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「自分を直視」できない症候群=他者の問題は自分の問題であるのを認めることができない症候群――国と世界の構造的問題

最近、複数の有能なゆえに壁に突き当たっている人々の話を聞いていて、日本に巣食う同じ構造の問題に突き当たったね!と、話すことが多い。

これは何なのだろう‥?

有能でありつつ、自己のためも他者のためもなく情熱的に働ける人・外に働きかけようとする人。そんな彼らを叩くor無視する周囲の人々の問題‥。これを名付けようと思う、自分を直視しない症候群と。

※自分を直視できる=他者の問題は自分の問題であると知っている、というのが、心理学的原理にあるのだが、結局 こうした人々はこれを棚上げし続けている。

つまり

他者の問題が自分のところにも通底しているのにも拘らず《自分の問題にならない・しない・しようとしない》こと。あるいは丸山真男曰く、せいぜい他所ごと、な日本人。

世界的な様相だともいえるのだが、「コンビニの前で倒れている人が居ても、日本人って、みんなさっさと歩いて通り、助けようとする人が居ない」と、外国人からも指摘されている我が国。

昨今では、このネグレクトが悪質化し、果ては 本気になってて目立つヤツをたたく=【下へ倣いー横並び症候群】にさえ陥っていると言えそうだ。
そうやって職場で孤立化している、と訴える友達・知人が多い。
それも、その職場とは、本来弱者の為の人権擁護・生命と尊厳保全の分野で有ることが殆どである不思議‥。。。

しかし、このような心理的構造は、どこから来るのか。

極限まで逼迫した 社会的体質、ひいては国の体質じゃないのかな?と思えてくる。万年被支配者の、鬱屈した心理構造に該当するように思えてならない‥。

戦後の長い植民地根性ーー属国根性がこの国の色々な医療分野・福祉支援分野・年金生活保護など経済分野etcetc...のような福祉的なこころざしの自発性の高さを求められる仕事においてさえ、そうであるからだ。否だからこそ出るルサンチマンかと思われる‥。奉仕的精神――それを自ら目指していたのにも拘わらず、仕事の場に置かれるうちに、自我から生じてくるのはむしろ当初の意思よりルサンチマンの方なのだという、このからくり。

どうも「下へ倣い・出る杭を打つ姿勢」が勝ち、抑圧的で不健全なエネルギーに繋がっているのではないか‥。

twitter(X)などのタイムラインをのぞいているうち、戦後長きにわたる「属国根性」の目に見えぬ根深さ として見えてくる何かを感じてくる。
それは市民の間のみならず、報道や政治行政の分野でよく当て嵌まることでは無いだろうか‥これらは、自覚しづらいがじつはそのぶん相当根深い、社会的構造の問題であると、ますます思える昨今となってきた。

よほどの被害当事者にならない限り、なかなか自覚しづらいかもしれないのだが...しかし自覚者=被害者 が増えているのも事実。

日本は今

  • 保守〜右翼勢力が新米で国家主義・国粋主義

  • 良識派〜左派勢力が民主主義・国民主権主義のタテマエで米民主党支持(何故出来てきた?)

というわけで、《結局は対米追従路線継承》である。長きにわたり‥。
(※ハードルの高さは米民主党を叩くと陰謀論!というパッケージができている為?)

とまれ、その枠を出ようとしない。

話を少し広げると ある種の 植民地根性 は

ウクライナ・ロシアや今のパレスチナ・イスラエル問題における報道や世論誘導の方策を見ていても、日本を越え世界中に、いわば ※同じ根や装置がありつづけて来たのでないか(殊に日本はひどいと思うけど)

※→おそらく日本においてもベトナム戦争でのベトコン支持などからずっとそうで、被害者「当事者性=尊厳の現場直属 から出発する視座」より、他山の石的に宙に浮いた「立場主義」の歴史が長い

日本に関していうと

そもそも この国の独立国への歩み、脱植民地への取り組み に、明らかに=自覚的に!踏み切るにはどうするかの問題が、長年紛糾し、けっきょく放置され続けている病勢と宿痾が、これらの本来弱者の為の人権擁護・生命と尊厳保全の分野に蔓延している共通テーマであるはずの 最弱者当事者性の尊重 をむしろ抑圧し、またこれに一心に取り組む人材を究極のターゲットとして叩く、というきわめて残念な 逆説的現象 〜「下/横並び症候群」に通じていると感じられてくる。それがごく身近な友人知人と言った身辺にも波及しているのだ。

底に流れるこの問題ーー世の中の様相、ひいては国の「姿勢」と社会の暗黙的システムの問題といってよい。

私がこのことを口にすると、そういう世の中の改革論は、殆ど革命論に近くなってしまうのでは?といってたじろぐ人々も居る。理解できる‥。
もしもこれが事実上の革命になってしまうのなら、なぜ「今」これが浮上するに至るのか、についてもよく考えていこう‥。

何故今、この視点となるのか ――知人との対話から抜粋

ヨーロッパ、中南米など、世の中で革命なるものが起きていた時期は、資本主義~金融資本主義の移行期などで、資本主義が機能していました。それで、”経済論理の内側での” 改革が出来そうでした。それでも改革には爪痕が長く残るものではありました。
今振り返るに、世界的にみて、マルキシズム的な革命は早すぎたようです。日本に於いても一部の勢力による革命は、国民全体の総意に基づくはおろか、20%もいかない意見の強要となるため、ごく一部(のエリート)による強引な手法とならざるをえませんでした。そういう風に、私たちの国でも、残念なことに暴力を伴った一部の動きが革命という言葉を使っていたのは、まだ資本主義が一応機能していた頃であるので、マルキシズムのイデオロギーの発動が――ひいてはマルクスの言説自身が――時機尚早でした。
時を経て「金融」資本主義の末期となり、今、それは破綻しています。社会・経済の前提が崩壊しつつあります。。。すくなくとも崩壊寸前といえるように思いましたので、<本来この時機>に、言われるべきものが、革命だったのではなかったかと思いました。
この場合、現今つまり金融経済自体が崩壊しかかっているという条件(右翼保守にとっても本当は「お尻に火が付いている」のです。そこまではさすがに彼らも認めたがらず恐れており、ツイートの様子を見ても直視できていないように見えます)の下、前時代のようなのと全く同じ意味で、無残な暴力革命となるのでしょうか。よくわかりませんが、むしろ人々の協力により、じょうずに経済の=社会の、自己崩壊を手伝う形となるとよいなと思っています。貨幣を媒介しない交換・コミュニケーション的な交換社会のはじまり、ものともの=ひととひと とのやりとりがはじまるのではないでしょうか。(敢えて、「○○社会」と、概念的に申し上げない形で言うと)。
で、大事なことは、これが始まる少し前に、どういったビジョンを予めわたしたちが確認しておくとよいのか、という立て付けになるのではないかという気がしています。
つまりそのビジョンとは、モノを考える際――本来の社会とはどうあるべきだったかを考える際――の、「当事者性」をどこに置くのが良かったのか、ということでもありますが、
最弱者=最も奪われたひと の立場にみんなが即する(だいたいみんながそうなるから?)ということに成るようにと思います。
けして逆側ではなく‥。
心境が複雑な面も大いにありますが、直視すべきものを直視する時機に入ったように思われます。

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