こじらせレトロ

歴史関係のまとめを載せようと思います。 江戸から第二次世界大戦あたりまでざっくり。個人…

こじらせレトロ

歴史関係のまとめを載せようと思います。 江戸から第二次世界大戦あたりまでざっくり。個人の考察も含みます。

最近の記事

昭和物産 千葉県の松根油

街なかにある松の木に、ハート型の傷がついているのを見たことありますか? これ、松脂を集めてた跡です。 昭和20年終戦間近、不足した石油の代替品として松から作る「松根油」(しょうこんゆ)が全国各地で作られました。 「松根油」とは松の根を掘り出し、乾溜炉(内側が二重になってる140cmくらいのドラム缶みたいなやつ)に入れ加熱する。 熱分解を促す乾溜方法で得られる液体で、松根タールとも呼ばれる。 精製することにより、テレビン油、パインオイル等が得られる。 接触熱分解等により

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      無意識の写真、ノーアングル、誤作動

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        江戸川のなんでもない夕日

        • 船橋国旗掲揚台 一億一心

          船橋の熊野神社にある国旗掲揚台です。 「一億一心」とは、読んで字の如く 「日本国民全員が心を一つに合わせ、結束する」という事です。 有名な戦争スローガンの1つです。 近衛文麿 元内閣総理大臣が初めて使用した説があります。 昭和15年ごろ、当時の日本人口は一億人に達してなかったようです。 日韓併合中なので、日本の約7000万人+韓国の約3000万人を足して一億と見る説と、日本国でだいたい一億人いた説がありました。 大東亜共栄圏を目標に掲げて戦ってたので、私は前者の日

        昭和物産 千葉県の松根油

          幻の地域限定パン 東台パン

          上の写真は私の勝手なイメージです。 千葉県市川市国府台。 この地は昭和20年の終戦を迎えるまで野砲連隊や練兵場などの陸軍施設がありました。 終戦をむかえ除隊された方で帰郷せずに残った31人がいました。 開拓農業協同組合(=東台農事実行組合?)を結成し、東練兵場だった場所を開墾、小麦の製造、パンの製造を行いました。 この東練兵場の開墾は壮絶です。 戦車や野砲で固めてある土を掘るとこからのスタートです。 井戸も有ったようですが、地形が台地上なので水は坂の下から牛車でもらい

          幻の地域限定パン 東台パン

          富久町西交差点 馬の像

          平成10年度 まちかど庭園 テーマは「まちかどのにぎわい」 平成になってからの街モニュメントですね。 馬!かわいい!! 仕事中、車を取りに行きつつパシャリ。 場所は新宿御苑の近くです。 外苑西通りと靖国通りが交差するところです。 明治初期だと「外苑西通り」まだないです。 モニュメントの説明書によると牧場があった様ですが、この古地図だと表記がないような…。 「内 藤 新 宿」の新の文字の下に楕円囲いがもしかして牧場? 「郡」の字が楕円で囲まれてます。 この辺で「茶

          富久町西交差点 馬の像

          国府台 蓴菜池

          現在は「じゅん菜池緑地」公園です。 昭和の初期まではここでじゅん菜がとれました。 明治13年国分周辺の想定図によると、少なくとも「サヘイ」さんと「ジェム」さんが副業でじゅん菜を採っていた記載がありました。 そんなに多くはないですが、この池の畔に何件か人が住んでいたようです。まわりはほとんど軍用地。毎日ラッパの音や号令や銃声で静かな暮らしは望めなさそうです。 昭和に入ってから何度か池は干上がり、とうとうじゅん菜は全滅してしまいました。 戦後は田んぼになり、昭和54年に地域

          国府台 蓴菜池

          何だか解らない好きな建物

          千葉街道に佇む昔のお店の建物です。 何屋だったのか皆目検討付きません。 真ん中の窓は何回行っても何時も空いている。 屋上には何かのケースが積まれてる。 看板のヨリ。 ○に物心?? 読めない。 車が行き交う賑やかな大通りに面し、市川駅からはちょっと遠い。 きっと昔は、近隣の方が何某かを買い物にやってくる人気店だったのでしょう。 だって全方向から見られる看板、りっぱだもんね。

          何だか解らない好きな建物

          旧江戸川の常夜燈

          浦安から旧江戸川沿いをテクテク歩くと本行徳にありました。 江戸時代、成田山新勝寺にお参りに行く人々が航路安全祈願として建てたそうです。文化9年(1812年) 元禄3年(1690年)河岸がこの地に移されました。日本橋小綱町から小名木川、新川、江戸川のルートで行徳船と呼ばれる船が行き交ってました。(約12.6キロ) 浮世絵などで見ると帆掛け船が描かれてたので、風と人力で船を操り走行していたのでしょう。 江戸からやってくる人々や、行徳で作られた塩などが運ばれ長い間賑わった地域で

          旧江戸川の常夜燈

          市川市 馬頭観音群その1

          市川市の「国分尼寺跡」のすぐ横に馬頭観音さまが集められておりました。 国分尼寺は何時頃建てられたのか現在のところはっきりしてません。 昭和8年、底に「尼寺」と墨書された土器が発見され、尼寺跡であることが判明したそうです。 元々お寺の跡地なので、現在は真っ平らな緑の芝生の公園です。平日の昼間は子供たちや親子が何組か遊んでる、のどかな広場です。 この近くは戦時中は、陸軍砲兵の東練兵場付近だったのではないかと予測しています。 軍の施設を建設するにあたり、松戸街道を軍用道路にし

          市川市 馬頭観音群その1

          市川市 国旗掲揚台

          六所神社の境内にある国旗掲揚台。 昭和13年11月 「国威宣揚」は陸軍の偉い方の書のようです。御名前が私には解読不能でした。 どなたか読めますか? こちらの六所神社はもともと、国府台のスポーツセンターあたりにありました。スポーツセンターの大きな木の下に看板があるようです。 明治19年に陸軍練兵場造成に伴い現在地に遷座となりました。 神主さんの屋敷地があったのでここになったそうですが、古地図で確認すると須和田村の端に当たります。 村の端っこには、神の力で悪い気が入

          市川市 国旗掲揚台

          戦時下の生活風景メモ 昭和15年あたり

          自分用のメモ的記事です。 昭和15年 「奢侈品等製造販売制限規則(しゃしひんとうせいぞうはんばいせいげんきそく)」が公布されました。 絹織物、指輪、ネクタイなどの製造が禁止。 「十品目の切符制」実施 米、味噌、醤油、塩、マッチ(一日1人5本)、砂糖(一人一月300グラム)、木炭など 昭和16年 「生活物資統制令」 お米は米穀配給通帳制になり、一般成人男性は一日二合三勺(約330g) 戦況が悪化するに従い配給は減っていきました。 昭和16年で他には 「慶弔電報の取扱い停

          戦時下の生活風景メモ 昭和15年あたり