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本当に思える、素敵な嘘

映画の宣伝に使われる「著名人からの推薦コメント」で、

"頼まれて観たけどけっこう微妙で、けなすわけにもいかないからふわっとした詩的な表現で逃げたんだろうな…"


ってタイプのやつを読むと、モヤっとする。

個人的には「役者」「登場人物」「作品を通じて感じた時代感」に極端に限定して言及したコメントは、"作品そのものがおもしろかったわけじゃないのかな…" と思ってしまう。

おもしろかったら、まず作品全体に対して「おもしろかった!」的な言葉が最初に出てくると思うから。

そもそも著名人コメントってなんでみんな小難しい表現とか詩的な表現になるのかなぁと昔から思っていたんだけど、その疑問に対してちょっとした仮説が思い浮かんだ。

映画大好きで、作品に紐付いたひっかけ表現好きの小島秀夫さん以外はたぶん、そういう表現のガワを整えることで"主語を自分自身にすること"を避けてるんだと思う。

あんましおもしろくなかったものを
"私はこの作品めっちゃおもしろいと思います!"
とは言いたくないもんね。

あんましおもしろくなかったものを
"この作品で主演の●●が演じる☓☓の感じる焦燥は、
まさに我々が見逃している現代の闇だ"

とか言えば、おもしろくなかったことはバレずに褒めた感じにできる。

やたらめったらいろんな人にコメントもらいまくってる映画そのものにも、僕はモヤっとする。

なので拙作『東京彗星』では意を決して庵野秀明さんにだけお願いし、すっごく丁重に断られたんだけど、シン・エヴァで忙しいにもかかわらず丁重に対応してくれたスタジオカラーさんには心底感動しました。その節はご対応ありがとうございました。

チラシにたくさん薄い褒めコメントが並んでる方が、なにもないよりは宣伝効果あるのはわかってたんだけど、例えば自分がその人の大ファンで全作品観てるわけでもないのに頼むのはちょっとできなかった。

逆の立場になったとき、つまんなかったのにふわっとしたお世辞コメントすると自分の信用スコアも落ちるし。

自分の作品の宣伝に推薦コメントを入れるなら、"誰かが僕に直接伝えてくれた、本当に褒めてくれた言葉"を了承を得て抜粋して後付で使わせてもらう、ってのが理想。

まぁ、こういう考えは甘いよね。

ほんとにもっとたくさんの人に観てもらいたかったら
なりふり構わないべきだとは思う。

なりふり構わないでコメントもらいまくってること自体はみっともないとしても、自分の作品を世に届けるためになりふり構わない姿勢そのものは、尊い。もらったコメントの半分がお世辞や嘘だとしても、作り手のその必死さは、「本当」なので、ちゃんと伝わる。

* * *

うまーくかわしてる推薦コメントに似たものとして、タレントが"紹介者として"じゃなくて"一人称で「わたしたちは~」とか言ってる"CMも同じようにモヤっとする。

仕事として、誠実に広告塔をやってる姿を見せるか、商品に惚れてるさまを見せたいならちゃんと(面白い)フィクションでやらないと信用が落ちると思う。

嘘はバレる。卑しさは見透かされる。

「本当に思える嘘」の作り手が疲弊し、みんな世界中で日々見つかりシェアされる「嘘みたいだけどこれ本当」の方に沸く。

「本当」じゃないと信じてもらえないからといって、タレントが特に愛着のない商品を褒めるコメントを読んでるのを、「本当」に見えるようにとドキュメンタリックに撮ったところで、たぶん信じてもらえてないだろう。

「本当に思える嘘」をつくるコツは、
作り手が「本当だと信じている」ことだ。

ウルトラマンは本当にそこにいる。
宇宙人とは本当に友達になれる。
サイボーグは本当に人の心を学べるし、
想いは本当に時と場所と性別を超える。

スクリーンの向こうで歌っていたのは、
本当のフレディ・マーキュリーだ。

「本当に見える」「本当っぽい」と、
「本当に思える」「本当だと思いたくなる」は違う。

「グッとくる映像をつくる」ことと、
「映像でグッとこさせる」ことは違う。

たくさんの嘘を丁寧に積み重ねて、
そこにある夢を「本当」と思えるような、
サウイフエイガヲワタシハツクリタイ。

「本当に思える、素敵な嘘」であるフィクションの、
正念場だと思っている。

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また映画つくりたいですなぁ。夢の途中です。