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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その二 おはまの一件始末 7

 どうも田舎者には、江戸は複雑すぎる。

 板橋といえば御府内のはずれ、ここも神田辺りに住む者から言わせれば、相当な田舎らしいが、惣太郎のような田舎育ちの者には、それでも立派な町で、戸惑うことが多かった。

 あっちこっちと動き回り、色んな人に聞いてまわったが、

「そんな長屋あったかな」

「聞いたことねぇな、そんな長屋」

 と返ってくるばかり、今日は無理かと諦めかけたころに、

「ああ、それなら……」

 知っている者に教えてもらって、ようやく寅吉の住む長屋に辿りついたときは、秋の日は西へと傾き始めていた。

 長屋は川の傍にあって、じめっとした、生臭い風が漂ってきた。噂には聞いていたが、なめくじ長屋とは酷いところである。家は傾き、障子には穴が開き、板戸はばたつき、人の気配すら感じない。

 まるで、ここだけ時が止まったような、そんな寂寥感があった。

 こんなところに良く住めるものだ。まだ、郷の百姓のほうがまともな家に住んでいる。ここが本当に花のお江戸なのかと、疑いたくなるほどだ。

 こんなところで生活していたのだから、20代のおみねがあれほど老け込むのも無理はないと思った。

 左右の長屋に囲まれた道を歩くと、みっちゃみっちゃと粘っこい音がする。いい天気なのに、なぜか地面が湿っている。水はけが悪いようだ。

 奥に厠があるようだ。し尿の臭い匂いが身体にまとわりついてくる。

 寅吉は、この長屋のいづれかに住んでいるはずだが………………見回すが、ひっそりとしている。

 端から一軒一軒聞いてまわるかと思っていると、右手の三軒目から男がふらりと顔を出した。ぞっとするほど青白く、両手をだらっと垂らしていたので、一瞬幽霊かと驚いた。

 男はそっと顔をあげた。一瞬、惣太郎と目があったのだが、気がつかないのか、そのまま家に入ろうとした。

 慌てて呼び止めた。

「すみませんが、この長屋に寅吉という男はおりませんか」

 男は、ぼーっとした顔を惣太郎に向ける。この男、気は確かだろうか。

「寅吉です。おみねの亭主の寅吉というのですが、この長屋にいると聞いたのですが……」

「おみね、おみねですって」、男は、急に生気が戻ったように、惣太郎にしがみ付いてきた、「おみねはどこです。おみねは」

「もしかして、あなたが寅吉ですか」

 想像していた男とは、大いに違うのだが。

 もっとこう……がっしりとした、如何にもやくざ風の、凄みのある男を想像していた。

 目の前にいるのは、そよ風が吹けば飛んでしまうような、ひょろりとした男で、とてもおみねに手をあげるようには見えない。

 しかし、人は分からないものである。おけいの旦那松太郎も、見かけは随分大人しそうな男で、酒を飲んだときの差が激しかったのだから。

 こういう男のほうが、切れたとき、案外怖いのかもしれない。

「そうです、あっしが……」

 男はそう言いかけた。が、急にかっと双眸を見開き、まるで蛇に睨まれた蛙のように、固まってしまった。

「どうしました、寅吉、寅吉」

「いえ、違います。あっしは寅吉じゃありません」

「いやいや、いま、そうですとはっきり言ったでしょう。寅吉なんでしょう」

「違います、違います」

 と、男は慌てて部屋に入り、びしりと戸を閉めてしまった。

「おい、寅吉、ここを開けてくれ。お前、寅吉だろう、おみねの亭主だろう」

 戸を叩くが、中から返事がない。まるで空き家のような静けさだ。

 このまま踏み込んでやろうか、とも思ったが、寺役人にそこまで権限はないので、仕方なく出直すことにした。

 長屋を出ようと振り返ると、ふと男と視線があった。男は慌てて隠れたが、どうも惣太郎と寅吉と思われる男のやり取りを見ていたようだ。

 もしかしたら寅吉は、あの男を見て、慌てて口を噤んだのかもしれない。

 ――あの男はいったい?

 慌てて追いかけたが、もう姿はなかった。

 気のせいだったのだろうか。

 いや、気のせいではない。

 現に、惣太郎は付けられていた。

 長屋を出てすぐに、背後に気配を感じた。

 あの男だと分かった。

 男のほうでも、隠れるつもりはないらしい。むしろ、付けていることをこちらに分からせているようだ。

 付かず離れず、警告するようにずっと付いてくる。

 さすがにいらっときたので、惣太郎は振り返り、男に問うた。

「先程から拙者のあとを付いてきているようですが、いったい何用か」

 男は、ひと一人分ほど間合いを開けて、止まった。

 釣りあがった目元に、剃刀で剃り落としたような頬、尖った顎、薄っぺらい唇を舌なめずりしながら、惣太郎を睨みつけていた。

 野良犬のように、いまにも飛び掛らん気魄である。

 いざというときの覚悟はしておいたほうがいい。

 惣太郎は、ぐっと丹田に力を込めた。

「あんた、おみねの亭主のことで嗅ぎまわってるらしいな。いったい何者だ。ここが、政吉親分の縄張りだと知ってのことか」

 どすを利かせるような声で男は言った。

 聞き覚えのある名だ。政吉……はて、どこかで……ああ、と合点した。おはまの亭主ではないか。なぜ政吉が、おみねに関与しているのか。

 いや、関与して当然か。政吉は、板橋一帯を仕切る十手持ちだ。見知らぬ者が自分の島で不審な動きをすれば、警戒するのも当然だ。

 政吉が、この件にも難癖をつけてこないだろうかと心配しながら、惣太郎は答えた。

「拙者は満徳寺寺役、立木惣太郎と申す。板橋に住むおみねという女が当寺に駆け込んできたので、その仔細を調べにきました。そなたの名は」

「俺が、あんたが捜している男だ」

 では、この男が寅吉か。まさしく予想どおり。駄目亭主そのものだ。

「おみねのことなら、権兵衛の爺がそっちに出向いているだろうが。これ以上、何を調べることがある、えぇ!」

 寅吉は凄んでみせる。

 全然反省している様子が伺われないのだが。

「亭主の様子を知っておくのも、こちらの役目です。権兵衛殿からは、そなたは酷く後悔している、心を入れ替えると聞いていたのですが、その様子では……」

「おいおい、あんまり人を見かけで決めるのは良くないぜ、お役人さん。人っていうのは、見た目と随分違うもんだ。これでも、心の中では涙を流しているんだよ」

 にたにたと笑いながら言う。その言(げん)、本当か。どうも嘘くさい。

 これ以上は話が拗れ、清次郎にも迷惑がかかるだろうと、惣太郎は引き下がることにした。

「そなたのこと、よく分かりました。いずれまた、満徳寺から呼状があるでしょう」

 歩き出すと、寅吉が声をかけた。

「おみねは元気なんだろうな」

 馬鹿亭主でも、女房を気遣う心はあるようだ。強(あなが)ち、心で泣いているという言葉も、嘘ではないのかもしれない。

「子細ない」

 寅吉は、にやりと口を歪めた。

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