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ファッションと情熱の羅針盤

”僕はお洒落を楽しむことも好きなんですが、どちらかといえばオタク気質なんです”

僕が服に興味を持ち始めて、アパレルの販売員をはじめた頃、何より先に服飾の歴史や生地、染色、加工、といったモノづくりの背景に興味を惹かれてたくさん調べていました。

その中で僕が特に印象に残っているのがイッセイミヤケがパリコレで発表した”一枚の布”です。

パリコレのファッションショーでイッセイミヤケはモデルに一枚の布を巻いてランウェイを歩かせました。これが国境などの線を引かない、服の原点だというのを表現したんです。

衝撃を受けたと同時に僕は疑問を持ちます。

”ファッションとは何なんだろう” ”お洒落って何なんだろう”

例えば布を一枚体に巻いて歩いている人が街にいて、あなたはそれをお洒落だと思いますか?きっと大半の人がそうは捉えないんじゃないでしょうか。ちょっとやべえやついるな。とか変態だ。なんて思ってしまうかもしれません。

それはファッションショーが真っ白いキャンパスで自由に表現ができる場で、外には大半の人に白いキャンパスではなくTPOという背景の枠があってその"枠"で人を見てしまってるからだと僕は思います。

ファッションとは何か、と調べると主張という言葉が出てきます。服を身に纏うだけでその人がどんなものが好きか、どう見られたいのか、どこにいくのか、そんなコトが想像できたりしませんか?

お洒落とは何か、と僕なりに考えるならその人なりの主張したいこだわりが見られる。それを誰かが感じて”お洒落ですね”って共感が出てくるんだなって思ってます。だからお洒落ですねって褒められる人はその人にあなたの主張が伝わってるということかもしれません。

ファッション=主張
お洒落=共感

これが僕の思うファッションとお洒落の定意義です。

”僕のファッションについて”

僕は『いいなあ』と思う服と出会った時、いつもやってるわけではないんですが、生地やシルエット、色、自分がどこにそれを感じているのか徹底的にものを見て、自分に聞いて、調べて探求することがままあります。結構めんどくさいやつなんです 笑

服が好きな人はセレクトショップをまわって歩いていていいなと思った服を手に取ってみると、たまたま同じブランドの服を手に取っていた。っていう感覚はありませんか?

そういう時、すぐに僕はブランドのコンセプトを調べたりします。そしてそのブランドのメッセージに自分が共感した時、そのブランドが自分のお気に入りとなりSNSでいうところのフォローみたいに、そのブランドサイトをよく見に行くようになったり服を買うようになるんです。

しかし、僕の中でフォローを一度外したこともあります。それはブランドのコンセプトと物の主張が一致しなかった時です。

例え話をするならば僕が昔好きになったあるフランスのワークブランド。コンセプトはフランスの町で働く人たちの作業着なんかを古くから作っているワークブランドの老舗で、その背景を生かして機能的でありながらタウンユースとして気軽に着られるワークウエアを提案していました。

僕が好きになった頃は、しっかりそのベースが見える商品を提案していたんです。しかし、急にインナーダウンやフリース生地などを提案し始めました。そこからは全くワークの背景などが見えなくなり、そのブランドならではのこだわりが見えなくなったんです。

その時『ああ、変わってしまったな、、、流行に流されてウケを狙うような、商業的背景が透けて見えてしまう』と少し寂しい気持ちを感じてフォローを外したんです。

似たような思いは誰しもないですか?
僕はあるパン屋さんの入り口の張り紙に、イチオシの商品がタピオカ!って大きく書いていて『いや、パン推せよ!』って思わず突っ込んでしまったことがあります 笑

音楽でいうと昔から好きだったインディーズバンドがメジャーデビューしてガラッと曲が変わってしまい、好きになれずだんだん聞かなくなったり。。。

この記事を読んでくださってる方はどうでしょう。
『分かる』って思う派ですか『全然わからない』と思う派ですか?

分かると思うことをお洒落と呼ぶのであれば、分からないことはダサいでしょうか?

”お洒落とダサいについて”

いつの間にか僕はフォローを外してしまったブランドのことを一度ダサいと思ってしまいました。自分がいいと思わないものに対してついつい人は”ダサい”と思ってしまったり、口に出したりしてしまいます。

では僕がフォローを外したブランドを着ている人はダサいのでしょうか。

好きなものを突き詰めていくと人は何かにこだわるようになります。こだわりを持ち始めると気付けば視野が狭くなって、ついつい口から”ダサい”などという言葉が出てきてしまうんですよね。

こだわりというのはあくまでただの指針なんです。その人がどこに重きを置いているのか。ただそれだけなんです。

そこで僕は僕の中で原点に立ち返り、もう一度僕が考え出した定義に当てはめて考えてみることにしました。

僕がフォローを外したブランドはそのブランドの指針が少し変化しただけ、着ている人たちは自分達の指針と合うものを何か見つけて着ているだけ。

僕が見かけたパン屋さんはパンもタピオカも実はとても美味しくて、どちらも気に入る人もいれば、どちらかに惹かれてくる人もいるかもしれない。

聞かなくなったバンドはただ時代に合わせてメッセージが伝わりやすいよう工夫しているだけで、それをいいと思ってファンになり昔の曲も好きになるかもしれない。

ではこだわりという指針がない人はダサいのか。僕はそうは思いません。何気なく毎日着ているものでも何かしらの愛着を持ってるかもしれないし、選びがちな好きな色があるかもしれない。

本当に何もなかったとしても、服にそういった指針を置いてないだけでその人の中にはもしかしたら別ジャンルでその人の指針を持っているかもしれないし、まだ探している途中なだけかもしれない。

本当にダサいのは誰だったのだろう?ダサい人なんていただろうか、、、
生きてるとついつい"枠"に捉われる気がします。でもはみ出してはいけない"枠"も確かにある気もします。


ここまで読んでくださりありがとうございます。

馬鹿馬鹿しく笑える日常の話もしたいんです。でもついついアツく語ってしまうのはおじさんの性でしょう。

ちなみにこの記事を書いている間、僕の頭の中にはアジカンの”羅針盤”って曲が流れてました。

僕のノートの基本的な指針は『俺と飲むとこんな話ばかりされるぜ』です。おじさんがアツく語れるのは飲みの場くらいなもんなんですよ。笑

たまに興味のあるタイトルを見かけたら、今日は飲みに付き合ってやるか、、、くらいの気持ちで読みにきてくださると嬉しいです。

追記:
ちなみにブランドをもう一度調べてみたらコンセプトが変わってました。ふふふ。

ブランド名も変えたり、新たにブランドを増やして展開したり、コンセプトが明確でないところもありますよね。




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