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『母性のディストピア』感想〜政治を語るのにサブカルチャーを利用するな!〜

何度か弊サイトで引き合いに出している宇野常寛の著書『母性のディストピア』について感じたことを思いのまま書いていくこととする。
全体通してみると、最初から最後まで趣旨がはっきりとせず、そもそも「何を目論んでいるのか?」が最後までわからなかった
そもそも本書は何を目的として書かれたのかが最後まで読んでも全く読み解けない、作家論なのか作品論なのか、はたまた政治なのか戦後日本史の読み解きなのか。
もちろんてんでバラバラに語っていても根幹の部分で一本の「線」になっていればいいのだが、本著は全てが「点」でしかなく「線」に全くなっていない

まず「序にかえて」のところからして突っ込みどころしかないのだが、特に私が反応したのは以下の部分である。

圧倒的な彼我の距離を言葉を用いて破壊し、ゼロにすること。遠く離れ、本来はつながらないはずのものを、つなげること。それが批評の役割だ。

宇野常寛『母性のディストピア』11ページ

これは紛れもなくやってはならない批評のアプローチであり、この時点で宇野は宮台真司や町山智浩と同類であることを自ら暴露したようなものだ。
こういうスタイルを実存批評というわけだが、私が散々批判的に論じている「作品を骨董品扱いする」ことの姿勢の本質は正にここにある。
要するに本来は政治や社会といったものと切り離して純粋に「画面の運動」として論じられるはずのものを抹殺して社会を読み込もうとする邪道だ。
確かに宮崎駿・富野由悠季・高畑勲・押井守らの世代は全員がある意味で「全共闘」までの戦後日本の「戦い」を知っている世代である。

それはスーパー戦隊シリーズでいう上原正三・曽田博久・杉村升らもそんな世代ではあるが、それが作風に影響を与えることはあっても作品の良し悪しとは全く関係ない
批評の役割とはあくまでもその作品や作家について全く知らない人をその世界に誘い込むための呼び水であり提供の場に過ぎない、要は客寄せパンダのチンドン屋である。
その自覚を持った上であとは自分が1つでも擁護できる作品や作家が存在するかどうか、そのために徹底した作品論なり作家論なりを誠実に書き尽くしていくことが肝心だ。
宇野常寛の場合は明確に富野由悠季ならびに彼が作った作品群を擁護したいというスタンスがはっきりとあり、それ自体は批評家として誠に正しい態度である。

実際、この人の書いた文章の中で富野由悠季について語った第4部の「富野由悠季と「母性のディストピア」」については決して満点ではないが、当たらずとも遠からずな論を書けている。
特にこの部分はそれに該当するだろう。

しかし、ある時期からの富野は自ら掲げたニュータイプという理想を放棄した。それどころか現代という時代について、ほとんど絶望しているようにすら思える。特に80年代後半から90年代に書けては、「新世紀宣言」の頃とは打って変わり、悲観的、絶望的な現状認識と未来予測を繰り返し語るようになっていった。

同上140ページ

これはもうグダちんやGMSに代表される富野信者・通称「富信」はもちろんのこと、アンチも富野本人も公言している事実であり、そこから展開されていく富野由悠季論はすごく筆が乗っているのが伝わる。
しかし、一方でやはりアニメーションならではの限界も実は露呈させてもいるし、また富野がどの作品から悲観的・絶望的な作風へシフトし始めたかが具体的かつ客観性をもったフィルム体験として論証されていない
まずアニメーションならではの限界の露呈についてだが、宇野は「フィルムとしてのガンダム」という項目で以下のようなことを述べている。

一般論を述べれば物語とは人間間に共有されやすいように現実の複雑性と情報量を作家の意図によって整理、統合したのものであり、物語におけるリアリティとは物語的な整理と統合を維持したまま現実に匹敵する複雑性と情報量を獲得することと同義だ。実写映画の場合、この複雑性と情報量はある程度はロケーション、セット、小道具などの環境設定、俳優の演技、そして監督による演出によって複合的に決定されるが、アニメーションにおいては監督の演出がこれらの全ての要素を決定し得る。

同上158ページ

これに関しては疑いようもなくその通りであるが、ゆえにこそアニメーションという媒体はどこまで行こうとそのショットがもたらす衝撃という点において実写映画にはどうしたって敵わないのである。
アニメは確かに実写映画以上に絵によって嘘八百が描ける漫画と映画の合の子のような媒体であり、作家の意図によって全てのカメラワーク・演技・物語・カットが自在にコントロール可能だ。
しかし、それは逆にいえば「作家が意図したもの」以上の偶発性や天性がものをいう部分において実写映画ほどの奇跡を表現し得るものにはならないということでもある。
例えば、北野武の映画なんかはわかりやすいが、最高傑作の1つである「ソナチネ」の絵の美しさをそっくりそのままアニメで再現できるかというとそうではない。

ヤクザたちが根城も立場も失って沖縄に左遷され、何もすることがないからと浜辺で人間紙相撲をしたり、そのあとロシアンルーレットをして遊んだりしている。
あそこでのヤクザたちの動きと間の感覚、そしてロシアンルーレットで北野武演じる村川が虚無の笑みで銃を頭に突きつける時の色気は決して監督の意図で表現できる領域ではない
一番の見せ場といわれているエレベーターで親分と裏切られた子分たちが殺し合う銃撃戦も同じであり、突然密集空間で何の予備動作もなく銃で撃ち殺される衝撃と被写体の距離感もまた絶妙である。
北野武の持つ暴力装置としてとは別の銃の色気や、またその銃をスッと出して様になる役者たちの魅力というのはどう見たってアニメでは表現できない天性の作家性の領域となってくるのだ

それこそ小津映画にしたって同じであり、ほとんどの人はリバースショットやローアングルのことを語りがちだが、まず魅力的なのは原節子や笠智衆ら俳優・女優の色気それ自体であろう。
当時の黄金期といわれた邦画の監督の中で小津安二郎監督ほど原節子と笠智衆を色気たっぷりに撮った人もいなかったし、また日本映画で男性陣がダンディーにスーツを着こなした例も他にないと思われる。
それこそ衣服のシワや質感などもそうだが、アニメーションにはこの実写映画が持つ肉感や三次元ならではの奥行きと色気はどれだけ疑似的に近づけたとしてもアニメーションでは再現できない領域なのだ
そこをどれだけ見逃さずにきっちり動体視力を持って相対し画面に向き合い、その感動と驚きを言葉にしていくかが本当の意味での「映画」を論じることになるのではなかろうか。

その意味で宇野常寛は自らが書いた文章によって逆説的にアニメーション・アニメという媒体がどこまで行こうと実写映画に敵わないということを図らずも露呈させてしまっているだろう。
また、作品論に関しても偏りがあり、特に「パターン破り」の「ザブングル」についてきちんと論じておらず流すように語ってしまっているのは非常に勿体無い。
「ザブングル」こそ、実は富野由悠季がニュータイプ論を理想としてではなく絶望として語り始めた転換点だというのに、そこを無視してしまうのはダメだろう。
この点に関しては私自身も最初は「α外伝」で疑似的に「ザブングル」の物語を体験し興味を持って原作を見たが、前半がめちゃくちゃ疾走していて面白いのに、後半からクソつまらなくなった。

その辺りの推移を「画面の運動」として論じてくれれば、それだけでも立派な富野由悠季論が書けるというのに、なぜこの人はわざわざ政治やら歴史やらを持ち込んで語りたがるのか?
まあ以前の記事で書いたように、この人はそもそも映画館信仰を批判していた人だから、そもそもまともにフィルムをきちんと見て向き合おうとしていないことは明白である。
富野由悠季論においてさえこの程度のことしか書けないのだから、宮崎駿や押井守に関してはいうまでもないだろうし、他の作家についても同様のことがいえるであろう。
それこそ新海誠の『君の名は。』もそうだし庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリヲン』『シン・ゴジラ』に関しても、やはり画面外の情報を基にしてしか論じていない。

作品論としても作家論としても見立てが雑であり、1つの作品や1人の作家について徹底的に擁護しその魅力を書き尽くそう、語り尽くそうという気概が全く感じられない
蓮實重彦の『監督 小津安二郎』『ジョン・フォード論』や加藤幹郎の『ブレードランナー論序説』のような世界レベルの優れた批評書を読んでいるのも大きいが、こんなチンケなレベルの物しかアニメ批評は存在しないのか
まあ逆にいえば、アニメーションに関してはこんな三流インテリでも批評家を名乗ってしまえるくらいに文化としての土壌が貧しいマイナーなジャンルということであろう。
こんなの3,000円近くも払って読む価値はなし、図書館で暇潰しに読んで「あっそ」と一笑に付しておしまいということでいいのではないか。

サブカルチャーを政治や歴史を語る道具に利用するな!

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