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『えんとつ町のプペル』感想〜西野亮廣はクリエイター(作家)ではなくマーケター(プロデューサー)〜

遅まきながら『えんとつ町のプペル』を見たので感想・批評をば。
とても辛口な評価になっているので、西野亮廣や「プペル」のファンの方々は気をつけてご覧になってください。

評価:D(凡作) 100点中50点

本作を改めて見て思ったことは「西野亮廣はクリエイター(作家)ではなくマーケター(プロデューサー)である」ということだ。
だから純粋な「映画」として見るのであれば本作は一顧だにする価値のない、文字通りゴミ人間が作った作品なのだが、まずここまで作り上げた西野亮廣の手腕に感動する。
しかし同時に思うことは頼むからこんなのを「映画」と言わないで頂きたいし、できることなら絵本作家・ビジネスパーソンとして分を弁えて頂きたく願う
何やらディズニーを倒すことが目標らしいが、手塚治虫・宮崎駿といった先人ですら倒せなかった巨大なディズニーを倒すだなんて烏滸がましいにも程がある

誤解のないように弁明させていただくと、私自身は西野亮廣のことは別に好きでも嫌いでもないが、「天才」であるということはわかるしそこは認めよう。
だがそれは「マーケター(プロデューサー)として」であって「クリエイター(作家)として」では断じてない
著作も何冊か拝見したが、動画などでの立ち居振る舞いを見るに、この人の自惚れと断定しても差し支えない自信過剰な感じは私は好みではない。
何故ならばああいう態度はクリエイターとしては相応しくないからであり、この人の中には「恐れ」「謙虚さ」が1ミリも存在していないのだと感じた。

なので今回の評価は「プペル」そのものよりも西野亮廣個人の評価が中心になるが、本作に関してはどうしても作家と作品を切り離せないのでご容赦頂きたい。

西野亮廣はマーケター(プロデューサー)

まずタイトルでもお伝えした通り、西野亮廣はマーケター(プロデューサー)であるというのが私にとっての西野亮廣の印象である。
冒頭に添付してあるwin win wiiinの西野回を見ればわかるが、西野亮廣の天才性とはあくまでもビジネスパーソンとしてだから作家ではない
これは持論だが、クリエイター(作家)と呼ばれる人たちは私はどこかで謙虚・臆病だしそうあるべきだと思う。
まあわかりやすい例は北野武だが、彼は「自分ほどの臆病者はいないのではないか」という位に画面に対しても圧倒的なエネルギーと同じくらいの怯えがある。

その怯えが1つの情念・覚悟として昇華されかの「北野ブルー」と呼ばれる独特の演出につながっているし、他の映画作家も大体似たようなものだろう。
発言などを見ていると野心家だし自信家であることは伺えるが、一方で「生みの苦しみ」「作品制作への恐怖」といったものが画面からは感じられない
それもそのはずだ、西野亮廣のようなマーケター(プロデューサー)は自信満々である方がいいに決まっているからである。
現にYouTuberだとヒカル・DJ社長・シルクロード辺りがそうだが、自信満々に見えるあの人たちは役割としては拡散能力の高いプロデューサーであって作家ではない

YouTubeというプラットフォーム自体がある種のタレント性を求めているから演者として活動しているが、この3名や西野に共通しているのは「裏方気質」ということだ。
芸能界でいうなら秋元康のようなポジションであり、自分が作家となっていろんな作品を作るのではなくそういう作家やアイドルたちをプロデュースしていく仕事である。
西野亮廣は正にお笑い芸人における「マーケター(プロデューサー)」の開拓者であり、だから北野武や又吉直樹のような「作家」と呼ばれる人たちの範疇には入らない。
絵本にしたって最初は一人で作っていたのに途中からディズニーやハリウッドのような分業制制作というやり方をとっていることからもそれが伺えるであろう。

真に革新的だったのは作品ではなくビジネスモデル

そんな西野亮廣がこの『えんとつ町のプペル』という作品において革新的だったのは作品それ自体ではなく、映画化するまでのビジネスモデルである。
クラウドファンディング・オンラインサロン・分業制制作といった風に2010年代の「ネットインフルエンサー」としての時代の流れに西野亮廣は上手く乗った。
そして闇営業を避けるためのシルクハットやレターポットなどの発明品もお金儲けの仕組みとしては画期的であり、こんなビジネスモデルをやった芸人は1人もいない。
それこそ、ネット時代の黎明期と呼ばれるホリエモンや孫正義でさえこんなことはやっていなかったから、正に「天才」としか言いようがないだろう。

映画化することを前提にした時に通常の絵本のような平べったい二次元の絵ではなく、映画っぽいカット割にすることで三次元性を持たせることができた。
自分が絵を描くのではなく、それぞれ絵描きの天才にお任せした上でネット上で無料公開することによって斜陽化していた絵本業界も潤わせた。
2020年になるとちょうどコロナ禍で失業している人に割り振ることも出来るため、結果論ではあるが人助のようなこともやっているのである。
北野武が「映画作家」として、又吉直樹が「小説家」としての先鞭をつけたお笑い芸人ならば、西野亮廣は「ネットビジネス」の先鞭をつけた人なのだ。

ただ、この手法は日本初ではあったとしても世界初ではない、なぜならば西野がやった手法はもう既にアメリカのウォルト・ディズニーが1世紀近くも前にやったことだからである。
そう、忘れもしない1937年に世界で初めての長編アニメーション映画『白雪姫』を作り上げたディズニーだが、ネットも何もなく映画もまだ歴史がそんなにない時代にこれを遣って退けたのだ。
元々は子供向けのグリム童話・絵本を映画化することもそうだが、それ以上に絵本から映画制作に社運をかけて挑戦し見事に大成功を収めたことが何より革新的だったのである。
実は西野亮廣がやったことは既に昔行われていたことなのだが、これが100年近く経ってようやく実現した辺りに日本の創作業界の御里が知れるというものだ。

良い作画であったが「ショット」が撮れていない

この前提を踏まえて「プペル」を評価するが、作画・音楽・演技・演出は全体的に高いクオリティーであったが、残念ながら「ショット」が撮れていない
映画っぽいカット割にはなっているのだが、そのことと「映画」になっているかは別物であり、残念ながらそのハードルは超えられなかったように感じる。
脚本自体は問題なかった、絵本が元になっているだけあって話は分かりやすいし、芦田愛菜を始め声優の演技が上手いのでキャラ自体には感情移入出来るだろう。
だが、映画にとって決定的な「これはすごい!」と思わず唸ってしまうようなショットが1つもなかったのは映画としての致命傷ではなかろうか。

最近見た「スーパーマリオ」は問題点がないわけではないものの「映画」にはなっていた、きちんと「ショット」が撮れていたし画面を止めなかったから。
一方でこの「プペル」は物語のメッセージ性などはわかりやすいものの、止めの絵にしろ動きにしろ「こんなの見たことない!」という絵が存在しない。
どれもやはり絵本の中の1ページからそのまま出ましたという感じで、CGでほぼ綺麗な絵にしてしまっていることがかえって良くなかった。
ディズニーの「白雪姫」「ファンタジア」あたりの初期の傑作と明確な差がついたのはそこであり、これでは「映画」とはいえないであろう

ホリエモンによるとめちゃくちゃ感動的だったらしいが、こんなもののどこに感動できる要素があるのか私は甚だ疑問である。
物語やキャラクターが内包する心理描写メッセージ性だとしたら、そんなものは映画じゃなくて絵本を見るだけで十分であろう。
映画とはあくまでも「画面の運動」なのであるから、文章で書けないものを示して唸らせてくれないと困る。
絵が綺麗なだけだったらピクサーでも十分だし、これならまだ新海誠や庵野秀明の方がマシではないかと思えてしまった。

西野亮廣は映画史の流れを変える人ではないと感じさせた処女作

以前に「処女作にはその作家の全てが詰まっている」と述べたが、西野亮廣の映画作家としての処女作がこれならば、到底ディズニーには勝てない
少なくともウォルト・ディズニーがいた時の初期の傑作群が今現在にも時代を超えて示してくる神話と普遍性を西野が超えることは不可能だ。
別に才能の全てが開花する必要はないが、少なくともこの作品が映画史の流れを変える決定打にはならないし、また西野自身も映画史の流れを変える人ではないだろう。
世界の黒澤や世界の北野に続く「世界の西野」という評価は残念ながら貰えないだろうし、先人がやってきた作家としての偉業はそうそう超えられるものではない。

現に公開から2年半も経っているにも関わらず、映画業界の著名な人たちが誰もこの「プペル」や西野亮廣に対して反応していないではないか。
彼の作品やビジネスモデルを褒め称えたのは鴨頭やホリエモンなどの起業家周りの人たち、またはカジサックやヒカルなどの西野亮廣大好きな人たちである。
まあ西野自身もそれはわかっているだろうから、あくまでも「マーケター(プロデューサー)」としての評価に留めておこう。
だが、少なくとも本作をまともな「映画」としては見れないし、西野亮廣を「映画作家」と見なすことは私にはできない


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