不登校の問題点

 全部に対して言えることじゃないんだけど、不登校の何が問題って「他責思考」が標準化しちゃうことだと思うのよ。

 自分の場合、不登校って母親に対して「お前のせいでこうなった」と見せつけるために学校に行かないことにしたわけだな。

 そこには自分自身のプライドもあるし、甘えもあるわけだ。それを自覚しろって言うのはめちゃくちゃ難しいんだけどね。

 けど、結局はそこ。両親のせいにしようが、学校のせいにしようがなにしようが、逃れられない。

 素直に自分の能力を受け入れるしかない。つめたい言い方をすると「その程度だった」を受け入れる。

 これができると、他を責めても仕方がないことに気づく。あとは自分がどうしたいかに帰結する。

 学力を伸ばしたければ勉強する。彼女がほしければ身だしなみを気にする。部活で活躍したければ練習する。こういった行動を起こしていく他ない。

 こういう結論に至ったのは、人生において色々考えていたし自分を振り返っていたから。当時の自分には無理だとおもう。

 だからこそ、親のサポートがあるとより良い結果が生まれたと思う。

 他責思考が不登校の問題なら、他責思考がどういったことをもたらすのかでいうと

自分の成長の機会を逃す。

 これに尽きるんじゃないかなって思うよ。自分に起きた問題なのに、その原因を外に見出してるから改善しようにもできないので、せっかくの成長がそこでストップしちゃうんだよね。

 これ別に不登校に限らず、大人にもこういう人っているんですよ。

 別に成長することがいいことではないし、成長が止まることがダメってわけでもない。だから極論好きにすればいいんだけど、この記事見てるってことは「このままじゃいかん。どうにかせねば。」と思ってるわけだよね。

 だったら、自分の不登校の理由を外に求め続けるのは成長を止めてしまうからやめる必要がある。

 代わりに自分の中に原因を見出してみる。その時に湧き上がる思いはどんな内容であれ蓋をする必要はない。ボクも母親に対して「○ねばいい」と思ったし、本人に言った。そんなことでも蓋をする必要がないのというのは、自分が感じたことだから。

 包丁で手を切ったら「痛っ!」ってなるよね。それと同じこと。痛いと感じたのは揺るぎない事実だから蓋をする必要はない。

 蓋をする必要はないからって直接言ってみた。学んだ事がある。「言っても何も変わらない」ということ。

 重要なのは「○ねばいい」と言わせるほど、あなたは私にひどい事をした。という自分の思いに気付けるかどうか。

 「○ねばいい」ってのは本当にそう思っているというより「それだけ私は悲しいのだ」を表す手段なわけだ。

 そっちを自覚したり伝えないと本当の理解は生まれない。だから、言っても意味がないんだ。

 だから、どう足掻いても不登校の原因は(全てじゃないけど)自分にあるんだ。

 自分がスイッチを押したから電気が付いたのに、私は何もしていない。壊れているんだ。幽霊がいるんだ。といってもどうにもならないよね。

 これは、不登校じゃない人にも言えることなんだなぁ。他人のせいにしたってどうにもならん。そのエネルギーがあるなら自分のために使ったほうがいい。もったいなさ過ぎる…。

 あなたの、たった70年程度の時間という限られたエネルギーを、他人のせいにするというエネルギーに変換してしまうなんて、本当にもったいない。

 だからこそ不登校の問題点である「他責思考」をやめて、自分のために自分のエネルギーを使ってみてほしい

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