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勇者になりたかった

子供の頃、ゲームが好きでよくやっていた。私がゲームを覚えた当時はファミコン、スーファミがゲーム業界を席巻していた時代だ。特に私はドラクエ、FF、マザーなどのRPGが好きだった。

RPGの主人公と言えば「どこかの国の王子」だったり、「人外の特殊な種族」だったり、「特殊な能力」を持っていたり。とにかく「普通」ではない、「選ばれし者」であることがほとんどだ。生まれながらにして与えられた特別な能力や肩書。当時は憧れなんて言葉にできるほど自分のことを理解していたなかったが、今更になってよく分かる。確かに私は、「特別であること」に憧れて、まるでゲームの中の勇者様にでもなりたかったのである。

私はごく平凡な家庭の生まれだ。高校は何となく地元の進学校に進み、地元の国立大学を出て、県外に転勤のないようなそれなりの会社に就職して今に至る。最初に「特別であること」に憧れたとか書いたくせに、どう考えたって特別ではない。流され続けて今この場所にいる。これといった努力をしたこともない。

たぶん私は心のどこかで自分はすでに「特別である」と思い込んでいたのだ。他人より頭が良くて、特殊な能力を持っている(はずだ)。そんなバカげた思い込みの所為で私は努力することから目をそらしてしまった。努力なんて凡人のすることで、特別な自分には必要ない。それを言葉として自認はしていなかったが、何となくそんな風に思っていたのだと思う。

田舎の学校でそれなりに成績が良かったというだけで自分のことを特別だと思い込み、他人のことを見下していた。というかそうすることによって何とか弱い自分を支えていた。本当は自分に自信なんかなくて、他人が怖くて馬鹿にされることを恐れていた。私は誰かを下に見て自分は優れていると思い込むことでしか自分を保つことが出来なかったのだ。

そんな風にして自分をだまし続けていたせいで、本当の自分がいつの間にか分からなくなっていた。弱い自分を認めて外に出すことが出来なくなっていた。弱点や間違いを指摘されることを極端に拒絶し、傷ついて、また虚勢を張って生きていた。

社会人になっても、30歳を過ぎても私の内面はずっと子供のままで成長を止めてしまっていたように思う。努力することをあきらめてしまったのだから当然だろう。他人の目を恐れて、いつまでも「特別な自分」に縋り付いて、どうにかこうにかここまで歩いてきた。でもそろそろやめにしたいと思う。ちっぽけな自分を受け止めて弱い自分を愛さなければ私はこれ以上前に進めなくなってしまう。

少し前に後輩が結婚したことをきっかけにnoteを書いたらたくさんの人に読んでもらうことが出来た。その記事では最終的に前向きな言葉で締めくくったが、本当は心中穏やかではなかった。独りで居る人を見つけては私と同類とみなして安心して生きて来たのに、どんどん安心材料が無くなって行く。「同類」が居なくなってどんどん私は孤独になっていく。

仕事も同じ。私は正直言ってそんなに仕事に一生懸命取り組むタイプではない。出世欲も無い。ただ与えられたことはちゃんとこなすし、理解も早いほうだと思っている。そんなだから、上司や先輩や後輩の、仕事に対する熱い思いに触れた時に、きゅっと胸を締め付けられるような罪悪感と孤独感を感じてしまう。

自分を特別だと思い込んで努力もせずに盲目に他人を見下して生きて来たけど、今となっては他人を見下すことのできる要素が無くなってしまった。周りにいる誰よりも自分は劣っていると感じてしまっていた。私は全然特別なんかじゃない。そう気が付いたときどうやって生きれば良いか分からなくなった。

昨年恋愛をして、打ちのめされてぼろぼろになった。その時期に、結婚や仕事に関する悩みが同時にやって来て私は完全に精神を病んでしまっていた。うつ病と診断されたとかそういうわけでは無いのだが仕事は手につかないし、休日も元気が出なくてうなだれるだけ。本当に人生で一番病んでいたと言っても過言ではなかったと思う。

そんな時に「カウンセリングを受けてみよう」と思い立ち、適当にネットで調べたカウンセリングルームに予約を取った。そんなの役になんて立たない、と心のどこかで思っていたが、藁にもすがる思いで行動に移したのだ。それくらい私の心は限界に来ていた。

カウンセリングルームにつくとマスクをしていない女性が出迎えてくれた。(その時はまだマスクをするのが当たり前の時期だった)それを見て「顔をさらすことで患者に安心感を与える手法かしら?」なんて考えていた私はもしかしたら意外と元気だったのかもしれない。

カウンセリングは今抱えている悩みをざっくばらんに話していくという方法で始まった。私はとりあえず自分のセクシャリティのことは伏せたまま恋愛関係の話をしたり、普通に仕事の話をしたりしていた。

「一人で生きて行くことを自ら選ぶ人もいるじゃないですか?」みたいなニュアンスのことを私が言ったとき、カウンセラーさんは急に目の色を変えて「でもあなたはそれを選びたいと思っていないじゃないですか!?もうあなたの心は限界だって言っているんですよ!?」と強い口調で言った。なぜだか分からないが私は涙が止まらなくなって、話すこともままならなくなってしまった。

カウンセリングはその後、もう一度受けたのだが、少しずつ商売っ気が出てきたり、私のセクシャリティのことを私が話したいと思えなかったので途中でやめてしまった。でも、「一人で生きていたくない」と自分自身が思っているということに気が付かせてくれたので無駄ではなかったと思っている。

今私は自分が特別でもなんでもない小さな人間だと思って生きている。でもそんな自分も嫌いではない。別に何かに秀でていなくても特別なんかじゃなくても私は私なのだから。どうやって生きて行きたいかと問われたら穏やかに生きて行きたいと答えるだろう。特別な野望も夢も何にもない。でもそれでも良いだろうと最近は思っている。

野望があること夢があることに憧れて、野望も夢も持てない自分を嫌いになるくらいなら、憧れなんて捨ててしまおう。私は私のことを好きになろう。もっともっと自分のことを好きになれるように好きな人や好きなものに囲まれて生きよう。ただそれだけで十分だ。「好き」に囲まれて生きる自分のことを嫌いになんてなれるはずがない。

いつだったか、自分の好きなものを忘れないように、ノートに書き出してみた。音楽、歌、美味しいもの、動物、子供、いいにおいの物、かわいいもの、きれいな景色、人と話すこと。普段は意識していないけれど好きなものがこんなにもたくさんあった。そして今確かに私は私の好きなものに囲まれて生きている。

私は子供の頃に憧れた特別な勇者にはなれなかった。どこかの国の王子でもないし、竜人族の末裔でも、超能力者でもない。村人AもしくはモブキャラB。その程度で十分だ。私はいつだって私自身が見た世界の中心にいる。

自分の弱さに気が付いたら、強くなろうと努力してみたくなった。そうしたら他人の目が気にならなくなってきた。生きづらいとか、生きやすいとか最近よく聞くようになって来たけど、今確かに私はこの人生を生きやすいと思って生きている。

もちろん悩みや苦しみがないわけでは無い。でもその悩みも苦しみもいつか必ず終わることを私は知っている。風が吹き抜けるのと同じように、痛みもさらりといなくなってしまう。

ようやく大人になれた気がする。

大好きなものと、大好きな人と、大好きな自分のいるこの世界に生まれてよかった。

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