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「正しさ」についての思考実験が意味すること 〜「正義」をどう考えるか〜

「正しさ(正義)」についての思考実験というものがあります。たとえば、こんな話です。

「線路を暴走する巨大なトロッコがあって、だれも乗っていないのでそれを止めることはできない。暴走するトロッコの前方で線路は二手に分かれていて、左前方の線路の先では、5人の作業員が線路の上で大きな音を立てて脇目もふらずに線路補修の作業をしている。右前方には、1人の作業員がこちらに背を向けてうずくまって、線路の点検をしている。線路の分岐点には、切替器(分岐器)のレバーがあって、レバーを今のままにしておけばトロッコは左側に進むが、反対側に切り替えればトロッコを右側に進めることもできる。あなたが、もしその線路の分岐点にいて、切替器のレバーが目の前にあったとしたら、あなたは切替器をこのままにしておくか、それとも右側に切り替えるだろうか。」

これは思考実験(「仮にこうだったらどうか」という架空の問題)なので、トロッコは絶対に止めることができず、あなたが作業員たちに危険を知らせる方法も時間的余裕もないことになっています。つまり、あなたにできることは、切替器(分岐器)をそのままにしておいて、5人の作業員を死なせるか、右に切り替えて1人の作業員を死なせるかを選ぶことだけということになっています

これは「トロッコ問題」と呼ばれる正義や道徳や倫理に関わる思考実験なのですが、あなたならどうしますか。

「トロッコ問題」のむずかしさ

「トロッコ問題」は、人を「どうするか決められない状態」に落とし入れます。右側に切り替えれば、たしかに死ぬ人を減らすことはできますが、それでも1人は死んでしまいます。わたしが「切り替える」という行為をしなければ、その人は死ななくてもすんだはずだったのですから、そう考えれば、レバーを切り替えたわたしがその人を殺したということになります。また、人を救わなければならない、人を殺してはいけないという「正しさ」にもとづけば、たとえ5人を1人に減らしても、それは「正しい」行為とはとても言えません。それに、5人を救うためには1人を殺してもいいという理屈は、どう考えてもおかしな感じがします。しかし、こんなふうにあれこれ迷って、決められずに目の前をトロッコが通り過ぎてしまえば、結果的にわたしはみすみす5人を見殺しにしたことになります。

正義や道徳や倫理の疑わしさ

「トロッコ問題」のような思考実験は、「人の命は救わねばならない」とか、「人を殺してはならない」とか、われわれが日常、これだけは「正しい(正義)」だろうと思っていることが、実は(状況によっては)実現できないことをあらわにします。これだけは「正しい(正義)」はずだと思っていることが、実現できないということは、「正しさ(正義)」というもの自体を疑わせます。「トロッコ問題」のような問題を突きつけられた時、われわれは正義や道徳や倫理が、どこか疑わしいものになったような不安感を抱くのはそのような事情があります。

「どちらでもかまわない」

しかし、「トロッコ問題」の解きがたさは、実は見かけだけのものです。この「トロッコ問題」で、切替器をそのままにしておくのと、反対側に切り替えるのとどちらが「正しいか」と聞かれたら、わたしならばこう答えます。

「どちらでもかまわない」

「どちらでもかまわない」ということは、どちらの答えも同じように「正しい」し、どちらの答えも同じように「間違っている」ということです。つまり、この問題は、そもそも問題として成立していない、問題そのものの中に「間違い」がある「見せかけの難問」だとわたしは思います。では、その「間違い」はどこにあるのでしょうか。

「トロッコ問題」の間違い

「人の命は救わねばならない」という「正しさ」と、「人を殺してはならない」という「正しさ」とは、一見するとどちらも、無条件の絶対的なもののように思えます。しかし、この思考実験が明らかにしていることは、そんな無条件で絶対的に見える「正しさ(正義)」が、「トロッコ問題」のようなことが起きた場合は、結局どうするのが「正しい」かという判断の基準にはならないということです。「トロッコ問題」の問題としての「間違い」は、ひと言で言えば、本来、判断する基準にならないもので、どうするか判断しろと言っているところにあります

ふだんは、無条件に絶対的なもののように思える「正しさ(正義)」も、それ自体の中に自らの「正しさ」の根拠を持っていないのです。つまり、「トロッコ問題」という思考実験は、無条件の絶対的な「正しさ」などというものは、実はこの世(現実世界)に存在しないということを、あらわにしているのです。

「正しさ(正義)」は「虚構(フィクション)」にすぎない

このことは、言い換えれば、無条件の絶対的な「正しさ(正義)」というものが、実は「虚構(フィクション)」にすぎないということにほかなりません。ここでいう「虚構(フィクション)」という意味は、そのままでは現実世界(われわれの生きている生活)に、着地できない(実現できない)しろもの、言わば「絵に描いた餅」だということです。この思考実験がもたらす「決定しがたさ」、「解きがたさ」が明らかにしているのは、「正しさ(正義)」の虚構性です

人によっては、「トロッコ問題」のような思考実験自体が架空のお話で、そんなことについてあれこれ考えること自体がそもそも時間のムダだと思う人もいるでしょう。わたし自身も、その意見には半ば同意します。しかし一方で、「トロッコ問題」は、絶対的な「正しさ」などというものは、そもそもないということを、われわれにはっきりさせる力は持っていると思います。

カントの「アンチノミー(二律背反)」

イマヌエル・カントというドイツの哲学者は、『純粋理性批判』という難しい本の中で、「神はいるのか、いないのか」、「時間や空間は無限なのか、有限なのか」などの長年議論されてきた問題について、神の「ある」も「ない」も、時間や空間の「無限」も「有限」も、どちらの考えも論理的には「正しい」ものとして証明できることを示しました。(もちろん、相対立する内容のどちらも「正しい」ということは、どちらも「間違っている(証明不可能だ)」ということにほかなりません。)これが有名な「アンチノミー(二律背反)」の議論です。

ここでカントが言いたかったことを、わたしなりにざっくり言ってしまえば、「神」や「空間や時間」のような、人間の理性が生んだ「理念」(究極の「観念」、わたしの言葉で言えば「虚構」の極み)は、その「理念」自体の中に必然的に矛盾(二律背反)をはらんでしまうということです。これが理性の使用には「限界(制限)」を設けるべきだというカントの主張(「批判」)の根拠になります。

「正しさ(正義)」の使用については「限界」を設けるべきだ

同じように、「人の命は絶対に救わねばならない」とか、「人を絶対に殺してはならない」とかに代表される、人の考える「正しさ(正義)」もまた、わたしの考えでは、「観念(虚構)」です。だからこそ、「トロッコ問題」のような虚構の設定のもとでは、かえってその虚構性があらわになり、「こうする方が正しい」と誰も断言できなくなるのです。そういう意味では、「トロッコ問題」という思考実験は、カントの「アンチノミー(二律背反)」の議論のように、「正しさ(正義)」という「理念(観念)」の内部にある矛盾(虚構性)そのものをあらわにすると言えそうです。ここでカントにならって言えば、「正しさ(正義)」の使用については「限界(制限)」を設けるべきだということを、この思考実験は示しているように思えるのです

「正しさ(正義)」の使用について「限界(制限)」を設けるとは、どういうことでしょうか。できないことは、できなくてもしかたないと考えるということです。できないことを、そうすることが絶対に「正しい」のだから、そうするように、全力で努力するべきだと考えたり、人にもそうすることを強制したりすることは、やめようということです。

「正しさ(正義)」が虚構でも、倫理は虚構ではありえない

では、「正しさ(正義)」が虚構(現実には存在しない、観念にすぎないもの)だとすれば、倫理的な「よい(よさ)」も、同じように所詮、現実には存在しないと言っていいのでしょうか。わたしはそうは思いません。もしも、現実に「トロッコ問題」のような、どうやっても人の死が避けられないような事故(どちらの命を救うか)に出くわした場合、自分が「どうするか」は必ず倫理的な意味(「どうするのが、よいのか」)を持たずにはいないからです。

思考実験と現実の事故などとの違い

ただ、実際の事故の場合は、「問題」の質自体がまったく違ってきます。その時は、声以外の方法で作業員たちに危険を伝える方法が、探せばあるかもしれません。(もちろん、思考実験ではそのような可能性はすべて封じられています)また、たとえば切替器を完全に右側に切り替えずに、途中で止めることでトロッコが脱線して、分岐した線路の中間位置に吹っ飛び、それに気づいて作業員全員が左右に逃げるかもしれません。(逆に、脱線したトロッコが思わぬ方向に飛んで、わたしや作業員の方に落ちてくることもありえますが。)

どちらにせよ、わたしは(なにもしないことを含めて)必ずある行為をし、それがもたらした結果については、後日、必ず社会的な責任を問われるでしょう。それは、人の社会に生きる以上、仕方のないことです。ただ、もし、すぐれた裁判員や裁判官がいれば、わたしがその時そうした理由や、そうせざるを得なかった理由を考えた上で、判決を出してもらえるかもしれません。

「よい行い」は、あくまで具体的な個別の行為

たとえ、神がいなくても、たとえ、普遍的な「正しさ(正義)」や「よさ(善)」などというものがこの世になくても、「よい行い」というものは確かに存在します。ただし、それはあくまで具体的な個別の行為としてです。現実の世界の中では、ある具体的な行為を「よい」と思う人がいれば、もう一方には、必ずそれを「よくない」「わるい」と思う人がいます。つまり、この世に現実に存在する「よい(善)」には、カントが『純粋理性批判』の後で書いた『実践理性批判』で、必死に根拠づけしようとしたような「普遍性」などないのです。ただ、これはこの世に「よい行い(倫理)」というものがないということではありません。この世に生きるほとんどの人は、そのことを経験で知っています。

人に「ありがとう」と言ってもらった時、人は「ああ、わたしは『よいこと』をしたんだ」と思うのです。そう思うことを間違いだと否定できるどんな理屈もありません。

あとがき

「トロッコ問題」はあくまで思考実験ですが、このような「どちらの命を助けるか」という問題は、実は現実にも起きることです。新型コロナに限らず、大きな災害の時は必ず「命の選別(トリアージ)」の問題が起きてきます。また、「トロッコ問題」自体が、そもそも人工妊娠中絶を「罪」として、絶対に許さない宗教の考え方に対して、「出産をすれば死んでしまう妊婦を助けるためには、胎児を中絶することを認めるべきではないか」という考えから生まれたものだそうです。
これらのケースは、人の世には普遍的な絶対的な「正しさ(正義)」などないということを認め、人にはできることとできないこと(限界)があることを認め、できることの中で「なにがよいのか」を考えることが、人にできること、人がすべきこと(倫理)だということをわれわれに示しています。

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