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窪み

僕は子供の頃から病院が嫌いだった。
特に街の少し大きめな総合病院的な感じが生理的に嫌いだった。

町医者のクリニックや、都会のクリーンな病院ではない中規模の地方の総合病院が苦手で、何か嫌な思い出がある訳でもないので、生理的に、としか表現のしようがない。





目が覚めると、その嫌いな場所だと、即座にわかる天井ボードと蛍光灯、そしてカーテンレールから垂れ下がった薄ピンクのカーテンが目に入る。

しかし、感じたのは嫌悪感ではなく、倦怠感だった。
まるで二日酔いの頭痛無し版、と言った感覚が体を支配している。



記憶にある病院より、少し薄暗い気がするのは、気分のせいか、それとも体調の問題なのか、少し戸惑ったが、答えは直ぐにわかった。

蛍光灯が古くて汚れているせいと、窓の外がこれでもかと言うくらい大量の雲に覆われていて、今にも降り出しそうな空模様だった。

少し時間が過ぎた後、僕は騒然とした雰囲気、と言っても周りが騒がしかった訳ではなく、僕の心の中に走る戦慄的なものに精神を縛りつけられて、騒ついた気持ちをそう表現するしかなくなった出来事に遭遇する。

病室の引き戸を開けて入ってきた人物は、全身を防護服で覆っていて僕はパニックになりそうになった。

これは一体なんだ?
何が起こっている?

その人物は僕に歩み寄ってくる。
間違いなく施設の関係者であり、僕が感じている幼稚な恐怖心の為に騒ぎ立てる事は思い止まって、落ち着くように自分に指示を出す。

と言っても、その人物が扉を開けてから、声を発するまで、数秒しか掛かっていないが、病院という場所と防護服のビジュアルは、その数秒を何倍にも実感上で増幅させた。

「気分はどうですか?」
その声が今まで増幅してきた恐怖と緊張を一気に緩めた。

優しい、若い女性の声だった。
防護服の向こう側から発せられているせいで、少しこもって聞こえるものの、若い、いや、少女的な可愛らしさすら感じる程に若い印象を持った優しい声だった。

「ここはどこですか?」
質問の答えになってはいないし、ここが病院なのもわかっている。
それに本当に僕が聞きたかったのは、此処がどこで、何故、僕が此処にいるか、という事だった。

「第二隔離病棟です。今から、ご説明しますね。」
少し微笑んで、と言っても顔が見えないので微笑んでいるかのような口調で、と言った方が正しい。
彼女は既に僕の動揺を理解し、僕が聞きたい事も察しているようだった。

「今、カズヒロさんが、此処にいるのは検査の為です。あなたが乗っていた電車の中で例の感染症を発症した方がいまして、病原体の不活性ガスが噴射されました。ガスの副作用で記憶の部分消失の症状が出ていると思いますが、じきに回復しますので、安心してください。」

例の感染症?ガス?
全然わからない。思い出せないというよりも、完全に何を言っているのか、わからない、と言った感覚だった。思い出せないというより、知らない、と言った感覚だった。

彼女がカートの上で何かの機器を触りながら、話を終えて、作業音だけが響くようになっても、僕は次の問いをなんと言えばいいのか、わからずに沈黙が続いていた。

「最後に覚えている事はなんですか?」
彼女は注射器を手に持ちながら、僕に聞いた。

仕事の事、会社の事、家の事、全て昨日の記憶のように覚えている。
確かに、ここにくる直前の記憶が何であるのかはハッキリ覚えてはいない。
何が最後の記憶なのだろう。

「普通に生活していたと思うんですが。。。」
また問いの答えになっていないとわかっている事しか口にできなかったが、腑に落ちない事があったので直ぐに次の言葉が口を出た。

「例の感染症ってなんですか?」
昨日の、明確には昨日までの日常であったと明言は出来ないが最近の事を覚えている。なのに、僕は例の感染症に全く心当たりがなかった。

彼女は特に驚く様子も戸惑う様子もなく答えた。
「今年に入ってから急速に感染が拡大した細菌性感染症があるんです。カズヒロさんは2週間程度の記憶がないみたいですね。」

彼女の声はやはり優しいし、驚きもなく慈愛に満ちた声だ。きっとマスク越しで無ければ、ずっと透き通った声なのだろう。

しかし、その2週間という時間には全く実感がなく、また、今年というからには、もう年が明けて、暫く経っていると言う事だ。
確かに、僕は年末の日常の記憶を持っているし、今を年末だと思っている。
つまり、僕は本当に記憶を失っているようだった。

僕が考え事をしていると、腕にゴムバンドを巻き、注射をして、またゴムバンドを取りながら、「また1時間後に詳しい説明にきますね」と言って、彼女は病室から出て行った。





正直に言えば、混乱している。が、彼女から聞いた話で何か、おかしいと追求すべき部分もない。
僕が記憶を無くしているのだから、当然と言えば当然だが、感覚と現状は全く合致していない。

落ち着こうとしなくても、充分に冷静だった。
体のダルさのせいか、それとも彼女のせいかはわからないが。

外では雷が光り始めていて、もう今直ぐにでも雨が降り出しそうだった。

この病室は4床くらいあっても良さそうな広さだが、ベッドは僕がいる一つだけでガランとしている。
空調は寒くもなく暑くもない。

ここが僕の嫌いな病院で尚且つ、少し古びている事を除けば、さほど悪い環境でもないだろう。

色々な事を少しずつ考える。
彼女が防護服で身を覆っていた事と、僕が感染症を発症者と同じ電車に居たという話から、僕には、その、例の感染症、とか言うものに感染している疑いがあると言う事なのだろう。

しかし、彼女の防護服は医療用というより、まるで原子炉で働く作業員用のものみたいだった。体型も顔も全く分からない程に覆われている。
彼女についてわかる事は僕よりも遥かに若い女性だと言う事、いや、異常に声が若々しいだけの中年女性なのかも知れない。

僕が記憶を失っているという事と、全く感染症の事を知らないという事、不活性ガスが噴射されている事、そして、僕自身の体の感覚から、どうやらガスの副作用はガスを吸引してから、その前の記憶に障害をきたしたのだろう、などと考えた。
だとしたら、僕が気を失ってから、ここにきて目を覚ますまでは、そんなに時間が経っていないのかもしれない。



「失礼します」
先程とは違う、少女の声だった。

また随分と若々しく透き通った快活さを感じさせる、何処か知性的な女性の声と共に、先程と全く同じような防護服が病室に入ってくる。

「担当医師の伊勢崎です。よろしくお願いします。」
僕は会釈をし小声で「あ、よろしくお願いします」と言った。

少し戸惑っていた。
先程の女性は看護師だったのだろう。勝手なイメージだが、少女の様な看護師はいるのかもしれない。さほど、違和感を感じなかった。
しかし、ここまで若々しい少女の様な声をした女医というのが、僕の感覚と大きくかけ離れていて、戸惑いを感じている。

「体の具合はどうですか?」

「少しダルいです」
やはり、違和感が拭えない。全く雰囲気からは察する事など出来ないが、声だけで判断すると10代半ばでもおかしくない様な印象だった。

「あなたは感染リスクのある状態に置かれて26時間が経過しています。病原体検査は既に済んでいて、陰性です」
カルテに僕の体調をメモしながら、彼女はそう言った。

陰性の診断に安心感を感じない程、僕の違和感は強烈なものになっていた。

「先生はおいくつなんですか?」
失礼な質問だという自覚はあった。それに他に仕入れるべき情報も沢山ある。それなのに、僕はこんな馬鹿な質問をした。

少しため息のような声にならない声が感じられた後
「43になります」と少し呆れ笑いのようなニュアンスで医師は言った。

驚きはしたとは思うのだが、これ以上失礼な質問をする気はないし、驚いた反応を見せてしまう程、愚かではない。

それに彼女も、このやり取りに慣れているのだろう。
説明を続けた。

「発症リスクは濃厚接触から32時間までがピークです。陰性でも発症リスクがありますので、もう少し、ここで待機していて下さい。記憶も、少しずつ戻ってくると思います。」

僕はなんだか事務的な処置なのだろう、と思い
「わかりました」とだけ返した。

「他に何か聞きたい事はありますか?」
と問われ、検査結果も聞いたし、気まずい質問もしてしまったので、「大丈夫です。」と答えた。

記憶が戻れば、例の感染症の内容も思い出すだろうと思った。













彼女が部屋を出て、暫く経った時、僕は少しぼんやりと眠りと覚醒の微睡の中にいた。

少し頭の中で高い音が鳴っている感覚がした。



だんだん、それが強くなってくる。
まるで、ピアノの高音域の鍵を何度も強く叩くような音だった。

高音が痛みに感じられて、僕は呻き声を漏らした。
そして、頭の痛みは顔全体に広がり、熱を帯びているような痛みに変わった。





熱い。。。そして、痛い。
そして、目の辺りから、水っぽい(グチュ。。。グチュ)という音がしている。
目が開かない。

痛い。苦しい。。。



どれくらい痛みに耐えていただろう。
声を上げようにも、呻き声しか出なかった。



痛みが引いて、頭の中で叩き鳴らされていた高音がキーンと連続した音へと変わり、周りを見た。

この時の感覚を僕は言葉にする事は出来ない。
この時、初めて、僕は目を開かずにモノを見た。

赤黒く燻んだ映像で病室が見える。

今までと全く異なった感覚に僕はため息をついた。
その声は今まで目があった部分からの振動として感じられた。

慌てて、ベッド横の流しの所へ動く。
が、痛みがまだ残っていて、早く動く事が出来ていなかったと思う。

流しの鏡に自分を移す。
そこには皺ついた顔の目の部分に、大きな穴が二つ空いた姿が映された。

「うわぁ!」と声を上げた瞬間に僕は固まった。
目の前の姿の衝撃に勝る衝撃が僕に走る。



「あ。。あぁ。あ」
僕から少女の声がするんだ。

顔に空いた目の窪みから、少女の声がする。

「カズヒロさん、大丈夫ですか!?」
防護服が2人、駆けつけてきた。
僕の叫び声を聞いたのだろう。

そして、僕の様子を見て、状況を察知したようだった。

「発症確認。記録して。」

「はい。。。」




そして、僕に言った。

「この症状が出て、死亡した人は殆どいません。まずは落ち着いて下さい。」
落ち着けるわけがなかった。
まるで化け物のように変容した自分。目がないという事、なのに何か、全く違う知覚方法で何かを見ているという感覚。

「まずは落ち着いて下さい。大丈夫です」
医師は僕を宥めた。



「大丈夫じゃないですよ!どうなってるんですか!?」
少女が僕の目の窪みの中から叫んでいる。
その事実が僕を冷静に、いや消沈させた。

「大丈夫です。正直、今となっては感染者の方が多いんです。」
彼女、いや、今となっては女性だという確証はない。僕自身も少女のような音を発している。
医師は僕に伝えた。

「発症された方は非発症者と身体的接触、室内での同時滞在は避けていただきますが、それ以外は今までと同じ生活を頂いて大丈夫です」

僕はもう勘づいていた。
そして、僕が勘づいていた事を防護服の2人も勘づいていた。



マスクを外し、僕に告げた。



「大丈夫ですから」

窪みの中から透き通る少女の声が告げた。





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