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氾濫

 「消費者」と一言でいっても、色々な有り様がある。
 商品やサービスに対して、とにかく自分一人の満足を求めるタイプ。または、自分以外の他の消費者とも、質の高い商品を共有したいと望むタイプ。商品の質だけでなく、そのバックボーンにも注目するタイプもある。ほんとに様々だ。

 書籍という商品について考えると、私は最初、一つ目のタイプの消費者だった。とにかく楽しみたい。その一心で本を貪り読んだ。
 その頃の私にとって、頼んでもいないのに次から次へと新刊が発売される環境は、楽園そのものだった。読んでも読んでも、尽きることがない。その広大さに、心地よい息苦しさを感じていたほどだ。
 しかし時が経つと、心境にも変化が生まれる。私が「これはすごい!」と驚嘆した本の中に、一部の書店でしか扱われていないものや、扱われていても本棚の隅っこに追いやられて、見向きもされないものたちがいることに気づく。その多くは、中小規模の出版社、地方の出版社が刊行したものだった。
 私が読む本を選ぶときに行使していた「自由」は、実は各出版社の宣伝力の影響下にあった。宣伝力が強いほど人の目に留まり、手に取られやすくなる。こんな当たり前のことに、私はすぐ気づけなかった。

「たぶん現在は、書かれなくてもいいのに書かれ、書かれなくてもいいことが書かれ、書けば疲労するだけで、無益なのに書かれている。これが言葉の概念に封じこめられた生命を、そこなわないで済むなどとは信じられない。現在のなかに枯草のように乾いた渇望がひろがって、病態をつくっている。だがそれは個体が生きている輪郭といっしょに死滅してしまう。ほんとにそこなわれた概念の生命は、個々の生の輪郭をこえて、文字を媒介に蔓延してゆくだろう。」
吉本隆明『わたしの本はすぐに終る』講談社文芸文庫、P411)

 私が自分第一の消費者ではいずらくなった、ちょうどその頃、当時よく通っていた古本屋の均一棚に、『言葉からの触手』(1989年)という本を見つける。上記の文章は、その作品の中にもともとは収められていたものだ。
 こんなことを「本」の中で言い切る作家がいたのか。初読時の衝撃はなかなかのものだった。当時の私は「吉本隆明」という人物についてほとんど何も知らなかったから、その確信的な物言いに「傲慢さ」さえも感じていたかもしれない。
 この文章が書かれてから数年後、インターネットの普及によって、多くの人々に自分の意見を発信する機会が与えられた。その結果、吉本の想定を超える形で、言葉の氾濫は勢いを増すことになる。

「おとなしい鳥が
 鳥籠のなかにいるみたいに
 おとなしい本が
 崩れかかった本のあいだに棲んでいる
 鳥が鳥でないふりをする
 ときがあるように
 本が本でないふりをしたい
 ときがある」
吉本隆明『わたしの本はすぐに終る』講談社文芸文庫、P266)

 昨今の私のモットーの一つは、書店の中にいる「おとなしい本」に出会い、それを少しでも多くの人に知ってもらうことだ。
 「私のことを見て!」とアピールしてくる本の中にも、良い本はたくさんあるけれど、その声の大きさに隠されて、見過ごされてしまっている本があることを、ここに強調しておきたい。




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