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日本における「神道」と「宗教」の違い〜日本で「宗教」が定着しない理由は「信仰」が目的ではなく手段だからである〜

ここ最近、映画視聴と兼ねて「神道」について少しずつ勉強しているのだが、考えてみると日本とは不思議な国で「宗教」というものが定着していない
いや、定着していないというより、定着自体はしているのだが必ずしも「信仰」「教義」そのものを「目的」とはしていない
だが、子供の頃に神社を参拝する時によく「二礼二拍手一礼」を親や先生から教えられたり、あるいは「万物に命は宿るのだから物を大事にしなさい」と教えられたであろう。
あるいは道徳・現代文・古文・漢文の中にあらゆる儒教やアニミズム(自然信仰)の考えを説く題材のものが織り込まれているのも、実はこの方法自体が日本ならではの「宗教」のあり方なのだ。

海外では世界三大宗教(キリスト教・イスラム教・仏教)があり、日本はこの中でアジア圏ということもあり「仏教」がメインの宗教だと信じられているが、これも実は違う。
仏教は元々インドの釈迦を開祖とする宗教であり日本で長く親しまれてはきたが、それらがいわゆる「神道」のアニミズムとの関連性があるものではなかった。
また、仏教にも様々な神様がいても最終的に釈迦が教典であるのに対して、神道にはイザナギ・イザナミをはじめとする八百万の神はいても、どの神様が絶対だという教えはない
キリスト教の場合はイエス・キリストか聖母マリアへの信仰を、そしてイスラム教が唯一神アッラーへの信仰を強く幼少期から習慣づけているが、神道にはそういう考えがないのである。

日本において神様というのは「捨てる神あれば拾う神あり」という諺があるように、神様も多種多様で酷い神様もいれば優しい神様もいるという相対的な考え方だ。
また「触らぬ神に祟りなし」「仏ほっとけ神かまうな」という諺からも神様というのを絶対的なまでに偶像崇拝するような考えというものは昔から存在していない
天皇にしたってあくまでも「象徴」としてそこに置かれているのみで、必ずしも普段から我々が意識して天皇家の方々を信仰して生活しているわけではないのだ。
日本にとって神様とは「英雄」と「魑魅魍魎」という2つの側面を持った存在であり、感謝こそすれ盲信や偶像崇拝といった概念はそもそもないのである。

特に欧米諸国と日本で決定的に違うのはそこであり、海外では神様への信仰が「目的」となっているが、日本では信仰は「手段」でしかなく絶対視はしない。
よく1つの作品や1人の作家、あるいは特定の芸能人に対して猛烈に入れ込んでいる人たちのことをネットでは嘲って「〇〇ファン」ではなく「〇〇信者」「〇〇厨」という言い方をする。
「〇〇厨」の「厨」とは「厨房=中坊=中学生のような未熟で迷惑な奴」と「中毒者」という意味合いもあって、民度の低い人を批判する時のレッテルとして用いられてきた。
「〇〇信者」も批判・揶揄の意味合いが強いのだが、なぜ日本で「信者」が蔑称として使われるのかというと正に神様を熱狂的に絶対視・信仰する文化がないからである。

似たような意味で、ジャニーズをはじめとするアイドルファン・アイドルオタクを「〇〇推し」「〇〇担」という形で使うことがあるが、これもやや否定的・消極的な意味合いで用いられる。
何故ならばアイドルのためにあり得ないぐらいのお金を叩いて応援する活動は正に海外の宗教の有様と何ら変わらず、実はかつての日本にあまり存在しない価値観だったからだ。
それに加え、日本における新興宗教は筆頭に信仰が目的化し営利活動のために過激化していき、何の罪もない無辜の者たちに迷惑をかけることをしてきたのである。
かつての学生運動が犯したのと同じような過ちをオウム真理教や幸福の科学をはじめとする日本の新興宗教は繰り返してきたわけであり、それもまた余計に宗教に対するイメージを悪くした。

よく、人は知らないものや怪しいものを見た時に「詐欺」だの「宗教」だのといった言葉を用いる、今だとオンラインサロンやビジネス系の情報商材や高額セミナーがそれであろう。
西野亮廣やヒカルが教祖・詐欺師呼ばわりされファンの人たちを「信者」と呼んで世間から批判されているのも、そのビジネスのあり方が正に新興宗教のそれと変わらないからだ。
元々は「触らぬ神に祟りなし」でやっていたのに、何故お金を払ってまで特定の個人を教祖の如く崇拝し持ち上げなければならないのかという考えが根底にあるからヒカルや西野は批判される。
そう、「教義」としての宗教が日本に存在しない代わりに、政治・経済・ビジネスといった分野において「目的化した信仰」が存在しているのが現代日本の恐ろしいところだ。

ただ、今までは「臭い物には蓋」ということなかれ主義で「賢い人は政治や宗教の話をしない」としてやり過ごしてきたが、既存の価値観や土台が崩れ始め人々は改めて変化と向き合うことを要求されている。
そこにおいてもはや昭和・平成時代の価値観や考えは通用しないし、今までなら見て見ぬ振りをしてきた宗教や政治の話とも向き合わざるを得なくなるから、ことなかれ主義は許されない
だからこそ私は現在改めて神道を勉強しているわけであるが、いわゆる芸術の批評も今後は単なる蓮實重彦や淀川長治が提唱してきた表層批評だけでは物足りなくなってくるであろう。
単純に表面上の絵の運動を語るだけでは不十分であり、表層に留まりつつ既成の価値観をガラリと変えていくような新しいスタイルの批評を生み出していく必要がある。

それこそ、私が批評の対象としているスーパー戦隊シリーズと話を関連させるなら、スーパー戦隊シリーズにおける「神様」という存在はよくファンからは「無能」「鬼畜」と言われることが多い。
特に『恐竜戦隊ジュウレンジャー』の大獣神や『忍者戦隊カクレンジャー』の三神将、『百獣戦隊ガオレンジャー』のガオゴッドはファンからの評価もよろしくない。
だが、「触らぬ神に祟りなし」「捨てる神あれば拾う神あり」という諺に当てはめるなら、神様が必ずしも人類に味方をしてくれるとは限らないという意味で間違いではないのだ。
問題はそれを人間の視点から見ると理不尽に感じられるだけで、宇宙レベルのスケールで真理を判断する神様の前では人間ごときの物差しなど当てにならないのである。

同時にこれは『ドラゴンボール』と『ドラゴンボール超』の違いにもなっており、原作の『ドラゴンボール』は悟空たちサイヤ人が最終的に神様以上の力を手にして超えていく。
しかし『ドラゴンボール超』では基本的に悟空・ベジータをはじめとする人間側はどうあっても破壊神ビルス・天使ウイスをはじめとする上位の神様たちを超えることはできない
たとえ何者であろうと全王を倒すことができないと設定されているので批判も多いのだが、そもそもよく考えれば人間の分際で神を凌駕するなんて無理な話である
原作漫画の『ドラゴンボール』は子供向けのご都合主義として「主人公が絶対無敵じゃなければいけない」という制約上、最終的に孫悟空が最強じゃないと読者は安心できない。

しかし、『ドラゴンボール超』ではそもそも話の内容もベクトルも『ドラゴンボール』とは完全に違っているので、悟空とベジータが神の気を得ても神様を未だに超えられないのは当たり前であろう。
悟空が原作と性格がまるで異なっているのもそういうお約束や縛りがなくなったことで必ずしも悟空を物語の中心として固定する必要はなく、それこそ「ウイスの掌の上で踊る孫悟空」になったのだ。
ベジータも同じように破壊神ビルスから「我儘の極意」という破壊の力を授かっているにも関わらず、中々神様を超えられないものもまだ「破壊神見習い」の状態だからである。
つまるところ『ドラゴンボール超』とは悟空とベジータが改めて「サイヤ人」から「神様」という階段を駆け上っていくという神話の構造なので、原作とキャラが乖離するのは当然のことだ。

話が逸れたので元に戻すが、日本では「宗教」という単語が決していい意味で用いられず経典がない代わりに、日常生活の中に教えといえるものが全て散りばめられている
決して押し付けがましくない形でいろんな神様や考えがあっていいのだとする日本という国に生まれることはそれだけで幸せなことなのだ。
同時にそれが日本が世界の中で数少ない植民地支配を免れてきた国であるという秘訣にもなっているのではなかろうか。

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