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慎ましやかで、ロックで

先月、大阪にいた母方のおばあちゃんが亡くなった。
12月頭から寝たきりになって点滴で水分を入れてもらいながら過ごしていていつ何が起きてもおかしくはない状況だったので、当時は内心ヒヤヒヤしながら生活していたのだが、二ヶ月間しっかり生き切って皆に見送られながら空へと旅立っていった。

大往生だったし、私も生きているうちにきちんと会いに行けたので後悔なく見送ることもできた。

目まぐるしいここ数ヶ月だったが、この一連を通して人間の底力みたいなものを何度か感じた瞬間があった。
今日はその事について書こうと思う。


おばあちゃんは以前から地域の介護施設にお世話になっており、他の入居者さんと一緒に楽しそうにレクリエーションに参加している姿なんかも、数年前に帰省した時に一度だけ見たことがある。
だがここ2、3年の間に何度か誤嚥や高熱で病院に搬送されては戻ってくるということが度々あってその度に母からも連絡を受けていたのだが、昨年の11月、ついに「もう前のように自分の力で何かをすることはできない」と医者に告げられ、点滴で栄養を入れるか、水分を入れるかの二択を迫られるタイミングが訪れた。
つまり、延命措置を施すかどうかという話だ。

お母さんたち兄弟も、もうここから昨日が回復していく見込みがない中で無理やり命を引き伸ばすのもどうか、という話になり、その命の火が尽きるまで静かに見守ってあげようという事になった。
おばあちゃんは特に何か病気を患っていたわけでもなかったので、有難いことにその後はお世話になった施設へと帰れることになった。


それ以降はお母さんとおばさんが週に数回部屋を訪れていたのだが、日が経つごとにおばあちゃんの反応は鈍くなっていった。

読んで字の如くほぼ寝たきりで、たまに大きなあくびをしたりはするものの目は貝殻のようにずっと閉じていたのだという。

ただ凄かったのはその生命力で、早ければ数日で亡くなる人もいる中、おばあちゃんは何日経っても血圧もほぼ正常な数値で血色もずっとよかった。

私は母から連絡を受けていつ何が起こってもいいように覚悟はしながら日々を生きていたが、何とか大きな事態も起こることなく年末に大阪へ戻った際に会いにいくことができた。

年末の新幹線が混む少し前に休みをもらって朝早めの新幹線で新大阪へ。
着いたらそのまま大阪メトロを乗り継いで守口まで行き、おばさんの車に乗り施設へと向かっていった。
久々に通り過ぎる街並みはだいぶ変わってこの目に映った。大きなアウトレットモールができていたり、大規模な工事を見てモノレールが延伸することを知ったり。東京に住み始めてもう10年になることを思うと、そりゃ大阪も変わるよね、と向こうにすっかり染まってしまった自分を知る。


1時間も経たずに施設に到着し、数年前に訪れたその場所に懐かしさを覚えながらおばあちゃんのいる部屋へと向かった。
窓からの光もたくさん入って解放感のある整備された綺麗なフロア。「あら、息子さんいらっしゃったんですね」といつもおばあちゃんがお世話になっている施設の方に案内されながら廊下を進む。
扉を開けると、デフューザーから漂ってくるほんのりとしたアロマの香りに迎えられた。

奥のベッドでおばあちゃんは静かに眠っていた。枕元にある棚には私たち親戚一同の顔写真やメッセージが額に飾られている。
丸いすに座っておばあちゃんに「帰ってきたよー」と声をかける。おばさんが驚いていたのはおばあちゃんの反応だった。

ずっと閉じていたままの目が開いたのだ。施設の人が言うには朝から何度か開いていたらしい。「会いたかったんやろなあ。待ってたんとちゃうか」とおばさんも言っていた。

そりゃそうか。3年ぐらい会えていなかったのだから。
部屋に入ってしばらく隣にいたが、間に合ってよかったと安堵すると同時に、イラストレーターとしておばあちゃんが元気なうちに似顔絵を送れて良かったという嬉しさや、もっと会いに来てあげればよかったという思い、沢山可愛がってもらった子供の頃の記憶、大人になってからおばあちゃんから聞いた波瀾万丈だった過去の話なんかを思い出して、気づいたら込み上げるように涙が流れてしまっていた。


おばあちゃんにとって初孫だった私。生まれる前に病気で亡くなっていたおじいちゃんの存在を知らない私にとって、おばあちゃんの存在はとりわけ特別である。

愛があって慎ましやかで、いつも化粧を欠かさなかったおばあちゃん。
でもその中身はすごく芯が通っていて、自分の考えがはっきりしていて、好き嫌いをはっきり言ってしまうところなんて最高にロックだった。

私が大学4年生の就職活動の時期、「私は一般の企業みたいなところは向いてないと思うんよな」と二人きりでいる時に相談した際も、「あんたは絶対そんなとこ向いてないわ。もっとのびのび好きなことできる場所のほうがいいで」と笑い飛ばされたことを覚えている。

酸いも甘いも味わってきた祖母の、その人生に裏付けされた言葉が今日の私を作ってくれている。


その後も私が部屋にいる間、終始こちらを見るように目で追っていたり、言葉にならない声を出して何かを伝えようとしてくれていた。
普段起こらなかったことが沢山起きて、岡山から駆けつけてきた母もその光景を嬉しそうに見ていた。
おばあちゃんの大好きだった歌謡曲が流れる部屋の中で知っている曲が流れるたびに口ずさみながら、生きているうちに会えた最後の日を過ごした。


それからおばあちゃんは何事もなく年を越し、1月にはちゃっかり誕生日まで迎えて95歳をお祝いしてもらい、色んな人の愛に包まれながら2月のとある日に安らかにその生涯を終えた。


大往生して生き切ったおばあちゃんを見て、私は今まで以上に生きるエネルギーに満ちていく感覚があった。

ひいおばあちゃんが旅立った時もそうだったが、今回の告別式も湿っぽい悲しさはなかった。愛で生きた人には愛が返ってくるのだと肌で感じるような晴れやかな式だった。
私も願わくばあんなふうに生涯を終えたい。そのために、愛を絶やさずにこれからも胸を張って生きたい。

今はおばあちゃんはどの辺りにいるんだろうか。
お別れのお手紙に「たくさん会えなかった分、東京まで気が向いたら旅行にきてね」と書いたので、気長に待っていようと思う。

読んでくださりありがとうございます。 少しでも心にゆとりが生まれていたのなら嬉しいです。 より一層表現や創作に励んでいけたらと思っております。