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映画『君の名は。』(2016)感想〜大衆性を得るべきではなかったアニメ作家が大衆性を得てしまった故の悲劇〜

新海誠の『君の名は。』をリアルタイム以来7年ぶりに見直したので感想・批評をば。
私は基本的に新海誠監督に関しては細田守監督と似たポジションの監督として見ていて、「映像は綺麗だが作家性が幼稚」という感じ。
まあそもそも『秒速5センチメートル』の頃からそうなんだが、新海誠は結局「思想」「物語」の人であって実は「映像」の人ではないなと。
それは悪い意味で昔から変わっていなくて、今回だって結局のところ「画面の運動」としてではなく「物語」「心理描写」の素晴らしさに行き着いてしまう。

評価:F(駄作) 100点中15点

本作は興行収入がとても高く大衆人気も凄まじかったのだが、こんな映画に投票するようでは世も末というか、はっきり言ってしまえばこれは映画ではない
そもそもなぜ新海誠がアニメ映画作家として評価されているのかがわからないのだが、こんなしょうもないもの作るならサブスクのオリジナル配信でよかろう
わざわざ映画の大スクリーンまで見る必要なんて全くない、当時からそう思い続けていた私は本作の何がいけないのかを改めて見直して分析してみた。
いわゆる考察や読み解きのようなめんどくさいことはしない、というか本作にそんな考察すべき設定や謎なんてないだろう、『エヴァ』じゃあるまいし。

今回見てはっきりしたのは「絵が綺麗」であることと「映画になっている」こととは全くの別物ということである。
細田監督も新海監督も確かに日本アニメにおいて間違いなく欠かせない人材ではあるが、では映画作家として優秀かというと必ずしもそうではないだろう。
とりわけ新海監督に関しては本作で変に大衆人気を獲得してしまったが故の悲劇が露呈してしまったのではないかと思い、些か憐憫の情が湧かないでもない。
別に監督個人に対して好き嫌いといった感情はないが、少なくとも話題作だから良い作品とは限らないのだという通俗的な反面教師としての教訓を突きつけてくれた作品ではある。

演出も脚本も説明的過ぎる

まず全体的に述べると、これは本作に限らない新海作品の特徴だと思うが、演出も脚本も説明的すぎてしまい、最後まで決まり切らないカットが延々と続くのみなのは耐え難い苦痛だ。
本作は東京と糸守という「都会」と「田舎」で対比させながらのわかりやすい構成になっているにもかかわらず、どれ一つとして「お!これは!」と唸るようなカットがない。
引きのカットにしても家庭での食事のシーンにしても「何でその構図でそんな見せ方になるのかな?」という、要するに「わかってないなあ!」と文句をつけたくなってきた。
三葉が食事するシーンや巫女のシーン、機織などのシーンも含めてなぜか妙に斜めから見せていて、なぜ真正面の構図で見せれば良いものをわざわざそんな角度から撮るのかがわからない。

瀧の都会のシーンにしたって、せっかく三葉が入れ替わって過ごしているにもかかわらず、風景はそれっぽくても見せ方や描写の問題として「都会の特色」みたいなものが出ていないのである。
というか、これは後述することとも繋がってくるのだが、このご時世東京や大阪などの都会に対して憧れを持つ田舎者という価値観が古くないか
これは2016年当時しても、そして「現在」としても両方の意味で古い価値観であり、そもそもなぜ三葉が都会を有難がって嬉そうなのかちっとも理解できない。
もちろんその事情に関してはきちんと描写れてこそいるのだが、田舎のしがらみや親父がらみというのがありきたり過ぎて面白みがないのである。

それから時間が経って後半に入る時にも、わざわざ2人が出会って赤い糸を結ぶといったところの下りを入れる必要はないし、もっといえば電車ですれ違うシーンもいらない
そこら辺をカットして2人が大人になって再会したという事実だけをラストカットで示せばそれでよくて、そこに至るまでの2人のやり取りや心理の推移はどうでも良いのである。
映画はあくまで「画面で語る」ものであるからして、とにかく2人の心理描写をやたらにくどくどとねちっこくやるのはリアルタイム当時から全く私の肌に合わなかった。
北野武監督が「本当に大事なものは敢えて見せない、もしくは引いて撮る」といっていたが、本作にこそその重要性を叩きつけたくなってしまう。

2人が入れ替わる必要性のなさ

次に瀧と三葉が入れ替わってわざわざお互いがお互いの人生を擬似体験するということの必要性がどこにあったのか、私にはさっぱりわからない。
これなら単に都会の電車で2人がすれ違ったところからの話を始めればそれでよくて、わざわざ学生時代から物語を紡ぐ必要はないのではないかと思う。
そもそも細田守の「時かけ」もそうであったが、単純なボーイミーツガールを描きたいがためにタイムリープや人格入れ替わりというガジェットを使う必要がどこにあるのか?
それこそ「東京リベンジャーズ」もそうだが、どうにもこういう「時間」というものをモチーフにしたSFガジェットが安直に物語の手段として利用され過ぎである。

設定や物語を見るに本作がポスト3.11(東日本大震災)の世界観として震災から人々を救いたいことや立場が入れ替わることを想像したらしいが、所詮それは想像でしかない。
要するに都会っ子の瀧が震災に遭った田舎者の女子高生として生活したことで田舎の被災地への意識を向けたらしいが、瀧は結局糸守という町全体のことではなく三葉のみを心配している。
しかも糸守の人たちは奇跡的に全員助かりましたというご都合設定なのはまあまだ許容範囲として、そこから3.11の本質に切り込んでいくわけでもなく単なるダシに利用しただけだ。
別に正面切って震災に関して考察する映画なんて別に求めていないが、単なるボーイミーツガールを描くためだけに震災を連想させる設定や入れ替わりなんて用いる必要がない。

これだったらまだ瀧と三葉がSNSで知り合った仲で、三葉が災害に遭って家族を失い東京にやって来て瀧と会う設定にした方がスムーズだったのではないか?
で、そこから瀧と同じ高校に通うもクラスで差別を受けてしまい、それを瀧が庇って立ち向かうという風にした方がよっぽど話も画面もスッキリするだろう。
わざわざ入れ替わりにしてすれ違わせる意味が全くわからないが、おそらく新海誠は「秒速5センチメートル」で「すれ違う男女の機微を描く作家」として評価されてしまったのである。
つまり本作は新海誠自身が初期に確立してしまった自分の形式に囚われてしまい、ベタな男女ものを描けないことを大衆相手に露呈させてしまったようなものだ。

「絆」という名のファシズム

私が本作を見ていて一番共感できなかったのは運命の赤い糸という名の「絆」であり、これに関しては私自身がそもそも「絆」を全く信じていないことから来るものだ。

以前に北野武の『あの夏、いちばん静かな海』『Dolls』評でも触れた通りだが、そもそも男女の恋愛や絆なんてものは90年代の段階で成立しなくなりつつあった
社会的にも男女の関係を激変させるような出来事がないからすごくつまらないといっていたが、まさにそれは本作のようなダメな男女の恋愛を描いた作品を見ると余計にそう思える。
神社などが出て来たことから新海誠が本作の男女の関係を成立させるために「神道」のアニミズムなるものを借りてそれを表現しようとしたのかもしれない。

だが、そんな都合のいい神様に自分たちの運命を頼っている時点でどうかと思うし、神道において一番大事なのは「信じること」ではなく「感謝すること」である
常日頃自分が五体満足で生活できること、毎朝早寝早起きで生活できることに対してどれだけ感謝の心を示せるかが大事であり、神頼みになってはいけない。
新海誠はこの辺りの脇が甘く、男女のすれ違いなんてセンチメンタルを売りにしている割には本作のようなものを作るものだから余計にそう思えてしまう。
なんで日本のアニメ作家はこうも男女の恋だの人同士のつながり・絆だのといった何の価値も有り難みもないものを美化したがるんだろうね?

別にそういうものを描くなとはいわないが、こんなものに共感して泣く人が大半だったという事実は本作のような安易さが安直に受け入れられるほど当時の人々の心が弱っていたのだろう。
それこそ私が批判的な『鬼滅の刃』がメガヒットを放ったのと似たような理屈で、あれだってお話のレベルとしては根本的にお粗末で大した中身がないのに、ヒットしたのはなぜか?
理由は単純でコロナ禍による社会と個人の分断とアニメ制作会社ガチャに恵まれたからであって、原作のあの画力に物語では感動できないのをアニメ会社がだいぶ綺麗にしたからだ。
そして大衆というのは自らが弱っているときはこういう救いの手を差し伸べてくれる安易さに対してコロッとやられてしまうのであって、だから本作が大ヒットする理屈は「鬼滅」と同様のメカニズムである。

男女の恋愛なんて所詮は勘違いとすれ違いでしか成り立たない

以上を踏まえ、最終的に本作を見てわかったことは男女の恋愛なんて所詮勘違いとすれ違いでしか成り立たないということである、物理的にも精神的にも。
三葉も瀧もお互いに入れ替わって探しあったが、例えお互いの人生を疑似体験したところでお互いの気持ちがわかるようになったかといえば答えは「No」である。
例えお互いの性別が逆転して生活したところで、お互いに出会いたいとはなっても、それすら所詮錯覚の上でしか成り立っていない。
そもそも新海誠は男と女という生き物が構造はもちろん性格も感じ方もその他諸々全く違う生き物であることをわかっているのだろうか?

本作を批判する人たちが口にする「気持ち悪い」という言葉も単なる描写だけではなく、そもそもフィクションで男女がお互いに入れ替われば気持ちがわかって恋愛が成立すると勘違いしていることにあるだろう。
どれだけ疑似体験したところで瀧は瀧であり三葉は三葉、要するにその人格以外にはなり得ないのであって、よくある人格入れ替わりネタをこんな風にシリアスで使われても全く刺さらない。
そもそもああいう人格入れ替わりネタは一発ギャグや小話としては使えたとしても、それだけをもって映画として成立させることは無理である。
ましてや本作は上記したように風景や背景がどれだけ綺麗でもカット割りや演出があまりにもダラダラしていて締まりがないので「これは映画とはいえない」になってしまう。

そんなものを104分も延々と見せつけられるのは苦痛と退屈以外の何物でもなく、よくこんなもので感動できる人がいるものだと逆に感心した次第である。
取ってつけたように盛り込まれた政治劇だの震災だのといった設定以上に私が気になったのはそこであり、そこを蔑ろにしたまま再会まで持って行く流れには違和感しかない。
作家は経験したこと以上のものは描けないというが、本作は正にそれであり、経験したことがない人格入れ替わりを本格的に劇に仕立てて描こうとして失敗した見本市であろう。
それならいっそのこと2人が再会したかどうかをぼかした方がまだ締まったと思うのだが、大衆性を得るに連れて新海誠の作品は下品な画面になっていったようだ。

映画に「救い」「共感」なんて必要ない

まとめに入るが、本作のような作品を見るにつけて言いたいことはそもそも映画に「救い」「共感」は微塵も要らないということだ。
映画や芸術といったサブカルチャーはあくまで「楽しむ」ため、あるいは「驚く」ことが前提にあるわけで、単に物語で納得できるならば映像にする必要はない。
実際、新海誠の作品は昔から今まで「物語」「心理」の人であって、どんなに絵が綺麗でも「映画作家」ではないと思えてしまった。
それに加えて深夜枠でアンダーグラウンドに活動していた人がその作家性を拗らせたまま大衆人気を得たらどうなるのか?

本作はその意味で典型的な「話題性は得られたものの、その場で一回きり消費してしまえばいい作品」でしかなく、そんなものは真の名作になり得ない。
こんなものに賞をくれてやること自体が日本に限らず映画史にとっては恥でしかないと思うのだが、まあそもそもアカデミーからして公平な受賞がなされたことなんか一回もないしな。
とりあえず目先の利益さえ得られれば後はどうでもいいのだろうし、もっといえば「鬼滅」も本作と似た末路を辿るだろうという予感がする。

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