変わりたいとは思っているけれど、いまの不幸もちょうどいい?


「お前、金ないらしいな」


肌の色艶に生彩がない。
口紅で、誤魔化してみたかった。

帰宅部のわたしを後ろから追いかけてきた、それはひとりの男の子。どこで聞いてきたのか、彼はわたしがアルバイトをしているのを知っていた。


どうでもよかった、わけではない。

自分の欲を削ぎ落としていかなければ、それに溺れて苦しくなる未来は目に見えていたから。その日も別に、帰る家はあって、約束されていたわけではないが、お弁当を買うお金くらいは持っていた。空はそれなりに青くて、景色はそれなりに緑。転んで傷を作ったとしても、二、三日経てば瘡蓋になる。必死に練習をして、県大会を目指せると思っていたが、「部費が払えない」という理由ならば仕方がない。

簡単に諦める。いや、簡単に諦めているふりをしていた。誰かを助けたり、誰かと関わるのは「負担」な気がして、見て見ぬふりをする人生の効率の良さに、むしろ溺れていたのである。


分相応の夢があると思っていた。

語弊がある台詞。わたしの場合のそれは、努力をすることにただ怯えていただけのようにも思える。体から血を流してまで掴みたいものがなくなっていた気もする。



十年ほど前の話。

わたしのいた高校はアルバイト禁止だった。けれども、両親からの申請と、学校の承諾があれば可能だったのだ。

高校二年、運動部の大会が始まろうとしていた夏、父が会社を辞めた。倒産を目前に控えていた。父がどうにかできる話ではなかった。

よくある話だとは思ったが、それが自分の話になるとは中々思えない。アルバイトをするために学校に提出する書類を母に書いてもらっている時、本当は泣きたかったのに、泣かなかった。「不幸」なのは自分だけではない。これくらいなら耐えられる。むしろちょうどいい。ちょうどいいと思ってしまった。


本来は、部活は全入制だった。帰宅部という概念はそもそもない。どれにも興味がなくてもどこかに所属する必要があった。高校一年の初め、「めんどくさいよ〜」「いやだいやだ」と教室で駄々をこねていた子たちも全員、なにかしらの部活に所属していた。


六限が終わり、号令とともわたしは学校から去る。なぜなら、わたしは帰宅部になっていたから。あれほど練習をしていたのに、なんの部活に入っていたかも忘れていた。


とぼとぼという音を立てながら、何かを引き摺るようにしてわたしは駅まで向かい、その足でコンビニへと入る。そこがわたしのアルバイト先だった。


「今日もよろしくお願いします」

店の制服に着替え、レジを打ったり、商品を並べたりする。店長には「お金沢山稼がなきゃいけないんだ。大変だね〜」と言われたりもしたが、大変なことなんてない。部活でこの時間も汗水垂らして練習をしている生徒、友だちがいて、それに比べて自分は簡単なことをしている。「ちょうどいい」というのは魔法のような言葉で、それを心で呟けば、涙は自然と止まるように設定されていった。



そんな生活が数ヶ月続き、号令とともに学校を後にしたある日。

とぼとぼという音に無理やり割り込んでくるような、図々しい声が聞こえてくる。まさか、自分に向けられたものではないだろうと思い、iPodの音量を少し上げた。すると次の瞬間、強い力でわたしの肩を揺する男の子が目の前に現れる。同じ制服。ごく薄い、香水のような匂い。


「なあ、俺と友だちになってくれよ」


彼は、よく笑う奴だった。そのくせ顔もかっこいい。背は175センチくらいだったが、背筋がよかったからか、もっと大きく見えた。


「一緒にゲーセン行こうぜ」
「無理です、ってかあなた誰ですか?」


彼は人の話をとにかく聞かない奴だった。自分本位で、わたしのことなんて大して見ていない。それに、欲を削いでいたわたしにとって、"新しい友だち"は望んでいたものではなかった——。


ただ結局、わたしはどこが境目だったかもわからず、彼と毎日のように一緒に学校から帰るようになった。いつも後ろから追いかけてくる。殆どわたしは口を開かなかったけれど、彼が話すから、ずっとわたしが覚えていた。

帰宅部であること。自称、運動神経がいいこと。ミスチルとポルノグラフィティが好きなこと。マックとバーミヤンが好きなこと。逆立ちが得意なこと。勉強が苦手なこと。両親がいないこと。本当は人生が淋しいこと。ずっと前からわたしのことを見かけていたけど、話しかけられなかったこと。将来は、美容師になりたいこと。

そうしてわたしは沢山のことを知った後に、遅すぎるタイミングで彼に訊いた。


「ねえ、なんでそんなに構うの?」


わたしから口を開いたからか、彼はいつもの三倍は笑顔だった気がする。さらにその顔には、"よくぞ聞いてくれました"と書いてあった。その勢いのまま彼は、快活な声をこぼす。

「お前の髪、切らしてほしいんだ」

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「何を言ってる」と、まず思った。

とはいえ、確かにわたしの髪はもさもさという音が聞こえてきそうなほど膨れ上がっていた。好きでそのままにしていたわけではない。美容院に行くお金がもったいなかった。あらゆるものを削ってアルバイトをしている自分に、「髪を切りたい」という欲は邪魔でしかない。モテたいとも思っていなかったわたしにとって、髪は本当にどうでもいいものだった。いや、どうでもいいものにしていた。

ただわたしは、心のどこかで期待していた。何かを目指していたわけでもないのに「変わりたい」と思っていた。それはきっと、いままでの傷を見て見ぬふりをしていたから——。


「絶対ふざけるから嫌だ」
「大丈夫大丈夫。任せとけって」

わたしは、やっぱり弱くて強かった。結局彼に押されるがまま、公園のベンチに座らされる。この日を待ち望んでいた彼は、鞄に"美容師セット"と思われるものを常に持ち歩いていたらしい。そして彼はわたしに、"注文内容"を確認してくる。


「可愛いのがいいんだよな」


思わず胸が高鳴る。彼ばかり話をしていると思っていたが、気づかないうちにわたしはほんの少し、零していた。黄色や桃色が好きなこと、スカートを穿いてみたいこと、そして、"男"のわたしが髪を伸ばしている本当の理由は、少しでも「女の子」に近づきたかったからだった。

アルバイトをしている自分や、何かを我慢していた自分。他の子たちと同じことがしたかったのに、同じことは望みたくなかったり、それは思春期特有のものかもしれない。その中でも、わたしは自分を許す時間を欲していた。その欲だけは、大人になっても大切に抱え続けていいものだと思う。


溺れることなく、わたしを泳がせてくれた。

自分の夢を持って彼は生きていた。わたしと同じように帰宅部でアルバイト漬けだったはずなのに、彼の瞳はいつも瑞々しかった。幼い頃に両親を失い、祖母の家で暮らしていた彼に、どうしてそこまでやりたいことがあるのかを、切られている途中、訊いた。そこで返ってきた言葉を、いまもわたしはたまに思い出す。


「何か一つ手離したからって、全部諦める必要はないだろ」



「もっと可愛くなりたい」

現在のわたしは、あの日から変わっていない。いや、むしろ色濃く「女の子」になることを望み続けている。

つい最近、数ヶ月ぶりに美容院に行った。例の感染症の影響もあって、それは単純に予定を先延ばしにしていたのだ。


毎回来る前は、別にこれでちょうどいいかなと思う。お金をかけてまでしたいことか、と。そんな心だったはずなのに、美容院で髪を切って整えてもらうたびに思う、「来てよかった」と。

それがなんだかばからしくて、人は思っているよりも、小さなきっかけで大きな前進を生み出せるのかもしれないと思った。

あの日の男の子とは、卒業して以来、会っていない。もう一度会いたいと思ったが、そもそも連絡先を交換していなかった。文章を書いて、いまはより「女の子」に近づいたわたしの髪を切ってほしい。そうやってわたしは瑞々しく、諦めがわるくなっていた。人生は長い、手離したものだってまた追える。


小さな勇気を、一歩ずつ。

本当に「ちょうどいい」と思っているなら止めないけれど、これを読んでくれたあなたにはほんの少し、"満足しないこと"を、伝えたかったのです。


書き続ける勇気になっています。