たとえば、半分のレモンくんと半月の夜道を歩くこと。

こないだ友達に「エモい」という日本語の説明をしていたら「じゃあ、たとえば最近どんなことにエモいって思った?」と聞かれた。
なんだろう、あるはずなんだけど、スペシフィックな出来事をパッと思いつくのって難しい。
「うーん、たとえばね・・・」
と私はそれからずっと密かにエモ探しをしていたのだった。
たとえば、たとえば、たとえば・・・


さて

昨日、自転車の前輪を盗まれた。

でーん。

その名、レモンくん
LeMondというアメリカ人選手の名前のブランドだからです。

昨日は、学校で友達と待ち合わせてから遠くへ行く用があったので、学校にレモンくんを置いてそこからUberに乗った。帰りが思ったより遅くなってしまって、夜の11時くらいにチャリ拾って帰ろ〜と思ったら「Oh sh*t...前輪やられてんじゃん」ということでした。

ご存知の人も多いだろうが、ロードバイクの前輪はマジ5秒で外せる。
なのでU字ロック一つしか持ってないなんていう私のような横着者の場合には、前輪を取り外して後輪やフレームと一緒にロックしておくのは普通の防犯テクなのである。こんな風に。

うーん、だからやっぱり完全に私の責任だ。学校の駐輪場だからと油断をして、長時間前輪を無防備に晒しておくのはロードバイカーとして甘かったと思う。深夜の学校にはチャリ漁りのおじさんがいるのをこの目で見てたのに!知ってたのに!

でも相変わらずこういう時の自分は異常なほど冷静というか、客観的というか、空き巣に入られたときも命脅されたときもそうだったけど、謎の冷静スイッチが入ってしまう。
「あ、前輪やられてる」(珍しい話ではないからそんなにびっくりはしない)
「ついに自分もやられたか〜」(ついにとかでなく本当は既に一度チャリ丸々パクられてる、学べ)
「前輪だけでよかったあ」(マジでそれ)
「ってことは、後輪とフレームのU字ロックは強いってことだな」(安心)
「しかもライトとか盗られてない!」(電池キレてるのバレたか・・・)
「タイヤ替えたばっかだったから盗った奴らラッキーだったろうな」(出費痛いなぁ)

そして前輪のないレモンくんを押して帰ることにした。置いては帰れん。どうせならゆっくり音楽でも聴きながらのんびりと帰るか〜。

前輪を失ったまま弱々しく柵に寄り掛かるレモンくんを持ち上げてみると、無力感と恐怖と恥ずかしさの混ざったなんとも言えない感じが彼から伝わってきた。
「あぁ!怖かったねぇ、!!ごめんねぇ!!」
謎の冷静スイッチを発動させる前に、私はこの子に一言こういってやらなくちゃいけなかったんだ!自分のことばかりでごめんね!!
ご主人を待ってる間に身動きのとれないまま悪い奴らにいろいろいじられて前歯抜き取られたようなもんだ。私だったら一生もんのトラウマ。可哀相に。

そうして、レモンくんとの夜の散歩が始まった。

半分のレモンくんと夜道を歩く。月は半月。明るい半月。
レモンくんを後輪立ちにして身体の前でカートのように押しながら歩く。
彼的には結構恥ずかしいと思う。全力ウィリーの状態で欠けた前歯を天に晒して運ばれている。
私だってちょっと恥ずかしい。横断歩道なんか渡っていると「こいつ前輪盗られてらぁ」という視線をバッシバシ感じる。でもめげずにフレームを持つ両手に意識を集中させてテクテクと歩く。
「ごめんね怖かったねぇ、もう大丈夫だよ」という念を手のひらから送りながら、静かな住宅街の道を、高速道路の光の川の上を、まだギラギラと明るいドーナツ屋さんやファストフード店の前を歩く。

ドーナツ食べてるおばちゃんに話しかけられる。
「Oh God!どうしたの?」
「誰かに盗まれちゃったの。しかも学校で!でもまぁ、前輪だけだしと思って気にしないことにする!」
「オー、それは大変。どこにでもそういう奴らはいるのよね。自分のものと人のものの区別がつかないのよ

おばさんのその言葉がちょっと光ったので心にメモ。
自分のものと人のものの区別か〜。
さすがにモノは盗らないけどさ、私もよく自分と人との境界線が分からなくなる。感情とか時間とか思想とか。自分と他者の間にきれいな線を引くことなんてできないんだけど、自分は人一倍苦手。それでよく疲れたり、申し訳なくなったり、一人になりたくなったりもするけど、割にそのことを大事にしてたりもするんだよな。境目が分からなくなるほど人と何かを共有するのは、やっぱり素敵なことだから。
でもこれからはもう少し自分の輪郭を意識して生きていかなくては…なんて最近ちょうど考えてたところだったのです。
「God bless you」「You too」
おばさん、リマインドしてくれてありがとう。

さて、半月はより一層明るい。
テクテクと歩く。

私はチャリを押して、というかチャリと一緒に歩くのが昔から好きだ、と思う。
いつもは風を切っていろんな景色の中を相乗りしているチャリンコと横に並んで歩くというのはまた別の行為だ。
理由がなければ人は「わざわざ」自転車を押して?引いて?歩かない。
ゆっくりと音楽を聴いて帰りたいから。考え事をしたいから。誰かに電話をかけたいから。家に帰りたくないから。夜風が気持ちいいから。
(・・・まぁ今回の場合「わざわざ」とかでなく物理的に乗れないんだけどさ!)
もうちょっとこの人と一緒にいたいから。というのが一番素敵な理由かもしれない。でもかなりの確率で使う理由。別にサーッとチャリ乗ってバイバイでもいいんだけどさ、どうせならそこまで一緒に歩こうよ、っていう感じ。普通に歩くのよりもゆっくりになるのがいい。

十代の頃はいろんな人とよくそういう風にして帰った。
大道りの歩道だと狭いから横に並んで歩ける住宅街の中を歩いたこと。歩きの友達のスクールバックをいつもカゴに乗せてあげてたこと。どうしようもないことでゲラゲラ笑ったこと。好きな人と二人で自転車を握りしめながら歩くと距離がうんと遠くに感じられたこと。雨が降ってきて傘がさせないねと、それでも濡れながら歩いて帰ったこと。方向が違うのに遠回りをして一緒に歩いてくれたこと。その距離が伸びていけばいくほど嬉しかったこと。

チャリンコを押していろんな人と歩いたいろんな道、すり減るような記憶はどこか朧げ。タイヤの回る、時計の秒針にも似たような音だけがやけに記憶に残っている。
思えば私たちの十代は自転車とともにあったのかもしれないなぁ。

いい思い出ばかりじゃないはずだ。
初めて買ってもらった補助なしの自転車をうまく乗れないのに意地張ってヨロヨロとコケながら帰ったこと。急な下り坂で一回転してトラウマになったこと。歩道の段差に乗り上げられずすっ転んでそれもトラウマになったこと。反抗期に親の悪口を叫びながらこいだこと。試合に負けたのが悔しくて泣きながら帰ったこと。UFOを追いかけてたら迷子になったこと。星に見とれてたらチャリごと川に落ちたこと。
こういうのってその時は結構本気で焦ったり悲しかったり痛かったりしてるんだけど、後々かなり笑える話となる。あ〜あんなことあったよなぁ、このチャリと、あのチャリと。まぁ結局いい思い出か。

あれ、なんだかこうしてチャリンコと歩んできた思い出のアルバムをめくっていると、可哀相なレモンくんと私もそこまで可哀相ではなくなってきた。
彼は無事だ。私も無事だ。そしてなんといっても、レモンくんとの記念すべき初めてのトラブルだもんな。今日のこともきっと覚えてる。

いつの間にか惨めな気持ちはなくなっていて、いつもありがと〜これからはちゃんと守るからね〜などとレモンくんをなでなでしながら、やっぱり明るい半月の下をテクテクと歩いた。

あぁ、これって結構エモい夜のひとつなのかもしれないな。

たとえば。

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