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【短編】浅き夢見に

靄がかった天井の壁に、線のように細い光の筋が走る。その筋はだんだんと太くなり、わたしの顔に覆い被さる。

これは夢だ、

と思った瞬間に目が覚めて、彼が帰ってきたのだとわかる。網膜を刺激するリビングの灯りは煌々と照り、寝室をわずかずつ浸食してくる。

遅くに帰ってきた真夜中、彼は眠っているわたしの部屋の扉を少しだけ開けて、着替えをしたり夜食を食べたりしていた。

はじめは起きてほしいのかと思って眠い目を擦ってリビングへ急いだが、どうやらそうではないらしく結局はいつもベッドへ戻って寝かしつけられた。

しかし扉はいつまでも細く開いたまま、控えめな生活音だけがラジオのように流れてくる。それを聞いているうちに、半分眠っているわたしの頭の中には妙な想像が膨らんでいた。

あの扉の向こうにいるのが、もしも彼じゃなかったら。

当然彼が同じベッドに入ってくるまで起きていたことはあるけど、紛れもなくわたしの知っている彼だった。壁側に顔を向けて横になるわたしの背中に、そっと手を当ててなぞる。儀式のように滑らせた体温が離れていく頃、規則正しい寝息が聞こえてくるのだ。

妄想でしかないことはわかっている。あの眩しすぎる光の向こう側に、彼でない誰かが生活をしているだなんて。だけれどチラチラと光を横切る黒い影は、さも別人のように振る舞うのだ。

もしも彼が別人なら、わたしだって違う誰かでないとおかしい。きっとわたしはまだ浅い眠りの中にいて、愛しい恋人を待つ誰かの心とリンクしているだけなんだろう。

そう思っているうちに、大抵は眠りがやってくる。ひたひたと床を踏む彼の足音と、パチリと電気の消える音。知らない誰かが、彼がやってくるだろう。それまで起きていられるだろうか。

自然とまぶたが落ちてくる。飛び飛びの意識の中で、衣擦れの音が近くに聞こえ、ベッドが遠くで軋んだ。背後のゼロ距離に体温を感じなくて、思わず「背中…」と呟いて、記憶が途切れた。


✳︎


妄想でしかないことはわかっている。

ベッドに入ると、彼女は決まって小さく「背中…」と呟いた。はじめは訳がわからず「背中?」聞き返して、はたと気がついた。

この声は、誰だ。

知らない女の声が、俺に「背中…」と呼びかける。そんなことが何度か続き、ようやく背中に手を当ててやると大人しく眠ってくれることがわかった。

翌朝にはすっかり元通りになった彼女に、俺はかける言葉が見つからなかった。恐ろしくて誰にも言えず、かといって彼女を一人にすることもできない。

遅く帰った真夜中、俺は彼女の眠る寝室の扉を少しだけ開けて着替えをしたり夜食を食べたりしていた。いつ、見知らぬ女が起きてくるのかと怖かった。


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