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8 予想と賭けに負ける日々

つい見てしまうスポーツ中継

 このところ、ずっとアジア大会が中継されており、さまざまな種目を目にすることができる。日本代表選手はアジアでは上位にあることが多いせいか(そういう種目しか放送しない、ということもあるだろうが)、つい見てしまう。正直、まったく知らない選手の活躍を見てしまう。
 ラグビーのワールドカップもそうだろうし、MLBや、昨年まで私も夢中だったNFLもそうだ。こうなると、必ずしも日本の選手でなくても楽しめてしまう。ずっと昔(ラウダ、ハント、ピケ、プロスト、セナとか)にF1を楽しんでいたときも、特に日本は意識していなかった(ホンダが参戦してさらに情報量は増えたけど)。
 スポーツを楽しむことの一つには、「予測不能の結末」みたいなものへの期待がある。「筋書きのないドラマ」と陳腐な表現をされるだけに、最後の最後まで勝敗であるとか新記録とかはわからないことも多い。
 こうした予測不能、意外性といえば、ギャンブル、賭け事も同様だ。
 賭け事はよくない、と一般的に言われている。日本では公的に認められた賭博以外は禁止である。ラスベガスでは賭け放題でスポーツ賭博も当然にある。そこでは、競馬同様に、オッズが問題になってくる。オッズを決めている人たちがいるのだ(胴元である)。NFLが好きだった頃、このオッズに注目していた時期もあった。あまり当てにならないこともわかった。まさに博打である。
 そういうことをしていたからではないけど、スポーツを見るときには、必ず予想を立てている自分がいる。「これは負けだ」とか「これは完勝」とか。ファンは、どの試合でも「必ず勝つ」と信じているのかもしれない。しかし、私はそうは思わない。勝負はとても予測しづらいもので、だからおもしろい。
 つまり、賭けはしていないのだが、実質的には賭けているのと同じだ。
 もちろん賭博好きな人から見れば「なんにも賭けていないじゃないか」と怒られるだろうけど(賭博好きな人は賭けない人を嫌う)、この予測、予想、スジ読みは、それなりに自分の何かを賭けていると私は思っている。
 そして、自分の読みを覆されたときに、悲しみが生じることもあれば、むしろ喜びとなることもある。つまり、賭けは、勝っても負けてもおもしろい、ということになってしまう。
 そしてまた、ついスポーツ中継を見てしまうのだ。

映画『RRR アールアールアール』

 昨日、WOWOWで映画『RRR アールアールアール』を見た。見てしまった。スポーツ中継をずっと見たいかと問われると疲れるのでほどほどにしたい。そのとき、WOWOWでこの映画が始まった。録画していたが、追っかけで見始める。ほぼ「うっかり」見始めてしまった。
 人はよりおもしろそう(娯楽性が高そう)と感じる方を選択してしまうのである。
 まさか、182分(約3時間)もあるとは知らず、なかなか終わらないな、と思ったら夜の11時を回っていた。いつもなら、8時頃から眠くなり、9時にはかなり眠い状態で10時前には寝てしまうことが多いのに、最後まで見ないわけにはいかないのだった。
 当初は、登場人物の区別がつかず、誰が誰だかと思いつつ、徐々にわかってきて、中盤から回想シーンが出てきてやっぱりこれは誰だ、となりつつも、飽きることなく楽しめ、最後には「なるほど」となった。
 ほとんど先入観なく見たこともあって、まるで予想がつかない展開だった。予想しつつ、次々違う方向へ進んだり、ときどき当たる。ちなみに肩車は予想を当てたシーンであった。ただ、もしかしたら予告編で見たのかもしれないけど。
『5時に夢中』(MXテレビ)の木曜日だけ見ているのだが、この主演の二人が生主演して大騒ぎをしたことがあった。だから、いずれ見るつもりではいたのである。
 しかし内容を知っていたら、見なかったかもしれない。
 だから、この先、ネタバレに言及するけれど、まだ見てない人は、読まない方がいいかもしれない。次の小見出しまで飛ばしていい。
 終盤、2人は神になっていく。これは英国植民地時代のインドを舞台として、その独立運動へつながる「英雄」「英傑」を描くドラマなのだ。英国人のいる宮殿のような建物に、彼らはインドに棲息するさまざまな動物を放つ。このやり方といい、本来、敵同士なのに(観客はわかっている)それを知らずに友情を育む2人であるとか、それがわかって決定的になりつつも、最後にはさらにお互いを理解してタッグを組むストーリーも、まさに「神話」である。
 こうしたドラマは、いまもプロレス団体でも使われているし、「水滸伝」「八犬伝」「三国志」などを知る人には、お馴染みのストーリーなのである。「ああ、それか!」と思ったときにはもう遅い。映画の魅力にはまってしまっている。
 予想は外れ、賭けに負けてもおもしろかった、ということになる。いやむしろ、予想が外れて欲しい、賭けに負けたいのだ。
 エンタメ系の世界は、恐らく負けることの楽しさを味わう世界なのかもしれない。

『熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録 増補完全版』(井川意高著)

『熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録 増補完全版』(井川意高著)

 賭けで思い浮かべるのは、やはりこの本『熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録 増補完全版』(井川意高著)だろう。父親の跡を継いで会社を再建、大きくした立派な経営者であるはずなのに、ギャンブルにのめり込んで関連会社の金を注ぎ込んでしまい事件となってしまう。賭けに負けてその負債を清算するために総額106億8000万円もの借り入れをしていたことが発覚したのだ。会長職を辞任。特別背任の容疑で東京地検特捜部に逮捕され、裁判で懲役4年の実刑判決を受けた。
 本書の中盤はまじめな経営者でとてもまともな内容。ある意味当然だけど、これだけまともな人なのに、という気もする。それがなぜ、という部分では、賭け事に夢中になると、おカネの感覚がなくなっていく、やり続けてしまう。それは心の弱さというよりは、ギャンブルの魅力の強烈さによるものだと思う。
 しかもこの本、タイトルに「懺悔録」とあるように、隠さずに自分の過ちを(そして成功も)語っているものの、まったく反省はしていないのだ。それはこれがこの著者の生き方だからだ。人生だからだ。
 世の中には「ほどよく」ができない状況がいくつかある。麻薬、覚せい剤もそうだろう。犯罪の多くは受刑後も再犯を繰り返すことが多い。のめり込むのである。
 犯罪の多くは、勝負事ではない。倫理、道徳の問題であることも多い。とはいえ、人間の営みとして、人類はたぶん石器時代から賭け事をしていただろう。予測し、見事に当てた者はヒーローになったはずだ。そしてそこから神話が生まれ、英雄、英傑の超人的な話へと語り継がれていく。
 一方、その影には多くの敗者が存在する。逮捕されたら負け、ということではない。犯罪はそれを実行した段階ですでに敗北なのである。
 平和な日本でも、闇バイト、違法なカジノ、オンラインカジノ、詐欺、無人店舗での窃盗、万引き、薬物中毒などなど、世の中には、敗者を生み出す仕組みが無数に存在している。
 そして、私たちは負けることを含めて、それを人生として楽しんでしまう。恐ろしさがあるとすれば、犯罪や常習性以上に、この娯楽性があるような気がしてならない。その証拠に、犯罪者を描くエンタメのなんと多いことだろうか。そこには確かに悲しみもあるし、後悔もあるだろうが、エンタメ化される題材である以上、人間の営みとして敗者の娯楽性が横溢する。最近では原子爆弾を生み出したオッペンハイマーについてまでハリウッドで映画化されている。つまり娯楽化されているのだ。
 夫婦でたまに夜中まで映画を見ながら、あーでもない、こーでもないと予測しつつ外し続けて、「あー、おもしろいかった」と布団に入る。この温い敗北感は、「ほどほど」の娯楽だと言えるかもしれない。



 
 

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