【短編】胞子は心臓を侵すか(後編)

あなたの恋人はどんな人ですか?


5分程度で読める短編の後編です。
前編はこちらから。

以下本編です。

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目が覚めると、僕は自宅のベッドの上だった。

よそ見をしながら歩いていたから、ただの段差に気づかず思い切り転んで脳震盪を起こしたらしい。ポケットに手を突っ込んで定期を探していたせいで、倒れた時ろくに受け身を取れなかったのもあるという。怪我のことよりも自分の運動神経が心配になった。今度綾子とジョギングにでも行った方が良いだろうか。

盛大に転んだところを駅員さんが見ていたらしく、蹴躓いて転んだ僕をすぐに休憩所で休ませてくれた。僕もひょろいとはいえ男だから運ぶのは大変だったでしょうと言ったら、見つけてくれた駅員さんが腕まくりをしながら大丈夫ですよと力強い口調で言った。なるほど、僕には微塵もない筋肉が腕にこんもりと付いている。

一体僕はどうやって運ばれたのだろう、俵を担ぐようにか、もしくはお姫様抱っこだろうか。綾子にもしたことがないのに。のほほんとしたことを考えていると、駅員さんには念のため病院に行くように勧められた。確かにたんこぶが出来ているだけとはいえ頭を打ったのだ、さすがに無傷かどうか怪しい。

僕は駅構内で少し休ませてもらった後、会社に電話をしてことの経緯を伝えた。上司は「君らしいね」と呆れながらも後で有給申請をするように、と言ってくれた。いつもぼんやりしていて鈍い僕とは言え、どうにも申し訳なくて仕方がなかった。

そのあとは綾子にも連絡を入れて病院に診察を受けに行った。その間もぐずぐずと鼻水が垂れ落ちそうになるのを啜り、痒くって仕方がない目をどうにか擦らないように我慢した。なんだろう、さすがにおかしい、いつもならこんな風にはならないのに。

そう思ったのはお医者さんも同じだったようで、特に頭に異常がないと分かると別の場所へ案内された。

その頃には綾子も駆け付けてくれて、目を真っ赤にした僕に付き添ってくれる。案内されて行ったのは、胞子症専門の外来だった。

「あ、起きた?」

寝室に綾子が顔を出す。綾子は小さいから、ひょこっと可愛らしい効果音が聞こえるような気がした。

「だいぶ眠ってたよ。薬効いたみたいだね」

「うん、そうみたいだ。お陰で漫画みたいに鼻水が垂れなくて済むよ」

笑うと顔が引きつった。しばらく目や鼻をぐずぐずさせていたから、顔の筋肉がつったようになっていた。それを無理やり釣り上げてみていると、綾子が僕のおでこに手を当てる。

「やっぱり熱はないから、胞子症のせいなんだねぇ」

「うん、急にひどくなっちゃった」

僕の症状はもともと胞子爆発の日、つまり空中の胞子濃度が最も濃くなる一日限定のようなものだった。それ以外の日は弱い花粉症程度で、鼻水が出たり目に少し痒みを感じるくらい。しかし症状は人によって悪化することもあれば改善することもある、その動向はキノコにも誰にもわからない。

診察をしてくれたお医者さんが教えてくれたことだけれど、やはり巨大キノコは明日にも胞子爆発を起こしそうな状況らしい。パンパンに膨らんでフグみたいになったやつのことを思い出す。爆発の日の前に症状がここまで悪化するということは、胞子症が酷くなったと言うしかないのだろう。

僕が転んだのはただの運動神経の劣化だけじゃない、胞子症のせいでいつもの僕に輪をかけて頭がぼーっとしていたのだ。原因がわかったことに喜ぶべきか、それとも胞子症が悪化したことを嘆くべきかよくわからなくなった。

病院でもらってきた薬は、胞子症でよく処方される「スポフル」の少し強いものだった。以前から飲んでいたものは予防程度の効果しかなかったから、すぐに変えたほうがいいと言われて処方された。薬に次ぐ薬の連続、大きな粒を飲み込むのが苦手な僕には億劫でしかない。子供がよく使うゼリーやヨーグルトを買ってこようか本気で悩むが、綾子にはきっと笑われるだろう。なにせ彼女は水なしだって薬が飲めるのだ。

「何か食べられそう? うどんでも煮込もうか」

綾子の提案に、僕は少し考えてから首を振った。風邪などで体調が悪い時にはいつも作ってくれる卵入りのくたくたに煮込んだうどん。以前風邪をひいた時には煮込みすぎて原型を留めなくなっていたが、それでも笑いながら食べたら元気が出た。しかし今はそんな気分にもなれそうになかった。

「そう? じゃあリビングにいるから、何か欲しくなったら呼んでね」

綾子はそう言い残して寝室を出ていった。僕はぽすんとベッドに上半身を倒し、羽毛の掛け布団を下に寄せたまま目を閉じてみる。眠たくはなかったけれど、どこか頭がぼーっとしていた。ぼーっとした僕がさらにぼーっとするなんて、のほほんでは済まされないなぁと思う。会社の人にも、数日間の急な休みで迷惑をかけてしまっているだろう。綾子も心配そうな顔をしていた。

怪我も病気もしないことだけが取り柄だったのに、数年前に胞子症だと診断された。まだ綾子に出会ったばかり頃だ。彼女の髪は今よりももう少し長くって、一つに結わえた後ろ髪を引っ張りたい衝動に駆られたことを覚えている。懐かしい思い出だ。その頃から僕はほとんど時が止まったように変わっていないと思うし、これからもそうだと思うのに体だけはそうもいかないらしい。

小さい頃、実は胞子爆発の日が好きだった。台風や雷が怖いものだと知っていながらも、つい窓越しに見てみたくなってしまうのと同じ。胞子爆発は大きなキノコの頂上部が裂けるようにして開き、青白い粉状の噴煙が湧き出す。それに苦しむ人がいることは確かに知っていたが、物珍しさと怖いもの見たさに外へ出て街を歩き回ったものだ。

雨とも雪とも違う、空を覆い尽くす白銀の粉たち。僕は確かにそれを「美しい」と思っていた。

それがどうだ、今となっては巨大キノコに近づくことすらままならない。僕の「美しい」は幻想だったのだろうか。

羽毛布団を頭から被ってみる。真っ暗な世界が出来上がって、キノコの中に無理矢理詰め込まれた胞子の気分になれた。うじゃうじゃと丸まって、固まって、いつまでも押し込められたままだ。

僕はいつ外へ出られるだろう。お医者さんにはおおよそ三日くらいだろうと診断されたけど、場合によっては伸びることもある。いつまでだろう、いつまで大丈夫だろう。

「おはよう」

突然世界が明るくなった、と思ったら綾子だった。かけていた布団を勢いよく剥ぎ取られて、僕は豆鉄砲を食らった鳩みたいになった。そういえば鳩って本当に人間みたいに驚くのだろうか。

縮こまった僕を見て綾子が笑った。僕は訳もわからず釣られて笑う。綾子が笑っているのを見ると、反射的に一緒に笑ってしまう。パブロフの犬状態。

「ね、見て。写真整理していたらこんなのが出てきたの」

そう言って綾子は自宅のプリンターで刷った一枚の写真を差し出す。僕は首だけにょきりと伸ばしてそれを見る。彼女が昔撮った写真らしかった。

「アリスのキノコみたいだね」

「やっぱりそう見える? 昔イギリスに行った時に見たの。その時は普通に見たり触ったりできたんだけど、今ではすっかり観光資源になってるんだって」

すごいよね、と綾子は言った。その目には懐かしさと楽しさと、優しさとが混ざり合ってキラキラしている。まるで胞子の雨のように、彼女の少し色素の薄い瞳が輝いていた。

僕は彼女に「今度の旅行で行ってみようか」と、ほとんど言いかけて喉元で言葉が止まった。綾子の喜ぶ顔が好きな僕は、彼女の喜びそうなことは大抵やったし、そのお陰で僕の世界はこの街から一歩広がったのだ。しかし今はそんな台詞も出てこない。

胞子症の症状のせいで思うように働けないという人は、世界中にも少なくない数いるという。たかが数日間の休みだったとしてもハンディとして見られるということなんだろう。僕自身も急な有給で色々な人に迷惑をかけた。これからもそうだと思うと、胃の奥の方がキリキリと痛む気がするのだ。

それに僕が彼女と一緒にいたら、綾子を縛ってしまうのではないかとも思った。いつも自由で活発で、かつては根無し草だった綾子の足元から僕という胞子が侵食していく。想像するだけでゾッとした。

綾子が僕の顔を覗き込んでいる。慌てて笑顔らしきものを作った。僕の不恰好な顔にしかめっ面を浮かべて、綾子は言った。

「何考えてるのか知らないけど、あなたはいつも通りにしていたらいいのよ」

大事なことを話す時、綾子はいつも前のめりに体を乗り出して話す。今は僕のおでこに彼女のおでこがくっつきそうだった。その距離に鼻水や咳が移るよ、と言いかけたけれど風邪じゃなくって胞子症なんだったと思い直す。

「いつも通りにのほほんとしててよ。何なら私が養ってあげるから」

僕が目をパチクリさせると、綾子は名案でしょうと言わんばかりに得意げな顔をした。その顔がちょっと幼くって、なんだか可愛らしくって妙に安心してしまった。

その日の夜は薬のお陰か咳や鼻水ほとんどなく、ゆっくり休むことができた。眠りのお供は綾子と一緒に世界中を旅する夢で、僕は相変わらずのほほんとしていて綾子に少し怒られながら世界遺産や観光地となったキノコたちを巡って行く。

それは景色は幼い頃に見た美しいものたちにとてもよく似ていて、靄がかったものがさーっと晴れていく。青空のように澄んだ心臓の中には、いつもののほほんとした僕が残った。

翌日の朝、綾子が朝ごはんは何がいいか聞くので、僕はムーンサルトのオリジナルブレットが食べたいとリクエストした。確かニ日前に買ったはずだから、まだふわふわなままだろう。綾子は「昨日のことが嘘みたいね」と呆れながら言った。

僕は何のことだかすぐに思い当たらず、のほほんとしたまま綾子がオーブントースターで焼くパンの匂いを嗅いでいた。うん、いい匂いだ。素敵な香りをいっぱいに吸い込んだのは、紛れもなく両側ともに胞子が侵した肺だった。けれど綾子がいたから、どうやら僕の心臓は無事守られたらしい。

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「次のニュースです。月面移住計画の第二住民が今朝ロケットで旅立ちました」

綾子がイケメンだと言ったキャスターのお兄さんが出演するニュースは、その日も時間通り朝八時にスタートした。それまでパタパタと朝御飯の用意に身支度にで追われていた妻が、ピタリと止まってソファに腰掛ける。右手にはコーヒー、僕の分もある。準備は万端らしい。

二人並んでマグカップのコーヒーを啜る。白い湯気がゆらゆらとけぶるのを見ながら、僕はぼんやりとテレビ画面を見ていた。

「次のニュースです。ついに胞子症治療の特効薬が発見されました。発見したのは日本の企業研究者で、東京都在住の…」

見知った街が映し出される。見知った顔、見知ったキノコ。僕が目を丸くするよりも前に綾子が声をあげた。

「小学生で発症してしまった娘・リサの胞子症を治してあげたくて…」

世間は案外狭いもんだ。お気に入りのキャスターのお兄さんのことなど忘れて、綾子はまたパタパタと忙しなく動き出した。その代わりに僕はのほほんとソファに腰掛けたまま、残りのコーヒーを飲み干す。

薬が日本でも実用化されたら、海外旅行をしてみよう。綾子は何度目かの、僕は初めての海外旅行。忙しくなりそうだ。

その日はからりと乾いた快晴で、浮かれた胞子が漂ってきそうな気がしたけれど、たぶん今の僕なら共生できるだろうと無責任に思った。



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お読みいただきありがとうございました!

あとがきに続きます。

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