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読書日記 2011年2月


 2011年────。
 集英社の文芸誌、月刊『すばる』の「読書日録」というコーナーを3か月間担当した。
 その月に自分が読んだ本について日記形式で綴る連載エッセイのコーナーである。
 新人の作家や評論家、各分野の新進の研究者など、わりと新しい書き手が担当することが多く、私も依頼を受け書かせてもらった。
 編集部から特にこの本を読めという縛りもなく、自由に本を選び、自由に書いていいとのことだった。
 
 月刊『すばる』の「読書日録」は通常、3回(3か月)交代で次の書き手にバトンを渡すのだが、私はこの年(2011年)の4月号5月号6月号を受け持った。
    
 ところが3月11日、ちょうど5月号の原稿を書いている時、東日本大震災が起きてしまった。
 
 東京都在住の私の被災状況は、部屋の本棚が崩れた程度の軽微なものだったが、頭の中は床に散らばった本よりもぐちゃぐちゃに混乱していたはずだ。
 とても読書などしている場合ではなかったが、依頼を受けた以上、本を読み、書くしかない。

 改めて連載記事を読み直してみると、その割にはしっかり読書して感想を述べている。
 本を読むことで正気を保っていたのかもしれない。

 まずは震災が起きる前の月から振り返ってみよう。
 2000年代後半には、SNSや動画サイトの隆盛によって、ネットを中心とした新たな文化、言論が花開いていた。
 2011年2月、黄金の「ゼロ年代」と呼ばれる時代もまだロスタイムが続いており、ある意味、平和で楽観的な気分の中でこれは書かれたはずなのだが、今読むと、景気はかなり悪そうである。
 このあと大震災のショックを経て、国民は民主党リベラル政権に見切りをつけ、安倍晋三愛国政権のアベノミクスが始まるのは、坂口安吾風に言うなら「日本を貫く巨大な生物、日本経済の抜き差しならぬ意志」だったに違いない。







読書日録2011年2月 


(月刊『すばる』2011年4月号掲載)
 
 父は本を読むのが私の四倍速い。
 正月に帰省した際、ソファーの端と端に座り、よーいどん!で読み始めて確かめたので間違いない。
 以前から速いとは思っていたが、目の前でページをひらひらめくりパタッと閉じて次の本へ手を伸ばされると唖然としてしまう。
 本当に内容までわかっているのだろうかと疑って訊いてみると、この本のどこがどう面白いか理路整然と話し始める。 
 速読術などは用いていないが、ページを見ると重要な文章は周りから浮き上がって見えるという。忙しい仕事の合間に集中して読む習慣から生まれた技らしく、コツを訊いただけでは身につきそうもない。
 私の読書スピードは普通だと思うが、寄り道やエンストばかりでなかなか目的地まで到達しない感じだ。
 今年は少しスピードを上げて積ん読本の消化に勤しもうと思っている。


二月某日
 その父の推薦図書、西條八十さいじょうやそ女妖記』を読む。
 西條八十の名は、小学校の音楽の教科書で童謡「かなりや」の作詞家として見たのが最初だと思うが、当時は「八十」を〝やそ〟とは読めなかった。
 その後「東京音頭」「蘇州夜曲」「青い山脈」など歌謡曲の詞も手がけていることを知り、往年の売れっ子作詞家というイメージはあったが、詩人で仏文学者で早稲田大学の教授まで務めていたとはこの本を読むまで知らなかった。
『女妖記』は一九六〇年、六十八歳の年に刊行された小説集だが、自伝的なエッセイとしても読むことができ、自作の詩や小唄の一節をまじえたその文章から八十の多才ぶりが窺える。
 さらに驚くのはその中味だ。四倍速、理路整然の父をして「こんなことが本当にあるのか?」と首を捻らせるような話の連続なのである。
 タイトルから察せられるとおり、これは八十が人生の途上で出遭った妖しい女たちとの物語である。
 八十は著者紹介を見る限り、どこにでもいそうな枯れた爺さんだ。
 若いときの写真も見たが間違ってもイケメンとは呼べない。
 ところがこの人、文壇と芸能界で高めた知名度をフルに生かし、芸者もファンも異国の金髪美女も食いまくりなのだ。 
 漁色家に近いことをやっているのだが、ダンディズムと端正な文章のおかげで下品なところは少しもない。
 そして登場するのは、幻かあやかしのような不思議な魅力を湛えた女性たちである。
「どれも多少身に覚えのある艶話なのだが、尾鰭おひれをつけて、たびたびしゃべっているうちに、どこまでが事実だか、フィクションだか、自分にもわからなくなってしまう」。
 淡々とした語り口に妖気が漂う十一編のなかで白眉は「黒縮緬くろちりめんの女」だろうか。
 まことによくできたゾクッとくる都市伝説である。
 もし事実だとしたら「こんな(いい)ことがあってたまるか!」と叫びたくなる。

二月某日 
 繕う暇もなくまた別の場所が綻ぶ日本社会。
 そのなかで就活と婚活に賭けるエネルギーだけが過熱していく。
 誰も彼も沈みゆく船のマストのできるだけ高い位置まで攀じ登ろうと必死なのだ。
 澁谷知美平成オトコ塾  悩める男子のための全6章』は沈む日本の男たちに「こんな生き方、どうでしょう?」と上から目線ではなくあくまで対等な立場からオルタナティブを提案する。
「男たるもの……すべし」気鋭の社会学者である澁谷は、この思い込みがいかに男たちを追い込んでいるのか、豊富なデータを駆使して論じていく。
 男性は仕事を通して家族に経済的な豊かさと精神的な安らぎを同時に与えようとしがちだ。
 そのためいったん失業すると家庭における自分の立場も失い、失踪したり自殺したりする。
 だが、経済的サポートと情緒的サポートを分けて考えることができれば、このような悲劇は回避できるのだという。
 また格差社会のために結婚できない男性がいるという意見に対しては、たとえ格差が是正されたとしてもモテない人はモテないという身も蓋もない現実が明らかになるだけだと警告する。
 自己啓発じみた婚活でボロボロになる必要はない。
 モテない男は無理に結婚しなくとも男同士の友情を構築して生きる道もある。
 それを絶望ではなく希望としてとらえられる社会。
 平成オトコ塾・塾長澁谷知美と男たちは、そんな未来へ直進行軍ではなくダラダラとそぞろ歩きで向かっていくのかもしれない。

二月某日
 日本丸が沈むか沈まないかの話ではなく、人間はそもそも「この世に生まれてオギャーといった瞬間から、タイタニック号に乗っているわけなんですよ」とやさしく語りかけるのは、杉作J太郎恋と股間』。
 おもに中高生の男子へ向けて書かれた恋愛論だが、中高年が読んでも思わず膝を打つ人生論になっていると思う。
 J太郎はいう。「だいたい男なんて、同じ男から何か言われたって、絶対がんばりませんからね」男同士の関係は「認め合う」「許し合う」が基本なのでなかなか相手にダメ出しできないというのは卓見ではないだろうか。
 しかし女性は、容赦なく男性を拒絶、ダメ出しする存在。
 男性は女性に認められたくて自分の枠を広げようと努力する。
 たとえ成就しなくても努力した痕跡は残る。
 だから受け入れられなくても絶望するな、ストーカーになるな、と丁寧に諭していく。
 青少年の健全な育成を願っているが、どう教育したらいいかわからないという人は、ぜひ本書を手に取ってもらいたい。
 読んで納得がいったなら、どうか子供の手の届くところへ置いてほしい。
 いや、J太郎は間違っている、と思った人はその考えをそのまま子供に伝えるといいのではないだろうか。


震災は様々な形で人々を狂わせた。
人によっては食べきれないほどのコメを備蓄したり、
極度に放射能を恐れて南の島へ移住したり、
急に反原発に目覚めてデモに参加、などだ。

狂い方はそれぞれだが、
これまであまり表に出ていなかった
その人物の本質のようなもの、
覆い隠されていた弱いところが
肉体的、心理的に、激しく揺さぶられ
思わず飛び出てしまったような
そんな経験ではなかっただろうか。

『平成オトコ塾』の著者澁谷知美(現・東京経済大学教授)も震災以降、
反原発写真家の講演会を主宰するなど急にハードな活動を始めたので驚いた。
上野千鶴子門下の中ではバランスの取れた面白い学者に見えたのだが、
震災を機にフェミニズムの地層もむき出しになってしまった感がある。


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