【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 後編 15
奴婢長屋の前は、人だかりができていた。
人の輪の中心には、兵士たちに取り囲まれた八重女の姿と、傍らで話をする下氷雑物と馬上の男の姿があった。
「寺法頭が、大伴の屋敷に八重女のことを伝えたらしいぞ」
「可哀想に、ひどいことされんとええがの」
可哀想と言いながらも、奴婢は物と同じである。
主人の命令ならば、それに逆らうことは許されていない。
まして、奴婢たちが他の奴婢のことについてあれこれ口を出せる立場ではなかった。
弟成たちは、大人たちを掻き分け前に出た。
八重女の両手には、荒縄が掛けられていた。
弟成には、その縄が八重女の両腕だけでなく、心も縛り付けているように見えた。
「八重女!」
黒万呂が叫んだが、彼女の反応はなかった。
黒万呂の声に反応したのは、雑物の傍に立っていた男であった。
弟成は、その顔に見覚えがあった —— いや、忘れることはできなかった。
夢にまで出てきた顔だ!
三成の体から吹き出る血飛沫の向うに見えた顔だ!
「あいつだ!」
黒万呂がその声を聞いた瞬間、弟成の姿はなかった。
気付いた時、彼は傍らに転げていた棒切れを振りかざして、男に飛び掛っていた。
弟成の一太刀は、男の兜を砕いた。
しかし、男はすばやく体を捻ると、弟成の手を取り、大地に組み伏した。
周囲の者は唖然とした —— よもや、弟成がそんなことをしようとは………………
弟成に触発されたのか、黒万呂も男に飛びつこうとしたが、これは、八重女を取り囲んでいた兵士の一人に捕まえられた。
件の男は、弟成を睨みつけた。
弟成も彼を睨みつけた。
「餓鬼が」
男はそう言って笑うと、弟成の胸倉を片手で掴んで持ち上げ、奴婢たちに投げつけた。
弟成は、頭をしこたま打ちつけた。
「馬鹿者、何をしておる! 早く、そいつらを向うに連れて行け!」
雑物は、奴婢たちに弟成と黒万呂を引きずり出すように言った。
「大伴殿、申し訳ない、我が寺の馬鹿たれが」
雑物は、平伏して謝った。
男は、額に滲み出る血を拭うと、馬に乗った。
「いや、寺の奴にも強いヤツがいますね、なかなか面白い。では、この婢は連れて行きますので」
彼は、馬を静かに走らせた。
男たちも後に続いた。
八重女は、引き摺られて行きながら、後ろを振り返った。
その目は、弟成を探していた。
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