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『娼年』(2018年) 映画評

※この文章は2018年4月に書いたものです。

<人はソレなしでは生きられない>


「娼年」は分かりやすいくらいにセンセーショナルな映画だ。押しも押されぬ人気イケメン俳優の松坂桃李が男娼を演じ、次々と中年女性と情事を重ねていく。しかもその濡れ場は昼メロのように象徴的で美しく撮られてはいない。やたらとリアルで生々しく、だからこそ滑稽だ。


しかもその多くはアブノーマルだ。視姦プレイ、放尿プレイ、N T Rにハメ撮り、さらには男同士のオーラルセックスなど書いているだけでどうかしている内容を役者がまさしく体当たりで演じている。何しろ映画のファーストカットはいきなり松坂桃李の生ケツへのズームアップで始まるのだ。以降も桃李クンの尻は何回もアップで映り、ゾワっと鳥肌が立っていることが確認できるくらいである。桃李クンは絡む女優の胸をわしづかみにしては乳首を吸うし、それだけでなく自分も責められて恍惚の表情を浮かべて喘ぎ声を発するのである。


 僕は一人でこの作品を観たが、館内の8割は女性客だった。上映後のリアクションの多くは「凄かったね…」みたいな言葉に詰まる感じ。まぁそりゃそうだ。局部が映らないだけで、上映時間のほとんどは松坂桃李が誰かとセックスをしているのだから。映画館中に喘ぎ声やらセックスの生々しい音が響くので、誰かと見るのは超気まずいだろう。
 実際に松坂桃李が凄かったのは間違いない。恐らく今年の映画賞レースを総ナメするだろう。あと西岡徳馬の助演男優賞もあるかもな笑。「おかげでいい画が撮れたよ」というキラーワードには今年一番笑わせてもらった。

(※結局、松坂桃李は2018年の賞レースを確かに総ナメした。しかしそれは本作ではなく、主に『孤狼の血』の演技が評価されてのものだった)


<序盤の今すぐセックスしたいっていう表情の切実な感じが凄くリアルだった松坂桃李>


 「娼年」は石田衣良の原作小説を劇作家の三浦大輔が戯曲化し、今回映画化された。冒頭お断りしておくと僕は石田衣良の原作も読んでいないし話題になっていたのは知ってたけど舞台版の「娼年」も観ていない。なので比較したり原作との相違点を検証することはしない。(ちなみに舞台版だと咲良役は佐津川愛美で静香役は高岡早紀と、映画より豪華じゃん笑!)


 原作は読んでないけど、石田衣良という作者は僕にとっては重要な作家だ。初めて好きになった小説が「池袋ウエストゲートパーク」シリーズだった。小難しさゼロで読みやすくて短くて、そして何よりも「ザ・中2病」だった。僕が思う石田衣良の作家性は中2病だ。


「バカで不器用な俺だけど、世の中のズル賢い大人タチのシステムに組み込まれんのだけはマジ勘弁。地元のダチ最高、小ちゃなコミュニティだと思ってナメんなよ。俺たちが世界変えっからさ。でも一番怖いのはやっぱ母―ちゃん。これだけは頭上がんねーわ」


池袋ウエストゲートパークという作品を説明するなら、ほぼこんな感じ。こういう語り口が当時中学生だった僕の心にとにかく刺さったのだ。あと当時石田衣良はR25の巻末にコラムを書いていて、これも下校の電車内でよく読んでいた。僕にとってのメンターだったのだ。


「娼年」にもやはり石田衣良らしさが詰まっている。男娼というアウトサイダーを描きながら女性讃歌するような内容は実にカウンター精神に溢れているし、一方で「俺が考えた脳内世界」を前提とした荒唐無稽さはもはやSFだ。
だけど映画「娼年」はやはり石田衣良の作家性よりも監督 三浦大輔の作家性の方が如実に現れているし、これはやっぱり三浦さんの作品だな〜とハッキリと感じられる。

<三浦大輔監督の作家性>


 彼が常に向き合ってきたテーマは「人間がどうしても逆らえないもの」だ。言い換えるならば「性欲と夢」である。
 まず性欲というのは動物的な本能として湧き上がるものであり、生理的な欲求だ。心理学者マズローによると最も次元の低い欲求とされている。ところが次元が低いからこそ、私たちは恐らくず〜っと長きにわたって自らの性欲を満たし続けなければならないのだ。


2014年の映画「愛の渦」は裏風俗を舞台にした、ある一夜の男女10人の群像劇だ。 昼間は社会の中でそれぞれに与えられた役を演じている彼らは、夜になると裸になって本能の赴くままに相手を取っ替え引っ替えしてセックスしまくる。しかし夜が明けて朝が来ると再び社会の歯車の一部に戻ることを選び、皆が自らのむきだしの欲望にフタをするように帰っていく。


この時から三浦監督はセックスを俯瞰的にみた時の滑稽さを上手く映像化していた。「愛の渦」を観ていると人間って本当にしょうもなくて情けなくてどうしようもなくて…「性欲を取り外したい時にサッと取り外せたらどんなに良いかな〜」なんて心の底から思ってしまう。ちなみにこの作品はこの年の僕のベストワンに選ばせて頂いた。それぐらい大好きな作品なのでまだ観ていないという方には是非お勧めしたい。それぐらい日本映画史に残る傑作だと思っている。


 もう一つ人間が逆らえないのが「夢」である。これは自我とか自意識に言い換えてもいいと思う。これはマズローの欲求5段階説の中では最も高次元なものに位置付けられている。社会から認められたいとか尊敬されたいという気持ちや、自分の能力が引き出される創作活動がしたいという欲求である。ここまで言えばお分かりだろう。三浦監督の前作「何者」はまさにそういう話だった。

朝井リョウの直木賞受賞作が原作の、大学生の男女が就職活動を通じて自分たちを見つめ直していく青春映画だ。
 映画「何者」は原作にはないオリジナルシーンが中盤に挿入される。黒いスーツに身を包んだ就活生たちが面接で志望動機を答える映像と、同年代の劇団員の男女が「演劇と出会ったことで人生が救われた」という内容のスピーチを涙ながらに舞台上で語る映像が対比される。面白いのは「嘘」を見せる演劇で役者たちが語る自分の想いは本当なのに、就活生たちが語る志望動機は「嘘」で本心ではないということ。何とも意地悪だが、ここにこそ三浦さんのメッセージが凝縮されている。

つまり三浦さんは「やりたくもない仕事のために働く」ことや「とりあえずいい企業に入るための就職活動」よりも「自分が本当に好きなことに生涯を捧げる」ことにこそ人生の意味があると考えているのだ。「夢があるからこそ、人は生きていけるのでは?」という切実な問いかけがなされているシーンといえる。


「愛の渦」「何者」どちらの作品にも共通しているのは「他者には共感されないかもしれない」という不安だ。特殊な性癖、「ヤりたい」という思いのために見ず知らずの人間を抱く/抱かれてもいいという気持ち、それは友人や職場の同僚からは理解されるのだろうか?

大学のサークルレベルでも面白い戯曲を書けない俺が演劇の道で食ベていくなんて言ったら、みんな「現実見ろよ」って嘲笑するに決まってるよな…そういう「理解されないこと」が、だけども当人にとっては生きる原動力になっている。そういうキャラクターが物語の中心を担うのが三浦大輔的世界観ではないだろうか。


それは今回の「娼年」も共通している。というかリョウの通う大学は高田馬場にあるので早稲田大学をモデルにしていると思われる(政治経済学部だし)。「何者」もモデルになったのは朝井リョウの母校の早稲田なので、この2作は表裏一体なのだ。実際に「娼年」のリョウは大学3年生で就活を控えているし、「真っ当な就職」か出来るかどうかで友人と議論するなど、明らかに「何者」を意識したセリフも何度か登場する。


場所の地名がやたらとスーパーされるのは物語全体の実在感を高めるための演出だ。雑踏のどこかにリョウたちのような人が暮らしているかもしれないと観客に思わせるため、街のカットは本当にその場所でロケ撮影している。

逆にリョウが街を歩く人達を見つめる1人称カットが多用されるが、これも自分の仕事が「他者に共感されないだろう」という自意識を象徴しつつ、観客の私達に向けられている視線のようにも感じられるのである。


「娼年」は全く感情移入出来る作品ではない。性的倒錯者が次々に現れて変態性を爆発させる見世物小屋みたいな映画である。この作品はスクリーンと座席の間に白線を引いて、「ほら、こっちに飛び込んでこいよ!」と挑発しているかのよう。その白線は常識とか倫理みたいな私達の頭の中に刷り込まれてしまったものだと思う。


 そしてここで大事なことは、映画が挑発し私達の考えを揺さぶろうとすることに説得される必要はないということだ。「気持ち悪い」「不快だ」と思う人がいて当然だし、僕は何度も大爆笑はしたけども決して「その通りだ」なんて思わなかった。ここで大事なことは「共感」を「超える」という感覚なのだ。

<共感を超えるということ>


直木賞作家の西加奈子さんが数年前にN H K「あさイチ」のプレミアムトークに出演した時に話していたことだが、

近年はよく「共感出来る素晴らしい作品」とか「共感出来なかったのでつまらなかった」という感想を聞くんだけど、それは違うと思っている。共感出来るかどうかというのはあくまでも1つの指標であり、共感出来ることがいい作品なのだとしたら単なる「あるあるネタ」になってしまう。そうではなく共感を超えた先に本当の面白さがあるのではないか、私はそこを目指して書いている。


(※あくまでも要約であり、おこしではありません)


 これはまさに「娼年」という物語にも呼応するような呼びかけだと思う。「娼年」はおよそ共感出来ないからこそ爆笑できたり、「ウエッ」と顔をしかめたりジェットコースターのように楽しめるし、ラストの30分くらいから言語化出来ないような狐につままれた感覚になる。もし自分がこの環境に置かれたらどうするだろうとか、このキャラクターは今どんなことを感じているのだろう?ということばかりを考えるのだ。分かってあげたいんだけど今の僕には答えが出せない…そんな余韻がいつまでも続く作品だった。

<性欲と夢、その葛藤>


 
 三浦監督の作家生が「人間が逆らえないものを描く」ことであるならば、今回の作品は「愛の渦」と同じく「性欲」を抜きに人間は生きてはいけないという話なのかというと、どうもそれだけではない気がする。そこに「何者」のテーマだった「夢」という要素も絡み合っている。まず冒頭からいきなりリョウが行きずりの女とセックスした後に亡き母との最後の思い出の夢を見て涙を流す。リョウは母の死という呪縛に囚われていて、それが原因で恋愛感情みたいなものが欠落している。

彼の中でセックスと恋愛は分離しているし、女性は「つまらない」と見下している。ところが静香に自分の母を重ねることでリョウは変化していく。彼女から母親のように「よく出来ました」と褒められ、リョウは静香に憧れを抱く。それは母親への愛情と恋愛感情が混ざった近親相姦にも近い歪んだものだが、それがリョウの性的嗜好なのだ。ところがリョウの想いを静香は拒絶する。ここでリョウの「性欲」と「夢」が真っ向からぶつかり合う。

 また「性欲」と「夢」の衝突によって本作で一番辛い体験をするのはリョウに密かに好意を寄せる大学の同級生のメグミだろう。実は観客が最も感情移入出来るとすればこのキャラクターなのではないだろうか。メグミは好きな人以外とセックスをするのはとても汚らわしいことだと思っていて、最高のセックスは互いの愛情があってこそのものだと考えている。ところがリョウからお前は恋愛対象ではないと断言されて、ショックで友人でホストのシンヤと寝てしまう。その後、リョウを買って「私を抱いて」とリョウに迫るのだ。
 好きでもない男シンヤとのセックスと、ずっと想いを寄せていたリョウとのセックスにどんな違いがあるのかを確かめたいというメグミ。ところがリョウはあくまでもメグミを「客」として扱う。だから彼のセックスの体位はAVのようにアクロバティックだし、メグミを手淫で潮吹きさせたりするのだ。メグミの体を悦ばせるために。
 でもそれはメグミが望んでいたことではない。彼女はリョウに自分のことを好きになってほしかっただけだ。本当に好きな人が自分に愛情を持った時のセックスを知りたかっただけだ。だからその気がないリョウという相手とだけは絶対に体を交えてはいけなかった。メグミの憧れ、「夢」は完全に崩れてしまう。泣きながらリョウに抱かれるメグミの切なさは筆舌に尽くしがたい。だけどこの映画では語られないけど、やはり愛のあるセックスが一番素晴らしいものだと思う。メグミにはいつかそういう相手が出来ることを願ってやまない。


 リョウが果てるとメグミは寂しそうに呟く。「リョウくんはもう私たちとは違う世界の住人なんだね」と。まさに引かれた白線の手前側にいる人の代表がメグミであり、リョウはそんなメグミを残して向こう側の世界に引き寄せられるかのように静香と咲良の所へ向かう。このクライマックスは2015年の映画「セッション」のクライマックスのコンサートシーンで、主人公のアンドリューが父親の説得を無視して鬼コーチのフレッチャーの下に向かう場面を彷彿とさせた。まさに悪魔と契りを交わすようにリョウも愛を求めていく…そして物語最後でリョウは再び男娼を再開する。世の女性たちに「夢」を売るために「体」を売る。そうやって生きる道を選ぶのである。


<リョウを買う女性たち 全員の体当たりな演技>


 最後に良かったのは何といっても濡れ場だけど、特に最初のリョウと咲良の絡み。ここはリョウのセックスが独りよがりでダメだということを分からせなければならないのだが、無茶苦茶笑った笑。とりあえずココとココ責めて、コレしたらコレで〜みたいなやっつけ感と、それを厳しく採点する静香の構図が秀逸。本作は男が観ても興奮出来ないどころか、「ちゃんと相手を満足させましょうね」と壮大な説教をされている感じ。あとは前述したように潮吹きとか口内○精とか、描写がことごとく振り切ってるけど、必ず急にショットがルーズになったり俯瞰になって行われていることの滑稽さを強調するバランス感覚が素晴らしい。だからAVとは全然違いますね。エロが画面中にあるのに、それ目的では全く見れないように工夫がなされている。


 ただ残念だったこととしてまず前戯の手淫描写なんだけど、あんなにガシガシやったら痛いだろ!(俺は男なので分かりませんが)他のセックス描写のリアリティが高かった分、そこが気になった。
 あとはシーンとシーンの間の切り替えが急すぎて上手く繋がってなかった印象がどうしてもある。本来小説はリョウが客と次々にセックスしていく間に、リョウと静香の関係性やリョウとメグミの関係性の変化も情報として回収されているはずなんだけど、映画だとそこが全部ジャンプしているから、クライマックスで静香とかメグミとのやり取りがどうしても唐突に感じられるというか、なぜ関係性が変化したのかが説明足りてない感が否めなかった。
 ともあれ、やはりちゃんとした監督が撮ればこんなにも凄いもの・面白いものが日本でも出来るんだということ。三浦監督が追求し続ける「人はソレなしでは生きられない」―僕の場合、ソレはやはり映画なんです。今後の三浦監督の活躍に期待しながら、映画館で映画を浴びるように観る日々が今後も続いていく。


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福岡在住。映画の感想など。
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