コロナ・不確実性・親方日の丸的発想・数の暴力(の正当化)

最近世界を不安におののかせているコロナウィルス。
私も例にもれず,不安におののいている一人の小市民です。
しかし,最近どうしても違和感を禁じざるを得なかったことがあったので,ここに書いておきます。

(1)コロナと不確実性

いきなりとっつきにくいタイトルですが,くだんのコロナって,まさにこれだと思うので,タイトルにしました。定義は本当は色々あるみたいですが,私のいる業界では,不確実性というのは目的を達成するのに本来必要な情報と,手元にある情報のギャップのことだと言われることがよくあります(Galbraith 1973)。ごく粗っぽく言ってしまえば,情報が足りなくてどうしたら良いかわからないレベルを不確実性って言ってます。

今のコロナの問題って,まさにこれだと思ってます。
人類にとって初めての敵。いつになったら収まるかわからない。
ちなみにこの不確実性ってやつ,リスクとは別物です。リスクは降水確率のように,物事がどうかなる可能性がある程度わかっている状態で,そうなる可能性があること自体事前にわからないのが不確実性です。この違いは,100年ほど前にナイトという経済学者が定義してます(Knight 1921)。

で,なんでこんな話をしようと思ったのか。
それは,最近,
①日本社会が不確実性を嫌がる傾向の強さ(Hofstede 1980)をひしひしと感じたと同時に,
②そこに付け込んだ言葉の暴力が蔓延していることに危機感を覚えた
からです。

(2)不確実性と親方日の丸的発想

①は,今朝やっていたワイドショーを見て思ったこと。
あるコメンテーターが,政府のコロナ対応について,「これではいつまで我慢すれば良いのかわからないので,具体的に示してほしい」という趣旨の発言をしたのです。

ちょっと待ってください。
人類初の経験なので,政府だってわからないのです。
わからないので,せめて現時点でパンデミック回避に確実に貢献すると思われることを呼び掛けているのです。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000164708_00001.html#kokumin
全国ネットの番組で,そんなこと言われても困る。

不確実性には,今手元にある情報をもとに,確実に良いと思われることを全力で行って,対処するしかないのです。
あなたたちは,大地震で津波が来たら,何時に何メートルの津波が来て何平方キロメートルの家屋がやられるか示してくれないと困る,と言うのか?

コントロールできない現象には,コントロールできる範囲のことをもって対処するしかない。コントロールできる範囲を最大限に広げるには,情報を最大限に収集するしかない。そのためには,難しいだのなんだの言わずに,専門家のアドバイスを最大限収集して,精一杯の善処を行うしかない。我々はそういう気概を持つべきではないでしょうか。

分からないことを分からないと言うことを許さない態度は,官公庁の不祥事等の際に往々にしてネタとなる,親方日の丸の発想ではないでしょうか。自分で調べ思考することを放棄するという,依存心の塊です。

こうした政府の情報発信を具体性に欠けるとして批判するコメンテーターの態度も,同様のように思います。
むしろ,個別具体的な状況は,地域によって,組織によって異なるのだから,個々で考えるべきです。
方針が示されないならいざ知らず,「具体性がない」という叩き方は,親方日の丸の発想です。この態度は,極論すれば「私の首の上に付いているのはキノコです」と言っているようなものです。

因みに私は政府の回し者では全くありません。むしろ,これまでは安倍政権の政策には批判的なことが多かった人間です。
それでも,政府の対応よりもはるかに,今回のコロナをめぐるメディアの対応に対して,違和感を禁じ得ませんでした。

(3)数の暴力の正当化

もう一つ,違和感を禁じえなかったことがあります。
私の拠点である広島で初めてコロナ陽性者が出たときのことです。
記者会見をしていた市長に,3度くらい食い下がった記者がいました。
その質問内容は,

「陽性者の子供が通っている小学校は?」

市長は必死で回答を拒否していました。
この記者は,こんな情報が流れたら,何が起きるのか,義務教育を終えていたら簡単に想像できるはずなのですが。。。

別のコロナ関連の記者会見では,個人やその所属(地域,組織など)の特定に結びつくような情報の提供を要求して拒否された記者がこんなことを言って食い下がっていました。

「市民が不安がってるんですよ」

そこに何も根拠はない。
もっとも,ここでコロナ感染者を悪者にすれば,気持ち良いだろう。

しかし,ただそれだけです。
「罹患していない市民が多数派で,患者が少数派なら,特に自らの不手際によって患者となった者は,魔女狩りの刑に処するべきである」
この精神構造は,数の暴力を背景として,魔女狩りを正当化しようとするもの以外の何物でもない。

ここに欠如しているのは,私が今更言うまでもないでしょうが,自らが魔女となる可能性への考慮と,監視社会の促進です。
こんな精神構造のもとで子供のイジメ問題が語られても,何も説得力を覚えないのは私だけでしょうか。

約80年前にも,意識的にか無意識的にか,メディアが開戦ムードの醸成に加担した可能性すら論じられているにもかかわらず(例えば,以下の前坂(2005)),いまだに数の暴力の恐ろしさが個々の記者によって自覚されていないのだとすれば,実に嘆かわしいことです。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/mscom/66/0/66_5/_pdf

そして,これはメディアだけではない。
コロナ患者が出ると,必ず口汚く叩く者がSNSに出てきます。
SNSで発言をする限り,誰もが数の暴力に加担する可能性がある。
意図していなくとも(意図していたら悪質この上ないけれども),リツイートされまくれば,これは数の暴力として機能し,同時にこの数の暴力は正当化されていくわけです。

こういうものを見るたびに,歴史を学んでいないというのはこういうことなのかと感じています。
こういいながら,私自身の歴史の理解も,半人前だなと思うところはあります。

が,こうした数の暴力無意識的肯定論とでもいうような発想が改善されない限り,歴史の悲劇は繰り返されるのだろうと考えているところです。

歴史を学ぶことは本来,誰もが安心して住める日本社会を築いていくための礎石なのかもしれません。
しかし残念ながら,その意味で歴史を学んでいる人はまだまだ少ない。
少なくとも,数の暴力が容易に形成されるほどには少ない。

今回のコロナ騒動を通じて,私個人は,安心して住める社会の形成を阻害することのないよう,自らの想像力を広げる努力を続けていかねばと考えさせられました。そして,そのためには本当の意味で歴史を学ばなければならないと。

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