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ヨットの話

おいらの大学生時代、スペースデザイン科という環境デザインを主に勉強するクラスに属していました。愛知芸大最初の2年はデザイン科の課題はみんな同じだったけれど、後半の2年はスペースデザイン科、メディアデザイン科、プロダクトデザイン科、グラフィックデザイン科に分かれるシステムでした。それで大学2年生の時に後半の2年の選択をどうしようかと思っていた頃、学園祭でお店(DJクラブ)を出してポストカードなどのオリジナル製品の販売もしていたら、スペースデザイン科の助教授の野田先生が「小野君はすごいねえ、自分の写真を製品にしたりして、発想が面白いねえ、ウチのスペースデザイン科は自由だから合ってると思うよ。」とおだてられ、スペースデザイン科に入ることにしたのです。

当時の愛知芸大のスペースデザイン科の教授は林先生でしたが、確か入学時は建畠(嘉門)先生が教授でした。その建畠先生が学長になったのでおいらの時には林先生が教授になったところでした。この林先生はアルファロメオのオープンカーに乗り、オールバックでとてもダンディな先生でした。先生は講義で「イタリアではデザイナーはみんなヨットを持っていて、週末にはみんな海や湖で船に乗る」と言っていました。当時はそんなものかと思っていたけれど、イタリアに住み始めて、未だにヨットを所有してるデザイナーの知り合いが出来ません。おいらの知ってる人達は「友達のクライアント企業の社長の船に乗ってバカンスしたことならある」という感じの人ばかり。週末になると海に行く人とか、バカンスに数週間海に行く人はデザイナーに限らずイタリアでは当たり前の話なのですけれどね。

さて、おいらはこの林先生とはあまり馬が合わず、先生にはお気に入りの優等生の学生がいました。優等生の夏目君に比べれば「小野君は課題の作業も学校でやらず下宿でやる傾向があるし、バイトばかりしてバンドとかやってなかなか学業に集中できてないじゃないか」ということだったのでしょう。それで、課題の講評の時もおいらのことはあまり褒めてくれないで、夏目君のことはよく褒めていました。実は当時、おいらは夏目君の仕事には全く興味がわかなかったので、そういう評価もあまり気にしていませんでした。でも、既にクラスの担任ではなくっていた建畠学長が講評の様子を見に来て、教授のコメントの後に「それじゃあ、学長からも何かコメントを」なんて教授から言われると、建畠学長は「小野君は前にもあんな仕事をしていたけれど、この課題も直ぐに小野君の仕事だって分かるから、こういう感じの仕事が好きなんだね。個性ある仕事ができるのはいいことです。」と褒めてくれるのです。おいらは「分かる人は分かってくれる」ということが分かりました。

さて、卒業する年にデザイン科の生徒の作品は愛知県立美術館の部屋に展示され卒業制作展となり一般公開されます。展示が出来て公開される初日に作品の前で最後の講評が行われます。デザイン科の学生は自分が決めたテーマの作品、プロジェクトのプロトタイプを展示するのだけれど、当時のおいらはまだ自分がどういうどういうカテゴリーの仕事をするべきなのか、まだはっきりとしたイメージがなかったので、とりあえず今現在の自分自身を「等身大で」インスタレーションしようという、ちょっと一般の学生からははみ出た卒業制作をしたのです。大きなパネルにポスターと実物大の張りぼてヒロシのオブジェの展示をしました。デザイン科の生徒としてはあまり褒められたテーマではないけれど、まあ、当時の自分にはそういう表現が一番しっくり来たのです。タイトルは「Here I am」頭の中ではプリンスのGett Offが流れていました。

さて、講評当日、林先生は順番にクラスの生徒の作品にコメントをしていきますが、おいらの作品で「これは小野君は何がしたかったのだろうね」みたいなコメントをしていたら、その日も講評を見学していた建畠学長が割って入り「いやいや、こういうアート志向な作品は中途半端になりがちだけれど、小野君の作品はやりきっているしグラフィック表現も高いレベルでまとめてあるし、これはこれでいいんだよ。」と強く言うので林先生はへたれてうやむやにおいらの講評は終わりました。当時は学長が一番のおいらのファンだったようです。

さて、卒業制作展は他のクラスメイトと一緒に済ませましたが、実は一般学科で単位が足りないマスがあり、おいらは3月に卒業できませんでした。足りない単位は夏休みの集中講義でリカバーできるというので、夏に無事単位を取って8月末に卒業ということになりました。元々卒業して1年間バイトで貯金してイタリアに行くと決めていたこともあり、夏に単位が取れて卒業出来れば特に困ることはありませんでした。この年度途中で卒業する生徒は毎年数人いるそうなんですが、おいらの年は二人だけ、そして卒業証書を渡してくれる卒業式を学長室で行うと連絡がありました。ありがたいよね。当日学長室へ行くともう一人の生徒が交通事故で遅れるという話で、おいらは一人で学長とデザイン科主任の教授の二人とテーブルを挟んで座って超VIP待遇卒業式をしてもらいました。当時デザイン課主任教授だったグラフィックの片岡修先生とは学校ではほとんど接点がなかったのだけれど、実はおいらの仲良しだった藤が丘のBARへ愛知芸大の先生も時々行っていて、片岡さんも時々顔を出していたらしい。他の先生とはお店で顔を合わせることもあり、(デザイン科の)長谷川先生には「おやおや、小野君、君とは学校では顔を合わせないのに、こういうところでばかり顔を合わせるじゃないか、よろしくありませんなあ、ねえ、マスター」なんて楽しくやっていたんですけれどね。そういえば、学食でおいらに「お、小野君じゃないか、知ってるの?小野君は単位が足りないらしいぜ、卒業できないらしいぜ、ちょっと事務室に行って聞いておいでよ」と教えてくれたのも長谷川先生でした。あれは生徒と先生の関係ではなく、飲み仲間の関係だったのかもしれない。

話を卒業式に戻し、無事卒業式がすんで学食へ移動したところに遅れてもう一人の卒業生が到着し、学長と一緒に大学で最後のランチを食べました。そうしたら、卒業の話をどこかで聞いた後輩たちが花束を持ってお祝いにテーブルへきてくれたりしたのも覚えています。学長にはイタリアに行ってどこかでミラノの事務所のデザインの仕事の仕方を見てきたいと言うと「それはいいね」と応援してくれました。建畠学長はデザインを学ぶならアメリカのクランブルック アカデミー オブ アーツに留学するのが一番だと言う人で、日本の学生も海外で学ぶ人がもっと増えればいいのにという立場でした。

さて、卒業式の日、おいらと馬が合わなかった林先生からも教授室を訪ねるようにと誰からだったか伝言があったので、挨拶に行くと「聞いた話では小野君はイタリアに行くらしいね。イタリアは学生でもデザイン事務所がインターンといって数か月仕事を体験させてくれるシステムがあるからどこか受け入れてくれるかもしれない。どんどんチャレンジしてみるといい」とアドヴァイスをしてくれました。

そうしてミラノにやって来て、インターンでもいいからイタリアのデザインの仕事を現場で見てみたいと思っていたら、給料払って雇ってくれるという事務所があるので、デザイナーとしてのキャリアが始まりました。その辺りの話は別のところに書いてあるので端折りますが、独立してイタリア在住も15年を過ぎた頃、現在はアメリカに住む大学時代の友人から連絡がありました。優等生の夏目君です。「ミラノ出張に行くから、時間があればよかったら一緒に食事でもしよう」ということで、卒業以来の再会を祝して乾杯しました。

実は、おいらがミラノで仕事を始めた頃、仕事をしていた事務所の日本の雑誌記事で写真が掲載されたりすると、同じ雑誌の別の記事でアメリカの大手デザイン事務所で働く夏目君も写真が掲載されている偶然が何度かあったので、お互い外国でデザインの仕事をしていることは知っていたのです。日本のAXISでも記事が並んでいたはず。

彼は優等生らしく大学院終了後に建畠学長が勧めていたアメリカのクランブルック アカデミー オブ アーツに留学しアメリカでキャリアを始めていたのです。当時彼は既にトヨタのお父さんが転勤でアメリカ在住していたので、アメリカ留学の敷居は低かったのだと思います。ていうか、既に家族はアメリカで彼は日本に1人残って大学院に行っていたはず。

2年連続でミラノ出張に来た夏目君とまた会って食べて飲んでいたときに、その留学の話を聞きました。「ぼくはあそこで変わったよ。日本ではこんなもんかなという課題をキレイにこなせば優等生でいられたけれど、アメリカで同じような課題の進め方をしたら先生から『君の仕事はスタートの時点で既にゴールが見えてるじゃないか、そういう仕事では新しいものは生まれない』と言われて、日本で習ったことをまずゼロにしてから再スタートできたのが大きい。建畠学長が勧める学校だけのことはあったよ。」みたいなことを言ってました。

「しかし、当時のクラスメイトや先生たちが一番の優等生だった夏目君と一番の問題児だったおいらの二人がこうやって仲よさそうに一緒に食事している姿を見たらびっくりするよね。」と言うと、
「そりゃおどろくだろうね。ぼくだって当時小野君が実際にデザイナーになるとは思っていなかったもん。でもこうしてお互いそれなりに仕事が続けられてるんだからよかったじゃん。建畠学長も天国で喜んでいるんじゃないかなあ。」

Peace & Love


 

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