見出し画像

インターネットは希望だったし、僕はまだインターネットは希望だと思っている。(村井純『インターネット』を読んで)

四半世紀前に書かれた、古い本を読んでいる。

日本のインターネットの父、と称される村井純さんの『インターネット』だ。1995年、岩波新書より発刊された。

*

市場へのサービス普及に関して「イノベーター理論」というものがある。すっかり有名な理論だが、以下ざっくりと説明する。

サービス普及率を振り返ると、早く採用する層からイノベーター、アーリーアダプター、アーリーマジョリティ、レイトマジョリティ、ラガードと分類される。

事業者はマーケティング戦略を考えるとき、どの普及過程を狙うかターゲットを想定しなければならない。サービスが一般に普及するまでには、アーリーアダプターとアーリーマジョリティの間にある「キャズム」を超える必要があるとされる。

*

村井さんは、日本のインターネット黎明期におけるプレイヤーの一人だ。この業界におけるイノベーターと言って差し支えないだろう。

1984年、JUNETという研究者のためのコンピュータネットワークを立ち上げる。東京工業大学、東京大学、慶應義塾大学が連携し、ネットワークの研究が加速する(大学間の連携はこれを境に急速に広がっていく)。

こういった研究機関での取り組みは、海外でも同様だ。インターネットは研究者が活用・推進したことが始まりである。

本書では、以下のように語られている。

(当時主流だったバッジ式のコンピュータを取り上げて)こういったコンピュータ自体は、なかなかネットワークとは結びつきにくい。せいぜい、遠隔地からも問題や式を投げ込むことができればよい、という程度でした。(中略)当時のコンピュータを、計算のために利用していた人びとは、あまりネットワークを必要としてはいなかったのです。
ところが、コンピュータ・サイエンティストは、そのようなコンピュータをめぐってちょっと違った性質の作業をしていました。それはバッジ式の仕事を投げ込んで答えを待つといった仕事ではなくて、コンピュータを働かすこと自体の研究をしていた。つまりコンピュータ・プログラムをつくるということです。そしてプログラムをいろいろ加工したり、修正したりしていく作業をする際に、コンピュータ・サイエンティストたちは連携を求めたのです。そのために、その連携が自由にできるネットワークを求めたのです。
(村井純『インターネット』P47〜48より引用、太字は私)

村井さんは「コンピュータ・サイエンティストからの要求」という言葉を使って、インターネットの起源は「連携がきっかけだった」と説明している。

つまりコミュニケーションやファイル共有などの文脈で語られることの多いFTP(ファイル・トランスファー・プロトコル)や電子メールは、もう少し解像度を高めてみると、研究者同士が適切に連携するための手段だったわけだ。連携を深めることで議論が深まり、研究内容が磨かれていく。

*

本書では、1994年のリレハンメル冬季オリンピックで「全競技・全選手の記録をインターネットで流した」ことにより、世界中から多くのアクセスがあったことが紹介されている。このことは「メディアとしての可能性」が十分あることを(イノベーターたちに)確信せしめたに違いない。

やや端折り過ぎているかもしれないが、これを境に、インターネットは資本主義としてのビジネスを巻き込みながら(つまりこの技術を使ったサービスは儲かるぞ、と確信した人たちの熱狂を利用しながら)、今に至るまで、様々なサービス開発や技術推進に繋がっていった。

*

大雑把に1995年前後を回顧した。

繰り返しになるが、もともとインターネットを創造した人たちは、分断でなく連携を求めたということだ。連携や広がりは、同じような領域で利便を分け合えるような関係者間で十分な「小さな」ツールだったわけだ。

今ではインフルエンサーという言葉ができて、そこかしこで「影響力」が幅を利かせている状況が生まれている。幅を利かせているというのは、個人の意思決定に対して、その人の人生観とは全く異質の判断軸が加わっているということだ。それを「恐ろしい」「気持ち悪い」という人の心情も理解できなくはない。(それは今、爆発的に広がりを見せているClubhouseにもたびたび垣間見れる断絶だ)

そんな中だからこそ、僕は、ちょっとした小さな集まり / 共同体のようなものにインターネット(あるいはコミュニティが)回帰していくのではないかと予感していたりする。「たくさん人がいた方が安心」ではなく、仲の良い数名〜20名程度のサークルのような。それくらいの規模や環境の方が風通しが良い。

行ったり来たり、繰り返しながら歴史は進んでいく。

インターネットは、なんだかんだ100年に到底満たない、歴史の浅いツールである。行ったり来たりを繰り返している最中なのか、「行ったり」の状態をいまだ突き進んでいるだけなのか、ちょうど行ったり来たりの境目なのか。それは人によって見解も分けれよう。

いずれにせよ、僕にとってインターネットは希望だったし、まだインターネットは希望だと思っている。

久しぶりに名著『インターネット」を読み直し、村井さんの希望に触れたような気がする。その手触りは、インターネットを漠然と好きになったときのを思い出させてくれた。インターネットの分散指向、冗長性の在り方は、僕の人生観に至っているといっても過言ではないのだ。

* おまけ *

村井純さんの『インターネット』ですが、読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」でも配信予定です。2/15(月)8:00〜公開しますので、よろしければ聴いてください。

■Spotify

■Apple Podcast

■Google Podcast



この記事が参加している募集

読書感想文

記事をお読みいただき、ありがとうございます。 サポートいただくのも嬉しいですが、noteを感想付きでシェアいただけるのも感激してしまいます。