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2013年から2023年の10年を振り返る。

Twitterで「10年を振り返る」というハッシュタグがあったので振り返ってみました。

Twitterには以下のようにツイート(ちょっと修正しました)しました。
この10年の変遷を眺めていたら、詳しく書いてみようと思ったので、noteに残しておきます。

2013 博士課程落ちる
2014 博士課程入学
2015 働きながら研究 結婚
2016 働きながら研究 第一子産まれる
2017 適応障害 博士課程退学 就職
2018 頑張って働く 第二子産まれる
2019 頑張って働く
2020 働きながら起業&事業準備
2021 退職 事業開始
2022 うつ&ADHD診断
2023 服薬&労働

では、2013年にBack in time!

2013年、僕は大学院修士課程を終え、博士課程に進むはずでしたが、まさかの不合格。内部進学だしと甘く見ていた結果だと思います。そして、僕は研究室に、どういう肩書きだったかは忘れましたが残り、浪人生活が始まりました。昼間は非常勤の教員をし、16時頃に大学に行き、大学の相談室で相談員をしたり、研究会に参加したり、博士課程の研究計画を作り直したりと、あっという間に一年が過ぎていきました。

2014年、博士課程は無事合格し、博士課程一年生という肩書きが付いただけで、他は2013年となんの変わりもない生活が始まりました。しかし、2011年に大学院に入ってからというもの、僕の精神状態は日に日に何かに蝕まれていっていました。

2015年も同じく、昼間に仕事、夕方から大学、休日もほぼなく研究をし、論文を書き、学会で発表をし、そんなまさに大学院生的生活を将来の不安を抱えながら送っていました。
この頃、ハマっていたの(心の拠り所)が私立恵比寿中学、通称エビ中というアイドルグループで、時間があればライブやイベントに行っていまきた。その時に後の妻となる女性と出会い、結婚しました。

2016年、僕は博士課程3年になっていました。この一年で博士論文を書き上げないと卒業はできないという状況でしたが、僕にとっては大学内でも研究のこと以外のこともいろんなことに取り組んでいて、さらに自分の研究もしなきゃいけないという状況で、今思えば、その時にADHDの症状、特にマルチタスクの苦手さや先延ばし癖などが出てしまい、博士論文は中々書けず、そして、精神的に追い詰められていったのかなと思います。僕の精神は崩壊の一途を辿っていましたが、そんな中、第一子が産まれました。僕はこの子のために頑張ろうと思いました。

2017年、新しい年が始まってからでしょうか、頑張ろう頑張ろうと思うほど空回りし、ミスをし、追い詰められ、段々と自殺を考えるようになっていきました。これはヤバいと思い、心療内科に行くと、適応障害と社会不安障害という診断がおりました。それでも頑張って大学には行きました。僕にとって救いだったのは、自殺を考えた時に家族のことを考えることでそれを実行することを留めてくれたことだした。しかし、それでも大学に居続けることは僕にとって、そして家族にとっても悪い結果をもたらすことだと考え、断腸の思いで、僕は大学院を辞めることにしました。
その後、福祉施設で働くことになりました。充分な給料をもらえ、段々と精神的にも落ち着きを取り戻していきました。仕事上では僕としてはADHDの症状は出ずに働けていたかなと思いますが、周りの人たちはどんな風に思っていたかはわかりませんが、きっとちょっと変な人ぐらいに思っていたのではないでしょうか。大学院生活に比べればストレスなく働くことができていました。

2018年、第二子が産まれました。僕の生きる理由がまたひとつ増えました。
福祉施設では、児童指導員として働いていましたが、やはり働いていると目標が生まれ、介護福祉士の資格を取りたい、そして、いずれは独立して地域福祉に携わりたいという想いが出てきたのがこの時期でした。

2019年は介護福祉士になるための研修や勉強をしつつ、独立のための準備も働きながらしました。

2020年、介護福祉士試験に合格。働きながら地元に会社を立ち上げました。そして、施設で働きながら事業開始のための準備を進めました。この準備をしている時間がとても楽しく、事業開始が待ち遠しかったです。そして、およいよ、12月に職場を退職した。

2021年、地元で福祉の事業を開始しました。最初は本当に楽しかったなとつくづく思います(その後が地獄のような日々だったから。今もしんどいけど)。その後、事業を2つに増やしましたが、うまくいかず、僕の精神も二度目の崩壊の一途を辿っていきました。

2022年、ひとつの事業を他法人に譲渡し、新しい事業を開始しました。この頃(一月、二月あたり)の僕は本当にヤバくていつ死んでもおかしくないと自分でも思ってたくらい追い込まれていました。その理由はうまくいっていなかった事業のことや、新しい事業の準備が本当に大変で極限状態でオープンを迎えました。そしてその極限状態は、鬱という名前に変わりました。そして、発覚した、その鬱は僕が持っているADHDの特性が原因だということが。
でも、ADHDと診断されて自分でも気付いてい部分もあるから、障害受容はそんなりできたんですよね。大学院の時に専門で研究してたのが発達障害だったということもあって、なんとなく僕も接していた人たちと似ているところがあるなと思っていたので。ADHDと鬱に関しては服薬で症状を抑えつつ、仕事は続行、と言うよりそれしか道はないので、身体に鞭打って仕事を続けていきました。そんな中で初めて長編の小説を書き上げて賞に応募をしました。僕の中にある忿懣、焦燥、怨嗟云々を表現したホラー小説を書きました。残念ながら賞は取れませんでしたが、書き上げたことで、自信も付き、現在は新作ものんびりと書いているところです。

2023年、もう最近ですね。事業の方は段々と軌道に乗り始めてきて、僕の体調も最悪の時よりもだいぶよくなってるように思えます。主治医も言っているんですが、環境が変わらない限り寛解は難しいと思います。でも、辞める訳には行きませんからね。自分が壊れない程度に頑張っていこうと思ってます。きっとどこかで報われる日が来るだろうと信じているので。

ということで、10年振り返り終わり。

これからも生きよう。

生きてれば、ちょっとくらいいい事あるよね。

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