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ポストモダニズムとはそんなにも素敵なものだったのか?〜宇野常寛氏の著作を読んでみて〜

どちらも平成ライダーファンの知人が所有していたので借りて読んでみたが、個々の作品は勿論時代別の文芸批評として見ても、あまりにも見立てが雑で面白くなかった
ただ、同時に自分も気がつけば彼のことをどうこう批判的な立場ではないような見方をしており、いつの間にか自分が生きた時代の価値観で裁断していたことに気付かされる。
勿論多少なり自覚はあったものの、人ってどうにも固定された価値観から自由であることがどれほど大変か、という話だなあ。
とはいえ、今の若い人たちも一見公平な視点と価値観で評価しているようでいて、いつの間にか固定されたバイアスに囚われているから、年代や世代はあまり関係ない。

宇野氏の思想信条の根底にあるものは小説家・村上春樹の「ビッグ・ブラザーとリトル・ピープル」であり、要するに「権威ある側」と「民衆の側」といった二項対立である。
だが、私に言わせれば、この二項対立自体がそもそも無意味な虚構・まやかしの類であり、作者自身がそれに囚われ続けていることに些かの疑問すらないのが恐ろしい。
確かに昭和と平成を隔てるものの基準として「一国経済/グローバリゼーション」「国営/民営」「資本主義/市場原理「終身雇用/人材の流動」「模倣/独創」辺りが挙げられる。
そして昭和世代の人はそれらの基準のうち前者を絶対視して後者を侮蔑し、また平成世代の人たちは後者を絶対視するといった対立が起こった。

要するに「絶対的価値/相対的価値」という形で対比され、平成の00年代は90年代までに比べて「ビッグ・ブラザー視点の大きな物語が紡げなくなっている」と宇野氏はいうのである。
00年代のネット上で一時期流行った「人それぞれ」論もこれと同じことで、価値観の対立・衝突を避けたいという消極的な免罪符として一時期馬鹿の一つ覚えみたいに使われていた。
そう、宇野氏然り切通理作然り世の「特撮評論家」を自称して自らがそのジャンルの権威であるかのように振る舞う方々こそ、「知の愚明」という名のスノビズム(俗物根性)に陥っている。
まあそういうこともあって、宇野氏はファンや信者も多い反面アンチも多く、その意味では彼が癒着している白倉伸一郎氏や井上敏樹先生辺りと大差はないのかもしれない。

2016年のニコニコ生放送で「仮面ライダー1号」という藤岡弘、主演の映画に際して宇野氏・白倉P・井上先生が鼎談を開いたときに、宇野氏がこんなことを語っていた。

「『パラダイス・ロスト』当時というと平成ライダーの勃興期で、今みたいに若い特撮ファンもボリュームをなしてなくて、一般的なテレビ好きやサブカルチャー好きの大学生とか若いサラリーマンの間で、「日曜朝の仮面ライダーって頭おかしいよね」みたいに盛り上がってた記憶があります。」
「例えば『アギト』を観てたとき、僕はドラマオタクの大学生だったんですが、たまたま見た第13話か、14話で衝撃を受けたんですよね。東映がアメリカン・サイコサスペンスをどう日本的に翻案するかをかなり本気でやっていることに相当ビビったんです。特撮ヒーローのフォーマットや警察モノのノウハウを総動員して、1年間放送する『仮面ライダー』という枠の中で日本なりのサイコサスペンスをやりきろうとしていたことに、特撮ファンではなくドラマファンとして驚いた記憶があります。ああいった仮想敵がいまの『仮面ライダー』という番組にはない気がする。」

井上敏樹×白倉伸一郎 緊急対談 映画〈仮面ライダー1号〉公開記念 変身し続ける男たち・後編(宇野常寛の対話と講義録・毎週金曜配信)

当時から宇野氏のこのコメントにはきな臭いものを感じていた、まるで自分が見ていた平成ライダー初期の作品が他のスーパー戦隊シリーズやウルトラシリーズとは格が違う高尚な芸術作品とでも言いたいようだ。
また、「一般的なテレビ好きやサブカルチャー好きの大学生とか若いサラリーマンの間」なんて余計な言い回しをしてしまうところはそれこそ「あなたの感想ですよね?」と問い質したくなる。
平成ライダーシリーズは確かにお隣のスーパー戦隊シリーズより高視聴率ではあったが、自身が好んで見ていたことを社会現象レベルの盛り上がりにすり替えている論調は明らかな誇張だ。
確かに私は平成ライダーの「クウガ」〜「555」までは全話見たし感想等も書いたことはあるが、それでもお隣のスーパー戦隊他の特撮作品とのクオリティの差がそんなにあるとは思えなかった

そんな人たちがお隣のスーパー戦隊シリーズを「様式美があるから、ライダーやウルトラよりは比較的幼児向けでシンプル故に楽」などという誤ったバイアスで「ドン・ブラザーズ」を持ち上げる。
私は確かに「ドン・ブラザーズ」を嫌いではないし好きなキャラや演出もあるが、それでもかつて『鳥人戦隊ジェットマン』で起こした程の変革は本作では起きなかったと思う。
一石を投じたといえば投じた部分もあるが、それでもやはり平成ライダー初期に井上・白倉がやっていた方法論を戦隊シリーズに当てがっただけという側面も否定はできない。
そういった「ゼンカイジャー」までで積み重ねてきたものを一切合切無視した雑なスノビズムに基づく作品の感想・批評がどれだけ特撮作品の見方を窮屈に狭めていることか。

それと、これは私自身もやってしまいがちなのだが、いい加減脚本家・演出家の作家性という一方向のみから批評することも厳に慎まなければなるまい。
大事なのは「作品」であって「作家」ではないのだが、ネットに転がっている特撮の感想・批評の大半はやはりその枠組みから抜け出すことができないのである。
既存の枠組みをまず知らねばその枠組みを破ることは不可能だが、殆どの人はその「既存の枠組み」がそもそも何なのかすら、わかっていないのではないか?(無論私も含む)
今まさに私自身もスーパー戦隊シリーズに関して行き詰まっていたのだが、宇野氏の批評とはいえない著書を読むことで、逆に自分がどこで行き詰まっていたかが見えた気がする。

その意味では反面教師として何が大切なのかを教えてくれたいい一冊だと思う。
「作家」「思想」「時代背景」「テーマ」「哲学」ではない「作品」としてのスーパー戦隊シリーズを、もう一度原点に立ち返って見直そう。
どれだけかかるかはわからないが、それができた時こそ改めてスーパー戦隊に関する新たな知見や批評の在り方が得られそうな気がする。

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