃる。初稿は吐◯物のようなものだと。ヘミングウェイも、「初稿は全てごみである」と言ったらしい。素直に従って、35万文字の物語でも4周した。つまりは第4稿まで修正を重ねた。
 「そこまでするか」と冷静になっていてはいけない。何かを成し遂げた人は必ず「そこまでするか要素」を保持している。素振りの練習をして畳が汗でびしゃびしゃになったとか、ダンスの練習をして床が汗でびしゃびしゃになったとか。
 自分の行動では何がそれに当たるのかはわからない。「そこまでするか」とチラッとでも頭をかすめることがあったら、エピソードを作るチャンスだ。

 そこまでできたのは自分の物語が自分で面白いと思っていたからでもある。だから四回、実際は四回以上も読み返すことができた。

第一話というもの

 とは言え2周目は物語の半分以上がまだ箇条書きに終わっている段階だ。ここで投げ出すわけには当然いかない。作業としては、ノートに書き連ねたことをひたすらWordに打ち込みながら、第一稿で書ききれなかった情報を補完していった。ログをたどると第二稿は2ヶ月ほどかけて一周した。もう一回書いたのとさして変わらない。

出だしを大幅に書き直す

 当時でもこの物語の発表方法は固まっていたなったが、読者の存在は当然意識している。色々な新人賞の講評や、受賞作品の分析記事を読んだり、序盤の原稿を寝かせたりしているうちに「物語の出だしが露悪的すぎる」と気になり出した。「露悪さを抑えた時のインパクトの減少をどう補完するか」と考えることになった。
 露悪に偏ったのは、当初には物語は漫画作品にしてもいいと考えていて、エンターテイメント作品としてのインパクトを模索していたからでもある。露悪とインパクトを混同していた側面もある。

 第二稿は物語をいよいよ小説として成立させていく過程だったとも言える。

 第一話は物語全体の印象を左右するので、あまりにも残酷描写を印象付けてしまうと、物語のクライマックスではそれを超える凄惨さ、ないしは説得力を約束しなくてはいけなくなる。自分が目指しているのは暴力ではない。自分はこの物語全体を通して何を演出したいのかに立ち戻って、第一話を大幅に書き直すことになった。

 書き直すとは言っても、第一話で「結果的にどのような状態に到達したいのか」は変えない。シーンのビートである「アクション/リアクション」の基本的な構造は変えない。

 物語を書き上げた後になったから言えることだが、当時は「構造を変えないで中身を変える」なんてことが本当にできるのか、理論はともかく、自分に技量があるのかがわかっていなかったので、不安な作業だった。

 初めにシーンを思いついた時の輝きや、ストーリーを汲み上げた興奮を捨て去るのは血が流れる仕事だ。むしろ初めの勢いとか新鮮さみたいなもので、読者は引き込まれるんじゃないかとか。でもちょっと待て、お前はすでに「新鮮」とか言える歳か?

ネットやAIでは「これが何か」を知ることができるが、「何でないか」はわかりにくい

 改稿作業とは別なところでも血は流れた。物語の細かい設定や描写を詰めるために資料を買い足したのだ。

 一冊の本から2〜3語を抽出するため、物語の中の一文を自信を持って書くために、一冊の本を買い求める。無職には手痛い出費だ。そうやって紡ぎ出した文章でさえ、改稿を経て消えてしまうかもしれない。本を選んでいる時には、最終的な重要度を予測することはできない。本当に本を読む必要があるのか、ネットで、Wikipediaで事足りるのではないか。じりじりと悩んだ。

 たとえば、「天井が平らではなくアーチを描いている」状態が描写に必要だとして、それは「ヴォールト」と表現すればいいと知ったとする。そこまではネットやAIで知ることができる。
 しかし、「ヴォールト天井」は教会建築の中でしか成立しない言葉なのか、アーチがある程度崩れたらもうヴォールトと言えなくなるのか。際立った梁が無くてもアーチ型になってさえいればヴォールトだと言えるのか、果ては「ヴォールト」という言葉を読者がどの程度受け止めてくれて、物語の中で違和感なく成立させられるのかは、ヴォールトについてある程度の文脈を知っていないと正確に書くことはできない。もしくは、不正確さをどこまで許容できるかを知ることができない。
 それを知るためにはヴォールト周りの文脈がわかる本を読まなければいけない。

 それから、物語の中で使われる家の中の間取りについても、どう言った間取りが自然で、どこからが不自然になるのかを知りたくて、やはり資料を購入した。最終的にはそこまで細かい間取りの描写が必要ないとしても、登場人物が不自然に壁を抜けて出てこないように配慮した。

制作の中で作った間取り

 こう言った作業を通して、自分の好きな題材を再確認することができる。私は「建築」だとか「空間」というものが好きだ。建築も突き詰めていけば物理とか数学とか、産業だとかのテーマとも繋がってくるので、果たして私は建築の何に惹かれているのかも、段々と明らかにしていきたい。

お金をかける目的

 出典にお金をかけるのは、少しでも質の高い文章を書きたいというのも大きいが、下世話な話「金のかかってるものは見てわかる。メッキは剥がれる」という自分の経験則にある。モノであっても知性であってもそうなのだ。
 大袈裟になってしまうが、子供のいないアラフォーの私でも「次世代に何を残せるか」と考え始めている。小さい子供、10代、20代の人たちが夢を描いている様子を見るのが楽しい。老婆心ながら彼らに少しでも本物を見てほしい。本物になってほしい。できることなら自分も本物のうちの一つになりたい。
 日本が貧しい国になっていくことは止められないかもしれない。子供達に少しでもいいものを食わせたい、という気持ちのように、自分が少しでもお金をかけたものを子供達に味わってほしい。

左右盲の苦労

 ファンタジー世界を描くことにおいて、東西南北を基本とした地理の知識は重要だ。ごく初歩的なことを言っていると思うが、改稿作業の終盤まで、西と書くべきところを東と書いたり、左に向いているはずが右と書いていたりの誤記があった。
 左右盲なのである。本人は苦労しているのに、間違えるとものすごく間抜けな描写になってしまう。

 前の記事で、「頭の中に常に言葉が飛び交っている状態が、普通ではないと気が付いたのが35、6歳」と書いたが、「右手がある方が右で、左手がある方が左」と気が付いたのも、実は最近のことだ。気が付いたのに、右側にある手が右手だということも普段は忘れている。本物になりたいと言った側からそんな基本的なこともおぼつかない。左右盲の苦労は続く。

 次回は、作品の発表方法にいよいよ悩み、いろいろ試してみた、という話を書きたいと思う。
 お読みいただき、ありがとうございました。

 以下は参考までに、今回の記事の中で触れた、買い足した資料のリンクです。アフィリエイトは貼っていません。




 何者でもないアラフォー女性が、35万文字の物語を完成させるためにやった全努力をマガジンにまとめています。少しでも面白いと思っていただけたら、スキ&フォローを頂けますと嬉しいです。


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