《短編小説》Harry Styles
『話し合おう!』
午前二時、嫌な予感。
隣の部屋から聴こえる男の声に、アイスクリームを食べる手を止める。
あぁ、また話し合いか………。
『もう話すことなんてない!』
ヒステリックな女の声も聴こえて、わたしはイヤホンを耳に挿した。
やわもち。柔らかい餅。つまりそう言いたいのはわかるけど、柔らかくない餅なんてある?
アイスクリームの商品名にどうでもいい疑問を抱くのは、隣の部屋を気にしないためだ。
ぐにょぐにょ。ぐにょぐにょ。
アイスクリームの上に乗っている餅をスプーンで強く押しながら、イヤホンから流れてくるハリー・スタイルズに耳を傾ける。
歌詞をノートの隅に殴り書く。それを乱暴に千切り取り、玄関を出て、隣の部屋のポストにこっそり入れる。
やっちゃおうかなぁ………。
実際にノートに描いているのは黒い丸だった。
ぐるぐるぐるぐる、妄想しながら、ぐるぐるぐるぐる。
ハリー・スタイルズって、もう三十歳くらいになったのかな。
突然気になってwikiを見てみると、二十九歳だった。つまりまだ赤ちゃんだ。大人の男じゃないなら恋愛対象外だなぁと身の程知らずのことを思う。
一度、隣の部屋の男にアパートの前で会ったことがある。その日の彼は見るからにへべれけに酔っていて、
「一人暮らし?」
ヘラヘラ笑って近づいてきた。
「てめーに関係ない。それより毎日毎日うるさい」
言ってやりたかったけど、わたしは黙って自分の部屋に急いで入る。
「これ以上、あなたたちに話し合いなんて必要ない」
それも言いたかったけど、黙っているしかない。
「さっさと別れなよ」と簡単に誰かに言う人にはなりたくないし、隣の部屋に住んではいるけど赤の他人だ。死ぬまで話し合いを続けていようと、別れようとどうでもいい。深夜に怒鳴りあって話し合うのは迷惑だけど。
——ドンッ
壁に何かが当たって、大きな音が鳴る。急いでイヤホンを外すと、またすぐに——ドンッと大きな音が鳴った。
どうしよう…。殴り合い?それとも女が一方的に殴られている?いやでも、激しい仲直りをしているのかもしれない。激しい仲直り?なんだそれ。そういう妄想はやめようよと深夜の自分を制御して、とりあえず、わたしは柔らかい餅を口に運んで心を落ち着けようとした。
——ピンポーン
わたしの部屋のインターホンが鳴った。突然の出来事に身体は飛び上がり、そんなわたしに驚いたのか、飼い猫は驚愕の表情を浮かべて転びながら走って寝室へと逃げていく。猫というのは薄情だよね…と呟きながら、わたしは部屋の電気を急いで消すという痛恨のミスを犯してしまった。
《寝ています》とアピールしたつもりだが、突然電気が消えたら《起きていました》とアピールしているのと同じこと。
アイスクリームの味なんて、もうよくわからなかった。もちろん餅の柔らかさを楽しむ余裕もない。テーブルの上に置かれたイヤホンから漏れてくるハリー・スタイルズの声だけが、何故か不思議とほっとする。
大人の男じゃないなんて言ってごめんなさい。
誰かをほっとさせることが出来るなんて、君は大人だ。
そんな無意味な心の声が頭の中を駆け巡る。
どうしよう……とうずくまる身体をなんとか伸ばしてインターホンの前に立ち上がったが、画面を見るのはやっぱり迷った。
「助けて…」なんて女が立っていたらと思うと足がすくんでしまう。助けたい気持ちはそりゃすこしはあるけれど、あの大きな男から女性を助けることなんてわたしに出来るのだろうか。だからって無視をするのは薄情なようで気が引ける。
『そういうときは、警察を呼べばいいんだよ』
ハリー・スタイルズが言った。
いや、嘘。いや、嘘というか妄想だ。というか神の声?なんでもいいけど、その通り。
危ない時は、警察を呼ぼう。
そう思ったら急に気が楽になり、わたしはスマホを強く握りしめたまま、インターホンの画面を恐る恐る覗き込んだ。
………誰もいない。
それもこわい。
でももうそれでいい。
「ふぅ」
大きく深呼吸をしてからアイスクリームのゴミを捨て、急いで歯を磨き、そのまま寝室に入って何事もなかったかのようなフリ。
でもとりあえず猫は抱きしめて寝た。
《ハリー・スタイルズがそう言っている》
次の日の朝、仲良くアパートの前を歩く隣の部屋のカップルを見つけてわたしは匿名の手紙を書いた。こっそりポストに入れるかどうかは迷っている。
《終》
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引っ越すべきか、追い出すべきか。
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