見出し画像

勇気を出してワンピースを買おうとしたら、「変態じゃん」と言われた話


「似合うと思います」


攻める水滴、跳ねる音。

洋服屋で、お世辞でも言われない。

なんでもいいから聴きたかった。揺れる、鮮鮮とした鼓膜。花束を抱えた、帰り道のよう。透き通った栞を見ていると、度々わたしたちは生きていた日を忘れてしまいそうになる。甘皮を丁寧に伝う、指先から注ぐ空模様を飲み干す——。毎日のように欲しいものへ手を伸ばす自分は、残酷なほど生きていると言えるだろう。



「今日も行くんですね」

ひとりで向かうと決めていた。

愛情のようなふくらみを持つ、ぬるい風に包まれる。暑さで気が狂い、耐え忍ぶ生活。裏返った蝉と目が合う日常。遠い景色を焼き付け、眠る前に必ず反芻していた。

恋人の彼と、わたしは一つ屋根の下で暮らしている。起きた瞬間混ざる汗は、どこまでも続く軌跡。冷やしておいた炭酸水を一気に流し込み、わたしたちは毎日のように笑顔を交わしている。


自分の力だけでは27年間、買うことができなかった。

先月友人からプレゼントでマニキュアをもらった。そこから、繋がる前進。隣には、気づけば仲間のように色彩が並び、一歩が虹を呼ぶ。深緑が好きだと、一度でも言っただろうか。自分でも気づかないうちに書いていたのだろうか。雫をもらった日、ちょうどわたしは深緑のピアスを両耳にしていた。とても合う、恋の瞬間——。


画像2


この写真を、いつまでも遺影のように眺めている。

わたしの人生で初めてのマニキュアは「深緑」になった。詰まらないが、人は初めての記憶を携えて進む。いつだってまた会えるというのに、どうして繰り返し本棚を漁ってはページをめくってしまうのだろう。端を折り曲げたり、透明を挟んだりする。嗚呼、わたしは愛する人との約束を守るので忙しい。



先月わたしは転職をした、それにも少し慣れ始めていた。

「いってきますね」

頬と頬が当たりそうな距離。

いつだって支え合って生きている。


現在は療養中だ。うつ病と手を繋ぎ、歩む恋人に最近は家事をほとんど任せている。「ふたりでやりましょう」とは言ったが、無邪気に首を横に振る彼を信じている毎日。わたしが帰れば、彼には「おかえり」をお願いしている。それを達成した特大の奇跡には、どうしたって涙が染み込むだろう。


そんなわたしたちの週末。

何事もなく始まる一日に疑問を持たない自分は幸福であり、恵まれていると思う。「これを逃したら」なんて、時々縋るような"痺れ"も起きる。とはいえ、将来の夢は長生きと、やさしい人になること。嗤いたければ、嗤えばいい。野暮を承知で、わたしは恋人と丁寧に朝食を取ってしまうのだ。



8月16日。

身支度をする日曜日。

開店した、数時間後の昼間。そこがいちばん空いている。わたしは先月から、毎週のように通っている近所の洋服屋があった。正確にいえばそこはリユースショップで、あえて店名はここに書かないが、読んでくれているあなたが想像したところでおおよそ当たっているだろう。


「今日まだあったら買おう」

その台詞は、言い訳として瑞々しすぎるほどだ。そう言い聞かせ、流れる時間は無益とはいえ、曲のような響きと導き——。



不自然なくらい、店の前を往復する。

「今だ」

不審だろうか。何か合図があるわけではない。強いていうのであれば、わたしが合図している。大縄跳びを自分で回しては、勇気を整え、空を泳ぐ。一階と二階にその店は分かれており、わたしの目的は一階の"レディース"フロアだった。

これほど通っているというのに、店に入る瞬間、滝に打たれた後のような濡れ姿。がらんとしていた店内でも、視線を感じる。その瞳はほとんど、自分自身だった。



目的は決まっていた。

マニキュアに合う、深緑のワンピースが欲しかった。

今まで恋人と一緒に洋服を買ったりしてきたが、たったひとりで買う、それは恥ずかしさというよりは恐怖に近かった。元々持っていたワンピースよりも、もっと合う「色」を求める。我儘な香水を振りかけ、青い化粧室でいつだって顔を覆ってきた。


ずっと、決めていた。

訪れた初日から目が合い、「君」を買うと決めていた。

花柄がちょうどいい。自分の今つけている大ぶりな深緑のピアスにも、塗っている深緑のマニキュアにも合いそうだ。


「今度来たとき、まだあったら買おう」

店に入るだけでも心臓が持ちそうにないのに、どうしてそうなる、と頭を抱える。買わずに去り続けるわたしは、どう考えても「迷惑」だろう。どの日に行っても同じ店員さん。声をかけられることはない。おそらくレジのあたりで買取の品などを整理している。「顔を覚えられていたらどうしよう」と、相変わらず、気にしすぎる性格。


同じような繰り返し。

わたしは時々、自分がどの週を生きているかわからなくなる。それでも昨日、景色が変わったのだ。



「どうかなこれ」

お世辞にも、広いとは言えない店内。

わたしの近くで、男女の二人組が服を選んでいた。


「どう?これ可愛くない?」

「まあ、いいんじゃない」

お付き合いをしているのだろうか。目が血走るほど羨ましい。家に帰れば、わたしにも彼がいるというのに、どうしてこうも考え過ぎてしまうのか。「結婚」や「恋愛」のカタチはそれぞれだと、自分で言っていたはずだろう。


「いいんだ」

それより、わたしは目の前にあるこのワンピースを買わねばならない。誰かに強制されているわけでもない。一度誰かが着て、値段の下がったこの服を、どこまでもわたしが求めている。



そんな中、もう一度二人組をちらりと捉える。

女性が脈絡なくスカートを手に取り、男性の腰に突然あてがう。「どう?」と、投げかけていた。これは、わたしの"気にしすぎ"ではない。男性はわたしを横目で見ながら、言葉を零す。


「嫌だよ、俺が着たら変態じゃん」



足元には、湖が見える。落ちていく雨は傘では間に合わない。「もう、買うのはやめよう」と想う。「今度来たときあったら買おう」なんて、愚考だった。瞼で暗闇を感じる。荒い呼吸のまま、店をまた去ろうとしたとき、女性は"わたしに聞こえる声"で、言う——




「そう?わたしは結構似合うと思うけどね」



.

.


どこまで人はやさしいのだろうと思う。

劇的にする気はないのに、わたしはどこまでも人の言葉に掬われる。「太陽」に照らされ、湖は水溜りに姿を変え、気づけば干上がる。


.

.


「ゲイはきもちわるい」

聞こえる陰口。それはもはや、陰口ではないのだろう。転職する前の職場でわたしは嗤われていた。とあるきっかけから、愛する恋人がいることが知れ渡り、わたしは従業員のほとんどに無視されるようになっていた。居場所を失い、青空を見ても降り出しそうだと思う。最期は逃げ出すようにして、退職を上司に懇願していた。


「また言われちゃう」

悲劇に片足を自ら入れるところだった。ひとりの女性の一言にわたしは救われる。もっと言えば、その人は「女性」とは限らない。わたしのように、そう——



何週間かかっただろう。

やっと手に取り、「深緑」を胸に抱える。


レジへ向かう。すれ違う、それは鼓舞の香水。



「これください」

か細い声しか出なかった。冷房の風でかき消されそうなほど。いつもの店員さん。初対面なのに、思い出がある。目の前にいるその人に、わたしは目を見て、言われる——



「似合うと思います」



話しかけられるなんて、夢にも思っていなかった。それも、これほどまでにあたたかい言葉を。



あまりの衝撃に嗚咽しそうになる。


これは、想像でしかない。

店員さんは、わたしの顔を覚えてくれていた。毎週のように来ては店内を彷徨き、去っていく。見るからに男のわたしは、髭をマスクで隠し、それ以上に何かを心の中に仕舞っていた。



「…ありがとうございます」


絞り出すようにして言葉を渡す。

聴こえただろうか。珊瑚色に染まっていたであろうわたしの顔で、伝わっただろうか。


買えたワンピースを抱え、寄り道せず帰る。


.

.



「ただいま」


吐息が夏と混ざる。

洗濯の手を止め、恋人が玄関まで来てくれた。


「おかえりなさい」


恋人の声色を神経の中で転がし、奇跡を噛みしめる。



「買えました!」


わたしは満面の笑みだっただろう。表情は鏡だから、わかるのだ。取り出したワンピースをすぐにその場で着たわたしは、蝶々として踊る。一生の間に、時々運ばれてくるケーキのよう。どこまでもこれは贅沢である。夜風を浴び、眠る前ではないのに、恋人の「お似合いです」の言葉が反芻される。わたしは、買えたのだ。


思わずわたしはツイッターでもそれを報告した。

いつだって見てくれていた。初めてマニキュアを塗った日。マニキュアを自分の力で買ったときも、口紅を買えなかったときも、口紅を塗ったときも。ワンピースが、大好きなわたしを——。



画像3




「買えたのだ」


たったそれだけの言葉を、何度も自分の耳に入れる。ツイッターのリプライ欄を確認した。わたしに渡される言葉は、未来が見えるほどの愛——。


しをりさんのように心が綺麗な人こそ似合う素敵なワンピースですね!服は人を選べないですが、このワンピースはしをりさんに選んでいただけたことを誇らしく思うと思います。

.

しをりさんに買って貰うのを待っていたのかな、なんてそんな風に思います。素敵なワンピースを着て、沢山楽しい思い出を作ってくださいね。

.

あのマニキュアにも合いそうですね。


「深緑」を知っている人がいる。そこに、わたしは「家族」を感じる。厚かましいだろうか。それでもこれは、わたし自身の心に仕舞うもの。そして、愛としてまたわたしが、渡せるもの。


ひとつひとつ。

ゆっくりでいい。自分が求めているものを揃えている。誰もが、人に感謝するオーロラ。遊具色の笑い声。指先だけでふわりと背中を押される。その儚さは、どこまでも伸びる強さ。


これを着て、わたしは朝日を何度も包むだろう。

自分の「好き」も、誰かの「好き」も尊重したい。


心が綿雲のように漂う。

夏が終わる前に、間に合ってよかった。


書き続ける勇気になっています。