見出し画像

発達障害と俺の半生①


少し前に、通っている精神病院でやっていた自分の半生を語る会で話したことをまとめてみた。


発達障害は正式には神経発達症という。
診断はADHDで主に注意欠陥障害があり、LDもあるという結果。ASD部分があるかというと、スペクトラムなので要素としては部分的にあるけどそこまで当てはまっていない。正直、自分の症状は重いのか軽いのかわからない。

ただ、結構ギリギリで生きているなぁという実感がある。
当事者会に行ったり主催すると、障害者枠で働く人が多い中、自分は意識だけは高かったこともありIT企業の総合職で働いていた。

そこで得たライフハック、心得、そしていわゆる定常発達の皆さんとのかかわり方など、同じように発達障害を抱える人たちに何かの参考になればいいなと。

自分の発達障害特性について

沢山ある。まとめてみた。

  • 議事録がとれない

  • 電話メモがとれない

  • 口頭で指示されると、その指示のイメージができない

  • 左右が混乱することがある(いわゆる左右盲)

  • 買い物した際、買ったものをカゴに忘れてしまう(何度も)

  • 風呂場で、どこまで洗ったのかわからなくなり洗い直すことがある

  • 本など同じ行を何度も読んでしまう

  • 目の前のモノが探せない

  • ↑よってクルマの運転ができない(免許は保有)

  • 苦手な人の前だと作業が何もできない。頭が真っ白になる

  • 接客が絶望的。コンビニやサイゼリアなどでバイトしたが、基本口頭指示なのでレジも覚えられないし、客が高圧的になるので頭が真っ白になるし注文メモすら取れない状況でバイト仲間にいじめられたこともある

  • スケジュールを立てるのが非常に苦手(1日かければできる)

  • 説明書が読めない。家具などを組み立てられない。(ゆっくりと時間をかければできる)

  • 急に予定が変更されると、その日が落ち着かない。

  • 蛍光灯が非常に苦手。目や肌が痛く感じる。蛍光灯だとすぐ眠くなる。基本は白熱灯でないとダメ。


まだあるけどメインはこんなもんかな。
ただ、発達障害者も成長はしていくので、上記の中にはできるようになった項目もある。成長はするんだけど、定常発達者よりすごくゆっくりだということが経験からわかってきた。大事なのは、なにが「嫌いじゃないか」だと思う。あと、必ずしも障害枠で働くことが正解じゃないかもしれない。
おそらく、仕事内容よりも一緒に働く人の性質の方が大事なのではないかなと思う。

自分が得意なこと

学生時代にバイトをいろいろ経験したおかげで、得意なことがわかった。

  • 調べて追求すること

  • PCを使ってダークウェブを探ること

  • 時間をかなり使うが、情報をまとめることができること

  • 長期記憶が良いこと

  • 過集中できること

以上から、IT系に進むことを決意した。多分ITじゃなくても職人系なら
十分生きていけるのではないかなと。

幼少期

まず、自分は一人っ子。
1986年生まれ。ダルビッシュや本田圭佑、北川景子、テニスのナダルと同い年。世間的にはプレッシャー世代と言われるらしい。

幼少期はあんまり覚えてないんだよね。
ただ親に聞いたりすると表情が豊かで、親の言う短い言葉をよく反復していた。歩くのも周りではかなり早いほうだったらしい。
ただ、引っ込み思案で人見知りだったため幼稚園ではジャイアンタイプの奴によくイジメられていた。

人前ではあまり話さない子だったが、マンションやアパートの近所の子とよく遊びには行っていた。

集団行動が苦手だけど、個人で遊ぶのだったら普通に対応できていたのが
幼少期だったんだろう。また、ウルトラマンが好きで良く技の真似をしていたらしい。可愛らしい幼少期だった。


小学生

小学校に入ると、少し特徴が出てきたように思う。人見知りを発揮し、最初の頃はからかわれたりした。いじめには発展しなかったが。
が、徐々に慣れ始め、友人とはよく遊ぶようになる。

小学校3年からは皆とワイワイはしゃぐようになり、いわゆる引っ込み思案な性質は消えてなくなった。これぞ成長ってやつだね。当時流行っていた
ハイパーヨーヨー、ミニ四駆、ポケモン赤緑、テリーのワンダーランドなど
一通りやったリア充だったように思う。

授業態度は、基本的には話したり立ち歩いたりはない。覚えているのはそれほど集中して聞いている感じではなく、当時ドラクエやFFのバトル鉛筆などがはやっていてそれを一人でやっていたり授業中に机を彫刻刀で掘っていたりしていたことが多々あった。授業を真面目に聞いているわけではなかった。

多分集中できなかったんだと思う。彫刻刀で机掘ってたのはずっとやっているのは覚えていて、先生にたびたび怒らていた。

また、おそらくこの頃からだと思うが、親には「聞いているのか聞いていないのかわからない」「聞いているのに返事をしない」「聞いた内容を理解しているのかわからない」と言われることが増えた。

図工や家庭科の授業では、全て口頭でやることを指示されるため、ついて行けず友人にやってもらって事なきを得る、ということが多々あった。
また、組み立て方などの説明書を見ながら行う図工の授業なども、見ても全くわからず、隣の人に手伝ってもらうことが多かった。

今になって思えば、人より非常にトロくなってしまう場面があった。
友人に手伝ってもらうため成績上は問題なかった。聞いたことがイメージできなくて頭に入ってこないという現象は、おそらく小学生の頃からあったと思われる。

中学生

人間関係は全く問題なかった。ワイワイはしゃぐタイプでありいわゆる陽キャだったと思う。また下記の特徴はあったものの、テストの点数は結構良くて、感覚でなんとかなっていた時期だった。

特徴ははっきりと出た。授業中、板書はできるが、口頭で言われたことをイメージできずにノートがとれない、メモれないということが頻繁に起きた。また、口頭で指示される音楽の授業や技術科といわれれる工作の授業、などは小学生の時と同じで、よく手順が分からずに全力で友人に頼っていた。同樣に説明書を見ながら行うという作業が全然できず。(図が読めない?)

ただ、基本的に特に国語や社会、英語などは重要なことは板書されているので、どうにかなっていた。

親には「聞いているのか聞いていないのかわからない」「聞いているのに返事をしない」「聞いた内容を理解しているのかわからない」と言われることも継続して起こっていた。

部活はテニス部で、当然顧問による口頭指示もあったが、一切聞かずに感覚でやっていため、困難はなかった。

運動神経は結構良い方だった。

高校

地元にある7校のうち、上から3番目の高校に進学。

基本的には中学校のときと同様だが、板書しない授業が増え
(重要んだと思うことは自分でメモれという自主性の強い学校)
ノートはほぼ真っ白ということもあった。

まとめるにしても何を書こうと悩んだ結果かけない。これが基本だった。
自宅である程度勉強するも空振りをして成績は上がらず。
ついには赤点を取るようになり、赤点の件で親と高校に行き先生と面談することもあった。

部活はバドミントンをやっていたが、関東大会常連の強豪校だった。なので部外の顧問やOBたちの指導が増えた。口頭指導で個性的なアイデアあふれる指導を行ってくるため、やはり内容が入ってこず、あれやってこれやってという並行作業が全くできなかった。

フリーズしてしまうようになった。その件で「お前は頭が悪い」と顧問から言われたこともあり、当時は異性に敏感だったが、女子のバド部にも笑われることがあり、これが個人的に相当ショックなことだった。
もちろんバド部は1年で辞めた。

こんなこともあり、思春期でもあったので馬鹿にされることを恐れ一人で過ごすことが増えた。高校2年からはクラスで友人もいなかったし、昼飯は図書館で食ってた。今でもトラウマである。けども、中学校の友人とはつながっていたため、なんとか最悪なメンタルにならずには過ごせたのだった。

正直高校時代の友人は一人もいないし、SNSでつながってもいない。
自分のコンプレックスの1つであった。
抹消したい黒歴史である。

大学生(2005-2009.3)

高校で赤点は取ったものの、化学が大好きだった。化学の点数が重視されるとある大学の2次試験を受け、奇跡的に受かった俺は、この大学が地方の大学ということを知り、急遽一人暮らしをすることになった。

バイトでの挫折

バイトを大学1年の後半から始めた。
先輩に誘われてコンビニのバイトだった。正直、やることいっぱいあるので拒否したのだが、「俺が面倒見てやるから」ということで嫌々だったがコンビニバイトを始めた。が、作業を覚えることができず、レジではてんぱってしまい、レジ待ちが2人もいると焦ってしまいかなり使い物にならなくて2週間で辞めた。

ただ買いたいものがあり、そのためにサイゼリアの接客もやったが、注文を間違えることが多々あり、これも仲間に笑われたことでいづらくなり、1カ月で辞めた。

口頭指示が困難ということもあったが、それ以外にも並行作業ができなかったり、順序立てて整理できなかったり、予想外のことでフリーズしたりすることを発見した。

これが自分は知的障害かもしれないと思った決定的要因だった。
ただ、そんなこと友人に打ち明けたら引かれるだろうし、親に行ったところで親不孝になるとも思ったのでその考えを捨てた。

これを経験したことで、俺は社会人生活ができないのではないかと考え始めた。ただ前向きにはとらえていて、なにだったらうまくいくんだろうと考えた結果が時計屋の修理のバイトだった。
ここでは、接客があるものの技術研修もあり、文章でマニュアル化されていて、基本的には黙々と修理していればいい。これが当たり、1年と半年ほど続けていけた。

そんな中で、もし就職したらどんなことをやればいいか考えていた。
やはり黙々と作業できると噂のIT系しかないんじゃないかと。
完全にイメージの世界だったが、時計のバイト経験から、IT系に突如経路を生み出したのである。ここからLinuxを触ったり、JAVAスクリプトをいじったりを始めたのだった。

教習所での挫折

教官の口頭指示が理解できないのと、視覚から瞬時に判断できず頭が真っ白になり。教習所内で事故を起こしてしまった。信号機に激突。
これが原因で、教員から笑われるようになり、そこから生徒に話が伝わり、高校生にも馬鹿にされたことで行けなくなってしまい、これがトラウマとなった。

講義やサークル活動について

専攻は海洋物理で、気象学について学んでいた。
海流の流体力学とか、猛暑が起こる仕組み、海洋のゴミがたまる仕組み、温暖化が進むとどうなるか、コリオリ力の実験とか偏西風の実験とか。
エルニーニョ/ラニーニャの仕組みとか。
気象関係の民間企業に就職するのかな?というイメージはあったが
当時過労死問題があってビビッて進路を変更した。
マニアックな知識だけが残っているね。
大学単位については、自分のペースで勉強できたのでなんとかなった。

自分の性質について本当に悩んでいたのだが、大学の仲間との関係は良好だった。サークルにもすぐに適応し、楽しく過ごせた。

慕ってくれる後輩もいて、それはそれで複雑だった。自分の特性がバレたときにどういう反応をされるのか。いつも恐怖だった。

異性について

高校は最悪でいい思い出はない。だが大学ではある程度モテていたかな。
自分の性質に真剣に悩みながらも異性と付き合っていて、複雑だった。
いつ自分の本性がバレてしまうんだろうと。

就職活動(2008)

バイトの経験をしてよかった。発達障害者においてバイトは鬼門だと思う。
仕事ができないことにより、人間関係にヒビが入りそれがトラウマになるという定石を経験している人が多い。仕事内容よりも人間関係にヒビが入るという恐怖。これを克服するためには、いろいろ経験して自分の特性を知らないといけない。

2008年当時は、ブラック企業という言葉が2ちゃんねる界隈をにぎわせていて、2ちゃんねるのブラック企業ランキングをよく見ていた。そこでイークラシスという伝説のブラック企業の存在を知り、戦々恐々としていた。
新人研修で穴掘りをさせられ、ビリだったグループは夕食もでないような研修が世の中にはあるのかと。

IT企業のプログラマ1本で絞って就活をした。もうこれしか道はないなと。バイトの経験から導かれた結論だった。

2008年当時は超売手市場だったため、就職活動開始から1か月後の4月にアッサリと決まってしまった。しかもIT大手だった。
ゼミでは一番手に決まったし、大手だったので
本当に助かったよ。リーマンショック前でね。
なので就職活動で苦労したことは何もないんだよね。

ここまでの時点で発達障害という言葉を知らない。
知るのは社会人になってから。
このIT業界の選択が甘かったことに気づくのである。(続く)





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?