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『侍戦隊シンケンジャー』論考第二幕〜「侍とは何か?」を背景設定含めて考察!意外に設定は穴だらけで詰められていなかった!?〜

YouTubeでの配信を終えた『侍戦隊シンケンジャー』についての論考第二幕となりますが、今回の議題は「侍とは何か?」に関する背景設定も含めた考察です。
2年前に書いた「シンケンジャー」の感想・総括・批評ではあえて「面白いかどうか」を対象としているので考察の対象からは外した「侍とは何か?」について背景設定周りを含めある程度の回答をこちらで出します。
かなりSF的なガジェット・ギミックをはじめ小林靖子脚本らしく背景もキャラも濃厚な本作ですが、全体を俯瞰して細かいところを見ていくと意外に諸設定が詰められておらず穴だらけではないかと思いました。
少なくとも『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』『星獣戦隊ギンガマン』辺りに比べると作品全体の完成度はもちろん設定が必ずしも完璧とはいえず荒削りで未消化になってる部分が沢山あります

視聴者はどうしても「小林靖子脚本だから」という一種のバイアスというか色眼鏡がかかるし、その中でも特撮ファン・オタクという人種は語られていない部分を脳内で補完してしまうものですからどうしても主観が入ります。
今回の論考では主題となる「侍とは何か?」も含めた背景設定に関して改めて向き合い、なるべくそういった脳内補正による解釈が発生する余地がないように解像度高く読み解いていければという次第です。
前置きはこれくらいにして本題に入りますが、ここからは「だ・である」調で書きますのでよろしくお願いします。


「シンケンジャー」における侍とは何か?メインとなる「殿と家臣」の主従関係を考察

そもそも「シンケンジャー」における侍とは何か?だが、当然ながらNHK大河ドラマで描かれる史実に忠実な一般的なイメージの「侍」ではないことくらいは誰でもお分かりであろう。
脚本家の小林靖子は時代劇趣味でそれが脚本家としての個性にまでなっている人だが、あくまでも「趣味」でしかなく「様式美」としてのチャンバラ時代劇の台詞回しや外連味などが好きな方である。
彼女が「刀剣乱舞」のような「ファンタジーとしての時代劇」は手がけてもNHK大河ドラマに行かないのはそういう理由によるものであろう。
ましてやスーパー戦隊・仮面ライダーのような子供向け番組だから未就学児童にもわかるように複雑さを排除したシンプルなものでなければならない。

したがって、主題歌の2番にはこのように定義されている。

侍とは裏切らない一度誓った仲間のこと

これは明らかに一般的なイメージの侍ではなく「戦隊=仲間」としての侍であり、ただし他の戦隊と差別化を図るために「裏切らない一度誓った仲間」というのである。
その「裏切らない」「一度誓った」という部分を強調するために出てくるのが「殿と家臣の主従関係」なのだが、これもいわゆる従来の時代劇で描かれるような家臣が殿の前で傅くというものではない。
もちろんOPで殿を前に4人が傅くカットが描かれていたが劇中ではそのようなことを律儀にやっているのは殿への忠義が暴走気味のシンケンブルー/池波流ノ介位のものであろう。
イエローのことはも殿シンパだが流ノ介ほど過剰に入れ込んでいるわけではないし、ピンクの茉子はあくまでも後ろから俯瞰する中立派、そして千明が殿に反抗的な抵抗勢力である。

そしてまた「殿と家臣の主従関係」を考える上で大事なのは「御恩と奉公」なのだが、例えば同じ小林靖子の『星獣戦隊ギンガマン』の2クール目で出てきたブドー魔人衆はまさにこの仕組みで動いていた。
ブドーの配下たちはいわゆる「家臣」でありブドーを殿・主君として立てており、巨大化する際にも「せめて最後のご奉公」と言っているのだが、「御恩と奉公」に関してはこちらから引用させていただこう。

御恩とは、主人が従者の土地の所有を認め、その土地をめぐって別の者との間に紛争が起きたときに従者の側に立って解決を図ることを意味します。一方で奉公とは、主人が戦うことになったとき、主人のために命をかけて戦うことです。

殿と家臣の間には土地の所有を巡り、主君の為に命をかけて戦いその報償として土地の所有権を殿が家臣に与えるのだが、「シンケンジャー」の殿・姫と4人の家臣たちにはそのような「御恩と奉公」は存在しない
そもそも当の丈瑠自身が第一幕でそう言ったものを「時代錯誤」と切り捨てているし、終盤で真の当主として出てきた薫姫も自分の立ち居振る舞いを「丹波のせいですっかり時代錯誤だ」と自覚している。

つまり「シンケンジャー」で定義される「主従関係」にはかつて存在していた「御恩と奉公」の「御恩」の部分が抜け落ちて「奉公(家臣が主人の為に命をかけて戦うこと)」の部分のみが残った
とはいえ、それを何のひねりもなくストレートに描いてしまうと、同時配信していた『超力戦隊オーレンジャー』がそうであるように、4人の部下が隊長を無条件で持ち上げる宗教(教祖と信者)になってしまう
小林靖子は初メインの「ギンガマン」もそうだし「タイムレンジャー」もそうだったが、主人公のレッドの格をきちんと立てながらも、他のメンバーたちがそれを無条件に持ち上げる構図には絶対しない。
同じ組織で動く仲間であったとしても、考え方も性格も戦いに対する姿勢や温度感も全く違っていて、だから「シンケンジャー」における殿と家臣も「裏切らない一度誓った仲間」と定義している。

多くの視聴者はまずこの「殿と家臣の主従関係」について考察をきちんと深めないままそれが従来の時代劇とはどう異なるかを考えないから、本作を語る上での論調が大同小異のものばかりになってしまう。
まずはこの「シンケンジャーにおける侍とは何か?」「殿と家臣の主従関係が劇中の実態としてどう描かれているのか?」について、最低でもこの辺りまでは視野を広げ歴史に遡って考察する必要があるだろう。
愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶというが、やはり何事も過去までさかのぼって現在に関して調べてみるというアプローチを取ることは絶対に必要である。

シンケンジャーの「モヂカラ」について考察

それでは次に「シンケンジャー」におけるSFガジェットである「モヂカラ」とについて考察していくが、実はこれらも厳密な定義がなされているとは言い難い。
これは『電撃戦隊チェンジマン』のアースフォースや『星獣戦隊ギンガマン』のアースと比べてみるとより鮮明に「モヂカラ」との大きな差がわかるであろう。
例えば「チェンジマン」のアースフォースは歴代初の「地球の意思が防衛反応として戦士に貸与した神秘の力」という「ガイア理論」を組み込んだ作品であり、地球が壊滅の危機にあった時にアースフォースが発動して地球が救われたことが語られている。
その残された文献に基づいて地球平和守備隊内に巨大設備を事前に整備したわけであり、つまり第一話〜第二話の時点で「星を守るのに絶対必要な力」であることが映像としても物語としてもわかりやすい。

そしてその「アースフォース」から「フォース」というブラックボックス的な胡散臭さが抜け落ちファンタジー戦隊らしい「大自然が銀河戦士に貸与する神秘の力」へと具体化させたのが「ギンガマン」に出てくるアースである。
第四章『アースの心』を見ればわかるが、アースは銀河戦士であるリョウマたちが大自然への畏敬の念を忘れずに謙虚に「星を守りたい」という想いの強さに反応して扱える力も上限なく膨れ上がっていく。
とはいえリョウマたち銀河戦士は決して完全無欠の存在ではないから膨大な星の力を全て引き出して使いこなせるわけではなく、だから彼らにはそれを星の力ごと扱える「星獣」という存在が必要である。
これは「オーレンジャー」で未消化に終わってしまった「超力」という古代のオーパーツをブラックボックスで済ませずにいかに「既知の力」へと落とし込むか?ということのリターンマッチ(雪辱戦)でもあったのだろう。

だから「ギンガマン」の星獣とアースを持っていわゆる戦隊シリーズに出てくるオーバーテクノロジーを作劇にいかに落とし込むか?は1つの完成を見たわけだが、「シンケンジャー」のモヂカラは翻ってこの辺りの定義の詰めが甘い
名前の通り「モヂカラ」とは「文字を具現化する力」のことであり、例えば「馬」と書いたら馬が出てくる一種の魔法のような力ではあるが、ではそれがいつどのようにして発明され発展を迎えたのかに関しては掘り下げられないままである。
例えば梅盛源太の「電子モヂカラ」のような現代のITを用いた違う種類のモヂカラがあることや牛折紙の回で出てきた榊家のように過去の文献では丈瑠たちが使っているモヂカラとは違う種類のものが劇中で登場することまで語られていた。
しかしそれが例えばかつてのアースフォースやアースのように地球という星を守るに必要な絶対の力かというとそこまで厳密な定義はなされていないし、またそれが組織に属する力か個人に属する力か、メカニズムがわかりやすいようで実はわかりにくい

この辺りに関しては小林靖子というよりも宇都宮孝明プロデューサーに原因がある気がする、彼自身の敢えて余白を残して細かく設定を詰めないというやり方が却って裏目に出てしまったと言えるだろう。
だから「シンケンジャー」に出てくるモヂカラはその視覚的効果やメカニズムは明確に描かれているし対外道衆特化の力であることは判明しているが、では必ずしも星を守る力であるという必要十分条件を満たしているかというと、断定はできない。
個人的に「シンケンジャー」を歴代最高傑作と諸手あげて断定できない理由はここにもあり、シリアスな物語を志向した割にはモヂカラを中心としたSFガジェット周りの設定が曖昧で細かく詰められておらず、脇が甘い

シンケンジャーの世襲制に関する考察

「シンケンジャー」は「カクレンジャー」「ギンガマン」と同じように「世襲制」であることが語られており、現代の丈瑠たちは十八代目(終盤で十九代目)であることが語られている。
「カクレンジャー」では現代の鶴姫が二十四代目、そして「ギンガマン」ではリョウマたちの代が百三十三代目であることが語られていて、世襲制で一番歴史が長く継承がしっかりしているのは「ギンガマン」だ。
そしてまた、「カクレンジャー」が1994年から400年前の1594年の戦国時代、「ギンガマン」が1998年から3000年前の紀元前1002年、「シンケンジャー」が2009年から300年前の1709年の江戸時代が初代と定義されている。
したがって、これを割り算してみると実は一代が何年単位で戦っているのかがわかる仕組みになっているのだ。

  • 「カクレンジャー」の場合……400÷24=16.7(四捨五入)、すなわち一代16〜17年

  • 「ギンガマン」の場合……3000÷133=22.6(四捨五入)、すなわち一代22〜23年

  • 「シンケンジャー」の場合……300÷18=16.7(四捨五入)、すなわち一代16〜17年

こうして見ると、国籍が日本ではない戦闘民族たる銀河戦士たちに比べて国産の忍者・侍たちは世代交代の感覚が短いのだが、理由としては「ドラゴンボール」のサイヤ人と地球人の違いのようなものだろう。
『ドラゴンボール』の最後の方でベジータが「サイヤ人は戦闘民族であるために若い時代が長い」と言っていたが、銀河戦士たちはおそらくその理屈で現代日本から隔絶したギンガの森に住み、長く戦える体質であると思われる。
対して純日本人(まあ約1名日系外国人だが)である忍者と侍の末裔たちは銀河戦士のような純粋培養の戦闘民族体質ではないために、代替わりが激しく戦いのサイクルが早まっているのかもしれない。
その上で「シンケンジャー」の世襲制に関してだが、実はこの辺りの「どのようにして親から子へ、子から孫へ継承されているのか?」という背景設定に関しては厳密に定義されていないのである。

モヂカラの項目で述べたように侍として戦っていた丈瑠たち以外の家系でも特殊なモヂカラの家系があることが描かれていたし、かと言ってその家系が外道衆と戦っているかというとそうではない。
殿と姫の関係性がそうであるように影武者=代理人を表向きとして立てて戦うことなどから恐らくは志葉家を除くと「何が何でもこの家系」というような縛りはないのであろう。
また、だからと言ってギンガの森の民みたいに1つの閉じたコミュニティの中で長い期間をかけてその思想や戦闘技術を熟成させて継承したわけでもないし、かと言って「カクレンジャー」みたいに孫たちがちゃらんぽらんなわけでもない。
まあ恐らくは「ギンガマン」ほどガチガチの継承ではないけれど、だからと言って「カクレンジャー」ほど継承が杜撰なわけでもないという間の子みたいな感じで描かれているという解釈でいいだろう。

だが、ここで不思議なのは特に丈瑠・茉子・薫辺りがそうだが目の前で親が無残にも外道衆との戦いで傷つき死んだり廃人になったりしているのを見て「復讐」という要素が浮上しないことである。
例えば「カクレンジャー」では鶴姫家の父親と大魔王様の関係性から生じた鶴姫の「復讐」という要素が終盤で描かれていたし、「ギンガマン」はそれこそ黒騎士ブルブラックが「復讐」という要素を抱えていた。
「シンケンジャー」にはそういう世襲制を組んでる戦隊に発生しがちな「過去のカルマから生じた怨恨としての復讐」という要素がなぜか全くと言っていいほど描かれないのである。
少なくとも殿と姫あたりはドウコクに対して「先代の仇!」と復讐に血走ってもおかしくなさそうなのだが、この辺りについての議論はいまだに十分になされないままであり、今後も考察の余地があるだろう。

「シンケンジャー」は本当に緻密な「大人の鑑賞に耐え得る名作」なのか?

こうして振り返って見ると、「侍とは何か?」を背景設定含めて考察してみたが、「シンケンジャー」は本当に緻密な「大人の鑑賞に耐え得る名作」なのか?という疑問がますます湧いてくる。
ほとんどの視聴者はどうしても「殿と家臣の主従関係」とか終盤の「影武者」ネタばりを取り沙汰し、いかにそれに向けて伏線を用意周到に仕込んだ小林靖子が素晴らしいとか役者が素晴らしいとかしか語らない。
だから毎回似たような論調の考察・批評ばかりで幅がなく面白みがなかったのだが、今回はその「シンケンジャー」のファンジンが語ってこなかった部分に関して突っ込んで考えてみた。
すると、侍と主従関係に関する定義といい、モヂカラといい世襲制といい、意外と穴だらけの設定であり脇が甘いよ宇都宮Pと小一時間問い詰めたくなような作品であることがわかるだろう。

今回の試みはある意味で「シンケンジャー」にずっと放送当時から纏わりついていた「歴代最高傑作」「大人の鑑賞に耐える名作」という神話を1つ外の部分から引き剥がし解放しようという試みである。
「大人の鑑賞に耐えうる名作」かというと、意外にそうでもなくやはり細かいところできちっと詰め切っていないが故にどうしても「傑作」の領域にまでは昇華されていない。
とても一方通行で投げやりに終わっている突貫工事な設定も多く存在しており、背景設定や物語が濃厚な割にはこうした細かいところの配慮がいまいちな部分が多いのである。
ここをもっともっと深掘りしていくことでこれまでとは違った「シンケンジャー」の新しい視点での考察・批評は出来てくるはずであり、肯定するにせよ否定するにせよそこから考えなければならない。

まず間違いなく「歴代最高傑作」というのは明らかな過大評価である、そこから改めることで「シンケンジャー」の論考が可能であろう。

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