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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 後編 6

「大丈夫、あんた? ほんま、そんなところは全然変わらへんのやから。待っとき」

 雪女はそう言うと、奴婢長屋に消えて行った。

 そして、椀に水を注いで持って来た。

「ほら、水飲んだら楽になるわ」

 弟成は、雪女の手ごと椀を握り締めると、その体に注ぎ込んだ。

 冷たい水が、彼の咽喉を刺激した。

 彼は、その水を一気に片付けた。

「どう、もうええ?」

「うん、ありがとう」

 人心地付いた。

「良かった」

 雪女は微笑んだ。

 それは、弟成が久しぶりに見た雪女の笑顔であった。

 誰もが、三成の死以来、我慢していたのだ。でも、ここに来てようやく、皆が普通の生活に戻ってきたのだった。

「弟成」

 雪女は、彼に呼び掛けた。

「なに?」

 彼は、雪女の笑顔が照れくさくて、月を見上げた。

「あんたも、もう立派な男なんやから、無茶しちゃあかんよ。よう考えて行動せんと」

「分かてる」

 弟成は、口を尖らせた反発した。

「ほんまに? 大飯を食べるんが立派な男やないんよ」

 雪女は、笑いながら言った。

「そんなこと、分かってるって」

 しかし、弟成は、雪女にそんなことを言われるのが嫌な気分ではなかった。
むしろ、あの頃に戻れたようで嬉しかった。

「弟成、お姉ちゃんね、今日からこの長屋で忍人さんの家族と一緒に暮らすねん。もちろん、弟成とは今生の別れという訳やないけど、前のようにあなたに構ってあげられなくなるんやで。それに、父さんや母さんの仕事の手伝いもできなくなるねん」

 弟成は黙って聞いている —— それが、結婚というものかと思いながら。

「そやからね、今日からは、弟成は自分のことは自分でせんとあかんのよ」

 そんなこと、いままでもしてきたじゃないかと彼は言いたかったが、なぜか言葉にできなかった。

「それに、父さんや母さんの仕事の手伝いもせんとあかんのよ、大丈夫?」

 彼は答えなかった。

「そうか、あかんか。ほな、お姉ちゃん、忍人さんと一緒に暮らせへんな」

 弟成は、雪女の顔を見た。

 その顔は笑っていた。

「あかんことない、あかんことないよ」

 弟成は、長屋の中にまで聞こえるような大声で言った。

「ほんま? 約束できる?」

「できる。俺、自分のことは自分でする。父ちゃんや母ちゃんの仕事も手伝う。そやから、姉ちゃん、忍人さんと一緒に暮らして」

 弟成は、自分のために幸せを捨てる姉の姿を見たくはなかった。

 もう二度と、自分のために親しい人が犠牲になるのを見たくはなかった。

「ほんま? ほな、約束よ」

 弟成は大きく頷いた。

 雪女は、彼を力強く抱きしめた。

「弟成、ごめんね、ごめんね……」

 雪女は、泣いていた。

 弟成は、なぜ雪女が謝るのか分からなかった。

 月は、二人を照らし出していた。

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