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端本

 場所をとるから、という理由で電子書籍への移行がすすんでいる昨今、「全集本」ほどその流れに反する存在はない。

 私はある時期まで、「全集本を買うなら、完品に限る」という信念に囚われていた。つまりどういうことかというと、古本屋や古本まつりで全集本の端本を見かけても、買わない。全部で20巻ある全集なら、20巻一気に購入する、これがマスト……そんな風に考えていた。
 そうではなくなった今となっては、これは「囚われていた」とネガティブに表現すべきことではなかったかなと思う。我が家の本の増殖事情を考えれば、この信念は一つのストッパーとなってくれていた。

 ストッパーが解除されたきっかけは色々ある。例えば、次に引用するのは、「端本だけ買うのもありかも」と私に思わせた文章である。

「古本屋で作家の全集本がバラで売られているのを見つけると、書簡の巻だけ買ってくることがある。歴史上の人物の評伝などを読んでいても、手紙が引用されていると、つい付箋をはさんでしまう。つまり他人の手紙を読むのが好きなのだ。
 私信は公開を前提にしていないので、その人の思いがけない素顔がかいま見える。私は歴史関係のノンフィクションを書くことが多いので、手紙は重要な資料でもある。そんなこんなで、これまで膨大な数の手紙を目にしてきた。」
梯久美子『好きになった人』ちくま文庫、P62)

 書簡の巻だけを買い集めていくという発想は、当時の私には新鮮に思えた。確かに全集の醍醐味の一つは、書簡だけを丸々収録した巻があること。自宅の本棚に複数の全集書簡本が並んでいる光景を想像すると、それだけで心が躍った。

 さっそく私は、実践に取り掛かる。上記の記述に触れてから、数週間のうちに、ある古本まつりで『宮沢賢治全集』(ちくま文庫)の第9巻を手に入れた。本の状態は、一度水溜まりに落として雑に乾かしたのかな、と疑いたくなるほど、くたくたである。
 第9巻収録の書簡は、賢治が友人に旅行の模様を伝えたり、妹にスキーが上達したことを報告したりと、あまりに素朴である。だがこの素朴さが、「素の宮沢賢治」を感じさせて、癖になる。

 我が家の本棚には、『宮沢賢治全集』の第9巻が2冊並んでいる。実は、古本まつりで端本を手に入れてから一年も経たないうちに、我慢できず全巻購入してしまった。
 今では、棚に並ぶ2冊の第9巻を目にするたびに、全集書簡本の魅力を再確認している。



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