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百人一首というカードゲームのフレーバーテキスト

競技かるたについて調べると、戦術論として「短歌の全てを覚える必要はない。まずは上下句の数文字を対応させて……」といったガイドが堂々とヒットする。なるほど、読み上げから僅か数文字時点で勝負が決してしまうのならば、たしかに短歌全文を覚える必要は無さそうだ。

つまり、カードに記載されている文章の大部分はゲーム的に影響のない文章……フレーバーテキストと言うことができるのではなかろうか。

フレーバーテキストとは、カードに書かれたテキストのうちゲームの進行そのものには関係しない、もっぱら雰囲気づくりのために用意されているような文章のことである。これらの余談はゲームを進行する上で必要となる場面は全くないが、世界観や文化などがうかがい知れる情報源として機能する。

weblio辞書 ※一部抜粋


実際、ガチガチの競技かるたプレイヤーって、短歌の全文とかちゃんと覚えてるんだろうか?

そんなものは人それぞれに決まってる。ただ、かるたの強豪選手は百人一首の世界観にもリスペクトに富んでいて欲しさはある。0.1秒を競う日々の鍛練に心血を注ぐ一方で、詩に込められた感情に思いを馳せ、マイフェイバリット短歌をアイデンティティや生き様の一つに内面化しているべきだと思う。これは勝手な印象論でしかないけれど。文学的な題材のスポーツだからそんなイメージがあるんだろうか。

一方で、ストイックな姿勢の選手なら「詩の意味なんて勝負に関係ない。全文を覚えるのは寧ろ脳のリソースの無駄遣いだ」とか言って欲しい気もする。僕は競技かるたをテーマにした某漫画を読んだことは無いけど、そんな台詞を言う奴は間違いなくトゲトゲしたライバルポジションのキャラだろう。

結局は、異なるスタンスでも互いに尊重しましょうとするのが今のインターネット的には無難なんだろう。世間は多様な価値観を受容するべきという風潮である。

ちなみに、僕が百人一首の中で最も好きな短歌は藤原義孝の歌だ。

君がため 惜しからざりし 命さへ
ながくもがなと 思ひけるかな

あなたのためなら、捨てても惜しくはないと思っていた命でさえ、
逢瀬を遂げた今となっては、できるだけ長くありたいと思うようになりました。

結構ストレートな愛の歌だ。大人になって色恋の洒落臭さに耐性がつくと、その誇張のない感情はシンプルに好意的に映る。

古来よりラブソングでは頻繁に世界中を敵に回したり 軽率に命を賭したりするものだ。この短歌はそんな過剰で自己陶酔気味な表現に対して、あまりにも現金なアンチテーゼになり得る。長く生きたい・長く生きていて欲しい。その実直な願望には個人的に思うところがあって、妙に刺さる。

まあ、僕が一番好きな歌は、といいつつ百人一首の全部を網羅している訳じゃあないんだけどね。

とはいえ誰しも、世界中の異性を知っている訳でもないのに、君が世界で一番好きだよなどと豪語するものだ。ともすれば己の本心だとでも思い込みながら、愛とはかくもあるべきとそう嘯いているのだ。

冷静になるんだ。