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お供

 本は「旅のお供」になる。多くは、手持ち無沙汰な移動時間を埋めるものとして。または、旅そのものに彩りを与えるものとして。

 私自身、文庫本を片手に、旅に出かけることがある。お供になるのは、随筆・紀行文が多い。
 印象に残っている旅がある。それはまだ、本をお供に旅をするようになった初めの頃。京都市東山区にある六波羅蜜寺を訪れたときのものだ。
 旅のお供に選んだのは、白洲正子の『西国巡礼』。本書の目次に「六波羅蜜寺」の項があることを知り、「現地で読んだら面白いかも」と旅を思い立った。

「空也は、常に南無阿弥陀仏を唱えて、民衆の中にはいって行ったので、市の聖、阿弥陀の聖などと呼ばれた。この寺の空也上人の彫刻は、そのありのままの姿をうつしている。いや、お寺自身がそういう姿をしているといえよう。一応、石の栅がめぐらしてあるけれども、はだかのままで、庶民の生活にとけ込んでいるという風で、栅の間に大根なんかが干してある。」
白洲正子『西国巡礼』講談社文芸文庫、P93)

 六波羅蜜寺に到着後、この文を一読したとき、白洲正子の感覚に強い共感を覚える。
 私は、京阪本線の通る鴨川側から、六波羅蜜寺まで徒歩で移動した。道中には、精肉店や青果店、魚屋など、日常生活を支える店々が並び、行末に寺があることなど感じさせない空間が広がっていた。
 そんな中、ぽつんと目の前に現れるのが、六波羅蜜寺である。「ぽつんと」という表現が多少誇張気味であったとしても、寺が町中に溶け込んでいるという印象を、否定する人はいないだろう。

「宝物殿の中には、藤原初期の十一面観音をはじめ、おなじみの運慶、湛慶、清盛など、この寺と縁の深い人々の彫像が並んでいる。が、空也上人だけは、東京のオリンピック展に出張中とかで、市の聖は今でもお忙しいことだと思う。町中とはいえ、こんなところに一人で、多くの彫像にとりかこまれていると、次第に薄気味わるくなって来る。それがどこから来るものか、私はしばし考えたが、どうやらこの寺の人間臭さから発するものであるらしい。」
白洲正子『西国巡礼』講談社文芸文庫、P94)

 白洲正子が、随筆『西国巡礼の素になる西国三十三ヵ所巡りを始めたのは、1964年。世間は、東京オリンピックの開催で熱を帯びていた。
 一見無縁である、西国巡礼と東京オリンピックが、空也上人像を一点に結びつく。それに対し「市の聖は今でもお忙しいことだ」と呟く白洲の感性を、私も旅する際は持ち合わせていたい。



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