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『七人の侍』は正直長すぎるが、流石に現在でも古びない刺激を与えてくれる名作である

改めて世界の黒澤の『七人の侍』をもう数度目になるが見直したので感想・批評をば。
流石にもう今の時代のリズムには合わないと思うところはありつつも、まだ作品としての強度は全然衰えない刺激を与えてくれる。

評価:A(名作) 100点中80点

もうすでに世界中でありとあらゆるエピゴーネンが生まれ続け、その劇構造もカメラワークも今日の方がより洗練されているが、やはりそれでも一度見ると最後まで画面を見てしまう
よく本作を紹介する時に「綿密な脚本と時代考証・キャラクター設定の細かさによるリアリズムが特徴」とあるが、当然ながらそれ自体は何ら本作の美点にならない。

以前にも述べたように、全ての映画はどこまで描写を細かくしようと、所詮は「フィクション」でありそこにリアリズムもクソもあったものではないという考えだ。
映画が真に映画たりうる所以はあくまで「画面の運動」にあるのであって、それは本作とて例外ではないのだから、私が感動するのは決してそこではない。
また、大掛かりな撮影だからといって本作を「大きな物語」と評することもなければ、「戦後日本の集団ヒーロー作品の雛形」ということを言いたいわけでもないのだ。
私が本作を名作だと評する所以は画面の美しさと決戦のキャメラワークおよびその演出から吹き出る熱量が他の時代劇映画と比べても桁違いに凄まじいからである。

編集も含めた撮影技法の進化もそうだが、それ以上に登場人物の顔つきや躍動感といった被写体への愛がきちんと収められているのが何より素晴らしい。
そんな本作の素晴らしかったところを大まかに列挙しながら、「現在」として見る「七人の侍」について論じてみよう。

長尺でやや説明的すぎる

これはもういってもしょうがないことではあるが、幾ら何でも207分は長過ぎやしないだろうか。
やはり小津映画や北野映画のミニマルな演出に慣れてしまうと、黒澤映画の普通の演出がとても冗長に感じられてしまう
いやこれが本来は普通で小津や北野が例外的という見方もあろうが、もう少しこの内容なら短くできたのではなかろうか。
前半の仲間集めの過程はいいとして、村についてからのゴタゴタや訓練シーンなどに関しては思い切ってカットでもいいのではないか。

物語上そこが必要だからということかもしれないが、映画に関しては必ずしも物語上必要だからということで描く必要はないだろう。
また、菊千代をはじめとする侍たちやその侍の1人と関係を持っている女はいいとしても、農民たちをはじめとする群衆がどう考えても多すぎる
せめて合戦の時とかみたいに必要最低限のところだけで出すのならわかるが、ほぼ全体に渡って出ているので、映す必要のないものが映っているだろう。
本作に関しては勘兵衛・菊千代・久蔵あたりの顔と動きさえ押さえておけば人間関係に関しては十分わかるので、他の余分なものを削ってはどうか。

主役以外で大きな役割が与えられていたのは与平と志乃なのだが、この2人の存在感は結構あったし、勝四郎との色恋も私はピンと来なかったがまあ悪くなかった。
いわゆる「吊り橋効果」というやつで、戦いの中で芽生える男女の色恋程度のものであろうが、生き残ったのに特に関係性が進展しないのも本作らしい。
ラストの豊作温度と勘兵衛のセリフからもわかるように、本作の主役はどちらかといえば侍よりもむしろ農民たちの方であった。
だが、それを描くのであればもう少し人数を絞って描くという方が画面としても話としてもスッキリする気がする。

「アクションの為の物語」ではなく「物語のためのアクション」

本作に限らず「椿三十郎」「用心棒」「影武者」「乱」でもそうだが、黒澤映画における時代劇の特徴は「アクションの為の物語」ではなく「物語のためのアクション」である
つまりそれまで大量生産されていた従来の時代劇とは違い、チャンバラが物語と切り離されているのではなく、物語の中でチャンバラが展開されている感じだ。
漫画でいえば横山光輝の『三国志』などに構造が近いであろうか、あくまでも「集団戦」として作戦を立てながら描かれており、アクションが物語に従属している
もちろんアクション自体は物凄い迫力で、あの雨の中での大乱戦は今見直しても物凄い熱量と命がけの泥まみれな殺陣なので、アップでの迫力が凄まじい。

しかし、これがいわゆる「形式的」でないがために、例えば侍たちがどんどん戦死していく様や最後の豪雨の合戦だけを切り取って見ても単品では楽しめない
あくまでも物語の中で溜めに溜めてあのアクションへと繋げているため、いかにもな外連味のかかった殺陣とはそこが大違いなのである。
これは良くも悪くも本作の特徴になっているのだが、個人的な趣味ということでいえばあまり好ましいものではない。
やはり映画はあくまで「画面の運動」としてあるものだから、アクションシーンにおいては物語を超えるものであって欲しいという願いがある。

何が言いたいかというと、本作の殺陣はあくまでも物語の論理構造の一環として組み込まれ、そこに意味付けがきちんとなされているということだ。
こうなると「形式」ではなく「意味内容」としての評価になってしまい解釈が発生してしまうため、個人的にはやや驚きとはズレてしまうことになる。
もちろん殺陣のシーン自体はとても素晴らしいのであるが、どんどん戦死していく侍たちも物語の流れに殉じたものになっているのが個人的には惜しい。
あくまでも切り離されたところで従属からの解放として死んでいくのが望ましいので、「画面の運動」としての殺陣は物語を超えることがない。

「走る」映画

とはいえ、本作はじゃあ駄作だったのかというとそうではなく、本作はとにかく「走る」映画だということが改めて見るときちんと描かれていく。
特に菊千代が馬に乗って滑走していたにもかかわらず途中で振るい落とされて出てくるところはキートンのスラップスティックのような笑いが混じっている。
また、決戦の時もそうだが、特に菊千代がよく「走る」のであり、これは影響を受けたと思われるジョン・フォードの西部劇のオマージュであろうか。
確かに時代劇に「走る」というイメージはなく、とても疾走感溢れる時代劇を本作が独自に作り上げたというのはとても大きいであろう。

特に「野郎、来やがった来やがった!」からどんどん映画としてのリズムが良くなりだし、登場人物が「走る」ことで画面の運動もどんどん良くなる
これは意図したからといって必ずしも出せないところであり、こういうところにやはり黒澤明の映画作家としての天才性が出ているであろうか。
農民たちが訓練するシーンでも走ることが特徴となっており、長尺であることを途中から忘れさせるくらいの疾走感を与えることができる。
上記では「物語のためのアクション」とやや否定的に論じたが、それでも素晴らしいのはとにかく「走る」ことを徹底しているからだ。

これが行儀の良い東映特撮のチャンバラ、従来の時代劇とは異なる部分であり、地の利も生かしながら戦っているため画面がしっかり動いている。
そして誰一人として特別に贔屓されるのではなく、菊千代だろうが久蔵だろうが戦いの中で無残に死にゆくという演出もまた特徴的だ。
特に視聴者は菊千代に感情移入して見るであろうから、その菊千代が道半ばで死んでしまうことで誰にも感情移入させないのである。
まさにこの部分において「走る」ことで画面の運動を止めず、それが物語の中での登場人物の生死すら超えてしまう。

型を破っていく菊千代

さて、最後に本作で最も目立つのは型を破っていく菊千代だが、彼はある種のトリックスターとして描かれている。
なぜ彼がこんなにも目立つのかというと俳優・三船敏郎の存在感やインパクトでも、まして脚本のキャラ付けというわけでもない。
また、彼が農民の代表にして象徴の侍として参加しているからでもない、そもそも本作は劇構造から普通の時代劇とは異なっている。
リーダーの勘兵衛をはじめ本作の侍たちは基本的に役職についていない浪人たちであり、基本が「型破り」なのだ。

だから本作はよく評価されるような「時代考証」「緻密な脚本」という点に関しては必ずしも評価には値しないところがある。
一般の時代劇は殿と家臣の主従関係があり、お屋敷があって言葉遣いも上品なものが多いからだが、本作はそれを悉く打破した。
菊千代は言葉遣いも荒く侍の衣装も着崩しているし、酒だって一気飲みする豪傑であるが故に従来の時代劇のスタイルとは正反対だ。
従来の時代劇ならば絶対に出てこない「山犬」と称された菊千代がなぜこうも本作において決定打を担っているのか?

それは菊千代のような規格外のことをするメンバーを入れることで、ともすれば悲劇になりうる話を暗くしすぎないからだ。
本作で描かれているのはあくまでも野武士と浪人たちの戦いという時代劇版のマカロニ・ウェスタンであり、大河ドラマや痛快娯楽活劇とは違う。
かといってリアリズムといったものでもない、本作に菊千代が入ることで画面の印象の暗さが消え幾分明るさが増し、またそのことで画面が動くのだ。
そう、三船敏郎という得難い躍動感と身体性にあふれた農民出身が侍として動くことによって本作は従来の時代劇ではあり得ない展開ができたのである。

リアリズムではなくむしろ時代劇の形式を解体した異色作

本作は今でこそ「世界の黒澤」の代表作としてスタンダードになっているが、では従来の時代劇かというとそうではない。
むしろその逆の異色作であり、全盛期の東映が売りにしていたチャンバラ時代劇の形式を解体した異色作であり、そこに「リアリズム」という評価は相応しくないであろう。
それこそ映画の歴史が「ゴダール以前とゴダール以後」で分岐点となっているように、日本の時代劇も「黒澤以前と黒澤以後」で大きな分岐点となった。
分けても本作は時代劇の形式そのものに徹底的に逆らい解体し、その上でに型破りな浪人ベースの侍たちという新たな記号を誕生させている。

今でこそこれがニュースタンダード像となっているが、東映をはじめチャンバラ時代劇という文脈で見るとむしろ本作はアンチ時代劇の構造だ。
時代劇の本質を見極めながら悉く解体し、その上に新境地を開拓し、それをもって時代劇の可能性を開拓したのが本作であろう。
だからこそ特徴的なキャラクターを登場させ仲間集めの過程から描きつつも、決して誰一人として特別扱いはせず平等に戦いの中で死んでいく
本作はその意味で決して緻密な脚本やリアリズムなどといった言葉で評価してはならないし、正直もういまの時代にそぐわない部分もなくはない。

しかし、いま現在でもなお影響を与え続けているのはやはり三船敏郎の圧倒的存在感と身体性、そして一貫して「走る」映画であるというこの2点に集約されうるであろう。
やはり世界の黒澤は伊達ではないと感じさせるだけの迫力と衝撃を持った名作である。


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