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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 中編 3

『日本書紀』では「白村」「白村江」、『旧唐書』では「白江」「熊津江口」、『三国史記』では「白江」または「伎伐浦」と記載されている。

 現在の韓国忠清南道と全羅北道の境界にある錦江河口が、これにあたると云われている。

 錦江は全長約401キロメートルで、洛東江・漢江とともに韓国の三大河川の一つに数えられている。

 鬼室福信が立て籠もっていた周留城は、現在の錦江の右岸、韓山と考えられている。

 この周留城からは、旧百済の王都があった泗沘(しひ)城(中清南道扶餘郡扶餘)を北東に臨むことができ、錦江を遡れば、この城まで辿り着くことができた。

 また、さらに上流に遡れば、唐軍の熊津都督府が置かれる熊津城(中清南道公州郡)に到達することができ、軍事的に需要な拠点であった。

 因みに、泗沘城のあった扶餘(ふよ)付近では、錦江のことを白馬江と呼んでいる。

 また、ここには落花台という断崖絶壁の岩山がある。

 これは、660年の百済滅亡時に、後宮の官女たちが唐・新羅軍の兵士に辱めを受けるよりはと身を躍らせた場所で、その数は3000人にも及んだと伝えられている。

 その時、岩山から川に身を翻す女たちの姿が、まるで色取り取りの花が落ちてゆくように見えたので、落花台と名付けられたらしい。

 豊璋王子が百済王となって半年、周留城は天然の要害に守られて敵の攻撃を受けることなく過ごしていた。

 当時、唐軍は北方の高句麗と睨み合い状態であったので、百済の平定は主に新羅軍が受け持っており、太主武烈王の跡を継いだ文武(ぶんぶ)王の指揮により、百済の残兵が立て籠もる山城を一つずつ陥落させていたが、新羅軍も百済の残兵には手を焼いており、おまけに倭国の援軍が到着したということで、周留城には迂闊に手が出せない状態であった。

 守りは固い、しかも敵の城には迅速に侵入できる ―― 周留城は、百済にとって非常に有利な場所であったのだが、なぜか豊璋王はここを捨てて、南の避城(へさし)へ退こうとしたのである。

 それは、中大兄の称制元(662)年12月1日のことである。

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