外向型家族から「陰キャ認定」された内向型ほど自己肯定感が下がりやすい理由
現在、内向型のコミュニケーションに関するkindle書籍を執筆中なのだが、本を書く行為は自分の過去を棚卸しすることでもある。
こちらは、先日僕がポストしたX▼
自分の棚卸しをしているとき、あることに気づいた。
外向型の兄から「お前は暗い」と繰り返し言われる度に、僕は深く傷ついていたのだ。
問題提起も兼ねて記事タイトルに「陰キャ」という言葉をあえて用いているが、「陰キャ」という言葉を安易に使うのが苦手だ。
なぜなら、これらの言葉は攻撃性の強い人間が他者を蔑視したり、マウントをする際によく使われるからだ。
言われた側がどれだけ傷ついているのか、わかっていない人も多いだろう。
「外向型イコール衝動的で人を傷つけることを口にする」というのは、あまりに短絡的。もちろん、そんなことはまったくもってない。
ただし常に覇気がある人は、内向的ゆえ気を病んで覇気を失っている人を見ても、その理由がわからない可能性はあるだろう。
人は自分が努力せずにできることを、他人もできると思い込む節がある。
覇気に満ちている人は、覇気を外側へ放つ才能の持ち主だ。それゆえ内向型のエネルギーが内向する性質自体が掴めないのかもしれない。
この世に生まれ落ちて、最初に接する他人は家族。血縁関係があっても「自分以外は全て他の人」という意味では家族も他人である。
同じ親のもとで生まれても、性格はかなり異なる。
血縁家族の中の相性の良し悪しは、家庭での天国と地獄を演出する。
僕は実家を離れてから、自分の持つ内的世界をポジティブに捉えてくれる人と出会えて、自己肯定感が上がった。
「探求心がある」「マニアックな世界観を持っている」と繰り返し言われ、自分はこういう見方をされる人間なんだと認識が改まった。
探求心は何かを研究したり、深堀する際に役立つ特性だと感じているが、実は「何かを探求する行為」に明るいも暗いもない。
あえていうなら、深く掘るので「深い」だろうか。
「浅いか深いかが論点なのに、明るい暗いでジャッジされるのはなぜ?」「そもそも論点がちがうんだけど!?」と反感を覚えていた。
今では、自分へのイメージが「内向的だが楽観的。好奇心旺盛で、突き詰めて考えるのを好む」になった。
一面的な捉え方をする人からすると「内向的で前向き」「内向的で楽観的」というのが、わかりづらいようだ。
内向型の感情表現が豊かでないため、性質が伝わりづらいのは多分にあるだろう。
独立するまでに、顔を合わせ続ける家族の影響は大きい。
特に弟や妹は、兄や姉を見て育つところがあるので、どの言葉も心の奥深くに入りこみやすい。
それがポジティブなものならいいのだが、否定的なことを言われ続けると人格形成に影響を与えかねない。
相手の長所を発見できる人は、それ自体が才能だし、他者の幸福度を上げている。
反対に「それを指摘しても変えづらい」という部分について、正論を振りかざすような言い方で伝えられるときつい。
今なら自分が持つ「ひとつのことを長時間考え続ける性質」を「熟考できる力」とプラスに解釈できる。しかし実家暮らしの頃は「うじうじして消極的な人間」とレッテルを与えられ続けたことで、マイナスに捉えていた。
僕の内向的な性質に対して、しばしばネガティブな言葉を投げかけた兄が、強烈な劣等感に苦しんでいたことに気づいたのはつい最近だ。
「ああ、彼も苦しみの淵にいたんだ」と思った瞬間、許せる気持ちになり、兄に対して抱えていた積年のネガティブな思いが少しだけ緩んだ。
人の長所を伸ばし優しく接することができる人間は、自分に自信がある人だ。
変えられない部分に対して、繰り返し「そこが変えられないから、お前はダメなんだ」と責め立てる人は自己改善できない苦しみを抱えている。
自分を変容させることができないからこそ、そこから目を逸らす。そして他者を変えようと必死にコントロールしようとするのだ。
ハラスメントの何割かは、こういった心理的な働きによって起こっているはずだ。
心理学で用いられる防衛機制の一種「投影」「転移」といわれるものである。
モラハラ、パワハラをしてしまう当人は、自身の持つネガティブな感情の「投影」や「転移」に気づけていないケースがほとんどだ。
自己受容できている人に囲まれて育った人ほど、精神が安定しやすい。
反対に自己受容ができておらず、劣等感に苦しんでいる人は近い距離にいる人を攻撃しやすい。
そういった人が生育環境にいると、子どもはさまざまなネガティブを無意識で受け取るため、どうしても自己肯定感が下がりがちになる。
生育環境によっては劣等感を持ってるがゆえの加害行為が、何世代も連鎖するケースがある。
人を傷つけるのは他者の言動。しかし人に自信を持たせるのもまた他者の言動なのである。
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