スクリーンショット_2020-01-20_5

最近の「格差映画」を解剖する

GO三浦さんの『パラサイト 半地下の家族』に関するツイートを勝手に引用してこんなことをツイートしてしまいまして。

個人的に『パラサイト 半地下の家族』と『ジョーカー』が並んで語られるのはしっくりくるんだけど、『万引き家族』が入ってきて"格差映画"っぽく語られるのには少し疑問があったので、そのへんの自分の違和感の正体を考えてみた。

『パラサイト 半地下の家族』
『ジョーカー』
『万引き家族』
『天気の子』

について言及しますが特にネタバレはないのでご心配なく。

1.格差にフォーカスされる映画が目立つのはなぜか

単純に考えると「実際に格差が広がってるから」と言えそうだが、そうではないと思う。正確には「いままで実感せずに済んでた格差に気づかされる機会が増えたから」なのではないか。

よく言われてる話だが、ネットで世界がつながって、ソーシャル・ネットワークが行き渡ったことで、経済なり人気なり、とにかく「自分より上位にいる他人のいらん幸せが目に入ってきてムカつく」ということだ。生きていて触れることの多い情報からは、それだけフラストレーションも生まれやすい。現代においては"他人の情報"がそれにあたる。そして映画作家というのはそういうフラストレーションを敏感に察知して作品に反映していく。

最新の「フラストレーションの源」を娯楽映画に反映すると、経済格差を避けて通れないのは当然といえる。

2.フラストレーション=映画における「敵」

時代を反映した映画をつくろうとすると─いや、そもそも映画というのはつくろうとすると時代が反映されてしまうものだけど─その時代のいちばんメジャーな「フラストレーションの源」が、映画における物語上の「敵」に設定されることになる。

その時代のフラストレーションが集まれば、自ずと共通するなにかが見えてきて、それは「トレンド」に見える。

その次代のフラストレーション…「敵」は、時代とともに変わる。
(007やCIAものなんかの映画では、今より冷戦時代の方が「敵」を考えやすかったと言われている。単純に敵国を「敵」にできたからだ)

たとえば、

階級格差が明確だった時代の「敵」…権力者
自由を獲得するために戦う時代の「敵」…自由を妨げる窮屈な規律
世界が終わるんじゃないかと不安な時代の「敵」…終末をもたらすもの
9.11が世界を震撼させて以降の時代の「敵」…テロリスト

格差が視覚化されすぎたいま最新の「敵」…「格差の上の方にいる成功者」ということになるのだろう。

3.「敵」とは「倒したい相手」「脅かす存在」


時代の気分としての「敵」=映画における「敵」とはなにか考えてみる。
いったんこう定義することにする。

①私たち(主人公)がぶっ倒したい相手
②私たち(主人公)を脅かす存在

多くの映画の主人公は、私たちが「ぶっ倒したい相手」と戦い、私たちを「脅かす存在」を退けて勝利する。

主人公に感情移入させるのは映画の成功の秘訣だから、主人公の「敵」はえてして"いまの現実時代を生きる私たち"の気分を反映せざるを得ない。

わかりやすい例だと、冷戦時代の「敵」は単純に敵国だから、敵国を単純に悪いやつらとして描いて、自分たちを「脅かす存在」だから「ぶっ倒したい」と観客に思わせて、実際にそうすればよかった(まぁそんな単純な話でもないが)。

最近のいわゆる「格差映画」では、「敵」である「格差の上の方にいる成功者」は、別に悪いやつじゃないことが多い。むしろ社会的に成功していて、世の中をよくしようとしている善人…ともすればヒーローのような人物が、結果として主人公たちを「脅かす存在」だから「ぶっ倒したい」と思われてしまう、ということが多いと思う。

自分たちが貧しく、苦しく、不幸なのは直接的に「格差の上の方にいる成功者」のせいってわけでもないのに、彼らのせいだと思うほうが楽だから、彼らを「敵」と認定し、ぶっ倒したくなってしまう。これがいまの時代の気分と、「メジャーなフラストレーション」だ。

世界征服を企む悪の組織みたいな単純な「敵」ではない。「世界をよくしようとしている善人」が、どん底にいる主人公からすれば「敵」になる。

…おお、そりゃ映画がおもしろくなるはずだ。

人物は納得性を保ったまま多面的に描けば描くほど、映画はおもしろくなる。
そして、映画がおもしろくなる手段を、作家が放っておくはずがない。

この視点で『パラサイト 半地下の家族』と『ジョーカー』を観ると、ちょっとおもしろいかもしれませんよ。ここで述べた以上に多面的なことが起こってますので。ああ、言いたいけどネタバレになるから黙っておきます。

4.『万引き家族』は格差映画ではない。

いままで述べてきたことにもとづくと、『パラサイト 半地下の家族』と『ジョーカー』は格差映画と言えると思う。(『ジョーカー』は孤独についての映画とも言えるけど)。

ただ『万引き家族』は格差映画ではないと思う。『万引き家族』は劇中んに「貧困」の描写が含まれるのと、ビルの合間のボロ屋というビジュアルが、格差映画に見えているだけだ。

僕が思う『万引き家族』における「敵」は、こうだ。

①ぶっ倒したい相手…血縁絶対主義(一般的な価値観)
②脅かすもの…血縁絶対主義の信者(一般的な価値観を持つ人たち)

『万引き家族』は、血縁関係のない人間たちが家族としてコミュニティをつくって、必死にサバイブする話だと思っている。そういう主人公たちの価値に対するものとして、血縁絶対主義が浮かび上がる。もちろん、「視覚化された格差」そして貧困層の増大という時代のフラストレーションは大いに含まれていると思うが。


5.『天気の子』のすごいところ

ところで、僕が今回いろいろ考えていて『天気の子』があらためてすごい、と思ったことがある。

「格差の上の方にいる成功者」を「敵」にするというのは、あくまで人間社会の話だ。『天気の子』も「格差が視覚化されてしまった社会」を反映したような描写や設定に溢れている。「敵」としては「自由を妨げる規律や妨害者」なんかも出てくる。

『天気の子』がすごいな、と思うのは劇中の「敵」の1つ、「私たちを脅かすもの」に「気候変動」が入ってるということだ。

格差を描こうとすれば人間社会にフォーカスするのは当然で、地球規模の環境問題はまた別の話だ。ただ人類全体が抱える問題としては、見逃すことはできない。

『天気の子』は、

・「恋愛」や、「自由と規律」のような普遍的なテーマが中心にありつつ
・人間社会の、時代のフラストレーションである「格差」も描きながら
・地球規模の、新たな「脅かすもの」としての「気候変動」を取り入れ、
・しかもそれをダイナミックな映像体験として大成功させてしまっている

のである。すごー。

6.『天気の子』と『パラサイト』のつながり

『パラサイト 半地下の家族』は、経済的な格差を、地理的な上下関係で見事に表現していた。

『天気の子』も主人公の拠点となる事務所が半地下にあることが『パラサイト 半地下の家族』とのリンクとして指摘されている。

で、僕はこれは偶然ではなくて、もうちょっと深くリンクしていると勝手に思っている。

『パラサイト 半地下の家族』の劇中にこんなセリフがある。
(正確には覚えてないので、ニュアンス)

「私だってお金持ちだったらもっと他人に優しくできるわよ」

これってつまり経済格差の裏にはそれに連動して、「利己的に生きるしかない↔利他的に生きることができる」という、「利他度格差」みたいなものが隠れているな、と思った。

『パラサイト 半地下の家族』ではつまり、

『パラサイト 半地下の家族』の構造

[地理]丘の上の家[経済]豊か[主義]利他的に生きられる

[地理]半地下の家[経済]貧困[主義]利己的に生きるしかない

という構造が見える。

さて、主人公が半地下の事務所を拠点にする『天気の子』はどうだろう。

ここから『天気の子』のネタバレ入ります

陽菜さんの能力は、天気にすること。そしてそれを他人のために使う。利他的だ。彼女は利他的行動の果てに、高い高い天上に行ってしまう。

帆高は天上まで飛んで、陽菜さんを地上に取り戻す。それは、晴れが終わってしまい、東京が大変なことになることを意味するのに。利己的だ。

天上、地上、利他、利己…おやおや。

『パラサイト 半地下の家族』の式をあてはめてみよう。
ざっくり言うと「上の方がリッチで利他的」という式だ。

『天気の子』の構造

[地理]天上の陽菜[主義]究極に利他的に生きた果て

[地理]半地下の帆高[主義]究極に利己的な理由で取り戻す

…あれ!

「映像表現における上下の地理表現」と、「人物の利他度」が相関してる!

『天気の子』の[経済]については、うーん。

利他的に晴れ女仕事をしていれば稼げた(経済的豊かさへ向かう)、に対して「そんなことはもういい!」としたわけだから収入源がなくなった(経済的貧困へ向かう)、と考えると、いちおう成立する。

勝手な考察だけど、『天気の子』と『パラサイト 半地下の家族』はこんなところでリンクしてるんじゃないかなぁ、と思うに至ったわけです。

そしてどちらも、世界、というか、アメリカに刺さっている。『ジョーカー』が大ヒットした、アメリカで。

『パラサイト 半地下の家族』はアカデミー賞ノミネートだし、『天気の子』はアメリカでめっちゃ客入ってる。結果論だけど、どちらの作品もやっぱり世界的な気分を的確に捉えていた、と言える。


7.現代の格差とは、利他vs利己

『ジョーカー』も『パラサイト 半地下の家族』も『万引き家族』も『天気の子』も、格差を描いた、もしくはテーマとした映画だと見られていて、そういう映画がトレンドだという見られ方をしている。

しかしこうして分析してみると、ちょっと違って見えてくる。

「利他的に生きられるか、利己的に生きざるをえないか、という格差が、経済的な状況と相関している」ということ。

そして、「利他的な善人が主人公の「敵」としてふさわしくなっちゃう、ってのは、現代ならではのおもしろさを映画にもたらした」ということ。

そんなことを考えながら、上記4作品見返してみるのはいかがでしょうか。



最後に宣伝。

2017年に僕が脚本・監督した短編映画『東京彗星』では「敵」をこのように設定していました。

①倒したい相手…経済的成功者
②脅かすもの…確実に来る大災害への恐怖

「首都東京への局地災害が確定で予告されることで、東京と地方との経済格差がまるごとひっくり返る」という設定です。

画像1

画像2

画像3

画像4

↓30分の短編映画で、こちらで全編観れるので、よかったらご覧ください。



この記事が参加している募集

コンテンツ会議

また映画つくりたいですなぁ。夢の途中です。