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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 前編 10

「失礼します」

 彼は、入鹿に軽く頭を下げた。

 周囲からは、忍び笑いが漏れる。

 頭を上げた瞬間、入鹿と目があった。その目は、鋭いが美しい。

 鎌子は、女のような人だなと思った。

 頬は、ほっそりと美しい曲線を描き、その肌は雪よりも白い。確かに、男にしておくには勿体ないほどの美貌の持ち主であったが、だからと言って女々しいといったところはなく、その厳しい目が、逆に彼の男ぶりを上げていた。

 鎌子は、彼を長い間見ておられず、目を伏せると急いで席に就こうとした。

 その時、周囲がざわめき出した。

 鎌子は、不思議に思い顔を上げた。

 するとそこには、立ち上がった入鹿の姿があった。

 鎌子は動揺した。

 なんだろう?

 何かまずいことしたかな?

 次の瞬間、今度は心臓が止まりそうになった。

 入鹿が、あの入鹿が、鎌子に一礼したのである。

 周囲のざわめきは、驚愕へと変わった。

 鎌子は、慌ててさらに深く頭を下げた。

 入鹿が座った後も、ずっと頭を下げ続けた。

 それほど、彼の行動に驚かされたのだ。

 彼が、やっと席に就いたのは、旻が、講堂に入って来て、早く座るように注意された後だった。

 その後の講義は、全く頭に入らなかった。

 なぜ蘇我殿は、俺に礼を返されたのだろ?

 もしや、蘇我殿は俺のことを優秀な男と思っていらっしゃるのでは?

 いやまて、そんなことある訳ないか?

 逆に馬鹿にしているのかもしれん。

 いや、そうに違いない。

 あの蘇我殿だぞ、俺なんか足下にも及ばないからな。

 そうだ、馬鹿にしているのだ!

 鎌子は、講義そっちのけで、ずっとそんなことを考えていた。

 そして、気が付いた時には、旻法師の後ろ姿を見送っていた。

 彼は、憂鬱な気分で帰り支度をした。

 今日は、とんでもない恥を掻いたなと思いながら。

「中臣殿、いまから暇ですか?」

「はい?」

 振り返った先には、美しい顔が微笑んでいた。

「えっ!? はい、はい、暇です」

 鎌子は驚いた。

 挨拶をされるだけでなく、声まで掛けてこようとは。

「では、私の屋敷で、本日の講義について復習などしませんか?」

 周囲がどよめいた。

 今日は何から何まで初めてづくしだ。

「はい、喜んで」

 鎌子は、有頂天だった。

 講堂一の秀才から誘いを受けようとは。

「では、参りましょうか」

「はい」

 鎌子は、入鹿の後に付いて行った。

 堂々と、胸を張って。

 そして、吹負たちは、その奇妙な光景をただ見送るしかなかった。

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