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素質は十分にあると思うし目の付け所も凄いが、東大向きではないと思った受験生版Tiger Funding中島隆誠くん回

非常に面白いと思う反面、とても勿体ないなあと思ったこの回の受験生版Tiger Fundingだが、ある種の限界と共に今後こうしたらいいという改善点も見えた回だった。
何が勿体ないかというと、まず単純に虎側の6人(岩井社長・ドラゴン細井・高田史拓・伊澤航太郎・コバショー・中園佳幸)が芸術にあまり精通していないということだ。
映画でもアニメでも漫画でもなんでもいい、サブカルチャーに対してそれなりに通じている人であれば、作品の思想面はともかく彼の表層の思想ややりたい方向性はある程度理解できる
17歳にして学校に対して持っていた憧れと現実のギャップに苦しんで苦悩・葛藤し自分が求める「自由」を美術という創作形態を通じて発信したいという発想に至るのがまず面白い。

細井先生はただただ「天才」「超越している」といった言葉で賞賛していたが、私から見ると中島くんは現段階ではまだ「センスがある」「ポテンシャルを感じさせる」の領域に留まっていると思う。
村上隆というアーティストに弟子入り(?)して思想を継承するのはいいと思うが、それでもまだ芸術作家として活躍するには色々と足りていないものがあるのでは?とも感じられた。
私が虎の立場だったら、もっと深く突っ込んで「表象文化論」「スーパーフラット」という思想に関して突っ込んで掘り下げるだろうし、それこそ単純に中島くんの好きな作家・作品についても聞いてみたい。
彼自身もいっているが、芸術は須らく模倣から始まる訳であり、現段階で彼が村上隆以外に影響を受けた作家・作品がどれだけあるか?ということを聞くのは大前提ではなかろうか。

それから、最終的に映画監督を目指すのであれば、現在どれだけの映画監督を知っていてどれだけの作品を見ているか、自分が撮りたい映画に関する具体的なイメージがあるかどうかも私なら尋ねるであろう。
以前も述べたように、映画監督になるにあたってまず大事なのは「過去の映画をどれだけ見込んでいるか?」が1つの条件としてあって、「サイレント映画を一本も見たことない人が映画を撮ってはならない」と言われている。
もちろん、中には北野武のように映画をほとんど見たことがなくても独自の表現方法・世界観をしっかり持っている映画監督もいるが、北野監督の場合は例外的な映画作家であり、系譜となる監督はほとんどいない。
強いて言えば大島渚・黒澤明・深作欣二・勝新太郎辺りが影響を受けた映画人として挙げられるが、それでも北野監督独自の「北野ブルー」をはじめとする作家としての演出技法・ショットは既存の映画の系譜にはない

その点、中島くんに関しては明確に村上隆の系譜であることを明言しているので、まずは村上隆の著書・映画作品などを辿ればそのルーツを確認することはできるが、これだけだと正直厳しい。
私自身も現在サイレントから何から見れる映画は見ていっているが、本当に映画監督として世界に羽ばたきたい、カンヌレベルで活躍したいのであればサイレント映画を一本でもいいから見て欲しいと思う。
おそらく見ているとは思うが、そういった「具体的にどの作品・作家を見ているか?知っているか?」の質問をする人が虎側に誰もいなかったので、彼自身の魅力が深掘りできていないように思われた。
そのせいか、語る言葉も会話のキャッチボールもどこか表面的(not表層的)で、最終的に「何かわからないが、とにかく凄い人」という上っ面のイメージだけが先行してしまっているようにも感じられる。

こちらが現在の東大の表象文化論の教授陣だが、村上隆の日本的スーパーフラットを源流として持つ彼の思想に近い教授は日本映画専門の研究をしているマチュー・カペル辺りであろうか。
もしくは美術に特化するのならば加治屋健司辺りも中島くんの思想と親和性があると思われるが、その辺りの「なぜ東大の表象文化論コースを目指そうと思ったのか?」がこの動画ではいまいち不明である。
個人的に「制度」という言葉や「批評言語の確立」といったところから、やはり連想されたのは元東大総長の蓮實重彦や「動物化するポストモダン」の東浩紀辺りだが、彼はもしかしてそれを知っていたのか?
蓮實重彦の『表層批評宣言』という著書には「制度」という言葉がキーワードとして出てくるのだが、中島くんの使っている「制度」とは似て非なるものなので、その辺りの相関性の有無も知りたかった。

ただ、性格や語り口なども含めて考えると、中島くんはどちらかといえば東大の表象文化論よりも東京藝術大学や日大の芸術学部の方がどうも向いているのではないかと思えてならない。
徹底した内面を擬人化して「俺」を私小説として突き詰めることで自己超越を表現するというのは表層的なものというよりは深層に及ぶものであり、少なくとも触覚や視覚を重視する表層批評とは異なるであろう。
中島くんはおそらく思想や表現などの芸術方面の才は突出して凄いと思うし思考のレベルも高いのだが、反面客観性を伴う自己分析に関しては必ずしも得意とはいえないところがあるようだ。

上層にあるプラット「路線図」にフォーム「枠組み」を取り付けて平面化した逃げ場であるプラットフォームは、世界が消滅した、と思っている私たちのほうを疾っくに消去している

リアリティが遊離した空洞の線的なフォームは、不恰好な再現物になってみせようと試みて、輪郭をもった平面を想定するが、実体は無慈悲にその語りかけを無視して置き去りにし、すでに彼方に定住している。そのさびしさをこれまでずっと血なまぐさく嘆きつづけてきた糾弾の声は、二十一世紀に反響するが、私たちはそれでもなお、その呼びかけによってだれも振り返りはしないことに絶望するほかない。

彼のホームページにはこのような文章があったが、彼が使う「プラットフォーム」は一般的な意味での「プラットフォーム」とは明らかに意味合いが異なっている。
動画では電車のプラットフォームとSNSを例に出していたが、コロナ禍によって我々の社会や世界を構成していたと思しき共通の土台が実質の「死」「終焉」を迎えたと言いたいのであろう。
インターネットという仮想空間を作り、誰もが気軽にアクセスできるようになった仮初のプラットフォームであるネットインフラともいうべきものは実はとっくに壊れており、私たち個人を置き去りにしてしまっている。
アナログな現実社会の「集団」「組織」が「共同体」としての機能を喪失し、ネットのSNSという人同士が気軽に繋がれると思っていた偽のプラットフォームの中には実体がないのだとも。

そんな現実世界すらがもはや「架空」と化していることに気づかないまま過ごしている私たちを、この無慈悲なデジタル社会は置き去りにし、私たちはそれに絶望するしかないのだと彼はいう。
まあ何となくであれ、彼が言わんとすることは主張できるが、それを個人の視点から突き詰めて幾分感傷的に表現しているところが中島くんの立場ではないだろうか。
彼は「Z世代は言葉の有効性を喪失し、スマホ(=デジタル機器)の有効性に縋り付くが、それですらも所詮「コード」であり「無効」だった」という言葉に置き換える。
他者との繋がりが物理的にも精神的にも希薄化し、徹底的に「孤独」と向き合わざるを得ない現代社会を彼は美術を通じて表象しようとしているのだと私は思う。

17歳にして世界というものをここまで高い解像度で見ている彼の才能たるや素晴らしいが、これが本格的に才能として開花・爆発していくかは誰にもわからない。
ただ、彼の残している作品や文章・身振り手振りの断片をみると、不思議と「Z世代には世界がこう見えているのか」という妙な説得力がそこに垣間見えるようだ。
これは私のようなプレッシャー世代にはわからない感覚であり、伊澤社長が言っていたように、是非この世界観を突き詰め、もっと映画や美術の歴史を勉強していって素晴らしいアートを作り上げて欲しい
こういう才能をこそもっと育てて社会に存在させることにこそ、芸術やそれを批評する人たちの存在意義があるのではなかろうか。

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