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【まとめ読み版】ソウルフィルド・シャングリラ~The Reincarnation of the Angel~

序章 かなしみに満ちた楽園で Sorrowful Shangri-La


『最後に、一言だけ。ごめんなさい。そして――』

      †

 ――誰かに謝られる、夢を見た。

 少年が目覚めて最初に感じたのは、空腹と寒さだった。
 体が濡れている。雨。周囲の状況を、徐々に認識する。
 暗い路地裏だった。汚水の溜まりがそこかしこにあり、その中で溺れつつも機能していた骨董物のレーザー投影型掲示板が、今日が西暦2,194年11月15日だと告げる。年季の入った粗大ゴミが方々に放置されており、少年はそんなゴミの一つ、スプリングの壊れたソファに身を横たえていた。
 澄崎すみざき市都市再整備区域。そう呼ばれている場所だ。何番街だったかまでは、思い出せない。
 自分の名前は? それは簡単だ。すぐに思い出せる。
 葛城雄哉かつらぎゆうや。半年前に、10歳になった。
 だがそうやって現状を把握できはしても、今まで自分がどうしていたのかは、濁って胡乱な頭ではなにも思い返せない。
 否、一つだけ確信がある。自分は今まで誰かと一緒にいたはずだ。でも、誰と?
 ――母さん。
 そうだ、母さんだ。母さん、どこ? どこにいるの?
 左手に、感触。少年はゆっくりと視線を自分の手に、そして腕をたどってそれに移す。
 それの手と少年の左手は繋がれていた。それは白い服を着ていた。長い黒髪がそれの顔に垂れていた。それは人型の有機物の塊。
 魂無き、屍。
 ――か、あ、さん。
 少年は死というものを十全とは言わないが、十分理解できる年齢だった。だから母の、
(……ちがう、これは、母さんじゃない)
 いや、〝これ〟の状態がなにを示すのか、はっきりと分かった。それは、
(ああ)
 終わりだ。
(母さんは、消えた)
 この上ない、絶対的な終わりだ。
(消え――)
 少年は突如、巨大な恐怖にとりつかれる。
「ひぃっ……!」
 かすれた悲鳴を上げながら、少年はそれから手をほどこうと腕を振りまわす。だが死後硬直が進行していたせいで、少年の目的は果たせない。死体は少年の腕の動きにあわせてダンスする。ばしゃ、ばしゃ、ばしゃと泥水が跳ねる。
(離れろ。嫌だ。冷たい。こわい。こわいこわいこわい――!)
 暴れ続ける少年の腰から、きん、と澄んだ音を立てなにかが地面に落ちた。少年はびくりと肩を震わせて、アスファルトの上に転がったものを見る。雨に濡れ、鋭く光る銀色。
 刃渡り15センチほどの、ナイフ。
 母が護身用にと少年に持たせていた、小さな武器。これまで一度も使ったことはなかった。少年は母の言いつけをよく守り、母から決して離れないようにしていたから。危険は母が全て排除していてくれたから。けれど、今は。
 雨より冷たい、骸の温度を左手に感じながら。
 少年の右手は、魅入られたようにナイフを拾い上げた。

      †

 少女はおおきな、とても大きな家で暮らしていた。両親とたくさんの使用人、そして数少ない友だちと一緒に。少女にとって、その家が世界の全てだった。

 ……少女が、息を弾ませて話しかける。
(どうせ、聞いてくれない。きっと、無駄に違いない)
 お父さま、見てください。わたし、
「ユウリさん、私は今仕事の話をしているので話は聞けません」
 でも、
「私の仕事の効率への負的な因子の持ち込みはやめてください。――ええ。研究部に完成したデータの解析を急ぐようにと伝えてください。ああ、それと『彼女』の処置の準備は進んでいるのですか? ――いいでしょう。いえ、問題ありません。彼女が〝起きて〟いなくても〝表〟を消せばいいだけですから。空宮そらのみやへの牽制は滞りありません。
 彼らはこれから二週間、ALICEアリスネットへの接続が市議会権限により制限されます。事を成すのには充分な時間でしょう」
 あ、お母さま。見て、あやとり、わたしこんなに上手になったの。すごいでしょう?
「ほらユウリ、お父様の邪魔をしてはいけません。こちらに来なさい。それにあやとりなんて古臭い遊戯はおやめなさいな」
 ああ、返してよ、お母さま。あやとり、返して。
「駄目です。全く――あなたは誰に似たのでしょうね。平民のような真似はよしなさいといつも言っているでしょう。ユウリ、あなたは天宮あまのみやの……」
「では、その通りに。――おや、ユウリが泣いていますね。貴女はなにをしていたのですか。目を離さないようにといつも言っているでしょう。私には私の仕事があります。貴女には貴女の仕事をしてもらわなければ」
「――そんな言い草はないわ。貴方も親でしょう……! あたしだけでこれの全てをカバーできるわけがない! ユウリが邪魔をして仕事の効率が落ちると言うのなら、『あの時』なかったことにすればよかったじゃない!」
 ……。
「私はそこまで言っていません。論理の飛躍は貴女の悪癖ですね。ユウリにいい影響を与えない。……矯正措置を講じたほうがいいかも知れませんね」
「――――っ! この、言うに、こと欠いてっ――!」
 ……て。
「私は欠いた言動をした覚えはありません。ユウリには、〝正しく〟育ってもらわないと――困るのですよ」
 ……めて。
「困るのはお前だけだ! それならお前が全てをやればいい! あたしはもううんざりだ! 何であたしだけがこんな思いをしなくてはいけないの……嫌だ、いやだ、いやだ……」
 やめて。お父さま、お母さま。やめて、やめてください。
「ユウリの前でそのような頽廃的物言いをしてはいけない。貴女はなにも理解していない。貴女は自らの責務を放り出し、駄々をこねているだけだ。それでは困る。貴女には、ユウリを来たる日までのあいだ、教え育ててもらわなければ――悠灯ゆうひさんの替わりに、ね」
 ……。
「あああ! だまれ! その名を出すな! もうどうせすぐに終わるのに! 何もかも終わるのになんで! なんでなのよ!」
 …………。
「ふう……まずは落ち着きなさい――」
 ――わたしが悪いんだ。わたしのせいなんだ。
 お父さまがお母さまを怒らせてしまうのも。お母さまがお父さまに辛いことを言うのも。
 わたしのせいなんだ。
 お父さま、お母さま、ごめんなさい。お仕事のじゃまをしてごめんなさい。あやとりなんかしてごめんなさい。泣いてしまってごめんなさい。あやまるから。あやまりますから。だからどうか、どうか、
 もう、やめて。
(どうせ、謝っても止めてくれない。絶対、無駄に違いない)
 ……少女は、息を殺して謝り続ける。

     †

 少年は呆けたようにその場に座り込んでいた。
 左手首が真っ赤に染まっている。血だ。絶え間なく降り注ぐ雨滴は丹念にそれらを拭っていくが、また新しく赤は吹き出る。手首に沿って、ぐるりと輪を描くように。しかし、少年はそんな傷など存在しないかのように身動ぎもしない。右手にはナイフを握り締めていた。
 ぴしゃぴしゃと、何かが水たまりを歩く音がした。少年は弾かれたように反応する。溝鼠だった。安堵するが、鼠が死体に取りつくのを見て、猛然といきり立った。
「この――っ!」
 ナイフを、鼠めがけて振り下ろす。当たるはずもなく、鼠はきっ、と一声鳴いて走り去った。体から力が抜け、ナイフを取り零す。そして屍骸に目を落とした。
 死体の右手は、ずたずたに切り裂かれ、手首から千切り取られていた。凝固しかけた黒い血液が、ぽたりぽたりと垂れている。
 死体の手首を、切り落とした。
「ぼくは――ぼくは……」
 雨に打たれ、少年の体温は著しく下がっている。それにも関わらず左手だけが、ずくずくと熱い。その熱が思考に薄い紗をかける。
『動クナ』
 唐突にかけられたその声に、少年は凝然と固まった。正面に、最前まではいなかった何かが立っていた。
『ユックリト立テ、両手ヲ壁二ツケロ』
 ざらざらとした、非人間的な声質。少年はこれと同じ声を何度か聞いたことがあった。非市民ノーバディが連行される際、暴動鎮圧の現場、そして――死体の傍らで。
 澄崎市警軍特別高等巡邏隊。市民の間では〝特邏とくら〟と呼ばれている。灰色の都市迷彩が施された半有機素材製のプロテクタは雨に濡れ爬虫類のようにてらてらと光り、ひたすらに不気味だ。顔は複雑な形状のHMDヘッドマウントディスプレイに隠されて見えない。そのことが、特邏がこちらに向けている銃口よりも少年を恐怖させた。自分は、顔のない化け物の前にいるのだ。
『従エ』
 警告に、少年はぎくしゃくと反応した。壁に向けた視界の端で、少年は化け物たちをこっそりと覗き見る。逆らって殺されるのは怖かったが、それ以上に彼らがなにをしているのか確認しない方が恐ろしかった。
 目に入る範囲に特邏は二人いた。一人は少年の傍らにいる者。そしてもう一人は、
 右手が欠落した死体を濃緑色の袋に詰めている者。
 だが死体は硬直しきっているため、上手く袋に入らない。特邏は何の躊躇いもなく手足、そして首の骨を圧し折って袋に押し込めた。作業が終わると袋を担いで、路地の入り口付近にいつのまにか横づけされていた兵員輸送車に向かって歩き出す。
「あ」
 頭が真っ白になる。反射で特邏の足にすがりつく。
「ま、待って」
 特邏の主任務は、市内の治安維持。そして彼らは、潜在的犯罪者を独自の判断で逮捕、もしくは処罰することが可能だ。潜在的犯罪者とはつまり、少年のように市民権を持たない者や、低級市民ロウアーのことである。少年の頼みなど、聞く耳を持つはずがない。
「――っ!」
 返事の代わりに送られたのは、銃声だった。少年の胸に熱い空隙が生じる。
「がえぜよ……」
 ゆっくりと膝を折りながら、それでも文字通り死力を尽くして少年は吠えた。だが、実際にはひゅうひゅうと掠れた声しか漏れていない。肺が傷ついたらしい。自らの血で溺れながら、なおも少年は絶叫する。
「があぁぁえぇぇぇぜえぇぇ――――っ!!」
 胸に大穴を開けている少年のどこにそんな力が残されていたのか。少年はナイフを掬うように拾い上げると、わずかに反応が遅れた目の前の特邏に向かってその切っ先を突き出した。
 暗く狭くなっていく視野。特邏は機械的な速度で銃のトリガーを引こうとする。少年のナイフはプロテクタに当たって弾かれたが、子供のものとは思えぬ膂力に特邏は体勢を崩す。
 装甲車の近くにいた奴が異常にようやく気づく。少年はナイフを逆手に持ち替え特邏のプロテクタの隙間に全力の一撃を加えんとする。寸前、無数の衝撃。
 一瞬で発射された九発の対人軟弾頭ソフトポイントは過たず全て少年の胸に命中した。夥しい量の血と肉と骨が飛散し、その場に崩れ落ちる。
『何ダコイツハ? 心臓ヲフッ飛バシタンダ、確カ二即死シタハズダゾ! ナゼ動ケタ!?』
 顔のない化け物がなにか叫んでいる。
『――回収指令ガ出テイルノハコノ女ダケダガ、コレモ確保シテオクカ? 見タトコロ、死体ヲ漁リニ来タハイエナ稼業ノ餓鬼ノヨウダガ』
『――イヤ、待テ。屑代くずしろ部長カラノ指令ダ。博士サエ確保デキレバ、後ハ捨テ置イテ構ワナイト言ッテイル。餓鬼ノ処理ハ後続ニ任セヨウ』
 言葉はわかる。でも意味はわからない。化け物の言葉など理解できなくても構わない。意識が濁り始める。特邏たちの声が遠ざかる。
 体が痛い。母さん、助けて。母さんはぼくが痛い時いつも治してくれた。お医者さんをしていたから。母さんに治してもらいたくてわざと怪我をしたこともあった。ひどく叱られたけど、結局母さんはいつも治してくれた。痛い。だから今度も大丈夫。痛い痛くて死にそうだしぬのはいやだ。つれていかないで。ひとりにしないで。叫ぼうとしても喉に溢れてくる血が邪魔をする。いきがすえない くるしいよ
 たすけて かあさん
 雨の線に分断された景色の中、特邏たちは来た時同様音も無く去って行った。
 少年は一人取り残された。雨が、体温を奪っていく。

      †

 ふかふかの絨毯が床一面に敷いてあり、ふわふわの大きすぎる(しかし部屋の広さに比して小さな)ベッドがどんと置かれている。ベッドの上には様々な紙媒体の古雑誌や、ベッドに合わせた巨大な枕、そしてすぐに時間が遅れる年代物の目覚し時計などが散らばっていた。
 壁際には黒檀のドレッサーとキャビネット。窓はなく、かわりに全ての壁と天井が、外の景色をリアルタイムで映し続ける高精細スクリーンになっている(今はただの壁だけど)。それらには部屋の主の趣味なのか、可愛らしくデフォルメされた天使のシールがあちこちに貼ってあり、ホログラムの御使いたちが揃って喇叭を吹いていた。
 部屋の端にある勉強机に偉そうに居座っているのは、いつまでたっても使いこなせない有機量子バイオクォンタムコンピュータ。ALICEネットからのニュースが更新されていることを、持ち主だけに見える光をチカチカと放って控えめに主張している。データの最終更新日時は『2194/11/11/15:34』とあった。
 そんな部屋の隅。黒髪、黒眼の少女が、目を真っ赤に腫らしてぐずぐず泣いていると、控え目なノックの音が響いた。
「だ、だあれ?」
 少女は涙を拭き、慌てて立ち上がる。
「……お嬢様?」
 扉が静かに開き、その隙間からそっと顔を覗かせたのは、侍女の引瀬眞由美ひきせまゆみだった。
 少女より五つ年上の眞由美は、暇をみては少女と一緒に遊んでくれた。あやとりを教えてくれたのも彼女だった。眞由美は少女を見ると、心底ほっとした顔をして、律儀に「失礼いたします」と言いながら部屋に入ってきた。別に失礼じゃないのに、と少女はいつも思う。続けて眞由美が起動コードを小さく唱えると、部屋の照明が燈った。
「明かりをお点けにならないと御身体に障りますよ、お嬢様」
 少女は息を呑んだ。豪奢なクリスタルシャンデリアが放つ柔らかい灯の下、眞由美の目の端に、涙が浮かんでいるのを認めたからだ。
 少女は年上の眞由美がなぜ泣いているのか分からなかった。別に彼女は怒られていないのに。彼女の親が喧嘩をしたわけではないのに。それとも眞由美の涙は、少女とは違う理由で流れているのだろうか。
 眞由美は戸惑っているこちらに歩み寄ると、ゆっくりと抱き締めてくれた。
 とても、温かかった。
「申しわけございません、お嬢様……。私が、あやとりなんてお教えしてしまったから」
「眞由美のせいじゃないよ!」
 少女はできるだけ明るい声を出すよう努めた。
「眞由美のせいじゃない。ね。だから、もう泣かなくていいよ」
 眞由美の方がお姉さんなのに、これでは立場が逆だ。そのことがおかしくって、少女はくすくすと笑い出した。眞由美も泣き顔を引っ込めて、一転、笑顔になる。
『ありがとう』
 お互いの声が、綺麗に重なった。二人は顔を見合わせて、またころころと笑った。
 それから、二人で色んなお話をした。
 眞由美が職場で――つまりはこの家のあちこちでやらかした、様々な失敗談。
「ええ、お皿をまとめて20枚割ってしまった時の主任の顔! ぜひお嬢様にも見ていただきたかったです! ……まぁ、その後は例に漏れずにお説教に減給されちゃったんですけど」
 しょんぼりした眞由美を、少女は満面の笑みで撫でてやった。
 少女もお喋りでなら負けていない。
 あやとりで〝塔〟を作れるようになったこと、この前教えてもらったお手玉も数を四個まで増やして遊べるようになったこと、そして通信授業での偏差値が最近ずいぶん上がったこと。
 眞由美はとても楽しそうな表情で聞いてくれた。
「それでね! その宿題を出したのは先生なのに、わたしにこう言うの」
 少女は背筋を伸ばし尊大な口調で――教師の真似だろう――喋りだした。
「『ユウリ君。失礼だが、これは本当に、君がやったのかね? いや、少し君には難しいと思っていたのでね』。……って感じでさ! 本当に失礼しちゃうよ、ちゃんと私がやったのに! ファイルの本人認証ミームパターンまで疑うんだよ、んもぉー」
 熱が入り、ついつい子供っぽい口調が出てしまう。来月にはもう10歳になるのだから、大人らしく振舞おうとしているのだけど。
 でも、眞由美は口調について茶化したりせずに、純粋に少女の話に笑ってくれた。笑いながら少女を抱き寄せて、酷いですねえ、と髪を手櫛でいてくれた。
 ――本当は、お父様やお母様にこうしてもらいたかったのだけれど。
 それは贅沢というものだ。わたしには、眞由美がいる。
「でもね――」
 そんな安心感が、少女の口を、滑らせた。
「『あの子』に手伝ってもらったことがばれるちゃうかもって、少しひやひやしちゃった!」
 瞬間――眞由美の顔に、言葉では表せない〝ひび〟が疾った。
「…………お嬢、様」
 その声だけで、充分だった。
(よくないことだ)
 ――ああ、そうだ。よくないことだ。わたしが言ってしまった言葉が悪いのか。それともこれから不幸が訪れるのか。それは分からないけれど。
 とにかく。よくないことなのだ。
 眞由美は自分の表情と声色が少女を怯えさせているのに気づくと、ふ、と短く息を吐き、明るい調子で質問した。
「お嬢様、『あの子』って、誰なんですか?」
「だ、誰でもない。誰でもないよ!」
 首をぶんぶんと振り、精一杯の否定を少女は示した。けれど少女も、こんなことで眞由美を騙し遂せることはできないと理解していた。無論、自分の中にもう一人の〝私〟がいるのが異常で異様だということも、それが周知された時の人々の反応も分かっていた。
(どうせ、ばれることだったんだ。『じぶん』の存在はいずれ明るみになるものだったんだ)
 あの子が、諦めの思念を伝えてくる。
 駄目だよ。諦めちゃ、駄目。今までだってあなたのことは隠し通せてきたんだから。
 だから――これからだって。
「ああ、そうだ、ええっとね? この前ネットのチャットルームでお友だちができたの! それで、その子にお手伝いしてもらって宿題を――」
 言いわけを重ねる毎に、泥沼へ一歩一歩足を踏み入れていくのを実感する。少女が不用意な情報を得ぬようにと、少女の端末からのALICEネットへの接続はかなり制限されたものになっているのだ。母が言うところの〝平民〟とお喋りできるはずがない。
「お嬢様、」
「ほ、本当だよ? 本当だもん!」
 情けない。さっき泣き止んだのに、またも涙声だ。父母からすぐに泣くのはアマノミヤのトウシュに相応しくない、といつも言われているが、悲しいことがあるとすぐに涙を堪え切れなくなる。く、と泣きに入る前のしゃくり声が喉から洩れる。
「――悠理ゆうり様。……大丈夫。大丈夫です」
 少女ははっとして顔を上げた。大丈夫という言葉の頼もしさよりも、眞由美が〝悠理様〟と呼んでくれたことに驚いた。これまでいくら頼んでも、怒って命令しても少女のことをお嬢様としか呼ばなかったのに。
 眞由美は少女の顔を覗き込み、力強い笑みを浮かべてこう言った。
「悠理様、私にお任せ下さい」
 少女はこの言葉に戸惑った。なにを任せろというのだろう。あの子のことか。でも、あの子はいつも自分の中にいて、どうすることもできない。呼べば応えてくれるが、自分以外はその限りではないと思う。
「何も心配しなくて結構ですから」
 少女の疑念を故意に無視して、眞由美は笑いながら続けた。
「だから、何があっても泣かないで下さい、悠理様」
 そう言った眞由美の眼の中を過ぎった感情は、まだ子供の少女には理解できなかった。
「強く、生きてください」
 ただ、少女はそれを見て何も言えなくなった。

 それから四日後。
 眞由美がいなくなった。

     †

 少年は再び目覚めた。
 足がふらつくのを堪えて立ち上がる。一体どうなっているのか、何が起こったのか、少年には全く理解できなかった。
 ざっと体を点検する――無傷だ。ただ、つぎはぎだらけの服の胸の部分には穴が開き、泥水で汚れきっていた。撃たれたのは確かだ。なのになぜ、ぼくは、生きている?
 そこで、気づく。
 体が濡れている――雨で。服が汚れている――泥で。
 血は? ぼくの体から流れた血はどこへ消えた? 雨で流された? 全部?
 地面に目を落とす。そこにあったのは、期待していたような血染めの水溜りではなく、銀の煌きだった。拾い上げる。疑問だけが頭を占めていた。だから、その行為は考えてのものではなかった――或いは何が起こっていたのか無意識では知っていたのかもしれない。
 ナイフを逆手に持ち換えて、己の胸に、勢いよく突き立てた。
 さっきあれだけ胸から流れたのに、血はまた驚くほど高く噴き出した。雨に流される紅い飛沫。下がりゆく体温。目の前が段々と暗くなって、
「――ぐっ? かふ、?」
 せり上がってくる嘔吐感と激痛の中、ナイフを持つ手に、それを感じた。
 押し戻されている。
 ナイフが。肉に。
 薄紅色の肉芽にくがが、黄色い脂肪が、ナイフに絡みついて体内から刃を排除する。雨に流されたはずの血液が泥水と分離して肌をざわざわと登ってくる。血は傷口の近くで一瞬探るように蠢くと、一斉に流れ込んできた。死人の色になっていた肌に、赤味が戻る。揺らめいていた肉芽の群れが瞬時に収縮し、最後にひときわ湿った音を立てて体内に引き込まれる。痕から、薄らと湯気が立つ。
 酷い眩暈がしたが――今度は気を失いすらしなかった。
 先ほど調べた時には無意識に見ないようにしていた胸を、たった今異常な現象が起こった自分の体を、少年は意を決し今度こそ
 見た。
 10発の銃弾に打ち抜かれ、今ナイフで貫かれたそこは、蕩けていた。
 直径、深さ共に一センチ程度の窪みがあちこちにあり、重なり合って広い面積で凹んでいる。それらが、周囲の筋肉や組織を巻き込んで、溶けたガラス越しに見る風景のように歪んでいた。視線は自動的に左手に向かう。そこも――やはり子供が戯れに捏ねた泥のように肉がよじれ、えぐれていた。
 精神が決定的に狂ってしまう前に、とっくに狂っていたらしい体が反応した。
「ぐぇうっ……、っ、ぇぇぇぇぇぇ」
 激しい嘔吐。血も混じっている。それが予想通り吐寫物と分離して口内に戻ってくる。胃酸の刺激と血液の鉄臭に耐えきれず、また吐く。
 涙は溢れ、喉が傷つき、再度血が混ざり、それが口腔内に戻り、声帯が不自然に蠢動しゅんどうし、ぎちぎちと傷口を不細工に塞ぎ、
「あ、あああ、ぁぁああああぁぁぁっ!」
 少年は、いた。恐怖のせいではなかった。嫌悪でもなく、痛みでもなく、母の後を追えない悔しさでもなかった。ただ、悲しくて。
 ただただ、悲しくて。少年は慟き続けた。

      †

 眞由美がいなくなって10日が過ぎた。
(絶対、彼女は見つからない。よくないことに巻き込まれたに違いない)
 あの子の声を無視して、少女は眞由美を探した。探し続けた。
 お父様に尋ねたら、あの子は辞めてしまいましたよ、という答えが返ってきた。また新しく人を雇うから安心して下さいとも言われた。
 お母様に尋ねたら、知らないわ、という答えが返ってきた。そんなことよりも勉強はどうしたのかとも言われた。
 他の侍女や使用人たちに尋ねてみても、みんな一様に口が重く、自分は何も知らないと首を振るばかりだった。
 人に訊いてもろくな答えが返ってこないのを悟ると、少女はいつまでたっても使いこなせない有機量子コンピュータを一生懸命使って、ALICEネットの広大な情報の海を、眞由美の痕跡がないかと何日も探し回った。無駄だった。ネットへのアクセス制限が一段と厳しくなっていたのだ。少女の知識と技術では、制限を解除することは不可能だった。
 そして10日がたち、少女はついに結論した。
 眞由美は、消された。単にいなくなったのではない。眞由美がこれほどまでに自分の痕跡を絶って少女の前から去る必然性は皆無だった。誰かに消されたのだ。
「何があっても泣かないで下さい、悠理様」
 あの後、少女が泣き止むまで眞由美は優しく胸に抱いていてくれて、そして、
「しばらく忙しくなるのでお会いできなくなります」
 と言った。何をするのかと問うた少女に、眞由美は悪戯っぽく笑いながら答えた。
「ちょっとした準備ですよ。あとは少し調べることもあるかもしれません」
 そして、恐らく知ってはいけない何かを知ってしまったせいで、彼女は少女の前から姿を消した。消された。その何かとはあの子に関係することに違いない――わたしが不用意に口を滑らせてしまった秘密に違いない。少女は鍵をかけた部屋の中、ふかふかのベッドの上で、ふわふわの羽毛布団を頭から被り、懸命に思考する。
 必ず、必ず、眞由美を見つけてみせる。
 小さな体を布団の中でぎゅうっと縮め、決意を魂に刻み込む。だがそうやって精神を奮い立たせても、既に肉体は限界に近づいていた。もう、3日も不眠不休で一人こうやって部屋に篭もり思索を続けていたのだ。
 だからいつの間にかベッドの脇に人が立っているのにも、少女は全く気づかなかった。
「――ユウリさん。起きて下さい」
 ――お父さま?
 もそり、と少女は生気のない顔を上げ、凍りついた。
 父だけでなく、母もいた。母以外にも、見知った使用人や、見知らぬ白衣の人たちや、黄色い防護服を装着した異様な人たちもいた。銃を携帯している者までいる。何故こんな人々がここにいるのか。その理由は今の少女には思いつけない。なぜなら、巨大な混乱が少女を襲っていたからであり、その混乱とは、父と母が、
 笑って――
「大丈夫、ユウリ? あらあら、顔が真っ白よ?」
 心配の色を混ぜた笑顔で、母が言った。母が。あの母が。わたしを心配し、そして、
 ――どうして、笑顔を。
 問題ありません、と母の傍らに控えていた男が返答した。むしろ『都合がよい』くらいです、と続け、母に鋭く睨まれる。
「ユウリさん、よく聞いて下さい。ついに私たちはあなたの機能障害を正せるのです。あなたは、そして都市は、100年来の宿願、在るべき姿に戻れるのですよ」
 父の背後で、母が満面の笑顔で頷いた。父は怯える少女になおも言を重ねる。
「あの侍女がもし何か言っていたのなら、気に病む必要はありません。後で会わせて差しあげましょう。もう一つのあなたについても全く心配しなくていいのですよ。万事、こちらに任せていれば平気ですからね」
 凍りついていた少女は、その一言で砕け散った。
 分かり切っていた、だからこそ一度も考えず、考えたくもなかった答え。
 社内の――しかも天宮の血統のALICEネットにアクセス制限をかけられる権限を持つのは父だけ。そして、使用人の人事を管理しているのは母。そこから導かれる、当然すぎる解。
 笑顔を貼りつけて少女を取り巻く、否、包囲する大人たち。
 違う、と少女は強く思った。
 その笑顔は違う。
「わ、わたしによるなっ。こないで、お、お願いします、いや、やめて、くるな……!」
 枕を抱き締め、少女はベッドの上をじりじりと退がる。しかしその分だけ包囲は狭まり、少女は追い込まれていく。
「落ち着いて、ユウリ」
 母が優しく労わった。
「大丈夫ですか、ユウリさん」
 父が気遣わしげに微笑んだ。
 強烈な違和感。違う。その笑顔は違う。そしてその名前も自分の名ではない。その名はわたしをすり抜けていく。わたしに本当の笑顔を向けてくれたのは、わたしの本当の名前を呼んでくれたのは、眞由美だけだ。だけだった。眞由美は、いない。消し去られた。
 誰に?
(父と、母に。ここにいるやつら全員に)
「……よ、寄るなあぁ――っ!」
 叫び、ベッドの上にあった物を手当たり次第投げていく。しかし体力の損耗は著しく枕は情けない放物線を描いて落ち、目覚し時計に至っては持ち上げることすらできなかった。
「錯乱しましたか――大人しくさせなさい」
 そんな父の言葉を最後に、意識が真っ白になった。

(ああ、遂にこうなってしまった。不快で不可避などうしようもないことなのだけれど)
(これから起こることの、既定の基底なのだけれど。それでも――悠理、ごめんなさい)

 ――誰かに謝られる、夢を見た。
 目が霞む。全身がだるくて、痛い。呻き声を上げ、身を捩ろうとしたが叶わなかった。動いたぶん痛みが増しただけだ。揺れる視界をなんとか固定し、少女は自分の置かれた状況を把握しようと努める。
 円形の、そう広くない部屋だった。暗く、羽虫のような機械の作動音が低く響いている。少女はその中央で、磔刑そのものの格好で十字型の台座に拘束具で縛められていた。床は青白く微発光する一体成型素材で滑らかに覆われている。明かりと呼べるのはそれだけだ。天井は高すぎて闇に埋もれていた。
 落ち着こうと思い、だから少女は眞由美のことを考える。
 ――大丈夫です、と眞由美は言ってくれた。少女の名前を呼んでくれた。笑いかけてくれた。笑わせてくれた。抱き締めてくれた。温かかった。たった一人の友だちだった。そして姉であり、母でもあった。
 ああ、会いたい。会って謝りたかったし、それに、とてもわがままなお願いだけど、自分を、助けて欲しかった。
 そんなふうに考えていたからだろうか。闇に慣れ始めた目に、眞由美の姿が見え出した。
 ――なんだ、幻覚か。
 頭の片隅で、奇妙なほど冷静にそう思った。わたしは、いよいよ狂ったんだなあ、と。
 でもおかしいな、幻にしては全然消えないし、それになんであんなに、
 ひどいかっこうで。
 ――違う!
 これは、幻なんかじゃない。
 少女は眼前の光景に魂を奪われた。正面、5メートルほど離れた場所に眞由美はいた。少女と相対するように、巨大なガラス筒の内側で液体の中に浮かんでいた。間違いなく、眞由美だった。一目で分かった。例え裸で、目が真っ赤になっていて、艶やかだった長い黒髪が真っ白になっていようとも。様々な管や大小の針が身体中から生えていようとも。少女にとってそれは、眞由美以外の何者でもなかった。
「――眞由美!! わたしだよ、悠理だよ! 大丈夫!? ねえ、へんじして! まゆみぃっ!!」
 少女の叫びが届いたのか、俯いていた眞由美の首がぬらりと持ち上がり、その唇を、動かした。
 こ・ろ・し・て。
 朦朧もうろうとした視界と暗い部屋の中、しかしその動きは無残なくらいはっきりと見て取れた。紅く変色した眞由美の眼は瞬きもせず少女をただ見据え、唇は呪いのように、祈りのように、ただ繰り返す。
 ――ころして、ころして、ころして、ころしてころしてころしてころしてころしてころしてころしてたすけてころしてたすけてころしてたすけてたすけてたすけて、た、す、け、て
 たすけて ゆうり
 ……やがて、いつしかそれは止み。紅い眼から涙のような赤い血を流しながら。
 引瀬眞由美は、大きな家、小さな世界でのたった一人の少女の友達は、
 息絶えた。
(ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。眠って、悠理。あなたが壊れてしまう前に)
(今ならまだ間に合う。奴らからあなたを守れる。眞由美の犠牲は無駄にしない。だから)
「いや、いやぁぁああああぁぁぁっ!」
 少女は、いた。恐怖のせいではなかった。嫌悪でもなく、痛みでもなく、親友を救えなかった悔しさでもなかった。ただ、哀しくて。
 ただただ、哀しくて。少女は哭き続けた。
(だからお眠りなさい、悠理。奴らが欲しているは、私だけなのだから)
(どうか、ああどうか、赦してください。あなたには、悪いことをした)
 あの子の意思を頭の片隅で感じながら――少女の意識は闇に墜ちた。

      †

 雨は止む気配を見せず、都市は白くけぶっている。
 少年はソファに腰を下ろし、ナイフを手で弄っていた。刃が手を傷付け、その度に筋繊維や血管が飛び出し不細工に傷口を塞ぐ。そのせいで少年の両手は上から肉の網で縛りつけたように、膨れ、歪んでしまっていた。
 不意に爪の隙間から飛び出した肉の帯がナイフを弾く。ナイフは重力に引かれ、きん、というあの美しい澄んだ音を、
 ぱきっ
 ――響かせなかった。かわりに、枯れ枝が折れるような乾いた音がした。
 虚ろだった少年の目が、にわかに生気を取り戻し、そして動揺の色に染まる。母さんのナイフが、どこか壊れてしまったのだろうか?
 慌てて拾い上げるが、特に異常な部分は見受けられなかった。だが、ほっとした次の瞬間、刃の部分が丸ごと滑るように流れ落ちる。
「え、あ? わう――」
 焦って意味のない呟きが漏れ――そして少年は愕然とした。自分の声がまるで老人のようにしゃがれていたことにではない。落ちたナイフの刃に対しての驚愕だった。そして、
始端オープニングフラグの認識を確認。魂魄解凍開始)
 頭の中で〝声〟が聞こえた瞬間、眼前以外の景色が吹き飛んだ。少年の中で超高密度の情報が高速で展開され、根を張り始める。それは少年の存在を根底から変え、組み直していく。
 ・――ナイフの刃は、白銀色の、比重の大きそうな流体へと変化していた。E2M3混合溶液。〝ヘルメスの水銀〟とも呼ばれる、超高性能ナノマシン群体の液体相。擬魂ぎこん制御により刃形に成型され、抗老化処置や魂魄整型手術などに用いられる、亜生体デミバイオメス。形態解除されたことにより酸化が始まっているが――微弱過ぎる。一度使用された痕跡が認められる。正規の環境基準を満たしていない空間で、擬魂による超稠密ちゅうみつ制御ではなくそれより粗雑な、人の魂魄と精神接続して使われたようだ。起動ログによると、これの視認が『じぶん』の始端フラグの一つとして設定されていたらしい。ナイフに執着したのはそのためか。――目が翳む。全身の感覚器の能力を観測のために数倍に引き上げたのが原因となり、ゲシュタルト崩壊が起こっている。脳、精神、そして魂に過負荷が発生中。ハイロウ内での反魂子はんごんし生成が停止している。素体維持のための閾値が得られない。警告アラート内丹炉機構リアクターに異常。トラブルシュート開始……終了。内丹炉群の半数以上が壊死している。先の素体の破損、それに伴う超再生現象モルフォスタシスフェノメナが原因と思われる。応急処置では間に合わない。『引瀬由美子ひきせゆみこ』により設定されたプロトコルに基づき、この素体の転生措置を決定する。素体記憶初期化中……終了。問題部位の凍結を開始……終了。外挿された魂魄と素体の残留思念に基づくクオリアの合成開始……終了。エナンチオドロミー処置開始……終了。末那識まなしき層ALICEネットとの相互リンクを切断中……終了。阿頼耶識あらやしき層ALICEネットへ接続中……終了。新規素体名称を設定中……終了――・
(――『Azraelアズライール〉-02』、起動……成功)
 我に返った。
 ――ぼくは今、なにを考えていた?
 ……思い出せない。大丈夫、混乱しているだけだ。一つ一つ確認していけば問題ない。
 ここは、澄崎市北東ブロック第1都市再整備区域50番街E14号通り。
 本当に? ああ、本当だとも。こうやって番地まできちんと覚え
(何百とある再整備区の番地を、ぼくは覚えていたのか?)
 心臓が大きく跳ねた。――落ち着こう。落ち着け。外堀から埋めていけばいずれ全てがはっきりする。
 そう、まず、今一番必要なものからだ。自己の存在を最も強く定義づける言葉。自分の、名前は? 簡単だ。すぐに思い出せる。ぼくの名前は、
 ……引瀬護留ひきせまもる』。
 ――違う!
 強烈な違和感。違う。その名前は自分の名ではない。その名はぼくをすり抜けていく。ああ、しかし――いったいどうやって確かめればよいと言うのだろう? ぼくの本当の名前を呼んでくれたのは、母さんだけだ。だけだった。母さんは、いない。連れ去られた。
 誰に?
天宮あまのみや
 ふ、と。その名は脈絡もなく――だがそれが必然だとでも言うように浮かんできた。
「天宮――悠理……」
 錆びた声音で呟きつつ、少年はソファから立ち上がり視線を南の空に飛ばす。その先には雨のベールで覆われ翳みつつもなお圧倒的な、天をする超高層建築がそびえていた。
 天宮総合技術開発公社・本社ビル。
「あそこに、いるのか」
 母さんが。そして〝天宮悠理〟という名の人物が。天宮悠理。誰なのだろう。だが、まあいい。いずれやつらの仲間なのだろうから。ならば誰であろうと構わない。
 ……僕は、どうやってこの名前を思いついたのだろう?
 ――ああ、そうか。きっと、母さんが教えてくれたんだ。
 記憶の欠如、認識の齟齬、思考の撞着。
 だけど不思議と不安はない。意識はむしろクリアで、これから何を成せばいいのかも分かっている。
 少年は――引瀬護留は、E2M3混合溶液を拾い上げる。護留が手を触れた瞬間、青白い輝きと共に液体金属は再びナイフの刃を形成した。
 強く握り締める。刃が肉を裂き骨に半ばまで食い込むが、その傷は先ほどまでとは比べ物にならない速度と精密さで滑らかに塞がった。
 これが武器だ。これから天宮と戦うための、僕の最初の武器だ。
 護留は決然と歩き出す。なにかを欠いた表情で、なにかを得た情動で。擦れ切った声で、雨音に掻き消されまいと、
「待っていろよ!!」
 叫び、なにも分からぬままに、
「絶対に! 僕は、全て取り返してみせるからな……!」
 護留の姿は、雨の中に消えて行った。

      †

・――それで、結果は? 成功ですか?――・
・――はい――いいえ。ユウリ様の魂魄及び識閾下しきいきかを走査した結果、当初の目標の内、一つは達成したと判断致しております――・
・――一つ?――・
・――ユウリ様の魂魄――『Azrael-01』の覚醒は成功しています。元型アーキタイプ変性による身体の脱色素化も発症が確認されました。しかし、仮想人格ペルソナの消滅にまでは至らなかった模様です。やはり、引瀬由美子博士の遺していったデータだけでは不完全だったと……検証が終わった後にデータをすり替えられていたようです。『Azrael-01』と『Azrael-02』のデータは完全に破棄されていました――・
・――それを完全なものにするのが貴方たちの仕事だったはずでは? 貴重な二週間の期間では足らなかったと? そして、その挙句に失敗ですか? 仮想人格を消さなければ、彼女の開放は成されないわけでしょう――・
・――申し訳ございません――・
・――……引瀬博士が出奔したのは科学部のミスではありませんから、これ以上は不問に付します。現在、情報部に特別高等巡邏隊を使わせて博士の『遺作』を捜索させています。回収された博士の遺体には魂が残っていなかった。何らかの素体に、完全なデータを刻んだ魂を入力して逃げ仰せたようです。屑代――情報部に、あの引瀬の作品を見つけられるとも思えませんが、他に手もない以上、期待せずに待つことにしましょう。どちらにしろ空宮に対して強引に過ぎる手段で牽制を行ったのでこれからしばらく――事によっては数年間、こちらは表立って動けません――・
・――では、それまでのあいだ、仮想人格の処置はいかが致しますか――・
・――〝彼女〟の覚醒が成功している以上、放置してもさして害はないでしょう。むしろ下手な操作は行わぬように。現在の主人格はあくまでも仮想の方です。これ以上素体の劣化が速まれば元も子もない。くれぐれも薬物投与や洗脳は控えるように――・
・――了解致しました。使用済みの被験体マルタは例のプラント行きでよろしいでしょうか――・
・――ああ、引瀬の娘ですか。ええ、必要なデータは取れましたし構いません。引瀬博士に対する人質としてだけでなく、侍女としても役に立ってくれた子ですからね、丁重に扱ってやってください――・
・――かしこまりました、理生りお様――・

 少女が目覚めて最初に感じたのは、寂しさだった。
 自分の部屋の自分のベッドに少女は一人で寝かされており、病人用の白く清潔な肌着を纏っていた。部屋の中は薄暗く、今が昼か夜か判然としない。
 その薄暗がりを頼りに、何もかも悪い夢だったのだと思おうとしたが――無理だった。
「眞由美は、死んだ」
 少女は呟いた。
「眞由美は、死んだんだ」
 言葉が、体に染み渡る。
「う、うううう――っ!」
 凶暴な怒りに駆られて、腕を振り上げた。しかし、怒りは発生と同様に一瞬で冷め、少女は腕をだらりと下ろした。
「……ごめんなさぃ……ごめんなさい――まゆみぃっ……」
 泣かないと約束したはずなのに。後から後から、涙は溢れ出てきた。それを拭おうともせず、少女はただ中空を無為に見つめ続ける。
(わたしは、これからどうすればいいんだろう)
 それは自分の内に呼びかける問いだった。『あの子』が何かいいアドバイスをくれるのを期待して。こういう事態になったのは、確かにあの子の存在が原因かもしれない。けれどあの子は何もしていない。それにもはや少女にとって、自分の内にむ〝私〟だけが頼りだった。
 ――なのに。
「あれ?」
 いつもなら即応してくれる、あの子の斜〈はす〉に構えた思考が。返って、こない。
「え? あれ!? うそ、うそうそうそっ!!」
 少女の背筋が冷たくなる。幾度も幾度も呼びかける。それらは幾度も幾度も虚しく空っぽの心の中でこだました。
『――奴らが欲しているは、私だけなのだから。あなたには、悪いことをした』
 すとん、と。それだけは思い出せたあの子の言葉が降ってきて。
 納得、できてしまった。あの子もいなくなった。消されてしまった。父はわたしの「機能障害を正す」と言っていた。そしてあの子は狙われているのは自分だと言っていた。具体的に、どのようなことをされたのかはわからない。だけど、これだけは絶対確実に言い切れる。
 わたしは、一人になってしまった。この家――即ちこの世界で、自分の味方は、自分の友だちは、誰一人としていなくなってしまった。
「――くくく」
 笑いが漏れた。狂気に侵された笑いではない。この後に及んでなお、狂気に身を委ねられない自分を嘲り哀れむ嗤いだ。ああ、狂えればどれほど楽だろう。だが少女の精神は残酷に正気を保っている。
「くふふふ、はは、あはははは……」
 涙を流して笑いながら立ち上がり、起動コードを唱え照明を燈す。壁のスクリーンを夜間微発光モードから外景投影モードへ。
 少女の視界いっぱいに、天宮総合技術開発公社・本社ビルの150階、地上777メートルから見た澄崎市の街並みが広がった。
 外はまだ明るかったが雨が降っていた。全てがかすんでいる。まるで、都市が泣いているようだ。

『何も心配しなくて結構ですから。だから、何があっても泣かないで下さい、悠理様。
 強く、生きてください』

 わかった。私はもう、泣かない――泣けない。ともに涙を流せる相手が、泣いた後に共に笑える相手が、いなくなってしまったから。たくさんのかなしみと一緒に、消えてしまったから。
 弱音を吐くのはもうやめよう。あらゆる機器も使いこなそう。誰にも頼らず生きてやる。誰よりも強く生きてやる。
 天宮の次期当主として、完璧な振る舞いをしてみせよう。
 そうすれば、不用意な言葉でよくないことを招き寄せる心配がないから。
 かなしいことは、もう起こらないだろうから。
 私は、天宮悠理は、今日これより独りで生きる。
 ――もう、眞由美には心配かけないよ。
 だから、
「あなたも、泣かないで。私の中で、ずっと笑っていて」
 涙も笑いも、自然に止まっていた。悠理は眼下に広がる風景を、近くて遠い、こことは別の世界を飽くことなく眺め続けた。


第一章 不正な生、負債な死 Working For Death


 西暦2199年6月14日午後5時15分
 澄崎市北東ブロック第23都市再整備区域、6番街A8号通り

 ――いったいどれだけ走ったのだろう? いったいどこまで走ればいいのだろう?
 解体を待ち続ける灰色のビル群の隙間を縫って、少年がひとり疾走する。
 雨が降っている。霧のようなしみったれた雨だ。細かい滴が視界を遮り、衣服に絡みつき、体温を奪う。偽の歯がかちかちと鳴っている。偽の筋肉は強張り、偽の関節は震え、偽の肺は酸素を求めて狂った伸縮を繰り返す。
 それでも少年は決して立ち止まらない――止まれない。全身の人工筋肉に「動き続けろ」という信号を外部端末から送っているからだ。そんなことをしたら、偽の手足――擬魂IGキネティック義肢は二度と使い物にならなくなると理解していたが、どうしようもなかった。そう、あれから逃れるためなら、手だろうが足だろうが捨てても構わない。
 少年は極限の恐怖に晒された者の表情で背後を一瞬、確認する。そこには、先の疑問の答えを知るモノがいた。黒色の貫頭衣、黒い仮面、同じく黒いマント。それが何であるのかを知らない子供が見たら、指を差して笑うだろう道化ピエロの如き衣装。
 澄崎市税局貧民救済課所属強制執行員、『徴魂吏ちょうこんり』。五年前から唐突に現れたそいつらを、市民は畏怖と憎悪を込めて〝グリムリーパー〟と呼ぶ。最低最悪の徴税人だ。
 逃げても無駄だ。あれは諦めない。あれは疲れない。あれは見失わない。
(じゃあ、なぜ逃げる?)
 諦めろ。疲れたろう。市税局からの通知を受け取ったときから、自分は終わりだと確信していただろう。自分は収めるべき税を収めなかった――収められなかった。金がなければ体で払えばいい。だが少年の身体は毛髪一本までもが既に差し押さえ済みで、安価で低性能な人工物に置換されていた。つまり、自分には差し出すべきものがなく、支払う方法もない。
 ――たった一つの最低なやり方をのぞいて。
(諦めろ)
 自分の内なる囁きを無視して、少年はひた走る。

 ――スキャン完了。
 グリムリーパーは、周囲の空間条件が『強制救済』を行う基準を満たしていると判断、己がようする九つの内蔵擬魂のうち、一つを開放する。ばしゃっ、と弾けるような音と共に、青白い光が舞った。グリムリーパーの頭部を覆うのっぺりとした仮面――多機能耐魂圧マスク――が瞬間、霧雨の中に浮かび上がり、手元に不定形の蒼い光が生まれる。不確定状態の擬魂。その形態は識閾下のライブラリが自動的に決定する。それに従い、擬魂は掌から滲み出たE2M3混合溶液に宿り、制御が可能となる。
 次の刹那、グリムリーパーの手には、長大な白鎌びゃくれんが握られていた。『リヴサイズ』。魂と肉体を切り離す、強制救済のための無慈悲で強力なデバイス。
 体で払えないのなら、魂で払えばよい。魂の取り立て。それが徴魂吏の任務。
 その任務のためにグリムリーパーは己の魂が自己同一性を保てない程までに身体改造を施され、制御を全て内蔵擬魂に預けているのだ。
 グリムリーパーは副脳を介して自身の二つある人工心臓を全力稼働させる。同時に全身の人造筋の出力もリミット限界へ。残る八つの擬魂と各種薬物による身体の内外環境の並列操作も開始。それらは少年のものとは比べものにならない推力を生み、グリムリーパーの体を爆発的に加速させる。
 雨の中、死神の姿が消失した。

 爆音が響き渡り、追ってくる足音が消え、少年は愚かにも再度振り返る。可能性すら信じていなかった奇蹟が起こったのを期待して。振り返った先には、期待通り何者もいなかった。
 だが。
「? か、はっ、……」
 ずんっ、という衝撃。そして、燃え盛る氷が体内に侵入してくるかのような、耐え難い苦痛。少年は己の胸から生えた白銀の刃を見下ろす。血は全く流れていない。なのに、自身の最も根幹的な部分が強制的に引き剥がされていく。流出していく。自分が自分から離れていく……。
 少年は強く痙攣すると、泥溜まりの中に崩れ落ちた。
 最後に母のことを想う余裕さえ、残されなかった。
 マント――有機素材で出来た動作補助機構――を蝙蝠の翼のように広げ、30メートルの距離を跳躍したグリムリーパーは少年の背後に着地、同時にリヴサイズで少年の心臓を一閃した。対象の肉体にはかすり傷一つつけずに、鎌は魂の剥ぎ取りに成功。少年は即死。
 外部生体バッテリから信号を送られている手足だけがバタバタと動いているが、グリムリーパーが青黒い肉の塊にも見えるバッテリを踏み殺すとそれもぱたりと収まる。少年から湯気が立ち昇り、全身が内出血により一瞬で腐った果実のように黒く染まった。
 死神の鎌先には深い群青色をした光球が宿っていた。少年の精神場から摘出され、周りの空間を行き交う思念と相互作用し高熱を発している魂だ。その見た目は擬魂とほぼ変わらない。
 正規の手続きを経ず――即ち〝死〟によらず引き剥がされたそれは、少年の体に戻ろうと時折か細く震え、その度に外魄がいはく層が飛び散り、鬼火ウィルオウィスプとなって辺りに漂う。このまま魂を放置すると、悪性残留思念の塊に相転移するので非常に危険だ。グリムリーパーはリヴサイズの変態を解除、ライブラリを再コール。白い鎌は60の頂点を持つ球体状のケージへと変態した。同時に少年の魂をケージへ取り込む。内部の力場に魂が捉えられたのを確認。
 強制救済、完了。
 グリムリーパーの顔面が仮面ごと縦に二つに裂ける。割れた顔面に開いた穴にケージを装填すると再び仮面が閉じた。その場で少年の納税証明書を作成し、ALICEネットを利用し市税局へ送信。次いでマントを巡航形態に変形させ、ビルの屋上へと跳躍、轟音と長い水蒸気の帯を纏いながら、また別の屋上へ。三秒足らずでその場から姿を消した。

「……行ったか」
 グリムリーパーの姿が消えたのを確認し、引瀬護留ひきせまもるは呟くと、廃材の陰から姿を現した。
 痩身中背の体を、市警軍の放出物資と思しきデジタル迷彩が施されたタイトな防刃防弾服が覆っている。肩まで伸びた髪は、白でも黒でもない、この街と同じ灰色をしていた。無造作に垂れる前髪から覗く薄紅色の瞳には強い警戒の色が浮かび周囲を油断なく見渡している。
 手には白銀のナイフが一振り。全体的に老成した雰囲気を漂わせているが、顔の諸所のパーツは彼がまだ10代半ばであることを告げていた。
護留は死体へと歩み寄る。死んでいたのは、10歳前後の子供だった。
 最近になって、低級市民ロウアーへの納税義務が課せられる年齢が14歳から10歳へと引き下げられた。恐らくこの子供は、不運にも市税局の納税促進キャンペーンの対象に選ばれてしまったのだろう。
 護留は、まだ温かい屍骸を仔細に点検する。毛髪、歯、眼球、皮膚、血液、四肢。目につく限り、死体は全て低品質の人工物で構成されていた。恐らく中身も似たようなものだろう。わざわざ開腹する手間のほうがもったいない。服も一山幾らの合成繊維製。唯一金になりそうだったバッテリはグリムリーパーに殺されている。
 魂も、すでに取り立て済みだ。
 ここにあるのはただの抜け殻、何の役にも立たない塵芥ちりあくた。死体ですらない。
 今日死体漁りハイエナをするのはこれで二件目だが、両方ともに外れだった。護留は軽く溜息を吐くと、その場を立ち去ろうとして、
 ――おかあさん。
 子供の声が聞こえた気がした。途端。視界が。くしゃりと潰れ。捲れあがり。ああ、これはまた、あの幻覚が――
阿頼耶識あらやしき層へのアクセスを確認……承認)

・――幻覚の中、決まって僕は私となり、僕はじぶんの記憶を追体験するような、盗み見るような、奇妙な不快感に襲われる――・

 なにかが、私を急かしている。オキロ起きろおきろ。
 薄らと目を開ける。網膜に映し出された視界は赤い。赤が明滅している。そして煩い。これは――警報?
『――します。第一級アラート。研究部第壱実験室にて、クラスAAAの魂魄災害ソウルハザードが進行中。研究棟への全通路の緊急封鎖完了。自動滅菌・鎮魂ちんこん処理が正常に終了しなかった恐れがあるため、現在入退室を無制限に禁止しています。繰り返します。第一級――』
「――なんですって?」
 研究部第壱実験室。私が現在いる場所だ。それが、魂魄災害ソウルハザード
 顔を上げようとして、躊躇した。私はなにか重大なことを忘れている。なんだ、なにを? 顔を上げるのに、なぜこれほどのプレッシャーを感じなければならない。それは私たちが実験を、あの計画の要の、悠灯ゆうひ先輩、眞言まことさん、みんなで、だから。
 私の混乱に追い討ちをかけるように、ふ、と室内が暗くなった。すぐに橙色の非常灯に切り替わる。その時になって私は警報を除いて、不気味なほど音がしないことに気づいた。
 耐え切れなくなって顔を上げた。
 正視できない光景がそこにあった。私は長く高い悲鳴を上げた。叫びながら、今見ているものへ近づこうとめちゃくちゃに手足を動かす。備品や機器に体中を引っかけ、至るところ傷だらけになりながらも私は辿り着いた。
 そこは実験用チャンバー内を見下ろすことができる、封印シールドの壁があるはずの場所だった。だが今は、床と天井の一部を巻き込んで回転楕円形に、恐ろしく滑らかな断面を見せながら抉り取られていた。そして――ああ、なんということだ。
 光ひかりヒカリ……夥しいひかりが、舞っている。
 嬉しそうに、躍っている。
 呆然と座り込んだ私の傍らに人が立った。私はがくがくと震えながらその人物を仰ぎ見る。
「り、理生……」
 理生は私の呻くような呼びかけには全く反応せず、ただ光の乱舞を静かに眺めていた。
「あれは、ハイロウ現象です」
 理生がぽつりと呟いたその言葉は戦慄に値するものだった。
「――ハイロウ……あれが、あんなものが……?」
 それは私たちの計画、『プロジェクト・ライラ』が予言した魂の反粒子、反魂子はんごんしの生成時に起こる現象。しかし、理論上ではそれはあくまで人の精神場、末那識まなしき層ALICEネットの中でのみ観測される事象だったはずだ。
 だけど、今。
 ユークリッド幾何学を超越した角度に傾いた光の粒子たちは収束を始め、蛇のようにうねりながら環状となり空間に再配置されていく。ハレーションを起こしているその優美な外見は確かに〝天使の輪ハイロウ〟だ。発狂しそうなほどに、神々しい。だけど、だけど、
 だけど――!
「あれだけの反魂子が放出されていたら、一体どうなるのよ!?」
「わかっているでしょう?」
「わからないわよ! なにがどうなってるの!? なんでこんなことになっちゃったのよ!」
「『プロジェクト・ライラ』が失敗したからですよ。ごらんの通り、ハイロウが現実謄写とうしゃされるほどに暴走してしまっている。チャンバーの物理的防壁機能は現在無効化されていますが、辛うじて事象結界が働いていて、」
「そんなことを聞いているんじゃない! 悠灯先輩はどうなったのか質問しているんだ! 答えろ天宮理生ぉっ!」
「消失しました」
 あまりにも衝撃的なその言葉は、あまりにもあっけらかんと、まるで明日の天気を答えるような調子で言い放たれた。
「素粒子一つすら残っていません。ALICEネットの、更に上位の階層に〝発散〟したと推測されます」
 私は立ち上がり、理生の襟首を掴み揺さぶった。
「そんなあっさりとよくも言えるわね! 先輩はあなたの妻でしょう! それに――それに、ユウリちゃんも消えたってことになるのよ!? あなたたちの娘が!」
「そうなりますね」
 理生のその言葉に、私は心の底から冷え上がった。体中の血が流れ出ていったようだ。
 〝これ〟は――何だ?
 少なくとも、天宮理生という男ではない。彼は常に冷静であることを己に課していた皮肉屋だったが、少なくともきちんとした人間だった。笑い、泣き、悔い、喜び、怒り、哀れみ、嘆く、まともなヒトだった。だが、〝これ〟は――。
「しかし、問題はありません。我々には、まだ択るべき道が残されている」
 異常事態を前に、感情が一時的に焼き切れているわけではない。そんな、生温いものではない。そう、感情はきちんとある。声の調子にそれが現れている。ただ、私にはその感情の種類が推し測れないだけだ。異質過ぎる。異常過ぎる。異形過ぎる。
 私はどうしようもない恐怖に取り憑かれ、理生だったものから手を放す。
「生まれ変わり、産まれ堕ちた『彼女』が、私たちには残されている」
 恍惚の表情を浮かべながら彼が見つめる先には、ハイロウ。
 光輪の中心には暗黒が拡がっている。無だ。完全なる虚無だ。なんだ、あれは。あんなもの、シミュレーションでは発生しなかった。
 暗黒の奥に、光が――反魂子とはまた別の、鈍い輝きが生まれる。
 徐々に、成長していく。
「我々は、まだ救えるのです。この都市を、我々の魂を――我々の生きた証を!」
 光がはっきりと視認できる大きさになった時、私は声なき絶叫を上げた。
 それは、胎児の似姿をしていた。
 嵐のような恐慌を辛うじて制したのは、僅かに残留していた私の科学者としての矜持だった。
「――――――っ、……答えて、理生。あれは。なに?」
 理生は即答した。
「我々の裡より出でしもの。我々に死を告げるもの。
 即ち、〝天使アズライール〟ですよ」
 そして晴れやかな笑い声を上げて私に告げた。
「貴女には、やってもらう仕事があります――引瀬由美子博士」
 ぐったりとした私は、理生を見ずに答える。
「……仕事ですって? これだけの失敗を犯した私に、次はなにをさせるつもりなの?」
 すると理生は初めて私を見据え、答えた。
「『プロジェクト・ライラ』に続く澄崎市救済計画、『プロジェクト・アズライール』。そのシステム中枢の開発・運用です。――ああ、安心して下さい。今度は、失敗させません」
 ハイロウが放つ箭光ハロー――それを背後に纏った理生の表情は、全く読めなかった。
 封鎖されていた隔壁が固定ボルト爆砕の音を立て無理やり開かれる。そこから駆けてくる人影は三人。雄輝ゆうき哉絵かなえ、そして眞言さん。
 ああ――よかった。無事だったんだ、眞言さん……
 ふ、と膝が崩れ、支えてくれた眞言さんの腕を強く握り締め、その温かさだけを感じながら――私の意識は無に融けていった。

(阿頼耶識層からの切断処理を確認……承認)
 ――気づけば、護留は少年の死体の手を握り締めていた。反射的に振り解く。頬を、雨とは違う温かいものが伝い落ちる。全身が嫌な熱を持ち、びっしりと脂汗をかいていた。
 最近、この白昼夢とも他人の記憶ともつかない幻覚を見る回数が増えつつある。今回のものは特に長かった。普段は数秒程度で、大抵は研究室で端末に向かっていたり、人と会話したりといった他愛のない物ばかりだったのに。
 今見た場面は何かの――実験の失敗の直後だろうか。内容を反芻する。いくつかの重要な単語を脳裏に刻む。
 プロジェクト・アズライール。
 護留の裡に潜む存在、『Azrael-02』と関連があるのだろうか。
 天宮。
 幻覚の中のあの男には見覚えがあった。天宮家現当主、理生。
 奴は〝じぶん〟のことを『引瀬由美子』と呼んだ。引瀬。自分と同じ姓。だがこの名はお仕着せられたように未だ馴染まない。この幻覚の視点の主が――本来の名の持ち主なのだろうか。
 そして――悠理。天宮家現当主、理生の一人娘。天宮家次期当主継承権序列第壱位。この街で最も貴い少女。
 天宮悠理あまのみやゆうり
 彼女が、消失? 馬鹿な。確かに市民の前には姿を見せたことはないが、護留がこの5年間集めた情報では公社内で研究部の役職に就いていることになっている。だが護留はある理由から市のデータベースにアクセスすら出来ない。可能性は否定出来ない。
 更にこの幻覚を見ていけば答えは見つかるのだろうか? だが幻覚の原因は不明だ。医療機関で診てもらうことは憚られた。澄崎市で、天宮の息が掛かっていない診療所など存在しない。金さえ積めば口は固い闇医者たちの値段は正規のそれよりも桁が二つばかり高く、とても護留個人で賄いきれる額ではなかった。
 ――僕は誰だ? 引瀬護留という名を持つこの身体、精神、魂は、何者なのだ?
 結局、疑問はそこに行き着いてしまう。5年前のあの日、自分の身にいったい何が起こったのか。『Azrael-02』が、自分にこの幻を見せているのか。それとも、本当に自分が、過去を思い出しているだけなのか。
 護留は死体を見下ろす。過剰に酷使された人工筋肉が放つ高熱と、澄崎市に常時空中散布されているナノマシンにより既に分解が始まっていた。グリムリーパーが強制救済を行った後では、取り出された魂から飛び散った外魄層により周囲で騒霊現象ポルターガイストが起こることが多い。生者の魂と死者の思念が共鳴し、死人と会話することも一時的にではあるが可能だとも言われる。
 あるいは、この子供が僕に幻覚を見せたのだろうか。
「まさか、な」
 老人のようにしわがれた声で呟くと、護留は追い立てられるようにその場から去った。
 後に残された少年の残骸からは、まるで天に昇り逝く魂のように、湯気が立ち上っていた。

      †

「止まりな」
 120番街大通りへと抜ける、どこにでもある灰色の路地裏で、そいつは声をかけてきた。
 路地の出口。そこに禿頭の巨漢が立ちはだかっている。護留は素直に従い立ち止まった。と、ビルの隙間や廃材の陰から、まるで虫のように男と似た雰囲気の連中が涌き出てくる。否――虫ではなく、いぬだ。全員が護留の目の前に立つ男に対して、暴力による卑屈な忠誠を誓っているのだろう。全部で5人。普段の護留はこのような輩に囲まれないよう気を配っているのだが――今日はよほど疲れていたらしい。
「見てたぜえ、引瀬。ハイエナ稼業のカス野郎が。今日も死体漁りに精出してたようだなあ、ええ、おい?」
 禿頭は恐らく自身が凄みを与えられると信じている声音と表情で、挑発的な文言を投げつけてくる。護留が黙っていると周囲の狗たちも、っらあ、っかしてんじゃねえぞ、等と不必要なまでに大声で吠え立てる。
 ――こちらの名前を知っているようだ。護留の名前は不本意な形で巷間に流布しているので、それ自体は警戒すべきことではない。問題は、この手合いは主に売名行為を目的としてこちらに絡んでくるので、極めてしつこいということだった。
「……見ていたなら分かるだろうけど、今日は何の成果もなかったんだ。あんたたちに渡せる物は何もない」
 護留は俯いて、ぼそぼそと掠れた声で答える。五年前のあの日から、護留の声は変声期の子供とも老爺とも付かない物になっていた。禿頭が嘲りの表情を浮かべる。
「はああ? どこかでジジイが繰言述べてやがるせいでよく聞こえねえなあ。もう一度言ってみろよ、オラ」
 男たちが追従の下卑た笑いを上げた。
 正直、今日は疲れている。もう、何もかも終わりにしてしまいたい。だから護留は息を吸い、禿頭を真正面から睨みつけてこう言った。
「煩いな、黙れよ。禿猿はさっさと猿山に帰って雌と交尾しサカってから寝てろ。――いや、ごめん。野良狗だったね」
 雨以外の全ての音が消えた。手下どもは呆気に取られた顔をして護留を見つめ、そして禿頭はにやけ面のままだった。だがそれは度量が広いというわけではなく、単に護留の言葉がまだ脳に届いていないか、届いても意味を解するまでに時間がかかっているだけだろう。
 その証拠に、にやけ面のこめかみ辺りがびくびくと引き攣り、
「――っがああああああっ!! 引瀬えええっ! 『負死者ふししゃ』風情が人間様になめた口叩いてんじゃねえぇっ!!」
 咆哮を上げ、禿頭が巨体を振るわせ驀進ばくしんしてきた。速い。恐らく違法な身体改造か後天的遺伝子操作を施しているのだろう。まともにぶつかったら無事では済まない。禿頭は無手だが、その拳は護留の頭の半分ほどもあり、こちらも人間を殴り殺すには何ら不都合ない代物だった。
 叫びに触発され、一拍遅れてから、禿頭の手下たちも護留へと殺到した。こちらは手にナイフやスタンロッド等の武器を構えている。
 護留は、禿頭を睨みつけたまま、ただ立っていた。一歩たりとも動かなかった。男たちはそんな護留を見て、ひょっとしてこいつにはなにか策があるのではないかと怯むが、動きは止まらない。そして、護留は最後まで動かなかった。
 だが、拳が、刃が、棒が、護留の体を肉塊に変える瞬間――まさに生死を分ける刹那、護留はようやく己を動かした。
 その、口元だけを。
 感情の宿らない眼はそのままに、唇を無理矢理上へと曲げて、言葉を紡いだ。
「さようなら」
 語尾が宙に拡散せぬうちに、あらゆる方向から様々な種類の暴力が護留を襲った。

「ぁあ?」
 男たちは、うつ伏せに倒れた護留を見下ろし、困惑した。死んでいる。後頭部が陥没し、脳漿のうしょうと泡混じりの桃色をした血が洩れ出ていた。手足もあらぬ方向に捻じ曲がっている。
「な、なんなんだよ、こいつ。殺られる間際に笑ったりして――」
 彼らは殺人行為に対して特に罪悪感は抱いたことはなかったが、護留の余りの無抵抗さと余裕は薄気味悪かった。
「……うるせえ。うろたえるな。とにかくったんだ。剥ぎ取れるもん取って飲みにでも行こうや。けっ、胸糞悪ィ。何が『負死者』だ。とんだ名前負けだぜ。今度の祭りでの自慢話にすらなりゃしねえ」
 禿頭は護留の死体に忌々しそうに唾を吐き棄てた。リーダーに促され、ようやく取り巻きは我に返り、単分子糸鋸モノフィラメントカッターや種々のアンプル、真空パック等を取り出す。死にたてのブツだ。バラして、闇市マーケットで売ればそれなりの稼ぎになるはずだった。路地の前後に見張りを立て、熟練者の手際で男たちは護留の死体を解体しようと群がった。仰向けにするため護留の肩に手をかけ、
 からから、と音がした。
 全員が吸い込まれるように音源に視線を向ける。放りっぱなしにしていたナイフが、動いていた。誰も手を触れず、風も吹いていないのにも関わらず。
「――――」
 声をなくす男たちを尻目に、ナイフばかりでなく、先刻まで各々が手にしていた武器が、ころころ、からからと護留目掛けて転がり出した。いや、正確には武器ではなくそれらにべったりと付着した護留の血液たちが、集合しだしたのだ。
 男たちは動けない。悲鳴を上げなかったのは忘れていただけで、胸の内では絶叫している。
 なんだこれは、と。
『なんでだ』
「ひ、ひいいいいいぃぃぃあああああああああぁぁぁ!」
 唐突に発せられたその声に、今度こそ男達は声を振り絞って叫んだ。恥も外聞もなかった。恐怖だけがあった。
『なんで、また、しねない?』
 ノイズが混じったような歪んだ声で、心の底から疑問に感じている口調で『それ』は問う。
『なんで、これだけ、やられて、死ねないんだ?』
「――ぅおおぉぉらあっ!!」
 禿頭が己を強いて叫び、転がっているスタンロッドを掴み上げ、電圧を最大まで上げる。青白い電弧アークが路地裏を照らす。そして、声の主――うつ伏せに倒れたままの護留に打って掛かった。破壊的スピードで振り下ろされたロッドは、形の変わってしまっている護留の後頭部に直撃、
「な、ぐっ? くそ、」
 しなかった。ロッド以上のスピードで飛び出した肉と骨の欠片たちが、兇器をがっちりと受け止めたのだ。強力な電撃が護留の肉を焼くがピクリとも動かせない。
『死にそうなくらい痛いのに死にそうなくらい気持ち悪いのに。また、これだ』
 護留がゆっくりと立ち上がる。
 それを見て、一人が堪え切れずに嘔吐した。今までかなり損傷の激しい死体を見慣れてきたはずの男が、嫌悪感に耐え切れずに自ら指を喉に突きこみ、胃の内容物全てを掻き出した。
 護留の顔が、顔だけでなく全身が、壊れていた・・・・・。そうとしか言いようがない。そして、壊れたまま動いていた。歪んだ目蓋で瞬きし、捻じれた足で地を踏みしめる。剥き出しになった肺が収縮し、あるべき位置から数十センチもずり下がった右手が機械的に空を掻く。後頭部は禿頭からもぎ取ったスタンロッドを咥え込んだままだった。
 男たちは、ただ呆然とへたり込むしか術はない。その締まりのない視線を浴びて、それぞれが全く独立して動いていた護留の体の器官が、突然止まった。そして――
 爆縮。
 湿った不愉快な轟音を伴い、咥えたままのロッドまでもが肉と共に体の内側に幾重にも折り畳まれる。蛇のような肉帯や神経束が激しい出入りを繰り返し、近くに転がっていた武器や路地の廃材すら取り込まれていく。とても現実の光景とは思えない。地獄が溢れたかのような絵図。護留の身体からの廃熱で雨滴が蒸発し、凄まじい臭気を伴った蒸気が立ち込め視界を閉ざした。この蒸気に紛れて逃げる――そんな単純な思考すら男たちは奪い去られていた。
 風が吹き、蒸気が吹き払われると、そこには白いマネキンが立っていた。
超再生モルフォスタシスプロトコル、全ローテーション……終了。『Azrael-02』、再起動……成功)
「また、死ねなかった」
 声と共にどろりとした白銀の亜生体デミバイオフィルムが剥がれ、護留が無傷で姿を現した。
 わずか、10秒弱の出来事。
「――これが、『負死者』だってのかよ……」
 禿頭が、感情をどこかに置き去りにした声で言った。
 負死者。
 それは都市伝説の中に存在する。裏路地で三日も寝起きすれば誰かから必ず耳打ちされる類の、頭の悪い作り話として皆が知る。その噂に曰く――
 それは不死ではない。
 不死はありえない。天宮が100年かけて実現できなかったものが、何故存在できるのか?
 それは不死者ではない。
 それは死に負けた者――だから死の言いなりになって、動いている。
 それは死を負かす者――だから死を言いなりにさせて、動いている。
 それは死を背負う者――だから死のために、動いている。
 それが負死者。
 姓は引瀬、名は護留。奴は死なない、死ねない、死のうとしない。
 噂は話をこう締め括る。
『――奴を殺すな、殺される』
 誰かが、啜り泣きを始めた。嗚咽混じりの呟きが雨音に溶かされ路地裏に浸透する。
 いつしか誰もが泣いていた。そして懇願していた。
 死にたくない、と。
(危険因子の排除を優先。戦闘機動開始)
「ごめんよ」
 怒ったような、泣き出す寸前のような表情で。護留は一切の無駄なく機械的にも見える所作で一番近くにいた禿頭の首を、掌から直接生えた白銀のナイフで切り飛ばした。
 全ての泣き声が止むまでに、10秒もかからなかった。

      †

「お見事でした」
 声は拍手と共に背後からきた。
「――――」
 男たちの装備品を漁っていた護留は素早く振り返る。
 中年の男だった。背はやや低く、濃紺色のALICEネット翻訳用のデータグラスをかけている。着ているスーツは暗灰色ダークグレーで、一目で高級品だと知れた。男の周囲だけ雨が降っておらず、地面も円形に乾いている。反降雨力場。身に着けているもの全てが最先端かつ最高品質なものばかりだった。
 血塗れのナイフを手にしたまま、警戒心も顕に護留は訊ねた。
「この連中をけしかけたのは、あんたか」
「ご名答です」
 何の躊躇もなく頷く男を見て、護留は眉をひそめた。悪意の全く感じられない、屈託ない返事だった。
「あんた、何者だ。なぜこんな真似をした」
「失礼、自己紹介が遅れました。私、屑代くずしろと申します。以降お見知りおきを」
 護留の問いに対して男は軽やかに身を折って挨拶をし、
「そこの憐れな方々については、まあ貴方の力の検分役ついでに社会のゴミ掃除と言ったところでしょうか。彼らはこの再整備区域で広範に亘って活動していた臓器強盗団でしてね」
 のうのうとそんなことを言った。男――屑代は芝居がかった所作を崩さない。にこやかに笑いながら、手まで差し出してきた。護留はそれを無視して話しかける。
「あんた……前に、会ったことがあるか?」
「――いえ? 初対面のはずですが」
 護留は眼をすがめて屑代を観察する――つい最近見かけた気がするが、思い出せない。護留は頭を振って、記憶の同定作業を中断した。
「――力の検分、と言ったな。なんのためにそんなことをした」
「これから依頼する仕事を、貴方が遂行できるかどうかを見極めるためです」
「仕事の依頼は、紹介屋の己條きじょうを通したものしか受けていない」
 護留の即答に、屑代は笑い目を更に細めて、
「ええ、ええ。存じ上げておりますよ。その上で、不義理で不公平で不正規で不平等で不条理であると重々承知した上で、依頼しようとしているわけです」
「紹介屋を通さずに仕事を持ち込んでくる連中は全員ろくな奴らじゃなかったが、いきなり薄ら馬鹿どもをけしかけてくるような常識人はあんたが初めてだよ」
 取りつく島もない護留の態度にも関わらず、屑代は全く相好を崩さずに続ける。
「話くらい聞いてもよろしいのではないですか? お時間は取らせません」
「断る。これ以上不毛な会話を続けても無意味だ。内容も条件も提示しないなんて、依頼とすら呼べない」
「内容、内容ですか。斯様かような時、斯様な場所に、斯様な二人が揃っているのですよ。依頼の内容など、決まっているでしょう?」
 屑代はわずかな間を持たせて、その〝内容〟を口にした。

「――暗殺の、依頼ですよ」

「断る」
 護留は再び即答すると、踵を返した。
「報酬を聞いてからでも、遅くはないと思いますが?」
「繰り返し言う。仕事はまず己条を通せ」
「報酬は前金で150万ALCアルク。仕事が終わった後に更に150万ALCをお支払いします。もちろん、現金で」
 立ち去りかけていた護留は、屑代がさらりと言ってのけた科白に思わず振り返ってしまった。渋い顔をする護留を満足そうに屑代は見遣る。
「話を聞いてみる気になっていただけましたか?」
「……300万ALCだって? BLC《ブルク》でなく? 正気かお前」
 ALCは澄崎市の正規通貨で、BLCは低級市民等が闇市で用いる海賊通貨だ。ALCで300万。それは、澄崎市の成人男性――それも天宮関連の企業に勤める中流以上の地位につく――のおよそ20年分の所得に等しい金額だ。
「もちろんです。因みに仕事の成否に関わらず、前金の返却は不要です。まあ、『負死者』に対する礼儀だと思って――おや、禁句でしたか?」。
「……禁句なんて知るか。ただ、あんたの話しかたが気に入らないだけだ」
「申しわけございません。営業用の口調――ではなく、嫌いな上司の話し方の真似なのですが。お気に召しませんでしたか?」
 ――これ以上こいつに付きあっていると偏頭痛に拍車をかけそうだった。
 もういい。こいつも黙らせよう。
 予備動作を一切行わず、護留は屑代にナイフを突き出した。鳩尾を狙う。屑代は、躱さなかった。そして護留は躊躇わなかった。刃はその根元まで深々と突き立ち――屑代はゆっくりと膝をつき、泥水の中に倒れ臥した。護留はそれを無感動に眺めていたが、
「立てよ。なんの茶番だ、これは」
 護留の心底うんざりした言葉に、屑代はごくあっさりと立ち上がった。反降雨力場のおかげか、スーツは一切濡れていない。
「いやはや、さすがですね。――なぜ生きていると思いましたか?」
「倒れかたがわざとらしすぎる。第一、刺した時の手応えが生身の人間と全く違った。あんた、内臓も人工物サイバネティクスに置換してる重度身体改造者だな」
 屑代は鳩尾の辺りを手で拭った。手には少量の血が付着したが、それ以上の目立った出血は見当たらない。
「これも、『検分』とやらなのか」
「お察しの通りです。私はこのようなやり口には反対したのですがね。どうしてもという『上』からの強いお達しでして」
「じゃあ、その『上』とやらに不合格の通知を持ってさっさと帰れ。あんたが僕をどう評価したかなんて知りたくもないが、どうせ過大に決まっている。暗殺なんて僕には無理だ」
「しかし己條さんのところでも、殺しを請け負ったことがありますよね?」
「……なんのことだ?」
「誤魔化す必要性はございません。失礼ですが、貴方のことは調べさせていただきました。徹底的にね」
「……話が早いな、じゃあ知っているだろう。僕が過去受けた殺しの仕事に、全て失敗している・・・・・・・・ことくらい」
「ええ、もちろん。しかし、私どもは過去の業績などに興味はありません」
「矛盾している。それならなぜ僕の経歴を調べる必要がある」
「私どもは貴方のでは経歴ではなく、貴方の遍歴を調べました――魂魄の遍歴を、ね」
「言葉遊びは結構だ。僕になにを言わせたいんだ? 僕の通り名を知っているだろう。
 僕に、魂魄はない。ゾンビなんだ。擬魂を使って僕は生きている――いや、生きている『ふり』をしている。だから負死者と呼ばれているし、だからALICEネットで運営されている市の公共サービスも利用できない。ネットに保存している記憶のバックアップもないから、あんたの言う魂の遍歴とやらも調べようがないんだよ」
 護留の言葉に嘘はないが、推測が多分に含まれている。
 この五年間、護留は最底辺の暮らしを送ってきた。生きるために汚れ仕事でも何でもこなすうちに、負死者などというありがたくない通称までつけられる始末だ。これは天宮やその息が掛かった市警軍とも敵対していたからであるが、実際はALICEネットを利用できなかったことの方が大きい。
 ALICEネットとは、100年前に消滅したインターネットに代わって都市中に偏在するシステムだ。生誕時に市当局から自動発効される『刻印ミームパターン』を施された魂と、ある程度正常な精神さえあれば、犯罪者や非市民《ノーバディ》ですら利用できる。ネットには大気中に散布されているナノマシンを介して常時接続され、かつてのインターネットをも凌駕する様々なデータベースへのアクセスやインフラ利用、人格のバックアップ、果ては活動に必要なエネルギーが――接続階級によって制限があるとはいえ――供給されるという、まさにこの街に住むモノにとっての生命線である。
 ALICEネットを利用できないということは魂を持たないことと同義だ。そういうケースは稀に存在する。極度のトラウマなどにより著しく劣化した魂を擬魂に換装した者などがそうだ。彼らは市からは存在しない者として扱われ、市民からはゾンビと呼ばれ蔑まれる。
 擬魂――擬似魂魄は澄崎市でナノマシンと同じく認可された数少ない失効テクノロジーの一つであり、人類の魂の最大公約数、誰でもあり誰でもない人工の情報子インフォルミンだ。人工であるが故に生の魂には不可能な〝加工〟が可能であり、そのためこの閉じた街の主エネルギー源として扱われている。
 五年前のあの日〝起動〟した『Azrael-02』が一体どういうものなのか、未だ護留は手掛かりすら得られていないが、恐らくは擬魂の一種――それも極めて特殊な――であると推測していた。
「ゾンビ? 貴方はそんなものではありませんよ。そんな低俗なものではない。貴方はもっと高次な存在なのですよ、引瀬護留。自分でも信じていないような憶測を口にするのはよしたほうがいい。そう、貴方は生きていない。現代医学は魂魄が存在しない者を死者と定義する。ALICEネットも使えない。
 それでも貴方は動いている。思考し志向し指向し嗜好し試行しているのです歴然と。――なぜでしょうね?」
 饒舌じょうぜつに語る屑代を睨みつけ、
「――そんなこと、僕が聞きたいくらいだ」
「ごもっともです、『負死者』さん」
 屑代のやたら挑発的で一方的な文言に、護留は口を閉ざした。この男、さっきと態度が変わってきている。どうやら本格的にこちらに仕事を押しつけるつもりのようだ。
「質問に答えてない。僕の、何を調べたというんだ」
「魂魄の遍歴です」
「だから、僕には――」
 抗弁する護留を遮って屑代は続ける。
「私どもと貴方たちでは、魂魄の考え方――見方が違うのです。市税局が取り立てる、人の精神場の中に存在する莫大なエネルギーを孕んだ『パターン』でも、ALICEネット接続時に認証を求められる電磁気学的な生体パルスでもありません。それらは一側面ではありますが――」
「僕は学説が聞きたいわけじゃない」
「ざっくばらんに言ってしまえば『人生の足跡』です。ALICEネットを利用している全市民の過去の記憶から、貴方に関する事柄を抽出して、更にそれを精製したもの――あなたのクオリアの統計的似姿ですよ」
 ――ALICEネットから市民の情報を得た? ありえない。そんなことが出来るのは――
「まさか、お前っ、」
 屑代の言葉に呆然とし、次いで相手を食い殺さんばかりの気迫で詰め寄った護留は、しかし屑代の六歩手前で見えない壁にぶつかったかのように立ち止まった。
「良い勘です、引瀬護留」
 ――狙撃手。2時、6時、10時の三方向からだ。距離は200、いや、250メートルか。無論、撃たれても死ぬことはないが、恐らく再生中に時間差をつけて弾を送り込んでくるだろう。麻酔弾等を使われれば、下手をすると、数分間行動不能に陥る。それだけの時間があれば、こちらを拘束することなど容易いことだろう。
「――用意周到だな」
「言ったでしょう。私どもは貴方を適正に評価しています、と」
「言っただろう。その評価は過大だ、と」
 互いにしばしの沈黙。先に口を開いたのは屑代だった。
「私どもは貴方がこの依頼を断らないことを確信しております。負死者、引瀬護留。
 いえ――〈Azrael-02〉」
 呼吸が止まった。それ以外のあらゆる動作も停止した。今までのどんな挑発よりも、その単語は的確に護留の急所を貫いた。
「どうして……『それ』を知っている!」
 屑代は答えない。護留も返答を待たなかった。
「やはり、そうか。貴様は、貴様らは、」
 ごくり、と息を飲んで、その〝名〟を口にする。
「――天宮あまのみや!!」
「ご名答です」
 その返答を聞いた瞬間、護留は姿勢を極限まで低くし、顎が地面と水平になるように上げ、ほぼ倒れこむような動きで屑代に迫った。屑代は余裕を持った動きで右腕を上げスナイパーに合図を送る。
 一歩目を踏み出したところで、右肩に初弾が命中。続く二歩目で左頬と耳が吹き飛び、三歩目で左膝が砕ける。それでも勢いで屑代の足に組みつこうと四歩目を右足で――踏みしめられない、こちらも太股を打ち抜かれた。そのまま屑代の足もとに倒れ込む。
「――っ、貴様らが……なぜ今頃になって僕に接触してくる!? この五年間こちらからいくら手を出しても無視してきた貴様らが!」
 吐息を荒げながらも、再生しつつ立ち上がろうとする護留を見て、右腕を下ろした屑代はこれまでとは打って変わった能面のような無表情で言葉を紡いだ。
「――全回復に5秒弱。やはり、貴方には資格がある」
「……なんの話だ」
「ですから仕事の話ですよ、引瀬護留。求めよ、さすれば与えられん。金枝しかくは貴方の手に既にある。後は、姫を殺すだけ」
 弱々しい微笑を浮かべた屑代を凝視しながら、護留は問い返した。
「姫、だと?」
 屑代は頷くと、大仰な身振りで両手を広げ、高らかに宣った。
「左様です。天宮家現当主、理生の一人娘。天宮家次期当主継承権序列第壱位。公社内における公的地位は研究部特殊技術開発室副室長。
 12歳で市立大学を主席で卒業し、15歳現在、三つの博士号を持つ。九八年に発表した論文で市議会より叙勲され、永久市民権と雅名がめいを賜る」
 すらすらとまるで我がことのように屑代は喋り続けながら、一葉の写真《ホログラムプリント》を取り出す。
 そこには一人の少女が写っていた。白銀の髪。真紅の瞳。微かに笑みを浮かべた白皙の顔には染み一つない。天宮総合技術開発公社の制服はお仕着せられたようであまり彼女に似合ってはいなかった。
 名は何度も耳にした。顔は初めて見る。なのに、何故か強い郷愁を覚えた。まるで長い放浪の果て、家族と再会したかのような。
 馬鹿な、ありえない。何故なら彼女こそが、
「その雅名を天津照宮白銀媛悠久真理命あまつしょうぐうしろがねひめゆうきゅうまことのみこと
 ――そう。我らが姫君、天宮悠理殿下を、市政100周年祭でのお披露目に際して、貴方にしいして頂きたい」
 眩暈を覚えた。歓喜を感じた。憎悪が湧いた。
 悲哀がよぎった。憤怒がおこった。驚愕を抑えた。
 筆舌に尽くせない感情が、渦巻いた。
 胸の裡の情動のままに、護留は屑代に返答した。
「――その依頼、受けよう」
 護留の受諾を得た瞬間、自らの情念に飲まれている護留では気づけない程の刹那、屑代はわずかに――かなしそうな顔をした。だがそれが表情として固着することはなく、すぐに仮面のような張り付いた笑みを浮かべる。
「感謝いたします。我々は助力を惜しみませんよ。足りないモノがあれば気軽に声をお掛けください。これはあなたと我々との信頼の証です」
 そう言って護留に写真と有機ディスクを手渡す。
「……情報は貰うが、お前たちの協力はいらない。僕の方で人材も機材も用意するから、依頼達成後まで二度と姿を現すな」
「それがお望みならば、もちろんそうさせていただきます――それでは、失礼いたします」
 舞台から下りる役者のような大仰な礼をすると、屑代は近くにあった廃ビルの中に入っていった。
 試しに後を追ってみるが、出入り口のない閉鎖されたエントランスホールに屑代の姿はなく、かわりにトランクが一つぽつんと置かれていた。注意深く調べ、開けてみると中身は前金の150万ALCが入っていた。1枚抜き取ってキャッシュリーダーに食わせてみると、使用履歴が白紙の新札だ。どこまでも芝居がかった男であった。信用など欠片でも抱ける訳がない。だがそんな些末事など今はどうでもよかった。
 天宮悠理。
 やはり消えてなどいなかった。その名を忘れたことなど片時もない。『Azrael-02』の起動と共に、過去と名前を失くした護留にとって唯一依って縋るべきものであり、そして奪い取るべきものだった。
「あは、」
 堪え切れず、笑いが出た。酷く陽気で清々しい、底抜けに明るい声だった。
「ははは、あははははは――そうか、」
 笑いに呼応するかのように、雨がその勢いを増した。
「やっと、できるんだ」
 助力を惜しまないという屑代の言葉は、端から当てにしていなかった。この計画が終わったら――それが成功裡であれ失敗であれ――自分は確実に消されるだろう。こちらの手の内を読ませないためにも、天宮からの支援に頼るべきではない。
 澄崎市は二つの組織によって実効支配されている。
 空宮文明維持財団と天宮総合技術開発公社。この二つの組織の仲は極めて険悪だ。
 空宮は、現状こそが文明の最先端であり、それを上回ることも下回ることも人類自身に対する冒涜だと主張している。100年前に人類を蝕み、澄崎市が孤立する契機になったと云われる『技術的発散テクノロジカルダイバージェンシー』の発生を防ぐことを至上命題とする組織だ。新技術を吟味し、その技術が水準以上か以下かを検証する。基準をクリアできなかった場合、それは〝失効テクノロジー〟と呼ばれ、市議会の審議にかけられた後、少数の例外を除き大抵は廃棄、若しくは半永久的に封印されてしまう。
 一方の天宮は社名の通り、種々の技術開発を行う。それが一方的に〝なかったこと〟にされてしまうのだからたまったものではないだろう。
 だから身内の暗殺を依頼するのなら空宮を偽装する方が理に適っているが――癪に障るが護留を動かすのなら天宮の名を出す方が有効だと分かっていたのだろう。そしてそれは正しい。あれだけ巨大な組織で、かつ複数の当主継承権保持者がいるのだ。嫡子で、継承権序列壱位の天宮悠理のことを疎ましく思う連中は星の数ほどいる。屑代が自ら天宮を名乗ったのはブラフでなく恐らく真実だ。
 間違いなくこれが最初で最後のチャンスだった。
 来月の市政100周年祭で、次期当主のお披露目がある。街は今その噂で持ちきりだ。今まで公の場に一切姿を見せなかったゆえに、その実在すら疑われていた天宮悠理だが、それを利用して他の当主候補たちが台頭してきていた。ここで内外にその存在をアピールし、地歩を固めておきたいのだろう。しかしそれは敵対している候補にとっては、悠理のガードが解ける絶好の機会でもあるわけだ。今回の依頼がなくとも自分でこの時宜を狙うつもりだったが、まさに渡りに船――いや文字通りの『天佑』か。
 ぱしゃり――水たまりを叩く音に護留は振り返る。
 そこには、護留を襲った臓器強盗団たち――だったもの・・・・・がいた。
 四方八方に飛び出した膚色の触手が、ゆらゆらと揺れている。肉の襞の隙間から充血し、涙を流しているいくつもの眼がこちらを瞬きせずに見つめていた。
 護留がこれまで殺人に失敗し続けてきた理由が、これだ。
 紛い物の生を過ごす自分には、紛い物の死しか与えられない。
 護留が致死傷を負わせた対象は、護留と同じように再生を開始する。だが護留のように人型には戻らず、この哀れな男たちのような肉塊へと成り果てる。たいていの場合、肉塊は特邏が持ち去ってしまうが――まれに発見されない時もある。その場合は悲惨だ。餓死を待つか、鴉や犬に喰われるか。もっとも、特邏に持ち去られた連中がどうなるのかは護留も知らないので、どちらが幸せかはわからない。こいつたちは天宮の監視下でこうなった。恐らく自分が去った後に処理場だか研究所だかへと連行されるだろう。同情は全くできないが、不愉快だった。
 ――だから噂は間違っている。僕は不正な生と負債な死をまき散らすだけの存在だ。
 だけど。魂魄制御技術に関する全てのノウハウを持ち、そして母を奪った天宮。奴らなら、自分の負死の呪いを解くこともできよう。
 一人娘を抑えれば、有利な条件でことを運べる。天宮の暗殺計画を逆利用した誘拐。お膳立てはできている。これが天宮の内輪争いとすれば、反天宮の企業や空宮の消極的・間接的協力が望めるはずだ。
 ついに、やれるのだ。
 俯けていた顔を上げる。見据えるは澄崎市の象徴たる超高層建築物。この五年間常に見上げ続け、呪詛をぶつけ続けた塔。天宮総合技術開発公社、本社ビル。
 そこに向け、負の決意を胸に、護留は吼える。
「返してもらうからな……母さんと、僕のを――!」
 手の中の悠理の写真に、涙が一粒落ちた。理由は、自分でも分からなかった。

      †

西暦2199年6月15日午前11時55分澄崎市極北ブロック第2商業区、5番街H1號通り

 ねぐらから抜け出した護留は、足早に移動していた。流石に連日で襲われるとは考えたくないが、残念ながら再整備区画にはその手の馬鹿はいくらでもいる。特に大量の現金を持ち歩いている今は厄介だ。意識して速度を調節しながら極北ブロックへと向かう。
 再整備区画を抜けると、途端に街の様子は一変する。
 商業区。現在の澄崎市では数少ない〝金を出せば物が買える〟場所だ。故に人通りも多い。ここ最近は100周年祭の準備もあり、なおさらだ。人工声帯が叫ぶ宣伝音声、食事を基本的に必要としない澄崎では珍しいレストランから漂う匂い、空中のナノマシンが凝集してスクリーンとなり宙空に様々な映像を投影している。猥雑だが建築物はきちんと等間隔で立ち並び、保守点検もされていた。
 しつこい露天の呼び込みを全て無視して幾つかの通りを抜けると、今度は死体置き場モルグのような静けさに満ちた場所に出た。店や屋台を持つものたちの利権が複雑に絡みあったここは、犯罪組織シンジケート同士、あるいは市警軍との幾度とない抗争の果てに、緩衝区として定められたのだ。まともな頭の持ち主ならまず立ち入らない。いかれた奴が踏み込んでも定期巡回している特邏に射殺されるか、犯罪組織が歩哨代わりに放っている戦闘用に遺伝子デザインされた知性犬に噛み殺されるかの二択を迫られる。
 故にその両方からお目こぼしをもらっているものや、その両方を全く意に介さないものであれば、ここは死体置き場程度には快適な場所なのだった。
 護留は遠目にこちらを窺うだけの大型知性犬を無視し、元スーパーマーケットの建物に踏み入っていく。ここの二階が、紹介屋己條の住居兼事務所だ。
「依頼が三つ入っている」
 埃と合成コーヒーの匂いがする事務所に入った途端、こちらを見向きもせずに己條は言った。
「お前さん向きの物は一つもないがな。話だけでも聞くか、引瀬」
 事務所内は薄暗く、大量の書類や書籍がところ構わずうず高く積み上げられている。本の密度が比較的薄い場所で、厳しい顔つきをした小太りの男が器用に古椅子を傾がせながら何かを読み耽っていた。
「いや結構だ」
 護留が断りを入れると己條はようやく紙束を眺めるのを止めてこちらを向いた。紙束は新聞紙だ。ALICEネットが市民に送り届ける各種ニュースをそこに再構成するためのスクリーンであり、大抵の人間はデータグラスや量子コンピュータを使う。だが己條は妙に古拙趣味なところがあり、わざわざ100年以上前の新聞紙の紙質まで再現した電子ペーパーを愛用していた。
「じゃあ仕事の持ち込みか。前にも言ったと思うが報酬は全額即金前払いだ。もちろん手数料分上乗せでな。手の空いている奴がいればすぐにでもそいつに紹介するが、内容にもよるぞ」
「100周年祭の市警軍の警備データが欲しい。出来れば天宮系列の警備会社のものもだ」
 屑代が置いていった有機ディスクを持ち帰って検分した結果、それは今護留が今依頼した内容そのものが入っていた。だがそのまま鵜呑みにするには危険すぎる。別ルートから入手したデータと付きあわせ比較するためにここに来た。
「市警軍に、それに天宮か。ちと厄介だな、最近そっちの仕事は全部お前さんが受けちまってたから、やり手不足なんだ。ま、そもそもやりたがる奴が少ないからバランス悪く引瀬にばかり回してた訳だが」
 市警軍、犯罪組織、市民を問わず持ち込まれた裏や表の仕事を他の者に紹介し、報酬から手数料を取る。紹介屋とは簡単に言ってしまえばそれだけの仕事だが、どの組織からも目を付けられずに商売が出来ているのは、仕事の割り振り方のバランスや、持ち込まれる仕事から各勢力の情報に精通し、更にそれを外部に漏らさない己條の口の固さが一目置かれているからだ。
 天宮ともある程度関わりを持ち、なおかつ取り込まれてはいない人物。有能で秘密も漏らさない。護留の人脈の中ではこの男以外いなかった。
「ならちょうどいい。これは己條、あんたに依頼したい」
 己條は応えずただ眉目を僅かに開いた。
「言っておくが俺は高いぞ」
「金ならある。そして依頼主として警告しておくと、今回の件はかなり危険だ」
「危険じゃねえ依頼なんて誰も紹介屋に持ち込まねえよ」
 肩で笑って己條は傍らのすっかり冷めた合成コーヒーを飲み干した。
「下手を打てばあんたも大逆罪に問われるかも知れない」
 護留は敢えて踏み込んで発言した。今まで護留が己條のところで受けた仕事はそのほとんどが反天宮活動に関わるものだ。依頼の内容や今の発言とも結びつければ、護留が何をやろうとしているか察しはつくだろう。
「――今のは聞こえなかったことにしておく。最近耳が歳のせいか遠いんだ。依頼人の警告を聞き逃したなんてプロ失格だし、今日一日の分の人格バックアップも破棄だな」
 ALICEネットに保存される人格のバックアップは、市民の権利であると同時に、義務でもある。例え自分の物であってもそれを損ねたり改変したり、または申請無しのアップロードの故意の停止は重罪だ。
 市の法律ではバックアップされた人格も、元の人格と同等の権利を有した『人』であり、故にそれらを管理する市当局や天宮であっても勝手に利用されることは許されない、とされる。だが昨日屑代が言っていた通り、そんなものは表向きの話だ。そもそもALICEネットに繋がっていない護留は問題ないが、己條がここでの会話ごとバックアップを上げたら事の露見はすぐだろう。
「……感謝する。それと今の依頼とは別に、いつものところから装備品を仕入れてくれないか」
 護留が渡したメモを見て、流石に己條がうめいた。
「戦争でも始めるつもりか? これだけの量の武器、馴染みのルートだけじゃ手が回らんぜ」
「いくら使っても構わない。これは必要経費と、依頼料だ」
 手にしていたカバンを開ける。中には屑代から前金として受け取ったうちの100万ALCが入っていた。己條はその中から数枚抜き取るとキャッシュリーダーをかざす。
「新札か、活きもいいな。いいだろう。期限は?」
「祭りの3日前までには装備一式と情報を届けて欲しい。場所は西南ブロックの廃棄区画、極南ブロックからの入り口付近で一番背の高いビルの屋上だ」
「了解だ。久しぶりの直接指名だからな、きっちりやって終わったらこの金で保養区の温泉にでも行くさ」
 そう言って早速データグラスを掛け量子コンピュータに向かう己條を後に、事務所を辞した。
 元よりそのつもりなどないが、これで引き返すことはできない。現場の下見、逃走経路の確保。まだやることは、やっておくべきことは山ほどある。
 商業区の喧騒を足早に抜ける途中、ビラを押し付けられた。トップに不鮮明な画像。恐らくはかなり遠目から捉えた天宮悠理の写真だ。その下に七色に変色するフォントで『当主継承記念出血大サービスセール実施中!』と書いてあった。店は違法デミバイオジャンク屋らしく、生々しい義手や人工内臓の画像に一々『当主継承記念特価!』と注釈が添えられており苦笑を誘う。
 誰もが、彼女を見たがっている。
 誰もが、彼女のことで浮かれている。
 だけど、
「君は、何をしたがっている。君は、何を思っている――」
 雑踏に掻き消されたその護留の疑問の答えは、祭りの日に明らかになる。

第二章 天の御使いの住まう宮 Angel's Cage


西暦2199年6月1日午後6時30分澄崎市極東ブロック特別経済区域、公社占有第三小ブロック

 澄崎市。
 当局が把握する人口だけでも800万人を超すこの大都市を遥か上空から見下ろすと、海に浮かぶ一片のタイルのように見える。一辺の長さが18㎞もあるが、周囲に比べる物のない灰色の大洋の上にぽつんとある様はその巨大さを全く感じさせない。
 かつて、この街は陸にあったという。過剰な技術開発競争とそれに伴う『技術的発散テクノロジカルダイバージェンシー』の発生、そこから連なる泥沼の争いと嵐のような混乱を招いた結果、人類は滅びる前に自らを枷にはめることにした。そのためのある特殊な技術――魂魄制御技術の開発を行う場所として澄崎市は選定され、そしてその影響が他にできるだけ及ばないよう海上の超浮体構造テラフロートに都市機能の全てを移転し、更に漏れないように念入りに蓋をされた。
 以来100年。擬似魂魄やALICEネットなどのテクノロジーによりほぼ完全な自給自足が達成され、空宮の教条と天宮の技術による支配構造が固定された社会。人々は魂の質により正規ハイアー低級ロウアー|非市民ノーバディに分けて管理され、大多数の者らは市建造当初の目的すらも忘れ、徐々に衰退しながらも日々を生きている。
 タイルはよく見ると一辺が6㎞の小タイル9個に分割されている。中央のタイルの真東にあるのが特別経済区域だ。大企業の本社やその社宅が拡がる、澄崎の経済と資本の中枢部。
 その中心に建つのは、周囲に並ぶ積層建築物群をなお圧して聳える、全高999メートルの有機建材製の巨大構造物。細長い塔とそれを囲うヒト遺伝子を模した滑らかな二重螺旋構造。
 魂魄と肉体を象徴したその見た目の通り、それは刻々と代謝し、常に自らを最適化することによって半恒久的に機能し在り続ける生きた城だ。有機水晶体の窓が、久々に射した陽光を計算された角度に反射し、気流が塔にぶつかって出来た雲に色なき虹を投げ掛ける。
 天宮総合技術開発公社・本社ビル。
 擬似魂魄、IGキネティック義肢、有機生体機械類、遺伝子医療、ナノマシン。それらの生産や失効テクノロジーの復元、ALICEネットのメンテナンス。澄崎市を支える種々の技術と機器の約七割はこの会社が作り出したものであり、今なお創り続けている。
 その規模と複雑性たるや、一つの〝世界〟として喩えることが可能かもしれない。
 彼女を規定し、束縛し。
 彼女が基底に置き、自縛している。
 天宮悠理《あまのみやゆうり》の世界。

 主観時間にしてもう5322秒も前から、悠理は欠伸を堪える努力を強いられていた。
 会議は始まった時点で既に踊っていた。
 開発室と研究室のいつもの小競り合い。発端は確か、研究室がALICEネットの割り当て領域を増やして欲しいと運営部に嘆願したことだったと思う。それが却下されるのもいつもの通り。そして研究室が却下された原因を開発室の不合理性にあると転嫁して攻撃してくるのも、いつもの通りだ。
 ALICEネットを介した圧縮会議は、各部署の主任だけでなく、その副たる地位の者も出席せねばならない。不合理な悪弊だといつも思う。今度制度の見直しについて稟議書でも提出しようか。
 結果の報告の確認だけなら実時間だと秒単位で済むようなやり取りでも、ネットに接続された主観時間に直すと数時間を越えることもざらだ。なんのために時間圧縮しているのか分かっているのだろうか。長引く会議のことを悠理は密かに〝学級会〟と呼んでいる。最も、本物の学級会を悠理は知らないのだけれど。
 ・――天宮開発副室長、君の意見はどうなのかね。会議に参加したまえ――・
 思考をシールドしてだんまりを決め込んでいたら、こちらに矛先を向けられた。正直話をまともに聞いてすらいなかったので、慌ててログを確認する。
 ・――重要な会議の席で居眠りとは、さすがお姫様は格が違いますなあ――・
 ここぞとばかりに厭味を言ってくるのは、立場的には味方であるはずの開発室室長だ。神経質そうな細面の魄体アバター――ALICEネットの接続の際に負荷軽減のため用いられるユーザーインターフェイスが口元を引き攣らせて笑う様は、見ているだけで暗い気持ちになる。
 ・――夫婦喧嘩に子供が出しゃばるのも悪いかと思いまして――・
 挑発に挑発で返してしまった。悪い癖だ。だが口にしてしまったものは仕方ない。
 ・――親の七光りが……コネで……お飾りの小娘が偉そうに……――・
 悠理のものとは違い性能の低いシールドから漏れ出てきた思考を平然と受け流して、なお言を重ねる。こっちだって不満は溜まっているのだ。一度吐き出したら止まらない。
 ・――室長、研究室の意見には一理あるのでは? 最近のあなたの予算の追加申請及び、ネットの使用頻度・時間は少し目に余るものがあります。ALICEネットは全市民の共有財産です。公社による研究の結果、無尽蔵と思われていたネットの帯域が有限であることが判明し、しかもそれが5年前から加速度的に枯渇していっているのはご存知でしょう。再開発区域の整備もそれが原因で遅滞しているというのに。いくら徴魂吏グリムリーパーを増産してロウアーやノーバディから魂を集めても限度がある。かかる時勢においてネットの私的専有は社への反逆と論定されます。看過できません。このままでは当主への奏上も検討せざるを得ません――・
 当主。その単語が出た瞬間、全ての魂たちが脅えるように静まり返った。社内に於ける絶対者の名はどんな薬や毒よりも効果的だった。
 ・――わ、わざわざ閣下の手を煩わせる程の案件でもあるまい。それとも君は身内の特権を利用して我々を脅迫すると言うのかね?――・
 やや上擦った思念を送ってきたのは、先ほどまで調子よく声高にこちらを弾劾していた研究室主査だった。
 ・――ではなぜこれほどまでに熱心に討論を行っていたのですか? 私はてっきり当主へ意見を具申するためだと思っていのですが……――・
 ・――活発な意見のやり取りは、開明的かつ開放的な我が社の是とするところである。常日頃から討論を繰り返せば組織の腐敗を防ぎ、活性化を促すというものだ――・
 おためごかしにすらなってい無いその言葉を、悠理は一笑に付した。
 ・――怨……殺……憎……呪……涜……恐……怒……畏……辱……――・
 主査からだけでなく、周囲の全てから怒りと憎悪、恐れの感情スペクトルが痛いほどに放射されてくる。悠理のアバターに、タールのようにべったりとこびりつき汚すそれらを払おうともせず、なお言い募ろうとすると、会議の進行を担っていた運営部の人間が遮った。
 ・――時間が押していますので、これにて第196回臨時報告会を終了とさせて頂きます――・
 その言葉を潮に、有象無象はこれ幸いと挨拶もなしに次々と会議領域から切断し、その姿を消した。悠理もそれに倣って魄体投射を切り、執務室唯一の調度であるエルゴノミクスチェアの上でようやくあくびを一つした。
 ALICEネットに接続する際には空中のナノマシンを用いるので、一切の器具は必要が無い。だから、執務室と言ってもただのがらんとした無駄に広い空間が広がっているだけだったりする。魂魄波以外、雑音や電磁波は遮断されているから、居眠りにももってこいで、悠理はこの環境を社内で二番目に気に入っていた。
 だけど今はなんとなく、この静寂が嫌だった。
 執務室から逃げるようにして、悠理は自分の部屋――150階全てがプライベートフロアなのだが、その中で寝室としている場所――に戻り、深い溜息を吐く。ここにはいつも耳を澄ませば聴こえる程度の音楽が流れている。それは過去存在した宗教の賛美歌だったり、あるいはこれまた古いジャズやポップスだったり。色々だ。この街で音楽が新たに創られることがなくなって、もう半世紀以上が経つ。
 壁の発光素子たちは主の帰りに気づいて、蓄えた光を柔らかに放出する。悠理はシャンデリアの灯りは点けずに、スクリーンをオンにした。
 外は珍しく快晴だった。澄崎市は雨の街である。空中に常に大量に浮遊するナノマシンを核にして、雲が育つからだ。霧も多い。
 広がる景色は灰色の空、灰色の海、灰色の街。見渡す限り雲一つないはずなのに、そこには彩りという物が存在しなかった。停滞した街、停滞した技術、停滞した事象。これが澄崎市に施された〝蓋〟だ。それでも悠理はしばらくその光景を眺めていた。
 遠く、幽かな影がビルの隙間を縫って飛んだ。鳥だろうか。悠理はあえてそれを確かめようとせずに映像を消す。
 副脳から有機量子コンピュータを操作。市内のニュース、社内公報、新規の論文、個人向けノーティス等がALICEネットを通じ悠理の論理網膜上で目まぐるしくスクロールする。重大な懸念事項は無し。必要なメッセージにいくつか返信をするとスタンバイモードに落とす。
 白衣とその下に着ている白尽くめの公社の制服。会議前に着替えたばかりだから実際には5分と身に着けていないのだが、先ほどの会議上で投げつけられたタールが染み付いている気がして、脱ぎ捨てた。
 タイトな機能性アンダーウェアに包まれた華奢な肢体が露わになる。慎ましやかな胸に、肉の薄い尻。未成熟な蕾めいた危うさ。手足はすらりと長く、染み一つない肌の色は白い。薄暗い室内ではまるで燐光を放っているかのようにも見える。腰まである髪の毛は肌の色よりもなお白く、朝日を浴びた処女雪のよう。悠理の身体のうち唯一色彩が存在するのが瞳だった。ルビーのような、真紅。
 五年前のあの日から、何もかもが変わった。眞由美と同じ髪と眼の色となったのは、その象徴だと悠理は捉えていた。あの日を忘れないための、自らに刻まれた聖痕しるしだと。
 しかし科学者としての悠理は、そのような感傷的な考えを否定する。そして推論する。自らにあの日施された行為を。父と母が、この世界が、自分に対して行った仕打ちを。
 だが思考は逸れ上手く纏まらない。さっきの会議の光景や昨夜遅くまで行っていた実験の内容が副脳の処理もそこそこに、脳内でバラバラに展開される。
 ――疲れてるなあ。
 自覚し、苦笑する。疲れている、などと考えられるうちはまだまだ余裕があると経験的に知っているからだ。髪の毛を手で梳く。かつて眞由美がそうしてくれたように。そのままベッドに転がりこもうとしたが思い直し、アンダーウェアも脱ぎ捨て浴室へ向かう。
 疲れなら機械や薬物でいくらでも分解できるし、ストレスすらも消し去れる。が、やはり頭のもやもやを振り払うには熱いお湯が一番だと思う。
 寝室に備え付けの浴室は一般的な水準からすれば上等な部類だが、同フロアにある、プ―ルかあるいは小さな湖みたいに広大な大浴場に比べれば慎ましいものだ。今浴槽に浸かればそのまま眠り落ちてしまいそうなのでシャワーで済ますことにする。
 適温より少し熱めのお湯を頭から被ると、疲れだけでなくこの五年間溜め込み続けてきた思考の澱も解れるような気がしてくる。
 ――五年、か。
 それは長いようでいて酷く短く、悪意があるかの如くのろくさと素早く、確実さと等分のあやふやさを伴って過ぎ去って行った。
 ……時間のことを考えると、悠理の頭は痛む。あの日から積み重ねてきた膨大な日々の中、自分が何を成せたのかを自問してしまうから。
「プロジェクト・アズライール……」
 五年前のあの日、自分たちが何をされたのか調べようとすると、全てはその計画名に行き着き――そしてそこから先に進めない。
 さながら、終着の浜辺のように。
 アズライールとは、かつて人が陸で暮らしていた頃に存在した宗教の神話に出てくる天使の名だ。命を操る術に長けていたため、死を告げる役割を神から与えられた異形の存在。その名の意味するところは『神を助く者』。秘密の計画には仰々しすぎるようにも思えるし、ある意味とても相応しいとも思える。
 表向きにされているだけでも――最も決算報告書などには決して載っていないが――悠理が所属している開発室の年間予算に等しい資金が毎年投入されているくせに、この五年間、誰の口からも直接プロジェクト・アズライールなる言葉を聞いた試しがない。巧妙に擬装された裏の予算も含めると、概算で実に公社全体の28%もの物的、知的、魂魄的資産がこの計画のために徴発され運用されている、らしい。そこまではある程度の技術や知識があれば誰でも調べられる、公然の秘密だった。
 だがその裏を調べようとすると途端に機密の壁は分厚くなる。それでも当主の娘という身分と開発室副室長という地位をも駆使して悠理は調査を続けた。
 そうして幾つかの事実が判明した。まず、このプロジェクトが始まったのは悠理の誕生と同時だということ。このプロジェクトは〝都市救済計画〟という大それた別称で呼ばれていること――都市救済。何も知らない人間ならばあまりのスケールの大きさに笑ってしまうだろう。
 だが市警軍や市議会、更には空宮までがこのプロジェクトに関わっていると知れば笑いは吹き飛ぶか凍りつく。悠理も空宮の名を引き当てた時には驚愕したものだ。
「空宮……空宮ね。なんであいつらが出てくるんだろう……」
 空宮文明維持財団。その起源は天宮と同じく、洋上閉鎖都市である澄崎の設計に関わった者達だという。『技術的発散』の再発生を防ぐことを建前に、澄崎市全ての企業や教育機関を監視する。高度な人工知能、不死の研究、戦略兵器の開発、量子コンピュータの性能アップ、その他諸々。彼らは数え切れないほどの技術や研究を失効テクノロジーに認定してきた。だがその基準は非常に曖昧で恣意的だ。
 例えば澄崎市では当たり前に使われ、今や生活の基盤となっているナノマシン。記録は隠匿されており今や市民の知るところではないが、澄崎市孤立の黎明期、およそ90年前に暴走事故を起こしており、テラフロートの地下居住区は汚染され誰も住めなくなってしまった。除染作業も事故後すぐに取りやめになっており、地下に収められていた様々な機器や技術は空宮の記念すべき失効テクノロジー認定第一号となっている。そしてそれだけの危険な事故を起こした方の技術に関しては、おざなりな審議を繰り返し、結局ただの経過観察処分に収まった。
 そもそも技術的発散自体、一切の記録が残っておらずただ傍証――つまり今現在澄崎市がこうやって海の上を漂っていることなど――によってのみ〝あったらしい〟と確認されているような代物なのだ。そして科学者たちによる技術的発散の研究は、市議会と空宮によって禁じられている。〝発散〟を起こさないためとされているが、ようするに奴らは自分の都合の悪い物を〝なかったこと〟としてこの閉鎖都市を操作し、君臨してきた。
 公社内であの教条主義者共を嫌っていない人間など存在しない。天宮家当主、悠理の父親、理生ですらもだ。
 ――父。そして母。
 あの日以来変わってしまったものに、当然彼らも含まれている。
 まず、母は病んでしまった。肉体でも精神でなくもっと深い部分、魂を。
 擬魂の移植も検討されたが、天宮の夫人がゾンビではあまりに体裁が悪い。絶縁、追放、処分。一族会議は紛糾したが結局は一番無難なところに収まった。即ち軟禁。元々不安定な人だったが、何が彼女を壊したのか。
 ……それはもちろん、自分だろう。友人たちと永遠の別れを告げたあの日の後、しばらくしてから母と対面した瞬間、悠理の白い髪と紅い瞳を見て彼女は絶叫を上げ、そして外界への感情の出力を一切断った。現在はALICEネットにすら繋がっておらず、病床から起き上がることもない。
 父は悠理に対する一切の関心を失くしたように見えた。悠理が継承権序列第壱位に足る振る舞いを心がけ、様々な研究で功績を上げても何一つ声をかけてこない。こちらからもそうなので、公の会議などを除くとこの五年間親子としての会話は皆無に等しい。
 そして、だからこそ分かるあの日の異常。父の笑顔と積極的な語り口。父は本当に愉しみにしていた――悠理の〝機能障害が正される〟ことを。それに失敗したからこその無関心か。
 悠理は未だ彼らを憎むべきなのか迷っていた。呪ったこともあった、殺害を誓ったこともあった。
 だがそんな情動などこの世界ではなんの価値も意味もなくて。世界の主たる彼らの方も悠理になんの価値も意味も見出していなくて。そして憎しみを抱えたままではこの複雑な世界で戦うことなど出来なくて。
 だからいつまで経っても態度は留保せざるを得ない。
 プロジェクト・アズライールの真相もそんな悠理の精神を反映してか雲を掴むような情報ばかりがALICEネットを通じて入ってくる。
 天使。都市救済。空宮。そして、
「引瀬――由美子博士……」
 引瀬眞由美の母親にして、プロジェクト・アズライールの総指揮者。
 これが悠理の迷いを決定的にしている。眞由美を奪った、天宮。彼らの計画の中心人物は彼女の母。調べ得る限りの情報によれば彼女は未だに計画の中枢として研究を続けているという。
 彼女のことについては、遅々として調べがついていない。プロテクトが固いのはもちろんだがそれ以前に怖気ついてしまう。加害者意識を働かせてしまう。おかしな話だ。危害を加えてきたのは向こうなのに。
 でも――私の一言が。不用意な言葉が。最後の一押しだった。
 そして私の無力のせいで、友人たちを護れなかった。平穏を留められなかった。
 正しく生きるためには公社の裏事情など調べるべきではない。
 しかし自分たちをこの運命に放り込んだ世界の成り立ちは知っておきたい――眞由美のためにも。だけどそれは眞由美の母親のためになるのだろうか?
 二律背反な思考と情動の境界線上で、悠理は揺れ続ける。
 熱いお湯を浴びても、なんだかちっとも身体が温まった気がしないのは余計なことを考えていたせいだろう。気分転換に入ったのにこれじゃ意味が無い。シャワーを止め、代わりに温風を吹き下ろさせて身体を乾かし、浴室を出る――前に姿見に自分の裸体を映してチェックする。
「変わってない……」
 自分の胸を下から持ち上げて、悠理は呟いた。血筋なのか環境なのか、はたまたプロジェクト・アズライールのせいなのか。悠理の胸囲は同年代の其れに比べて少し――いやだいぶ慎ましやかだった。
「むううう…………!」
 悠理は絶対にばれないように3重の欺瞞経路と18種のウイルスと6箇所の偽装工作と11個の論理爆弾を用いて調べた、日課のバストアップ体操を行う。
「眞由美のは、おっきかったなあ……」
 成長して初めて実感する真実。昔抱きしめられた時の質感と、今自分の手の中で頼りなくもにゅもにゅと形を変えている感触を比べてがっくりと落ち込む。後天的遺伝子発現剤や整形手術でこの手の身体的特徴はいくらでも変えることが出来るのだが――それはなんだか激しく〝負け〟な気がする。いや何に対しての勝ち負けなのかは分からないけども。
 体操を終えると、簡易な寝間着に着替え、ベッドに倒れこむ。放り出していた古ぼけた目覚まし時計に目をやると午後7時を指していた。今日はこの後の予定は入っていない。部下や秘書エージェントにも、緊急の報告以外は通さないように言ってある。久々のオフの時間が取れた。退屈な会議を我慢した甲斐があったというものだ。
 溜息一つ。
「もう、寝ちゃおう……」
 寝てしまえば、ひとまずこの複雑系に支配された世界から隠れることができる。それは目の前の問題からの逃避だろうが、悠理の体が純粋に睡眠を求めているのも事実だった。もう70時間以上一睡もしていない。15歳の女の子が考える休日の使い方ではないなあ、と急速に落ちていく意識の中でちらりと考え――
 通信で叩き起こされた。
『――お休みのところ失礼いたします、お嬢様』
 上級執事の時臥峰ときがみねからだった。ALICEネットを介した通信でなく、電波、しかも出力方法が骨伝導というのは寝入り端の悠里にとって完全な嫌がらせだったが、恐らく悪意はあるまい。確実に悠理にメッセージを聴かせられる方法だから選択しただけだろう。悠理がそうであるように、時臥峰も悠理に対して敬意も関心も持っていなかった。
「……なんですか。今から就寝するところだったのですが」
 部下たちが聞いたらそれだけで逃げ出し、三日は目を逸らす調子で返事をする。
『お食事の時間でございます』
 柳に風といった感じで、時臥峰は答えた。そう言えば、睡眠同様まともな食事も最近摂っていない。もっとも、ALICEネットに接続されている限り生きるのに必要なエネルギーは常に供給されているので、空腹は覚えていない。だから澄崎市において食事とはただの嗜好だ。だが特に上流階級の者ほど、ALICEネットが存在しなかった頃の、不便極まりない生活様式を敢えて重んじる傾向があった。
 形式だけの食事よりも、実質的な睡眠欲求の方が今は遥かに優っていた。
「――すみませんが、今は食欲がありません。下げさせるように」
『理生様からのご要請です。至急、夕餐にご出席なさるようにと』
「――父、いえ御当主の?」
『はい。第二食堂でお待ちです。繰り返しますが、至急、との仰せです、お嬢様。それでは失礼いたします』
 眠気などどこかへ吹き飛んだ。父から夕餐に誘われるなど、この五年どころか産まれてこの方初めてのはずだ。
 跳ね起きる。
 例え実父といえど、いや実父だからこそ待たせるわけにはいかない。
 脱ぎ捨てた服から小型のケースを探り当て取り出す。中には注射器。無色透明の液体を躊躇わずに静脈内投与する。体内環境調整用のナノマシン混合溶液。化学合成された覚醒剤より遥かに安全で効果も高い。悠理の自作の品だ。
 これから会うのは最大の敵であり、そして最大の敬意を――形式上払うべき相手だ。寝ぼけた頭で対峙など出来ようもない。副脳のレセプターがナノマシンを感知。体内パラメータの最適化を開始。並列して脳内で様々なタスクを起動する。
 ノック音。プライベートフロアに来る者など普段はいない。監視カメラの映像が論理網膜内にポップ。時臥峰の手配した侍女メイドたちだ。
「入りなさい」
 端的に言い放つ。その間にも意識はクリアになり身体は軽くなっていく。
「……失礼いたします」
 恐る恐るといった体で三人の侍女が入室してきた。子供じみていると自覚しているが、その言葉を聞くだけで精神にささくれが立つ。柔らかな笑顔と共に入室してきた、年上のくせに泣き虫だった侍女はもういない。
 主人の気配の変化を敏感に察知した一番若い侍女は既に顔面蒼白だ。自分のせいだがわずかに同情した。
 寝間着を脱ぎ捨て裸体を晒す。侍女たちは無言で床に散らかった服を片付け、新しい下着を用意し、化粧の準備を始めた。
 戦闘準備だ、と悠理は胸中でひとりごちる。社内で働いている時はめかしこむことなどない。かつては要請があれば晩餐会などにも出ていたが、研究者としての悠理の優秀さが知れ渡ると周囲が勝手にそういうものからは遠ざけて仕事に集中させてくれた。
 髪を結い上げられ、口には紅がさされる。姿見に映った自分は冷めた眼でこちらを見つめ返してくる。父が用意したイブニングドレスは黒色のデコルテ。ワンポイントに天使の羽根の模様が赤い刺繍で施されている。過剰な装飾もなく悠理の趣味に良くあっていた。
 それが――薄ら寒い。ろくに会話もしたこともない娘の、趣味すら把握するその情報力と、それを可能にする権力が。
 準備が整い、侍女を伴い部屋を出る。足音を完璧に吸収する長い廊下を歩き、高速エレベータを使い10フロア上のスカイラウンジへ。本社ビルの120階以上は全て天宮家の私有地である。
 扉が開き、履きなれないハイヒールを少し気にしながらエレベータを出ると、食堂の扉の前に時臥峰が無感情に立っていた。
「理生様はこちらでお待ちでございます」
 分かっている。声に出さずに極低温の一瞥だけくれると、時臥峰も流石に黙って扉を開いた。
 まず迎えたのは一面の夜景。悠理の部屋のリアルタイム映像とは違い合成されたものだが――本物の景色にはこれほどきらびやかな色彩は存在しない――思わず息を呑むほどの見事さだ。
 そして食卓。クリスタルグラスに銀食器、金の燭台や澄崎市では貴重な生花など、清々しいほど贅を尽くした調度品やカトラリーが、その豪奢さを全く下品に見せない配置で並んでいる。
 そこには既に着席者がいた。悠理は気付かれないように息を呑む。心拍数は安定している。大丈夫。
 無表情。無感情。人型の空白がそこに座っているのかと錯覚するほど――いや、表情も感情も確かに存在しはする。ただ悠理にはその感情の種類が推し測れないだけだ。五年前から全く皺も白髪も増えないその顔立ちは高度な抗老化措置と遺伝子医療の賜物だが、彼の非人間性に拍車をかけている。
 当主、父親、敵、世界の主――天宮理生。
 部屋の隅に控える給仕をちらりと見てから、悠理は挨拶をする。
「お久しぶりです、お父様。今宵はお招きに預かり光栄です」
 声は上擦らなかったと思う。悠理は家の作法に則り礼を三度する。理生は会釈で応えると、手振りで対面に座るように促した。そして悠理が座ったのを確認すると、ようやく口を開く。
「急に呼び立ててすみませんね、ユウリさん。仕事で疲れているのでしょう?」
 仕事、の部分で微かに笑いのような表情を閃かせる――先の会議の議事録を見たか、或いはわざわざ直接叡覧あそばしていらっしゃったのか。
「いえ――私の仕事など、所詮ままごとみたいなものですので」
 悠理の言葉に、理生は今度こそはっきりと苦笑した。会議上での悠理の『ままごとの相手』の様子を思い返したのだろう。
「謙遜する必要は全くないのですよ、悠理さん。市議会からの受勲者が公社から出るのは15年来の出来事なのですから。私も現職に就く前は公社の一研究者でしたからその凄さは分かるつもりです」
「それは――ありが、とうございます」
 言葉が詰まる。
 違和感。忌避感。齟齬感。
 父が。天宮理生が。私を褒めて。笑って――笑って。その笑顔は違うその笑顔は違うその笑顔は違う、
 視界隅でバイタルアラートが明滅する。空っぽの胃が収縮し胃酸がせり上がってくる。注入したナノマシンに補助された副脳が心拍数や血圧を自動制御。悠理は、少なくとも肉体的には即座に落ち着きを取り戻す。
 ――そうだ。私は五年前の無力な子供ではない。父に対抗できるだけの力と知識を、身につけたのだ。
 折よく食前酒のキールが運ばれて来たので悠理はグラスを手に取り掲げる。
「公社の発展と、親子の夕餉に」
 震えもなく、完璧な微笑を浮かべる悠理に、理生も鷹揚に頷く。
「乾杯」
 オードブルが運ばれて、その食器が下げられるまでの間の会話は、表面上は極めて穏やかに進んだ。この五年間の無関心は何だったのか問いただしたくなるほど、理生は良く喋った。
「再開発事業に対する投資は運営部の強固な反対にあって今回も前年比でマイナスです。これ以上廃棄区画の数を増やすのは自分たちの首をも絞めることになると理解出来ていないようですね。当主権限などこんなものなのですよ」
 やれやれと首を振る。理生の身振りはまるで人間というものを全く知らない知性体が、データから推測して模倣しているかのように、悠理の目には映る。正確無比な動きのくせに、ぎこちない。
「恐らくただの古いビルすらも『文化遺産』として保存せよという空宮の圧力があったのでしょう。昨今の社内における空宮派の台頭は頭痛の種ですね」
「再開発地区の放置は治安の悪化に繋がります。お父様が市議会に掛けあってみては?」
「ええ、既にやっていますよ。けれど市議会も今では空宮派が多いのですよ、実際。ここ五年で特に失効テクノロジーの基準が強化され、我々の勢力は大分削がれましたから」
「五年前……」
「ええ、ちょうどユウリさんが大学に通い始めた頃ですね」
 悠理のナイフを持つ手が、ナノマシンの制御があるにも関わらず思わず強張った。
 お前が。
 お前たちが、
 私から友達を奪った頃だろう。
「大学生活はどうでしたか? 市立大学は私の母校でもあります。首席卒のユウリさんと違って私の席次は六番目でしたが、楽しいものでしたよ」
「――二年ほどしか在籍しなかったのであまり思い出はありません。授業もほとんど通信講座でしたので」
「では公社内にあるキャンパスにも行ってないのですか? それはもったいないことをしましたね。あそこの学食の味は最高ですよ――おっと、こんなことを言うと今調理してくれているシェフに悪いですね」
「――我ながら華のない青春を送っていると、思います」
 空々しい会話を続けながら悠理は考える。この夕食自体が誰かの罠だろうか? 例えば――社内では主に政敵としてしか関わり合わない親族たちとか。
 継承権第壱位を保持していようとも、五年前までの悠理は何の脅威もないただの子供として見られていた。故に社内の骨肉の争いとも無縁でいられた。また主に母が権力の利害調整を担っていたのも大きい。だがその母が消え、悠理自身も無視できぬ力をつけ始めた。
 悠理としては政争にかかずらう暇も意味も見出だせなかったので、身内の足の引っ張り合いからは距離を取り、仕事に打ち込んできた。だがそうやって名声を高めるほど敵は増えていき、気付けば悠理の所属する開発室ですらも孤立気味だった。
 理生がそんな娘を見兼ねて、慰め、親子の絆を深めよう等と思っている――わけでは当然ないだろう。
 悠理は内心の混乱を悟られぬよう苦労して会話を繋ぐ。幾つかの皿が下げられ、話題は移り変わり、シタビラメのムニエルにナイフを入れた時のことだった。ちなみに、四方を海に囲まれた澄崎市だが、〝蓋〟のせいで魚介類は非常に希少だ。これも遺伝子アーカイブから復刻したサンプルかもしれない。
 優雅に白身を切り分けながら、理生が言った。
「来月の予定ですが……久方ぶりに休暇を取りましたよ」
「お父様が、ですか? 保養区にでも行かれるのですか?」
 演技でなく本気で驚いた。悠理の記憶の中にある父は、常に仕事をしていた。いつ休んでいるのか疑問に思うほどの過密労働だ。悠理も現在の地位に着くまで、思えばずいぶんと無茶な働き方をしてきたが、そんなものがそれこそ『おままごと』に見えるほど理生は業務をこなし続けていた。
「ええ。行き先は保養区ではありませんが。祭りの見学を少々、ね」
「――ああ。なるほど」
 7月1日の市政開始記念日には、毎年祭りがある。社内もその時期だけはどこか浮ついた空気になるものだ。そう言えばちょうど一ヶ月後か。
 しかも今年は確か100周年記念で、かなり大規模にやるらしい。開発室の若い部下(悠理より年上だが)たちが既に色めき立っていたのを思い出す。市の財政も最近は火の車だろうに豪気なことだ。
 天宮理生が当主の立場として参加するのでなく、一私人として祭りを愉しむ様を想像するのは困難であったが、咎める者も止め立てする者もいまい。
 しかしこの話をこちらに振ってどういう意図があるのだろう。まさか誘おうとするなんてことはないだろうが。毎年の祭りを悠理はまさに異世界の出来事として遠くから傍観してきた。
「ユウリさん、貴女の休暇も一緒に申請しておきましたので」
 悠理の操るナイフとフォークがぶつかり、小さな音が鳴った。
 今。なんと?
「これは公社の社員としての仕事ではないので、休まざるを得ないのですよ。研究で忙しいでしょうが、申し訳ないですね」
「公社以外の、仕事、ですか?」
「左様。仕事です、一種の。天宮家の者としての、ね。
 市政100周年祭。そこでユウリさん、市民に対し貴女のお披露目をします。
 天宮家次期当主候補から、候補の文字を取り去るための儀式、手続き、宣誓ですよ」
「え……」
 思わず、間の抜けた声が漏れた。それをどう受け取ったのか、理生は頷き言葉を接ぐ。
「私が父の跡を襲ったのも18の時ですから、それほど早い訳ではありません。ユウリさんの実績も十分ですしね。親族会議にはまだ諮っていませんが、異論はほぼないでしょう」
 この言い草だともう周囲への根回しは済んでいるのだろう。それなら噂くらいは耳に入ってもいいものだが――悠理は心の裡で苦笑いを浮かべる。孤立している者にわざわざお節介を焼く人間など、もう悠理の周りには五年前から、いないのだ。
 それよりも、
「――私が、外に?」
「貴女も15ですからね。いつまでも箱入り娘をやっているわけにもいかないでしょう? 本当なら叙勲を受けた時にするべきだったのですが、予定が延びてしまい申し訳ありません」
 五年ぶりに会話らしい会話を交わした父からの言葉は――想定外のさらに外、悠理の論理フレームが一瞬判断停止に追い込まれるくらいに意外なものだった。
 外に――外へ?
 私が。天宮悠理が。
 この世界の外に行く。可能性すら検討したことのなかった話だ。
 理生の視線を感じる。温度のない視線を。笑いかけながらも、話しかけながらも、全く変わることのなかった、虚無よりさらに深い井戸の如き目。こちらを見ていないくせに、魂の底を探られるような。
 この天宮家当主には悠理に対する期待も失望もないのだ。ここで従おうが逆らおうが、彼の計画には些細な影響もないのだろう。
「大勢の前に出るのは気後れするかも知れませんが……政り事とは即ち祭り事、暗い世情を明るくさせるのも上に立つものの務めです。あまり堅苦しく考えなくて大丈夫ですよ」
 当主継承の儀ならば別にわざわざ市民の前でやる必要はない。理生が当主の座についたのは悠理の誕生以前なので知識でしか知らないが、社内と市議会の承認があれば書類上の手続きだけでも済むはずだ。
 理生は年齢にも健康にも不安はなく、このタイミングで悠理に後を継がせる意味を図りかねる。先の会話でも話題に上ったが、空宮の台頭を許したためにいささか苦しい立場に置かれてはいるかもしれない――が、社員の理生に対する忠誠と畏怖は相当なものだ。
 そもそも悠理をこの籠の中の世界に閉じ込めてきたのは、他ならぬこの父なのだ。
 幼い頃はなんの疑問も抱かなかった。数少ない友達と一緒に、この巨大すぎる家でそれなりに傷つき、それなりに平穏に暮らしていた。
 五年前までは。
 大学に通い、公社の社員となってからようやくその異常性に気がついた。この世界の外には、別の世界がある。そして私はそちらから疎外され、隔離されている――だが何の問題があろう? 幸も、不幸も……その他全てを悠理にもたらすのは〝こちら〟の世界なのだから。
 ここで正しく生きていればもうかなしいことは起こらないのだから。
 だけど――。
 理生の提案にどう答えるべきか――逡巡は自分でも意外なほど短かった。
 ――後になって、悠理は自分がなぜあのような選択をしたのか、その理由を考察することになる。そうすればあのような事件に遭うことも、そしてこのような出会いもなかったのに、と。
 断ることもできた。悠理が五年間で築き上げた信用と実績、そして影響力は現当主である天宮理生に対するささやかな反逆を許容する程度には充分に機能する。悠理の後のスケジュールを大幅に圧迫する、唐突すぎる提案を拒否する理由は10以上も挙げることができた。
 だがしかし、悠理は外を望んだ。
 自ら定め、命を賭して戦い続けてきた世界からのわずかばかりの逸脱。それはあの日の誓いを破ることになるのかもしれない。
 ――だからこそ、か?
 五年間。私は万事に対し最善を尽くし、最上の結果を得てきた。そうすればかなしいことはなにも起こらなかった。
 ――だけど。
 たのしいことも、なに一つとしてなかった。
「御意の儘に、お父様」
 そうさ、私は天宮の飾り姫。
 祭祀には偶像が用意されるもの。畢竟、私の役割はそれ以上でも以下でもないだろう。
 だけど、もし祭りの中で、世界の、運命の外へ少しでも踏み出せたなら。
 見たいものや、やりたいことがそこで見つかったのなら。
 その時、私は――。

      †

 食事が終わり、理生は最後まで作法を違えず静かに退室していった娘を――ユウリを座ったまま見送った。
「奇妙なものだ――」
 呟く。
「アレを〝造って入れる〟前に悠灯さんは消えたというのに、年々立ち振舞が似通ってくるとは――それとも〝彼女〟と混じっているのでしょうかね」
 それは不愉快な想像であると同時に、朗報でもあった。五年間外界への反応を示さない〝彼女〟がまだアレ・・の中に確かにいるということなのだから。どちらにせよこの不本意な状況もあと少し――祭りの場で決着のつくことだ。
 手元の呼び鈴を鳴らす。
「時臥峰」
「はい。ここに」
 いつの間にか横に控えていた執事は慇懃いんぎんに身を折って主人に答える。
「屑代に連絡を。引瀬の〝遺作レガシー〟に例の依頼をするようにと」
「かしこまりました、理生様」
 遺作が発見されたのは今から一年前近く前だ。以前から天宮家に対して破壊工作などをしかけていたらしいが、ユウリ開放の失敗が原因で空宮の目が厳しくなったのもあり、こちらからの接触はずっと出来なかった。
 だがプロジェクト・アズライールが最終段階に進んだ今、最早そういった考慮は必要がない。
 計画が成就さえすれば、都市は、澄崎は救われるのだから。
「さて。今度こそ上手くいくとよいのですが」
 微笑を浮かべた表情とは裏腹に、理生の口調はどこまでも冷めていた。

第三章 祭りの中、運命の外 Across Fates

西暦2199年7月1日午前10時00分
澄崎市中央ブロック第一市庁舎前、戦勝記念公園内中央大広場

 万を越す市民達が広場に犇めいている。その身なりや雰囲気からほとんどが正規市民ハイアーだと分かる。もっとも、その多くが公務員か天宮など一流企業に属するハイアーでもなければこんな儀式に進んで参加する気も起きないであろうが。
 そう、それは儀式だった。ナノマシンが大気中に常時散布され、ALICEネットによる共時性通信網が都市を網羅し、エネルギー供給による飢餓なき時代にあってなお、人々は儀式を、格式を、支配者に対して求める。虚ろの栄華と偽りの威厳を保つために。
 祭りのために拵えられた舞台は大掛かりで、特別に解禁された楽器類が大量に並べられていた。音楽は文化を変容させるという理由から、50年近く前に失効テクノロジー認定が下されたのだ。故に特別措置とはいえ人の演奏は許されず、全て自動で鳴っていた。
 無人楽団の奏でる厳かな音を背景に、壇上では祝詞が詠み挙げられ、遥か昔の戦争で死んでいった英霊たちに形だけの黙祷が捧げられる。
 その後は市長によりこの街の縁起――陸と袂を分かち、洋上閉鎖都市として何故この街が存在するようになったかの発端が語られ始めた。
 ――技術的発散テクノロジカルダイバージェンシー
 その発生が人類にとっての終わりで、そして澄崎市にとっての始まり。その影響は100年以上経た今なお、我々を捉えている。
 何が起こったのか、何があったのか。何故起こったのか、何故防げなかったのか。資料は散逸――いや文字通り〝発散〟し、当時の混乱から、未だ抜け出せないでいる。
 空宮と天宮の共同研究による市の公式見解では、技術とはそれを維持し、継承するのにもある種のエネルギーが必要である、とする。空間と複雑な相互作用を持つそのエネルギーは、ある時発達しすぎた技術に追いつかなくなった。発生のポイントは特定されていないが、エネルギーは散逸し、空間の性質は変化した。
 以降、新しい技術が開発される度にそれまで人類が営々と積み重ねてきた既存の技術は発散し、遺失されていった。
 技術発散が起こるとその影響はまず人間に顕れる。技術が記憶から消失するのだ。そして次は人が直接著した書物、次いでデジタルデータへと波及していく。技術は新しい時代のものから順に消えていったため即座に文明が崩壊するような事態にはならなかった。
 だが新たに技術を開発出来なくなった人類は、隣人から奪い取る道を選ぶ。
 技術開発が盛んだった先進国ほど発散の影響は深刻だった。他国に対して未だ優位を保てるうちに覇権を確保しようと、泥沼の戦争が始まった。一説によれば戦争は技術を短期間で飛躍的に発展させるというが――むしろ一種の自爆戦術として技術開発とそれに付随する〝発散〟は行われ、短期間で人類は大幅に衰退していった。〝百ヶ月戦争〟〝忘却の戦い〟等と呼ばれるそれが終わった時、人口は最早文明を維持するに足る数ではなくなっていた。
 そんな状況下で後に天宮総合技術開発公社と称される企業により、『新しい技術』が開発される。
 それは〝発散〟を起こさない技術。既存のテクノロジーとは全く異なる系統樹であり、異なるエネルギーを消費するため致命的な事態を起こさない、技と術だった。
 それこそがALICEネットや擬魂の基礎ともなった『魂魄制御技術』。
 それは統計と手探りでしか認知し得なかったヒトの魂を、体系立てて確かな手触りで扱えるようにし、またそれらをエネルギー源とすることすら可能とした。現在の澄崎市の全ての技術はこれを基盤に置いている。
 人類は、また発展を許されたのだ。そしてその技術を以って天宮と、そしてその研究を支援した政府――空宮は魂魄制御技術の実証の場として澄崎市を選び、洋上閉鎖都市を作り上げ、そこに戦争を生き延びた人類は移住した。
 また、魂魄制御技術を用いて過去のテクノロジーの再現を目指す実験も併せて行われることとなった。いつの日かかつての栄華を取り戻すことを夢見て。
 ……100年経った今、父祖の代から続く不断の努力の下、我々は今もこうして技術を発散させず文明を維持できている。再び母なる大地を我々が踏みしめる日も近いだろう――。
 雛壇では、天宮理生が無表情にその演説を聞いていた。
 ――全くの嘘も、100年つき続ければ真実に成り代わるものなのですね。
 かつて理生と仲間たちは無邪気にこの話を信じて――そして手痛い仕返しを食らった。7人で始めた彼らの都市救済計画――『プロジェクト・ライラ』は失敗に終わり、あの時のメンバーは今や半分も残っていない。
「――それでは、これより市政100周年記念祭を開始いたします!」
 やがて演説が終わり、市長により祭りの始まりが宣言された。
――わああああああああああああああああああああああ……!!
 市民の熱狂的な喝采。それはもちろん満足そうな顔で壇上を下りようとしている、何も知らぬ哀れな市長に対してではない。
 この祭りではついに、天宮の姫君がその姿を見せるのだ。
 事前に街のそこかしこに貼られたポスターやニュースに映った動画は、解像度が低く不鮮明だった。だがそれがむしろ更なる興味を惹起し、市民の話題は持ちきりだった。
 市長が理生に握手を求めてくる。完璧な笑みでそれに応え、理生もまた壇に上がる。
 天宮の姫を、不正と負債に満ちたこの街を救う少女を披露するために。
 壇を挟んで向かい側に座っていた悠理も、立ち上がる。その仕草だけでも優美であり、たおやかなその風情は人々の加熱した高揚を冷ます代わりに、期待の密度を刻一刻と高めてゆく。
 歓声が、一際大きく上がった。

      †

 西暦2199年7月1日午前10時00分
 澄崎市極南ブロック第2都市再開発区域、19番街D3號通り

 街が、祭りの空気に浮ついていた。
 明るい表情でそぞろ歩く家族。朝から既に酒精アルコールが入っているのか、赤い顔をして公道で殴り合う男達。それを囃す連中。何を食わせるのかすら定かでない怪しげな屋台が並び、その隙間を縫って子供達が嬌声を上げながら走り抜ける。全ての屋台には天宮家の家紋が印刷されたタペストリーが誇らしげにかけられていた。
 イルミネーションのために電送用のマイクロ波を違法に受信している奴もいれば、巨大な青黒い胃袋様の大型有機発電機に燃料ペレットを給餌している者もいる。
 サイレンの音。車のブレーキ。犬の吼え声。人の悲鳴。
 護留は足早にその熱気の中を通り抜ける。生々しい。全てが確かな実在としていることに喜びを見出している。
 共感など、毛ほどにもできなかった。
 自分は、彼らにはどう見えているのだろか――いや、『見えて』いるのだろうか?
 計画当日だというのに、護留は苛立っていた。3日前、己條への依頼の品を指定の場所に取りに行った時に起こった出来事が理由だ。

 鍵を開け、ビルの屋上に足を踏み入れた護留を待っていたのは、武器道具一式ではなく、暗灰色のスーツの男だった。
「おや、奇遇ですね。引瀬さん」
 思わず、固まった。ドアを開けるまで気配を察知出来なかった。
 一箇所しかない廃ビルの入り口に仕掛けたトラップやセンサー類は、ここ一週間でこのビルに出入りしたのは己條だけであると主張している。壁を登ってきたか空から飛んできたか――いやそれ以前にどうやってここを嗅ぎつけたのか。己條が漏らしたとは思えないが、その協力者たちから辿られた可能性はあり得る。
「屑代――だったか。依頼を達成するまで姿を見せるなと言ったはずだ」
 疑問を押し殺し、まずは探りを入れる。
「もちろん覚えております。これにも私は一応反対したのですよ。ですが助力は惜しまないと申し上げた手前、誠意をお見せしろと〝上〟からの通告がありまして。後ろを御覧ください」
 注意は屑代に向けたまま、半身になり視線を背後にやる。今しがた開けたドアに、鍵がぶら下がっていた。
「あれほどまでに大量の武器、さすがの己條さんの手にも余るようでしたのでね。微力ながらお手伝いをさせていただきました」
 鍵には、血がべったりと付着していた。
「貴様……何をした」
 一番高いビルを選んだのはこうなる事態も想定してのことだ。依頼を受けた時のような狙撃の恐れはない。護留の掌から白銀の流体が滴り、ナイフを形成する。距離を目測。凡そ5メートル。1秒もかからずに詰められる。
 屑代は意に介さず喋り続ける。
「私はなにも。別の部署がやったことですので詳しくは存じ上げません。ただその鍵は己條さんの事務所の物、とだけ申し上げておきます」
「……殺したのか」
 ナイフを構える。前に刺した時の手応えから身体構造は大体把握出来ている。今度はしくじらずにやれるだろう。
 屑代は少し眉根を寄せた。
「荒っぽい人たちですので、その蓋然性は低くはないでしょうね。とにかくここには己條さんが用意した武器はありませんので事務所の方に行ってもらえるでしょうか? 手間を取らせてすみま――」
 狙ったのは上腕。前も避けなかった相手だ。案の定屑代は動かない。身体改造者なら腕を切り落とされても平気だろうから、高を括っているのか。
 否、一拍遅れて反応する。護留の踏み込みに対応できていないのだ。以前は一度死んで、〝声〟が身体を動かした直後だったので、速度だけは人間の限界を越えていたが、機械的で直線的な体捌きしかできていなかった。今回の動きが護留本来の物。五年間、路地裏で何度も惨めに殺され復活し、肉体と精神にヤスリがけをして無理やり形作られた、生を捨てた者だけが出来る死を従えた運足。相手の攻撃を躱すだとか、急所を守るなど、ただ攻めるためには〝無駄〟となる要素を削ぎ落とした死者のみが刻むステップ。
 緩急をつけ、左側の死角に周りこむように移動する。一足ごとに加速、水溜りが爆発したように飛沫を跳ね上げ、0.5秒で相手の横に。同時にナイフを無呼吸で振り抜く。
 キィィィィン!
 ナイフが屑代の上腕の肉を裂くというよりは刳り飛ばし、強化骨格に衝突し激しい音を立てる。E2M3混合溶液はその分子配列上硬い物を斬り裂くのには向いていない。よって、腕を落とせるなどとはもちろん考えていなかった。上半身で攻撃の当てやすい場所を狙っただけのこと。護留の全体重と速度を乗せた斬撃は屑代の体勢を崩すどころか、140Kgは優に越す重度改造された身体を半ば浮かしていた。
 そのまま体位を入れ替え、背後を取った。急停止。過大な負荷に足の腱や筋肉が断裂する音を聞きながら、屑代の膝裏を思い切り蹴りつける。
 だが屑代のふくらはぎの当たりから返しのついたブレードが唐突に飛び出し、安全靴の底をも貫いて護留の足裏を縫い止めた。
「ちっ!」
 とっさに引き抜けない。再生能力が仇となって肉とブレードが癒着してしまっている。前のめりに倒れる屑代に引き込まれ護留もバランスを崩す。
 どうっ、と鈍い振動。転ける前に護留が左腕を極めたため、屑代は受け身を取れず顔面からコンクリート打ち放しの床に衝突した。常人なら脳震盪でしばらく行動不能だ。だがもちろん屑代は常人ではなかった。
「なっ、くそっ」
 背中に馬乗りになって掴んだ腕の部分から激しい電撃が放たれた。あまりの熱量により空気が瞬間的にプラズマ化して膨張し、まるで落雷のごとき破裂音を響かせる。いや――それは実際に霹靂へきれきだ。空中に浮遊する数も知れぬナノマシン。それらは電気的に中性を保っているが、どうしても摩擦などの要因で帯電してしまい、〝ダマ〟になって落下する。それを防ぐためにALICEネットのエネルギー送信回線を用いて電気を除去するのだが――屑代の腕から放たれるのは送信先を変更されたその雷霆そのものである。
 掌が炭化し、煙が立ち上る。二回、三回、四回。視界に極彩色の光が飛び散り、脳が灼け、体液は沸き立ち、筋肉はでたらめな収縮を繰り返す。激痛、目眩、吐き気。
 ――こんなもので『負死者ふししゃ』が死ぬかよ。
 即座に治癒した護留は、放電を続ける腕を離さずナイフを何度も延髄に突き立てた。激しい火花が散る。さすがに急所は守りが硬い。だが再生力に任せた自らの身体すら壊す護留の異常な膂力と、E2M3混合溶液製のナイフは確実に穴を穿ちつつあった。
 護留の顔の穴という穴から沸騰し黒色になった血液がどろりと溢れてくるが、それらはすぐに意志持つようにざわめき体内に格納されていく。
 ナイフの柄が護留の握力で砕ける。渾身の一撃を振り下ろす直前、屑代は骨が剥き出しになっている腕を人間の関節の可動範囲を越えた動きで背後に閃かせ、ナイフの刃を正確に掴んで止めた。
「――釈明させていただけませんかね?」
「黙れ」
 護留は掴まれたナイフをE2M3混合溶液に戻し体内に吸収、循環させ右手に集め、そこに刃を改めて形成する。そしてそのまま屑代の喉笛を掻き切った。ビクンと大きな痙攣を最期に、屑代は動かなくなった。エネルギー供給ラインの中で一番太い物を切ったのだ。予備に切り替わるまでタイムラグが生じる。護留は今度こそ延髄にナイフを突き立てる。
 ほとんどの身体改造者の延髄には副脳が収まっている。副脳とは複雑で精妙な機構を持つIGキネティック義肢を統合制御するための認知強化や、ALICEネットとの通信を〝翻訳〟して論理網膜に表示するための器官だ。脳と呼ばれているがサイズはおよそ四センチ四方の膨大な擬似神経の凝集体であり、延髄と脊髄に絡みつく蔦のようにも見える。これを壊せば、どれだけ頑丈な重度身体改造者でも体中の各デバイスから送られてくる信号を統合処理することが不可能になるため、身動きが全くできなくなるのだ。
 護留は屑代を蹴飛ばし、仰向けにさせると、胸が上下しているのを確認した。ここに転がしておけばそのうち回収されるだろう。どうせ護留には人は殺せない。故に最初から行動不能を狙って襲いかかった。戦闘能力なら恐らく屑代の方が上だったが、護留の殺意の薄さに対応がコンマ1秒遅れたのが明暗を分けた格好だ。
「己條……クソっ」
 扉にかけらていた鍵を手に取る。血はまだ新しく生乾きだった。
 計画の決行日までは天宮には従う素振りを見せるつもりでいたが、向こうからこうも大胆な介入をされるとは想定外だった。
 護留が暗殺をする意志がないことを悟っているのだろうか。だがこちらを調べあげた上での依頼だったことを考えると、その可能性も低いように思える。
 とにかく己條の事務所に行く必要がある。掌の上で転がされているようで不快極まりないが、実際に武器の類が必要なのだ。澄崎市において火器類は全て使用者がALICEネットで認証をしないと作動しないように作られている。その制限を外した物でないと当然護留には扱えないからだ。
 血塗れの鍵を使って入った事務所にはもちろん己條は居らず、代わりに発注した品物一式が整然と積み上げられていた。悪趣味なことにコンテナの側面には血文字で調達にかかったであろう金額が添えられてある。鍵についていた血といい、あからさまなこちらに対する挑発、ないしは警告だった。
 己條は市警軍へのコネクションを通じて天宮からも仕事が持ち込まれていた。だからもし事が露見しても見逃される、等と甘い考えを抱いていたわけではないが情勢と情報に敏い己條ならば、不穏を察した時点で即手を引くだろうと思ってはいた。その間もなくやられたということか。
 天宮としては計画を知る人間はただの不確定要素としか映らないのだろう。それを良しとせず便利なコマの一つや二つ即使い潰す程度には、奴らも本気ということだ。
 次期当主の暗殺計画。大逆だ。天宮も流石に表立って動かないだろうと思っていたが、どうやら多少の露出は厭わないようだった。今回の件では反天宮勢力の消極的協力が見込めると護留は考えていたが――浅慮だったと言わざるをえない。この五年間、反天宮活動を行ってきたが向こうからのリアクションは皆無だった。それがここに来てこれだ。この依頼のために今まで泳がされていたのか。
 結局、天宮が用意した武器類は使う気になれず、再整備区域にある個人経営の違法銃火器店から購入した。質も量も予定より大幅に下がるがやむを得ない。当てにしていた情報も手に入らなかったが、もう計画を変更する時間もない。屑代から渡されたディスクを信用するしかないだろう。
 手詰まりだ。だが、やるしかない。
 このチャンスを逃せば次はいつ表舞台に悠理が出てくるか分からない。いや、ここで見逃せば悠理は天宮の中で消されるだろう。そして、もちろん護留も。

      †

「舐めなんよっ!」「死ねやオラァ!」「やっちまえー!」「おいおい俺はお前に賭けてんだぞ!」「殺せえーっ!」
 喧嘩の怒声とそれを囃す声で、意識が現在に引っ張り戻された。全身これ筋肉といった体の巨漢の青年と、身体改造をあちこちに施し半ば人間離れしたシルエットをした女が素手で殴りあっている。周りでは既に賭けも始まり、二人を中心に人集りができて交通がそこだけ麻痺していた。
 その近くで、フードを目深に被った子供が転んでへたり込んでいた。怪我でもしているのか、立ち上がろうとしない。だが誰も省みる者はいなかった。
 白くて華奢な手足。痩せぎすなその体つきから、ろくにエネルギーが供給されていない非市民ノーバディだとすぐに分かるからだ。護留と同じく、あの子供も周囲からは〝見えない〟存在なのだろう。
 さっきの苛立ちが蘇りそうになり、護留も目を逸らそうとした、その時。通行人に蹴飛ばされ、子供が悲鳴を上げて横に倒れた。被っていたフードが外れ、顔が露わになる。
 少女だった。
 護留は思わず立ち止まり、次の瞬間駆け寄っていった。
 少女は、白い髪と紅い瞳をしていた。

      †

西暦2199年7月1日午前10時30分
澄崎市極南ブロック第二都市再開発区域、19番街F21號通り

 少女は、お姫さまが見たかった。

 少女は南西ブロックの廃棄区画にある、今にも崩れそうなアパートの二階で母親と息を潜めるように暮らしている、この街ではありふれた非市民ノーバディだった。
 廃棄区画。再整備対象からも外され、道路のあちこちから海水が染み出す、退廃と抑鬱、そして諦観が支配する街。
 そんな場所にも、祭りの熱気は届く。
 少女は祭りの日を、ずっとずっと楽しみにしていた。今までもお祭りが毎年やっているのは知っていた。少女はお母さんの世話や仕事が忙しくて行ったことがなかったけれど。だが今回のそれは規模が違うらしい。
 祭りでは、見たこともない綺麗なものや、おいしいものがたくさん売りに出されるのだそうだ。少女と二人暮しをしているお母さんが、病気で立ち上がれず、声すら出ないのに身振り手振りで教えてくれた。少女はそれを目を輝かせて聞き入った。
 ――でも。
 やっぱりそういう綺麗なものやおいしいものを愉しむのには、お金がいる。
 少女は一生懸命お金を貯めた。だが、そもそも少女一人の稼ぎではお母さんと自分が餓死しない程度に暮らしていくだけで精一杯だ。ノーバディである少女たちにALICEネットから割り当てられるエネルギー量は極わずかなものだ。過労になるのは目に見えていたが、それでも少女は祭りを愉しみたいと心から願っていたのだ。
 鉄屑を拾って工場に持っていくお仕事も頑張ったし、売血所でもいつもより多目に採ってもらった。お母さんはとても残念がっていたけれど、腰まであった髪の毛も切って売ってしまった。そのせいか、ここ一週間くらいは凄くふらふらしたり突然目が霞んだりしたけれど、少女は音を上げなかった。
 当然だろう。少女は、初めて自らの愉しみのためにお金を稼いでいたのだから。
 そして、再整備区画で買い物をしている時に聞いたニュースが、より少女の熱を加速させた。
『天宮のお姫さまがやってくる』
 天宮家次期当主継承権序列第壱位、天津照宮白銀媛悠久真理命あまつしょうぐうしろがねひめゆうきゅうまことのみこと
 天宮悠理あまのみやゆうり
 今までは機密の分厚いベールの向こうに隠れていた、この澄崎で最も貴い少女。売血所に貼られていた画像は不鮮明だったけれど、それでも写真ホロプリントの中の少女がとても――非現実的なまでに美しい顔立ちをしているのがわかった。
 白銀の髪。深紅の瞳。そして髪と対を為す艶やかな漆黒のドレス。
 本物だった。少女が想像していた通りのお姫さま。
 なにより少女を興奮させたのは、悠理の眼と髪が少女と同じ色をしていたことだった。
 少女のアルビノは、お母さんがまだ自分を妊娠中だった時に瘴気中毒に罹ったのが原因らしい。廃棄区画では、閉鎖されているはずの地下から住人たちが〝瘴気〟と呼ぶ毒性の強いナノマシンが吹き出すことが時々ある。お母さんはそのせいで今も一人では何も出来ないままだ。
 しかしその程度、ここではありふれすぎていて、不幸扱いされない。路地裏で強盗に刺されて死に、エネルギー供給が足りなくて死に、市警軍によって気まぐれのように実施される区画消毒キャンペーンによって死ぬ。
 生きていけるだけで御の字だよ、と周囲の大人たちは言っていた。その通りだと少女も信じていた。少女にとって漠然とした世界の不条理の象徴である、自分の色アルビノ。お姫さまも同じ色。世間を知らなすぎる少女は、境遇の差を嫉妬すらせずに、ただただ感動した。
 ――一目見たい。そして、自分のことも出来れば見てもらいたい。
 少女は知る由もない。元より反天宮感情のあったこの廃棄区画が、それを更に煽るために空宮の裏からの援助で辛うじて成り立っているなんてことは。最も、急に即位が決まった悠理に関する周囲の口さがない噂など少女は気にもとめなかったのだが。
 廃棄区画は絶望の吹き溜まりのような場所ではあるが、ALICEネットの恩恵さえ僅かにしか届かない故に一部の住人同士の結束は強い。少女が一日限りの祭を愉しむために、近所のおばさんたちがお母さんの面倒を見てくれることになった。
 そして当日。買い物以外では初めて廃棄区画を出る少女は、髪と目を隠すフードを被り、精一杯着飾って新しい当主が行幸予定の幹線道路沿いに向かった。
 こんな予定路ぎりぎりの場所を予約するだけでも少女の家のほぼ一月分の家計が飛んでいった。廃棄区画と再整備区域では物価は倍近く違うのだ。
 だが目的地に辿り着く遥か手前で、市場が立つ時の倍以上の人混みに少女はあっという間に飲まれてしまった。祭りを愉しむどころではない。
 周りからは喧嘩の怒号まで聞こえてくる。怖くなって、端を歩こうとしたら前から走ってきた男の人にぶつかり、過労気味なのと昨夜興奮して寝不足だったのがあわさり、簡単に転んでしまった。男は助け起こすどころか謝りもせずそのまま去って行く。
「いたた……え、あれ?」
 首から下げていた財布が入ったポーチが、鋭い切れ目を見せて切り取られていた。スリだ。間違いなく、今の男だろう。
「あっ……」
 振り返る。人、人、人。男の姿はとうに見えなくなっていた。ポケットを探る。しわくちゃの1BLCブルク紙幣が数枚。少女の月の小遣い以下の額だ。何より最悪だったのは、行幸観覧チケットもポーチに入れていたことだった。
 大事なものを一箇所にまとめて入れていた自分のうっかりを攻めようとしても、もう遅い。
「ぜんぶ、なくなっちゃった」
 呆然としてしまって泣くどころではなかった。
 ぼけっとしていたら、喧嘩の野次馬を避けて無理やり押し通ってきた団体に蹴り飛ばされてしまう。フードが外れ、少女の白い髪に周りから奇異の視線が投げられているのを感じ、慌てて被ろうとする。
 その時、少女の目の前に誰かが立った。身を固くする。以前街を歩いていて突然髪の毛を引きちぎられた体験がフラッシュバックし、少女の白い肌は血の気を失い血管が透けて見えるかと思えるほど青ざめた。
 だがその誰かさんは動かない。少女も動けない。通行人たちは露骨に舌打ちして二人を避けて通っていく。
 一分ほど、まるでだるまさんがころんだで遊んでいる時のようにそうやって固まっていた。
 どっと歓声が上がり少女は思わずそちらを見やる。筋肉ダルマの男の人がお化けみたいな女の人に右ストレートを顎に叩き込まれて倒れこむところだった。
「立てるか」
 嗄れた声が振ってきて、少女はそちらを見上げる。誰かさんは、少年だった。年は少女より多分4つか5つ上。声からすると、ひょっとしたらもっと年上かも知れない。晴空を写したかのような灰色の髪の毛。少女より薄いけれどやっぱり他人とは違う、血の色の眼。祭りの浮かれた空気とは不釣り合いな、黒くてタイトなまるで軍人さんが着るような服。
 不釣合いなのは服だけでなく雰囲気もだった。なんだか怒っているような――もしくは今にも泣き出しそうな。
「立てるかと訊いているんだ」
 物凄くぶっきらぼうに、少年――護留は再度尋ねた。

      †

 ――なぜ僕はこの少女を、放っておかなかったのだろう。
 後悔にも似た思考が護留の頭の中を早くも過ぎっていた。
 悠理の行幸を見ようと集まっていた人々を掻き分けながら歩く。この街の人間全員がここに集まっているのではないかと思うくらいの黒山の人集り。新しい天宮の主は即位時の公約として再整備区域の開発再会を掲げていたため、低級市民ロウアーを中心とした住人の支持はかなり篤いようだった。
 手を離したらすぐ離ればなれになる。しっかりついてきているか呼びかけようとし、その時になって護留は己の間抜けっぷりに気付いた。
「――そういえば君、名前はなんていうんだ」
「おなまえ?」
 今更? というような顔をする少女に、渋い顔で頷く。涙の痕はもう乾き、口の周りは屋台の食品の滓がついている。更に少女の手にはりんご飴。それも二本も。
 護留に助け起こされた少女は気が緩み、同時に一気に悲しみが押し寄せて泣きに泣いた。まさか声をかけただけで泣かれるとは思っていなかった護留は慌てに慌てた。これから要人を誘拐しようという人間がこんな場所で目立つのはまずすぎる。
「あー……泣きやまないか、いや、泣きやみなさい? ……泣くな。泣くなって。……泣くのをやめたらそこの焼きそばを買ってやる」
 ピタッと泣き声が止まった。
「本当? 二つたのんでもいい?」
 ――こいつ……。
 いきなり屋台に走り出す少女を見て、護留は自分から声をかけたにも関わらず釈然としないまま後を追った。
 その小さく細い身体のどこに入るのか、その後も少女は大いに飲み食いした。
「お! 嬢ちゃん、兄ちゃんと一緒にご行幸を見にきたのかい? 優しい兄ちゃんで良かったねえ! これはオマケだよ」
 自分はこの子の兄ではないとよほど口を挟もうかと思ったが、満面の笑みで屋台の売人から二本のりんご飴を受け取る少女を見ると溜息を吐いて肩を落とした。先程から少女はどの屋台でも二人前を頼むが、護留には渡そうとしない。支払いはもちろん護留である。
「あたし、お姫さまを見にきたんだあ。お兄ちゃんもそうでしょ? その眼と髪どうしたの? あたしはお母さんのお腹の中にいる時の病気でこうなったんだけど。あ、あっちでおもちゃ配ってるよ行かないの?」
 少女は、よく喋った。話題はころころ変わり、ただでさえ自分より年下の人間との会話に不慣れな護留を辟易とさせた。
「そうか。違う。どうもしてない、勝手にこうなった。行かない」
 おざなりな返事を返しても少女はあまり気にせずに屋台を見つけては護留を伴い駆けていく。
 時間と共に周りの人混みは更に増えていっているが、護留に手を引かれて安心しきっているのか、風船を配るピエロによそ見をしながら少女は歩いていた。
 少女は護留に名前を訊ねられると、ちょっと考えこみ、そしてにこっと笑うとこう言った。
「知らない人に名前を教えたらだめですよって、お母さんが言ってた」
 ――……こいつ。
 もう本当に置いていこうか。
 というか、自分は何をしているのだろうか。これから間違いなく警備兵たちと血生臭いやり取りをすることになるというのに。作戦決行まで時間があるとはいえ、さっさと別れたほうがいいのは間違いない。
「知らない人に着いていって、奢ってもらってもいいとは言っていたのか、君の母親は……」
 護留の渋面を見て少女はぷっと吹き出す。
「そんなわけないよー。ただ、こういうときは男の子が先におしえるんだよとは言ってたかな」
「いや、あのな……まあいいや」
「よくないよう。あーなたのおーなまーえなんでーすかー?」
 歌うような妙な抑揚をつけて、無邪気に訊ね返してきた。護留は一瞬迷った。もし、彼女が〝負死者〟を知っていたら?
「ふふっ」
 だが結局じっと返事を期待する少女に負けて答える。
「……護留。引瀬護留だ」
「へえ、まもるくん、かあ。なんだか、ぴったりな名前だね!」
 幸い少女は護留の通称は知らなかったようだ。だが、
「――ぴったりって、どういう意味だ?」
 そんなことを言われたのは初めてだった。ぴったりどころか、未だにこの名は自分の物ではないという違和感が離れないのに。
「だって、あたしのことをまもって、助けてくれたから」
 虚を突かれ、つんのめりそうになった。少女もそれに引っ張られて傾き、楽しそうにきゃははと笑う。
 ――護る。
 護り、留める。
 この名の由来。そんなもの、考えたこともなかった。なんの意味もない、ただの仮符号のようなものだと思っていた。
(・――これをあなたに護り留めて欲しい――・)
 一瞬の偏頭痛。そして、頭の中には声。
(・――逃げ続け、天宮の手に渡らないようにして欲しい――・)
「うぐっ……」
 思わず呻く。目からは血涙が溢れてきた。
「えっ、どうしたのまもるくん!」
 少女がしゃがみ下からこちらの顔を覗きこんできた。護留は袖で血を拭う。爪を立て、掌を傷つけると血液はそこにずるずると流れ込んでいった。
「なんでもない。少し疲れてるだけだ」
「でも、血が……」
「ほら大丈夫だろ」
 目を見せる。拭った後の血痕すら残っていない。少女は不思議そうな顔でそれを見つめていたがいきなり手を伸ばしてきたので避けてしまった。
「あ……」
「痛くも苦しくもないんだよ別に」
 ややきつめの調子で言う。計画を前にして要らない面倒事を自ら抱え込んでしまった自分の甘さに腹立たしさを覚えていた。少女はビクッとして手を引っ込めるが、ぐっと唇を結ぶと、こちらの目を見据えて言った。
「傷がなくても、痛いときは、あるんだよ。こころだって血を流すの」
「……それも母親から聞いたのか?」
「ちがうよ。あたしの経験」
 出会った時こそ大泣きしていたが、それ以降少女はずっと笑顔だった。だが彼女はノーバディだ。その日常は護留の殺伐とした暮らしとそう変わりがないのかも知れない。だとしたらこれは子供の背伸びした慰めではなく――本心からの思いやりなのだろう。
「――君に奢りすぎて財布の中身が寂しくなったからな。明日の飯をどうしようかと悩んでいたんだ」
「本当? え、でもあたしそんなに頼んでないよ?」
「本気で言っているのか君は……」
「あ、まもるくんやっと笑った」
 思わず口元に手をやる。その様を見て少女はますます上機嫌になり、
「もっと元気が出るようにいいもの見せてあげる! これ一個持ってて!」
 少女はりんご飴を一つこちらに押し付けると、ポケットを探り、一本の赤い糸を取り出した。糸は輪になっていた。
「よかったあ、これはポーチに入れてなくて」
 りんご飴を器用に持ったまま少女は輪の縁に両手の指をかける。
「あやとりだよ! 今あたし練習してて、けっこうすごいんだから」
(・――ほら、見てお母さん。あたしもあやとり上手くなったでしょ? 悠理にも教えてあげようと思って練習したの。まだお母さんみたいに自分で形を考えたりはできないけどね――・)
 先ほどと同じか、それ以上の頭痛と共にまた声が聞こえてくる。今度は耐えた。少女はあやとりに夢中でこちらの異変には気づいていないようだった。
「ここをこうやると……ほら、塔だよ!」
 捻れた螺旋を描き、縦横に糸が行き交うその形はなにかと問われれば確かに塔だったが、
「下手くそだな、君」
「なっ!?」
 ずばりと言った護留の言葉に本気でショックを受けた表情をする少女。白い顔はすぐに手に持つりんご飴と同じくらいに真っ赤になり、
「じゃあまもるくんもやってみれば! むずかしいから!」
「道の真中でやることじゃないだろ……またこけて泣くぞ」
「あたしそんなにすぐに泣かないし!」
 街頭の時計は10時50分を指そうとしていた。もう天宮悠理はこの再整備区域入りをしている頃合いだろう。幹線道路を浮遊車フライヤーで回った後は元区庁舎の前で短いながらも所信表明をすることになっている。護留はそのタイミングで仕掛ける予定だった。
 ――わああああああああああああ!
 急に一区画ほど先から大きな歓呼が上がった。
「あ……」
 お姫さまが、やって来たのだ。少女は自分の一番の目的を思い出し、それと同時にチケットをなくした現実ものしかかってきた。
「そろそろ、別れるか。君は天宮の新当主を見にきたんだろ」
「うん……でもあたし、予約のチケット、なくしちゃったから」
 それで護留が見つけた時へたり込んでいたのかと、納得する。
「……よければ、余ってる観覧チケット、やるよ」
「え?」
 ばっと顔を上げる少女。その表情には先ほどまでの悲壮さは既に微塵もない。どこまでも現金な娘だ。
「ほら」
 護留が差し出したチケットを遠慮なく受け取ると少女はその場で跳ねまわった。
「やったー! まもるくんすごいね! お金持ちだね! チケット余ってるなんて!」
「いや、まあな」
 今渡したチケットは現場の下見のために大量にダフ屋から購入したもののうちの一枚だ。確かに法外な値段を請求された。ノーバディの少女にとってはまさに身を粉にして働いてようやく手に入れられるものだろう。
「お礼にりんご飴一個上げる! あと、このあやとりも!」
「あやとりはともかく、もともと僕が金を払ったやつだろ、りんご飴は!」
「オマケで貰ったからあたしのだもーん。いらないならあたしが食べちゃうよ?」
「……貰っておこう」
「まもるくんは? お姫さま見ないの? チケットあるんだったら一緒に見ようよ」
「残念だけど、僕はこれから仕事があるんだ」
 少女は驚きの顔になった後にしょぼんとした様子になる。
「お祭りの日にもお仕事しなきゃいけないなんて……。まもるくんって本当はびんぼうさんなの? たくさん食べ物頼んじゃってごめんね? このりんご飴もあげようか?」
「二個もいらないよ。とにかくこれ以上は一緒にはいられないんだ」
「そうなんだ……もっと一緒にお祭り見て回りたかったな」
「子守から開放されてこっちはせいせいするよ」
「またまたー。そんなこと言って本当はさびしいんでしょ!」
「ああ、そうだな。もうそれでいいよ。じゃあな、転けるんじゃないぞ」
「あ、待ってまもるくん!」
「なんだ。まだ食べ足りないのか?」
「あ、あたしそこまでいやしんぼさんじゃないもん!」
「どの口が言うんだ……」
「もー! そうじゃなくてー! 名前! まだ言ってなかったでしょ」
「ああ……。君が妙なこと言うから聞きそびれていたな」
「みょうなこととか言ってないよ。普通だもん」
「いいからさっさと教えてくれ」
「んもー」
 歓声は近づき、観覧チケットを持ってない民衆が予約場所に割り込もうとして辺りは混沌を極めてきた。護留も押されて少しよろめく。
「失礼」
 ぶつかってきたのは男だった。服装は違ったが、顔は覚えていた。先ほどりんご飴を一つサービスでくれた、屋台の売人だ。護留は訝しんだ後、冷水を掛けられたような感覚を味わう。
 売人は、暗灰色のスーツを着込んでいた。
 目が合ったのは一瞬のことだ。売人はするすると人混みを抜けていき、姿を消す。だがそれでも護留ははっきりと見た。
 そいつが、笑ったのを。
 ――我々は〝助力〟を惜しみませんよ。
 屑代の言葉が脳裏に浮かび、護留の直感が警鐘を鳴らした。
「あのねえ、あたしの名前は――」
「――逃げ、」
 叫ぼうとしたその時、少女と護留が手に持つりんご飴が、
 爆裂した。
 腕が根元から千切れ、護留は地面を鞠のように激しく転がる。
 轟音が周囲を聾し、炎が吹き荒れる。
 爆発は一箇所ではない。それは冗談のような光景だった。
 少女と同じように親切な屋台の売人から、あるいは街頭のピエロや交通整理員などが子供たちに配っていた風船や飴、玩具――ナノマシンを使い偽装された高性能爆薬が同期を取って全て爆発し、火炎と衝撃波、そして熱により変性し硬質化した破片を辺りに撒き散らしたのだ。
 幹線道路沿いに爆炎の花が咲き乱れ、地獄が生まれた。

 突然大きな音と光に包まれた少女は、体が全く動かせないことに気づいた。手に持っていたりんご飴がなくなっている。
 チケットは? どこだろう? せっかく、まもるくんがくれたのに。
 そうだ、まもるくんはどこに行ったのだろう。すぐ側にいたはずなのに見当たらない。声を出して呼んでみるが、耳はキーンという機械ノイズのような音しか聴こえなくなっていて、自分がきちんと声を出せているのかも分からない。
 事態を把握できずに、唯一動かせる目を左右にきょろきょろと揺らす。しばらく彷徨っていた視線が、やがてある一点に釘つけになった。
 大雑把な人の形をした何かが、ゆっくりと立ち上がろうとしていたからだ。その何かは、動画の逆再生のように見る間にきちんとした人間になり、顔面が再生し、やっとそれが護留だと分かった。
 護留は自分を見つめる視線に気づいたのか、こちらを振り返る。
 ――まもるくんはなんであんなに怒っているような、今にも泣きだしそうな目をするんだろう?
 祭りは、愉しむべきものなのに。
 顔面の筋肉があらかた削げて焼け焦げ、両腕と片足がなくなって、白かった髪の毛が全て燃えて黒く縮れても……まだ少女は、生きていた。
 護留は、少女に歩み寄る。すると、少女が口(だろう、多分)を動かしてなにかを訴えているのに気づいた。耳を寄せて、聞いてやる。
 ――まもるくん、お姫さまは、まだかなあ?
 それが少女の最後の言葉だった。護留は少女の爛れた瞼をそっと閉ざす。
「すぐ、来るさ」
 結局名前を知ることのなかった少女に静かに答える。少女の側に、焦げ目のついた赤い糸が落ちていた。拾い上げ、懐に収めると護留は一目散に幹線道路に向け走り出す。
 少女が見たかったもの――お姫さま、天宮悠理を確保するために。
 ぐるりと見渡す限り観衆は全て倒れ、あるいは飛散し、見晴らしは抜群によくなっていた。50メートルほど離れた場所に、目標の黒いフライヤーが停止している。周りの道路が抉れるほどの爆発にも関わらず遠目には全くの無傷だ。
 ここ一帯は特に爆発密度が高かったらしく微かなうめき声すら聞こえてこない。あるのはただ肉の焦げる臭いと四散した肉片のみ。それらを踏みにじり、護留は駆ける。
 確かにこれも〝助力〟では、あるだろう。おかげ様で用意した武器も必要なくなったし想定していた戦闘もない。
 しかし――無茶苦茶だ。
 これだけの爆発、死者1000人は下るまい。そしてこのテロの主犯に、自分は仕立て上げられることになるのだろう。
「くそ! ここまでやるのか天宮――!」
 悪態を叫びながら、しかしこのチャンスを逃さずに真っ直ぐにフライヤーに向かう。
 先導していた市警軍の装甲車すら横転し炎と煙を吹いているのに、至近距離で爆発が直撃したはずの重厚なリムジンタイプのフライヤーは横転もせず、それどころか装甲に凹み一つなかった。ただ、浮遊制御系が壊れたのか、動けないでいる。車体が恐ろしく頑丈なのか、こうなるように最初から計算された爆発だったのか――恐らくその両方だろう。
 近くには警護兵のものと思われる焼死体が散乱し、酸鼻を極める光景が広がっていた。足元がベタつくのは、アスファルトが熱で溶けているのか、それとも沸騰し沸き立つ血液か。
 フライヤーは一体成型装甲の黒いボディ。素材の一部をスクリーンにして窓の代わりにするのだが、今は真っ黒で中を窺うことはできない。ドアに当たる部分に小型のレンズがぽつりとついている。ALICEネット認証用の魂魄識別端末アストラルリーダー。ネットを使えない護留にとってはなんの意味もない。
 用意した武器も今は手元にない。護留はナイフを端末に突き立てる。何度も、何度も。
 時間がない。爆発の混乱が収まらないうちに事を成さなくてはならない。だが爆発に対して傷一つ負っていない装甲に対してどうしろというのか。
 途端に虚無感に取りつかれる。これが、自分と天宮の差なのだ。入念な準備をした? 技術を磨いてきた? そんなもの、天宮に対してはなんの意味もなかったではないか。
 無駄だ。今までの五年間は無駄だったのだ。眩暈がして、思わず車体に手をつける。
 ――!?
 大電流が走ったような感覚。
・――阿頼耶識層ALICEネット最上位端末『Azrael-02』からの認証を確認。ハッチオープン――・
 論理網膜に映る、ALICEネットからのシステムメッセージ。
 初めて見る、自分には使えなかったはずのそれ。そもそも身体改造を施していない護留には例え受信出来てもデータグラス等の補助がなければ解読することは不可能なはず。しかしなんの違和感も覚えない。まるで生まれた時から自分に備わっていた機能のように。
 車体にスリットができ、一瞬で扉が開いた。
 車内は空調が利いているらしく、外の火災による高熱とは一切無縁だった。照明が極端に落とされていて、目が慣れるまでに数瞬かかる。
 どうやら運転席のようだが、運転手どころかハンドルやその他操縦に必要な機器が一切見当たらない。ALICEネットを介して遠隔操縦するタイプのようだ。
 後部座席とは御簾一枚で隔てられていた。
 空唾を飲み込み、御簾に手を掛けた、その時。
たれかっ!」
 鋭い声が、銃弾のように護留を撃ち抜いた。
「我は天宮家当主、悠理。斯様な場での無礼な振る舞いは許そう。
 ――下郎、まずは名乗れ」
 薄い御簾の向こうから響いてくる声は、文字通りの威圧を孕んでいた。精神圧迫作用のあるパルスを発声に同調させているのだ。ALICEネットに繋がっている常人ならこの時点で地に平伏しているだろう。
 だがその声を聞いた瞬間から護留の心臓は破鐘のように早打ち始め、そして、
(声紋走査……終了。フラグの蓋然性97%。確認作業を続行)
 頭の中の声に押され、プレッシャーを跳ね除けて、護留は応えた。
「……護留。引瀬護留だ」
 言ってから、さっき少女にしたのと全く同じ名乗り方だと気付き、こんな事態にも関わらず少し笑いそうになる。
 御簾の向こうの気配が動揺した。
「引瀬? 引瀬……眞由美まゆみ?」
 パルスの含まれていない、ただの少女の呟きに、護留の頭の中で、声が一段と強く鳴り響く。激しい偏頭痛が始まる。
 ふらついて、前のめりになる。慌てて体勢を戻そうとしたが、先ほどの爆発のダメージが抜けきっていないのか、そのまま御簾の向こう側に倒れこんでしまった。
「ぐっ……」
「きゃ!」
 柔らかな感触。とっさに身を離し、今しがた自分が触れていたものを視界に入れる。
 原色が、眼前で踊った。
 喪服の如き漆黒の衣装。
 腰まで届く白銀の長髪。
 血の色をした真紅の瞳。
 幾度見ても――憎悪や殺意でなく、物懐かしさを憶えるその顔立ち。
 少女の何もかもが、護留を揺さぶる。そしてその衝撃はこの時まで五年間ずっと眠っていた、護留の魂をも呼び覚ます。
(――網膜走査……終了。魂魄走査……終了。骨格一致率……99%。元型一致率……99.99%。終端エンディングフラグ、『Azrael-01』との接近遭遇を確認。
 以降、当素体は『Azrael-01』の守護を第一優先事項として行動せよ)
 ――なんだ!?
 幻覚が現実に重なり始まる。これまで護留が見てきた物とは違う、客観視出来る幻が。

「母さん――悠理が、ユウリに気付いていた。しかもかなり前からみたい。悠理の部屋で二人きりの時に聞いたけど……私には監視がついているから。きっとすぐにバレる。いえ、もう向こうは知ってたかもしれない」
 時代がかったメイド服を着た少女が深刻な顔をして報告する。
「――覚悟はしていたけれど。ついにこの時が来たんだね」
 場所は薄暗い実験室。だが辺りの機器は何年も使われている様子もなく二人の他には誰もいない。護留はここが先日の死体漁りの時に幻覚で見た、研究部第壱実験室だと気づく。
 そしてメイド服の少女に〝母さん〟と呼ばれた人物は、
「私は研究データを持って天宮から脱出する。外にいる協力者になんとしてでもこれを渡さなければいけない。眞由美、あなたは――」
 引瀬由美子。少女のほうは眞由美というらしい。
 由美子は血を絞り出すような声で続ける。
「……あなたには、私のために、時間を稼いで欲しい」
「分かった」
 即答する眞由美を見て、由美子は一筋の涙を零し、彼女を抱き締める。
「ごめん――ごめんね。あなたを巻き込んで。言い訳はしない。これは、お母さんたちの責任だから」
「いいの、お母さん。悠理は、私の妹みたいなものだもの」
 眞由美は気丈に笑う。その顔は青褪め、母を抱き返す手は震えていた。
「悠理は――これから辛い目に合うことになるわ」
 由美子が自分の身を切られるかのような声で言う。
「私たちのせいで――そして私たちのために苦難の道を歩むことになる彼女に、せめて幾許かの安らぎの日々を与えたい」
 眞由美は黙って頷き返す。
「あなたも、多分殺されるより酷いことをされると、思う。そしてそれが結果としてより悠理を苦しめることに繋がるかも知れない。それでも決心は揺るがない?」
「大丈夫だよ、お母さん。私は大丈夫。悠理のためなら頑張れる。そして、悠理もきっと。あの子は、私なんかよりずっと強い娘だから」
「そうね……。眞言まことさんの研究データを基に私がデザインして、あなたが面倒を見た、家族だものね」
 由美子は眞由美を離すと表情を引き締める。
雄輝ゆうきが情報部に手を回してくれるから、時間の猶予は三日か四日はあるわ。私は今すぐにここを発つけど、あなたは残ったデータの改竄と破棄をお願い」
「わかった、任せて」
「いい子ね、さすがは私の、私と眞言さんの娘よ」
「さようなら、お母さん」
「さようなら、眞由美」

「眞由美が……これってあの日の……なんでこんなものが、見えて……?」
 悠理の譫言のような呟きに、幻は断ち切られ意識が帰ってきた。
「君にも――見えたのか?」
「――えっ? これはあなたが見せたのですか? なぜあなたがこのことを知って――引瀬って、あなたは眞由美の……弟?」
 まだ混乱の中にある悠理の赤い目を見据え、護留ははっきりと言った。
「違う。なぜこんなものが見えるのか。その理由を知るために僕は君を――攫いにきた」
 悠理は目を丸くするが、すぐに視線の温度は下がっていく。
「あなたはそんなことのためだけに、外の惨事を引き起こしたのですか。そのような人間に拐かされるくらいなら、私は天宮当主として、自害を選びます」
「僕は、君の暗殺を依頼された――君の家から。この爆発も天宮の仕業だ」
 護留は敢えて真実を明かすことにした。悠理は押し黙る。
「僕は、死にたいんだ」
 場違いとも言える告白に、だが悠理は驚きも呆れもせずにただ先を促した。
「僕は死ねない、死なない、死のうとしない。他人からは『負死者』呼ばわりされるなにかだ。
 君は『Azrael-02』という名称に心当たりはあるか?」
「『Azrael-02』……アズライール、プロジェクト・アズライール? なぜあなたがそれを……」
「やはり知っていたか。だったらもう問答は無用だ。君を連れ去る。否が応でもだ。そして君を材料に天宮と交渉をする。
 僕の『』と母さんを返してもらうために」
 悠理の目の前に掌を突き出す。そこから皮膚を裂いて青白い光とともに白銀の刃が形成され、悠理の眉間に触れる寸前で止まった。悠理は瞬き一つしない。
「なるほど――答えは〝セカイ〟じゃなくて〝せかい〟にあったんだ……」
 悠理が、自分だけに聴こえる小声で囁いた。
「――? なんだ、今なんと言った」
「決めました、引瀬護留」
 悠理は居住まいを正し、護留にきちんと正対する。
「私を、連れ出してください」
 悠理は言った。透徹した赤い眼差し――護留の瞳よりずっと濃いそれは、魂の濃度を表しているようにも見える。
 白い髪が、天使の羽根のように柔らかに揺れた。
「運命の外へ」
 凛とした声に導かれるように、護留は頷いた。

      †

 怒号と悲鳴、救命を求める叫びを圧して、また爆発が起こった。恐らく、先の爆発で倒壊した飲食店の燃料だろう。始末の悪いことに連なっていた屋台に次々と引火し、火災は短期間で劫火へと成長した。火と煙に巻かれて逃げ惑う群集。
 そんな叫喚を、現場から少し離れた廃ビルの屋上から眺める者がいた。
 屑代くずしろだ。
「いくらなんでも派手にやり過ぎだな、こりゃ。理生りおの奴は本気で後戻りする気はないということか」
 護留に対する口調とは打って変わった砕けた言葉遣いで独りごちる。
 一番破壊の痕が激しい爆心地に目を向けると、ちょうどフライヤーから二人――護留と悠理が出てくるところだった。
「はっはっ! 一丁前に手まで繋いで。男の子だねえ」
 楽しそうに呟く。
「――逃げ切れよ、雄哉ゆうや
 二人が西に向かって逃げるのを確認すると、屑代はALICEネット通信で部下たちに指示を出す。
・――こちらは屑代情報部長だ。特別巡邏隊と情報部警備課の人間は、市警軍の一般部隊や空宮の奴らを現場に近づけるな。うちの管轄だと言って全て突っぱねろ。手の空いている者は〝東〟方面を全力で捜索しろ。そちらに遺作レガシーお姫さま悠理が向かった――・
 了解の返事を待たずに通信を切ると、振り返る。
「で、お前は何の用な訳?」
 そこには、先ほど護留とすれ違った屋台の男――公社情報部のエージェントが立っていた。
「どうして、偽の情報を部隊に流したんですか? 屑代部長」
 質問に質問で返すなよ、と小さくぼやいて屑代は答える。
「そりゃ二人を逃がすために決まってるだろ。野暮なこと言わせんなよ恥ずかしい。お前こそ状況報告を俺に送らずに直接ここに来たってことは、理生から俺に注意しろとでも言われてたか? いや、理生じゃなくてもしかして空宮の方か?」
 男は黙ったまま前腕部のIGキネティック機構を展開させた。大口径のフルオートショットガンの剣呑な銃口が顔を覗かせる。つまりはそれが答えというわけだ。
「あ、それと俺もう部長じゃねえから。今さっき理生の野郎に辞表送りつけてやったからな」
 男が、発砲した。毎分300発近い速度で発射されるのは散弾ではなく一発スラグ弾だ。自動車すら数秒でスクラップにする弾丸の嵐。例え重度身体改造でも当たれば致命的だ。
 だが、
「なっ――!?」
 屑代の姿が、消えた。比喩ではなく、文字通りに。
 空宮にも密かに通じている男はそれを可能とする方法にすぐに気づく。
「――存在迷彩だと!? 発散技術が何故、」
 かつて百ヶ月戦争でも用いられ、技術的発散と共に人類史から消えたはずの技と術――発散技術《ダイバージェンステクノロジー》は、ALICEネットのデータベースに辛うじて残っている物については天宮と空宮が100年掛けて復刻を試みて殆どが失敗している。存在迷彩もそのうちの一つだ。
「質問にはきちんと答えてやる。昔『ライラ』って計画で手に入れたんだよ。言っても分かんねえか」
 言葉と共に男の背後に存在焦点を合わせ再顕現した屑代は、腕から雷霆を浴びせかける。先程のテロの爆発に匹敵する轟音が響き、ビルが傾いだ。以前護留に用いた時と比べ10倍近い出力のそれは、男の身体の半分を瞬時に気化させ、残りの熱は分散主脳と副脳を舐め尽くした。
「っ……屑代……貴様――公社を……裏切っ……家族も、ただでは……」
「その『家族』を助けるためなんだよ。こちらも必死でな。まあでも公社裏切ってるのはお前もだからおあいこだよな?」
 同意を求めたが、男は既に事切れていた。屑代は大袈裟に肩を竦め、トルソーのようになった男の頭部を踏み抜く。いったい如何程の力が込められていたのか、ビルの屋上が陥没し、ついに建物そのものが崩れ始めた。 
「さて、退職金でも受け取りに行くかね」
 足にまとわりつく男の残骸を蹴り、その反動で高く飛ぶ。
 遅蒔きながら火災を検知した消防局が気象コントロールにより雨を降らせ始める。降り注ぐ滴は瞬く間に驟雨となり、祭りの場の混乱は広がった。
 そしてその時にはもう、屑代の姿はどこにも見当たらなかった。

     †

西暦2199年7月1日午後12時35分
澄崎市極東ブロック特別経済区域、占有第3小ブロック、天宮総合技術開発公社本社ビル

・――なるほど。分かりました。また何かありましたら連絡を――・
 爆破テロ発生後本社に戻り、報告を受け終えた理生は通信を切った。
 遺作レガシー――引瀬護留こと『Azrael-02』による天宮悠理暗殺計画は失敗。それに伴って、仮想人格ペルソナ消失によるユウリ開放も起こらず、『Azrael』同士の接触による止揚アウフヘーベンの発生も確認されなかった。
 また事件の最中に屑代情報部長が情報部エージェント一名を殺害。配下の部隊に偽の情報を指示して捜査を撹乱し、そのまま逃亡した。両『Azrael』シリーズとともに彼も未だ発見には至っていない。
 引瀬護留に関する情報に関しても、実際の情報と屑代が報告してきたものとの間には矛盾や改竄点が見られる。情報部の中央有機量子コンピュータには時限制のウイルスが仕掛けられていたのが発見され、現在治療行為のためにシステムを落としており種々の検証は不可能となっている。このハッキングも屑代の仕業とみて間違いないだろう。
「15年前から引瀬と同じく、屑代も裏切っていたというわけですか」
 引瀬博士がああも簡単に脱走できたのも、空宮が牽制を始めこちらが手を出せなくなってからようやく遺作が見つかったのも、これで納得できる。
 15年前――『プロジェクト・ライラ』失敗の日から、家族を捨て名を捨て自分の意志すら捨てたように天宮家に忠実に仕えてきたので重用していたが、結局こうなるわけだ。
「これで――『プロジェクト・ライラ』のメンバーも本当に解散ですね」
 だが、問題はない。ライラに代わる計画、真の都市と人類救済の術、『プロジェクト・アズライール』は最終段階に至っている。
 『Azrael』同士が一処に集まっているのならどうとでもなる。上手くいけばこちらが手を出すまでもなく事が成される可能性もあるが、万全を期すためにも捜索は続行すべきだろう。
 テロ発生後、市議会や空宮から矢のように報告の催促が入ってきているが全て無視している。彼らを考慮する必要は最早なくなった。
 プロジェクトが達成されれば、なにもかもが終わるからだ。
 彼らに提示していた『プロジェクト・アズライール』の内容は、全て資金やリソースを引き出すための虚偽だ。
 澄崎市中央ブロックと10万人の正規市民ハイアーだけを残し、他を全て切り捨て新天地を築くなどという馬鹿げた妄想を今でも信じて疑っていないのだろう。
 このまま放置していても構わないのだが、今後こちらの動きの障害となる可能性もある。計画の達成は疑いようがないが、遅れればそれだけ苦しみが長くなる。となれば市警軍や市税局の手駒を用いて黙らせておいたほうがよかろう。
悠灯ゆうひさん――もう少しです。我々が、この街を救うまで……」
 市議会と空宮の最終対応に少しばかり――一週間程度の時間を取られる。その後にはこの澄崎に天宮を、理生を止められる人間は誰もいなくなる。
 更にその先――『天使』の再誕が成された暁には、この街から人間そのものがいなくなる。
 理生は窓に映った色なき景色を見遣る。
 澄崎市を塞ぐ忌々しい灰色の蓋。理生を、悠灯を、そして全市民をこの狭い世界に囚えている檻。あるいは技術発散の脅威から、人類を護り留めるための欺瞞の盾。壊すべき呪い。
 人々の意識と魂で編まれた知性の網、即ちALICEネットそのものを用いて張られた大規模事象結界に覆われた世界。市民全員の魂が存続を望む世界を。
 天宮理生は、飽くことなく眺め続けた。

    †

 何やら、外が騒がしい。何しろ今回は100周年記念祭だ。よっぽど派手にやっているのだろう。
 娘は、祭りを楽しんでいるだろうか?
 土産話が楽しみだ。あの子は食いしん坊だから、お姫様のことよりも屋台の食べ物の話ばかりになるかもしれない――その様を想像してクスクスと笑う。
 今日は近所の人たちの好意で介護を受け、体調も良い。そうだ、身体が動かせるから、あやとりの続きを教えてあげよう。一人で練習しているようだが、あやとりには二人で作るものもある。
 娘が大人になる姿を、恐らく自分は見届けて上げられないけれど。自分が生きた証をあの子の中に少しでも残してあげたい。
 母親は、娘の帰りを待ち続ける。
 いつまでも、待ち続ける。

第四章 ふたりの日々 Two Souls, One Life

西暦2199年7月2日午前8時00分
澄崎市南西ブロック海面下居住区内、第2階層、〝護留のねぐら〟

 目覚めたら、一人だった。
 悠理はぼう、としばらく寝起きの視界が安定するのを待った。焦点が段々合ってきて、
「――ふゃ。ぁら、れ?」
 見慣れない天井が目に入ってきて、悠理は慌てて飛び起きた。
 薄暗く湿った場所だった。壁際にぐるりと一様に錆ついたコンテナが無造作に積まれている。窓はなく照明器具さえも見当たらないが、建材や塗料に増光素子が入っているらしく不自由はない。床には汐臭い水溜りが幾つかあった。雰囲気からして、廃棄された倉庫のようだ。
 悠理はそんな空間の中央に置かれた、スプリングの壊れたソファの上で毛布に包まれていた。毛羽立ってはいるが、清潔だ。
 換気ファンがゴンゴンゴンと回転する鈍い音が遠くから聴こえるくらいで、辺りはとても静かだった。
 ――えーと?
 記憶が、どうもはっきりとしない。だけど、不安は感じない。考えるのは副脳が論理フレームを立ち上げて最適化を開始するのを待ってからゆっくりとでいいや……。15歳の女の子が考える休日の過ごし方ではないけれど、だって眠いし眠いしねむいし
「起きたのか。おはよう」
「ひっきゃあ?」
 至近から聞こえた声に、悠理は力の限り力の抜けた悲鳴を上げ、器用にも毛布を体に巻きつけたまま10センチ程ぴょんと跳ね、そしてソファから転げ落ちた。ごっ、といい音を響かせコンクリート打ちはなしの床に後頭部を強打する。とても痛い。
「――大丈夫か?」
 酷く冷静な声が降ってきて、それが余計に悠理を焦らせた。油火災に水をぶちまけたようなものだ。混乱した頭の中身そのままに体を無茶苦茶に動かす。
「え、あ、ええええええと!」
 毛布がなんだか三次元では絶対にありえない感じに絡まってしまい、悠理は床の上で芋虫の如く這いずってなんとか立ち上がろうとするが失敗した。こけて床に臀部を強打する。すごく痛い。
 そこに、手が差し伸べられた。
「あ、」
 一瞬ためらい、
「――ありがとうございます」
 手を取った。温かくも冷たくもない、乾いた掌だった。悠理は助けを借りて、するりと毛布から抜け出し、一息吐く。そこにまた冷たい声が被された。
「手」
「あ、ご、ごめんなさい」
 悠理は慌てて握りっぱなしだった手を離す。そしてその時になって、初めてまともに声の主の顔を至近距離で見た。
 少年、だった。酷く嗄れた声だったので、もっと年上だと思っていたので瞬きをする。
 悠理がまじまじと少年の顔を見つめていると、顔は不機嫌そうに歪んだ。
「――言いたいことは分かる。声だろ。昔、潰れたんだ」
「ああ、いえ。ええと――一応お聞きしますが、ま――あなたが私をここにお連れしたんですよね?」
 護留さん、と名前で呼ぼうとして、結局呼べなかった。今まで同年代の人間との会話など皆無だったので距離感が取りづらい。
「寝る前に顔を合わせてからまだ半日も経ってないけれど、もう忘れたのか君は? それとも下賤の輩の顔を覚えるのは苦手でいらっしゃるか、天宮の新当主殿は」
 あんまりな物言いに悠理はさすがにカチンと来る。
「仕方ないじゃないですか! フライヤーの中は暗かったからよく見えなかったし、その後ここに来るまでもなんかもう色々あって――色々あったんですから!」
 叫んでいると身体が覚醒プロセスを加速させ、昨夜の記憶が段々と蘇ってきた。
 市警軍の追手の群れを、護留が文字通り血路を拓いて躱し、南西ブロックの廃棄区画のマンホールから地下に潜ったのだ。
 地下は悪性変異したナノマシンが除染もされずに放置された墓場のような空間だと思っていた悠理は驚いたものだが、真っ暗な地下を全く容赦無い速度で進む護留に手を引かれて着いていくのに精一杯で、それでここについてソファを見つけたら家主に一言断りも入れる間も惜しんで倒れこみ、記憶はそこで途切れている。
(男の人の前で寝ちゃってたんですか私は!!!!)
 勝手にこの部屋で唯一の寝具らしい寝具を占拠した挙句に、だ。
 羞恥心と苛立ちで副脳の心理評価マネージャーもダウン寸前だ。
「……そうだな、色々あったな。僕の言いかたが悪かったよ、ごめんな」
 悠理の勢いに護留は少し気圧された。それを見て溜飲がすっと下がる。
「――なんだか小さい子をあやすような口調なのが気に入りませんが、特別に許しましょう。私は小さなミスには寛大な上司だと開発室の部下にも評判だったのですよ」
 満足そうにうんうんと頷く悠理。
 護留は小さく溜息を吐く。想像していた性格とまるで違った。本当にこれが天宮家の当主なのだろうか。
「それで改めてお聞きしますが、ここは、一体どこなんですか?」
「……そんな情報を人質に教えるとでも思うのか?」
「えっ? 私人質だったんですか?」
 今度は護留が悠理の顔を凝視する番だった。
「だって別に拘束もされてないですし、それに――私を助けてくれましたよね?」
 ここまでの逃亡中、もちろん天宮や市警軍の追手はきた。想定以上に少なかったので無事この護留の隠れ家まで辿り着くことができたのだが、その最中で幾度か戦闘になり、悠理の言うとおり護留は彼女を守って追手を撃退した。
「――君は大事な人質だから、そりゃ護るさ」
「あなたの言う『人質』というのがまず成り立たないと思うんです。だって、私の……暗殺を頼まれたんですよね。天宮、から。でしたら情報をくれなければ殺すって脅しても無視されて終わりじゃないですか?」
 悠理は淡々と他人事のように言った。
「……天宮も一枚岩ではないだろう。君を支持する派閥だっているはずだ。それに今回の君の即位は、前当主である君の父親からの推挙があったと聞くが」
「私を支持する人なんて、公社の社員と親族の中に、一人もいませんよ」
 悠理は断言した。寂しさや悲壮さを感じさせない、ただの事実を再確認するようにごくあっさりとした口調で。
「そして――暗殺を依頼したのは、恐らく父です」
「それは――」
「フライヤーの中であなたが私の殺害を頼まれたと聞いた時に、すぐに理解しました。
 私は、生まれてから一度も公社の外に出たことがない。他ならぬ父が私をずっと閉じ込めてきたのです。それをお披露目のためにいきなり外に出すのはなぜかと疑問に感じていましたが――他の目のうるさい社内でなく、社外で殺すためならば、しっくりときます」
「――ちょっと待て。一度も外に出たことがないというのは本当なのか?」
「ええ。学業も全て通信授業でしたし、仕事場ももちろん社内でしたから。家族での旅行などは全くありませんでした」
「だけど、それなら……」
 なぜ自分は、悠理の顔を見て〝懐かしい〟と感じるのだろう。今こうして会話しても、攫ってきた悠理に対して、天宮に抱く言いようのない憎悪を感じることはない。それは多分にこの懐旧の念が影響している。
「……? とにかくあなたが今現在私を人質に取っておくメリットはありません。今私を殺しておけば恐らく暗殺の成功報酬として天宮から莫大な額が支払われるでしょう」
 淡々と言ってのけた悠理に対し、護留は眉をしかめる。
「今ここで君を殺した方が、僕にとって得だと。そう勧めているのか?」
「――はい」
「君はそれでいいのか? ならず者に攫われるくらいなら自害すると言い切った君が、僕についてくることにしたのにはそれなりの理由があるんだろ」
「……あの〝幻〟を見て、確信したのです。私の知りたかったことは、外の世界に――いえ、あなたが知っているのだと。
 ですが、『引瀬』の姓を持つ者に殺されるのなら。それは仕方のないことだと私は受け入れます」
「――引瀬由美子に、引瀬眞由美か。彼女たちについては、僕も知りたい」
「あなたは二人を知らないのですか? ではあなたの名はただの偶然だということなのでしょうか」
 悠理が首をかしげる。
「偶然ではない、と思う。引瀬由美子の幻については以前から見ていたから。君の言うとおり、ひょっとしたら僕は引瀬眞由美の弟なのかもしれない」
「言い方が曖昧すぎてよく分からないのですが……結局あなたは――何者なのですか? 天宮がわざわざ私の暗殺にあなたを指名したことを考えると、ただ者ではないのでしょうが」
「そんなの、僕が聞きたいくらいだ。僕には、五年より前の記憶が一切ない。五年前、路地裏で〝一人〟で目覚めたのが最初の記憶だ」
「五年、前……」
「そうだ。他人がこの幻を見たなんて初めてのことだし、失われた過去を取り戻すためにも、君は生かす。大体君を殺しても、恐らく報酬の代わりに銃弾が送られてくるのは目に見えてる。僕は多分、あの爆破テロの犯人に祭り上げられているだろうしな」
 それに僕にはどうせ人は殺せないしな――という言葉が肺から漏れることはなかった。
「――わかりました。それでは、不束者ですがこれからよろしくお願いします」
 居住まいを正しぺこぺこと丁寧に頭を下げる悠理。三度もお辞儀をするのは天宮独特の作法か何かだろうか。
「あ、ああ。よろしく」
 距離感の取りづらい娘だ。天宮家当主に相応しい威厳や知性を確かに垣間見せることもあれば、こうやって急に砕けた素振りも見せる。
「あの、ところで――」
 きゅうぅぅぅ。
 静寂の中、悠理のお腹が鳴る音はよく響いた。
 悠理の顔色が赤くなり、次いで蒼くなり、そして白くなって、最終的に真っ赤になった。
 ――これが、本当に天宮家当主なのだろうか?
 護留の再度の疑念を裏付けるかのごとく、悠理は酸欠の金魚のように口をしばらくぱくぱくさせた後猛烈な勢いで言い訳を始めた。
「あ、あのこれは違うんですその! あなたが連れて行ってくれるって応えてくれてやっぱり私の居場所がばれちゃまずいだろうなと思ったんでALICEネットの接続を切ってるからエネルギー補給も受けられなくてお祭りだからおいしいものたくさん食べられるのかなあと思ったら全然そんなことないしお披露目の儀式めちゃくちゃ長いしずっとりんご飴の味のこととか考えていて立ちっぱなしだし人といっぱい話もしたしで疲れてて私もともと小食なんですけどお祭りのために更に我慢してたせいでつまり今猛烈にお腹が空いているんですが普段からそんないやしんぼうではないんです断じて信じて!」
 護留は溜息を吐く。
 ぐうううぅぅ。
 そこに追撃のように再度鳴る悠理の腹の虫。
 酸欠の金魚から死んだ金魚にランクアップした悠理はもう押し黙り、ただただ涙目で自分のお腹を押さえつけている。
「安心しなよ。りんご飴を二本いっぺんに食べようとしても、いやしんぼうではないそうだから」
「はひ?」
 悠理の肩を叩き、
「――取り敢えず、朝ごはんにしよう」
「ひきゃあ?」
 悠理は軽く叩かれただけで勝手に飛びあがり勝手にまたこけた。

 悠理の悲鳴が再度響き渡ったのはそれから五分後のことだ。
「ちょ、ちょっと! 一体あなたは一体なにを一体しているんですか一体!?」
「落ち着け。今『一体』と四回も言ったぞ君。天宮語か? 僕は肉を焼いているだけだ」
「に、肉って。それ、電池……」
「電池じゃなくて、有機発電機だ。IGキネティック制御で回転する筋肉の塊。自分の会社の商品も知らないのか?」
「それくらい知っていますよ! けど、」
 護留は悠理を無視して金串に刺した青黒い肉片をトーチで炙り出した。有機発電機を喰うのは、廃棄区画の非市民ノーバディでさえ悪食と呼ばわる行為だ。上流階級の人々にとってはそれこそ泥を啜ったほうがまだマシだと言うだろう。だがALICEネットからのエネルギー供給を全く受けることができない護留は、食える物ならなんでも食べる。悠理暗殺の前金として受け取った金は工作費等にほとんど費やしてしまったので、食料の備蓄もそろそろ乏しくなってきていた。
「ほら」
 差し出された肉片は未だぴくぴくと動いていて、何とも形容しがたいケミカルな臭気を撒き散らしている。
 悠理は頬を引き攣らせ、串と護留の顔を交互に見る
「ああ、心配しないで。毒はないよ」
「それも知ってます!」
 悠理は涙目で護留を見るが、彼はコンロで熾した火の上で、サイコロ型に切り分けた肉片をフライパンで炒めるのに忙しいようだった。
 ――ううううう。
(お祭りの食べ物愉しみにしてたのにぃ……)
 悠理が行った侍女や部下たちからのさりげないリサーチや、権限を最大に用いてのALICEネットでの検索の結果、祭りの屋台ではこれに似た串焼き肉はポピュラーな軽食として親しまれていることは知っていた。
 知っているが故に理想と現実のギャップを受け入れがたい。事実を受け止め切れない。
 だがエネルギー供給が絶たれた今早く何かしら食べないと倒れてしまうのもまた、現実なのだった。
 かつてない煩悶の渦に叩き込まれた悠理は、冷や汗をたらーっと流しながらも受け取り、手にした焼肉を凝視する。それはやはり悠理に取っては食物ではなく、ヘモシアニンが含まれた青黒い有機発電機のバラパーツだ。副脳が勝手に肉串のカロリー計算を始めたのでプロセスをキルする。
 ――これ、食べないとやっぱり失礼なのかな……。
 結局は空腹よりも、施された物は無碍には出来ない育ちの良さに負けた。
 息を止めて、そうっと口先に持っていく。だがそれでも焦げた人工蛋白の特有の異臭は鼻腔に侵入してくる。決心が鈍るが、もうなるようになれと捨て鉢な気持ちで悠理はそれを口に含んだ。目を強く閉じて、急ぎ咀嚼するが、
「か、かた……」
 中々噛み切れない。味は――思っていたより悪くはない。鮮度の悪い海鮮類のような匂いが鼻をつくが、それさえ我慢すれば何とか食べられる範囲だった。だがとにかく固い。有機発電機の筋繊維が丈夫なのは知っていたがこれ程とは。自社製品について一つ詳しくなったなと自嘲する。
 噛み切れないで口腔内に残った繊維をどうしようかと悠理は考え込んだ。吐き出すのはさすがにダメだろう。天宮の当主として。いやそれ以前に女の子として。護留はどうしているのだろうかと思い、対面を見ると、
「ま、護留さん? 一体なにを一体食べているんですか一体!?」
「今『一体』を三回も言ったぞ。見たままのものを食べている」
「いや、そう言うことじゃなくてですね、いえ、そうですけど」
 護留は、生の肉片に齧りついていた。
「――お腹、壊しませんか?」
「大丈夫だ。こっちの方が食べやすい。焼くと固くなるから」
 へえ、と納得しかけて悠理は思い直し、
「……分かっていて、私には固い肉を?」
「君が構わないのなら、生で食べてみるか。不味いけど」
「……遠慮します」
「賢明だ」
 護留は大真面目な顔で頷くと、新しい生肉に手を伸ばした。
 悠理は黙って、口の中のものを床に吐き出した。

 食後。あまりたくさん食べることはできなかったが(顎が疲れる!)、それでも困憊の窮みにあった体に滋養の補給は殊の外効いた。悠理は体重を預けると沈みっ放しになる底なし沼のようなソファに座り、波状に押し寄せてくる睡魔と戦っていた。
 眠るわけにはいかない。
 ここで眠るのはだけは、いけない。
「眠りたければ好きにして構わない。僕は見張りをしているから」
 護留はこんなことを言っているが――しかしさすがに、ほぼ初対面の異性の前で眠るのは女の子としていかがなものだろうかいやここにきた時も眠ってしまったけれどあれは不可抗力みたいなものでというかお祭りが愉しみすぎて前日ろくに眠れなかったからだし市長さんの話は長くてたいくつだったしねむるのはいけないのにさっきも寝たばっかりだけどごめんやっぱりねむいちょっとめをつぶるだけだから……
 すー。
「……寝つきがいいな」
 考えてみれば当たり前だ。人生で一度も外に出たことがなかった少女が、爆破テロ直後の凄惨な現場や、銃を持った兵士たちに追われたら疲れもするだろう。雨の中をそのまま走り抜けてきたから体力の消耗だって相当なはずだ。弱音を吐かないだけでも称賛物かもしれない。
 出入り口やその周辺にハリネズミのように仕掛けてあるセンサーの数値が送られてくる手元の計器をちらりと見やる。異状無し。
 ここは廃棄区画の地下100ートルにある地下居住区の廃墟だ。はるか昔に大規模なナノマシンの暴走事故が起こり封印されたらしい。それでもナノマシン汚染の少ない地域にわずかに人は住んでいる。護留がここに住み着いてから四年と半年、地上ではあれほど傍若無人に振舞っている市警軍が侵入してきたことは一度もない。
 もし当局が護留たちが地下に逃げ込んだという手掛かりを掴んでも、幾つもの階層に分かれ、地上の空間より遥かに広いここを全て探索するのには相当な人手と時間がかかるだろう。
 悠理暗殺のためにあそこまでやった天宮が相手だと、確実とは言えない。だが少なくとも即座に発見される恐れは低い。
「しかし、これから先どうしたものかな……」
 悠理の言うことが事実ならば、確かに天宮との交渉など無駄だろう。悠理がこちらにいれば、空宮やその他の大手企業ならば取引に応じるかも知れない。だが、
「――気が、進まないんだよな……」
 頭を掻き毟り、ため息をつく。そういう問題でないことは勿論理解していた。しかしフライヤーの中で聞いた、〝『Azrael-01』の守護を第一優先事項として行動せよ〟という頭の中の声に従わなければという気持ちがどんどん湧き起こってくる。
 護留は彼女に既に親しみさえ感じている自分を発見して呆れ、苦笑する。
 頭の中の声に従うなんて、まるで誇大妄想狂家メガロマニアックだ。傍から見たら護留は全く狂人そのものだろう。理解者などいない。
 いや、悠理なら――天宮の当主であり、『Aarael-01』であるらしい――彼女なら、あるいはわかってくれるのかもしれない。
 当面は悠理から情報を聴取していく必要があるだろう。それが終わってからは――それから考えよう。
 ソファの正面に置いた錆びついたパイプ椅子に深くもたれる。室内にある家具らしい調度はこの椅子と今悠理が寝ているソファ、そして作業台としても使っている木製の机くらい。流し台は部屋の隅で古道具の地層に埋もれていた。生活臭が酷く乏しい空間。それはこの五年の護留の生活を象徴するようだった。
 暇なので悠理の寝顔をなんとなく眺める。口からよだれを垂らして熟睡している。
 ……果たしてちゃんとした情報を彼女から得ることができるのだろうか。
「眞由美……」
 そこはかとない懸念を護留が浮かべた時、悠理が寝言を呟いた。先ほどまでは日向で眠る猫のような顔をしていたのが、苦悶に満ちた表情に変わっている。
 今にも泣きそうな顔をしているにも関わらず、涙は溢れず目元は乾いたまま。まるで、夢の中ですら泣くのを我慢しているかのように。
「大人なんだか、子供なんだか……」
 フライヤーの中で見せた威厳、先の会話での稚気。天宮悠理がどういう人間なのか良くわからない。五年以上追い求め、様々な情報を調べてきたが、自分は本当に彼女のことはなにも知らないのだなと改めて気づく。
「――もまる」
「えっ?」
 唐突に名前を呼ばれ、焦る。続けて不明瞭な寝言。思わず聞き取ろうと護留は身を乗り出す。
「――っておい!?」
 そこに狙い澄ましていたかのような動きで、突然悠理がガバっと護留のことを抱きすくめた。
 地下は地上とは違い、人の体表面の老廃物や増えすぎた常在菌を捕食分解する善玉ナノマシンがいない。そのため、ほとんど嗅ぐ機会のない他人の――それも年頃の女の子の体臭が鼻孔いっぱいに広がる。
 細い腕のどこにそんな力があるのか護留が身を捻ろうとしてもびくともせずどうにか外そうと足掻いていると、
(阿頼耶識層へのアクセスを確認……承認)
 頭の中で声。同時に周囲の景色が捲りあげられていく。
「はあ!? なんでこんな時に! ちょっと待て、おい!」
 幻覚が始まった。

 気が付くと、護留は小綺麗なオフィスの中に佇んでいた。
 そう、佇んでいたのだ。引瀬由美子の主観でもなく、ただ客観的に眺めるでもなく――能動的に動ける体を得て、護留はそこに存在していた。
・――昨日の、『完全起動』とやらの影響なのか、これは?――・
・――やはりあなたも来たんですね、護留さん――・
 振り返ると、そこには悠理がいた。
・――あれ? あまり驚かれないんですね――・
 正直、予想はついていた。昨日の〝声〟によれば悠理こそは『Azrael-01』、護留と恐らくは同種の存在なのだから。こうやって幻を共に見るのもおかしくはないだろう。思いついて、質問してみる。
・――ここに来る時、君にも?――・
 敢えてぼかして尋ねたが、悠理ははっきりと頷いた。
・――はい。阿頼耶識層へアクセスすると聴こえました――・
 想像していた通りの答えだったが、続く言葉は護留の想像を越えていた。
・――阿頼耶識層は、ALICEネットの最上位領域です。澄崎市の全データが格納されている場所で、失効テクノロジーはおろか発散した技術すら喪われずにここにはあるとまことしやかに言われています。公社にいた時の私の権限では到底アクセス不可能だったエリアです――・
・――ALICEネット? ここがか?――・
・――間違いありません。今こうして行っている会話もALICEネットを介した共時性通信ですし、私の姿も魄体アバターになっています――・
 言われてみれば、悠理は先ほどまでの黒いドレス姿でなく、白衣のような公社の制服を着ている。胸には天宮の社章が刻まれたピンバッジ。周囲にはフワフワとホログラムの御使い達が浮かび揃って喇叭を吹いていた。
・――僕はALICEネットが使えない……はずだ――・
 言い淀む。悠理の乗っていたフライヤーを開いた時のことを思い出したからだ。いや、この幻がALICEネットに接続して見えているものだとしたら、護留は実はずっと以前から使えていたことになる。
・――私も接続するのは初めてですが、ここに繋がるためにはエナンチオドロミー処置と呼ばれる施術をする必要があるんです。その処置を行うと一般領域――末那識まなしき層と呼ばれる部分からは不可逆的に連結が解かれ、接続が不可能になります。処置されていない私がここに来られているのは、ALICEネットとの接続を切っているからかもしれませんし、多分――いえきっと、あなたと一緒にいるからだと思います――・
 悠理の言うことが正しければ、護留がALICEネットに接続できなかった理由も判明する。エナンチオドロミー処置なるものなど受けた記憶はないが――五年より前に受けていたのかもしれない。
・――あっ!――・
 悠理が声を上げ、指を差す。そちらに視線を向けると、オフィスのドアが開き、女性が二人入ってくるところだった。見つかるかと思い咄嗟に身を隠そうとするが、こちらを完全に無視して二人は会話を始めた。
・――動き回れるだけで、昨日の幻とそんなに変わらないようですね。こちらからの介入は無理みたいです――・
・――ならとりあえず、静かに見るとするか――・
「いやーついにあんたたちも結婚とはおめでたいわね。しかも哉絵かなえが妊娠までしてるなんて――雄輝ゆうきとあんたは見ててずっとヤキモキさせられてたけれど、やることはやってたのねぇ」
「ちょっ、由美子先輩、声、声落としてください!」
 女性のうち一人は、もはや護留にとっては馴染み深い存在である引瀬由美子。もう一人、哉絵と呼ばれた女性は――微かに記憶にある。以前護留が少年の死体漁りをした時に見た幻で、最期に扉の向こうから駆けてきた三人のうちの一人だった。
「もう、先輩おばさん臭いですよ! 前はもっとこう、クールビューティって感じだったのに……」
「ほほう? 哉絵も言うようになったわね? まあでも確かに私も自分で歳を取ったなーって思う時は増えたわあ」
「いえ、自分で言っておいてなんですが、由美子先輩はまだ充分お若いと思いますけど……一昨日も徹夜でみんなの実験データをまとめてくださいましたし。助かりました」
「あーあれはいいのよ。理生りおの大バカ野郎があんたたちのデータを私に渡すのを一週間も忘れてたのが悪いんだから。これから一週間あいつはみんなのドレイだから。好きにコキ使っていいわよ」
「いえ、それは悠灯ゆうひ先輩に悪いんで……遠慮しときます」
「ていうかそう、徹夜よ! まだその疲れが抜けきってないのよ! 若い頃は二徹三徹もできたのに、これが老いかーって実感するわあ」
「疲れてるのなら、第壱実験室の冷蔵庫に悠灯先輩お手製の栄養ドリンク剤がありますよ」
「本当? じゃあ後で頂くとしましょうか。先輩のは凄く良く効くからなあ。ただ成分を聞いても笑って誤魔化されるのがコワイんだけど……」
「あはは……」
「そう言えば、子供のもう名前は考えてあるの?」
「いえ、まだですけど、先輩達に倣って眞由美まゆみちゃんみたいに私たちの名前から一字ずつあげようかなと」
 平和で楽しそうな会話。今まで護留が見てきた幻――そのほとんどは断片的な物だったが――からは感じられなかった雰囲気に戸惑いを覚える。隣の悠理は真剣に見入っていた。
 その時、オフィスの扉が騒々しく開け放たれると、嬌声と共に子供が一人駆け込んできた。
・――あれは……――・
 悠理が思わず駆け寄った。護留も一歩遅れて後を追う。
 新たにやって来たのは、五歳前後の女の子だった。だが、どことなく見覚えがある。
・――眞由美……――・
 悠理が震える声で呼ぶ。そう、昨日の幻で見た引瀬由美子の娘だった。
 悠理は感極まった様子で肩を震わせている。一体どういう関係だったのかは知らないが、大切な人だったのだろうということは話ぶりからは護留にも分かっていた。
 だが悠理は何やら「はぅっ」と吐息を漏らし、
・――か……――・
・――か? どうした大丈夫か――・
・――かわいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!――・
 力の限り叫んだ。
・――かわいい! かわいい! かわいい! え、うそこんなに小さい眞由美とか! すごいちょこまか動いてるし! あー抱きしめたいよーこねくり回したいよー――・
・――お、おい、とりあえず落ち着け……――・
 眞由美を何度も捕まえようとする悠理を制止し、それ以上の凶行をとりあえずはやめさせる。
 悠理は我に返ったのか、深呼吸をし、
・――……お見苦しいところをお見せしてすみませんでした。以降気をつけます――・
・――本当にな――・
 半眼で睨めつける護留から目を逸し、悠理はアバターに汗を垂らしながら幻のほうに視線を固定する。
「おかーさんおかーさん! まゆみがここにかくれたこと言わないでね!」
「はいはい。誰とかくれんぼしてるのかな、眞由美は?」
「えへへーあのねー花束はなたばおねーちゃん!」
・――えっ……――・
 眞由美が緩みっぱなしだった顔を一気に青褪めさせた。表情すら消え失せていく。
・――どうした。花束って名前に心当たりが?――・
・――はい、それは……――・
 カーテンの後ろに眞由美が隠れると同時に、またもやドアが開き笑顔の女性が入室してきた。
「まーゆーみちゃん! って、あら、由美子先輩と哉絵、ここにいたの?」
「プロジェクトも大詰めだからねー。たまにはこうしてのんびりしないと。あんたはなにしにきたの、花束」
「ああ、眞由美ちゃんとかくれんぼしてたんですよ。来ませんでした?」
「んー? さあ見なかったなあ。哉絵は?」
「私も見てませんね」
 二人がそう答えると、カーテンからくすくすと笑い声。花束はにっと笑うとカーテンを大げさにめくり上げた。
「きゃーっ」
 嬉しそうに叫ぶ眞由美。それを見ながら悠理はついに口元を抑え床にうずくまってしまった。
・――おい、大丈夫か?――・
・――すみません、これ以上は……駄目みたいです――・
 悠理のアバターが揺らいだかと思うと、辺りの景色も薄らいでいった。

(阿頼耶識層からの切断処理を確認……承認)
 柔らかい感触。ついで匂いが戻ってきのを感じる。幻覚から覚めた護留はまだ悠理に抱かれて固定されたままだった。それどころかますます強く抱きしめられる。
「なんで――眞由美と〝あの人〟が、あんなに仲良く……」
「深刻になるのは構わないが、とりあえず離してくれないか」
 腕をタップしながら護留が控えめに言うと、悠理は慌てて外してソファの上で身を引いた。
「な、なんで護留さんを抱きしめてたんですか私!?」
「真剣に僕の方が聞きたい」
 護留はようやく開放されて大きく息を吐く。つとめて悠理の匂いを意識しまいと大袈裟な深呼吸をした。
「この幻覚は、いったいなんなのでしょうか」
 そんな護留の様子にも気付かず、悠理はまだ血の気の戻らぬ顔で問う。視線の焦点はあっておらず、そこに見えない誰かを求めているようでもある。
「それも――僕が聞きたいくらいだ。僕は、僕に関して何も知らない。さっきの花束って人は、誰なんだ?」
「――母です」
「え?」
「私の――母親です。五年前――あることがきっかけで病床に就き、以来ずっと意識が戻りませんが……。あれは確かに、私の実の母親です。
 天宮花束。
 憎むことすら出来ない、私の仇」
 悠理は、腐った血を肺腑から絞り出すような声で答えた。
 護留は混乱した。なぜなら以前に見た幻では、
「君の母親は――悠灯って名前だろう?」
「ゆう……ひ? さっきの幻でも出てきた名前ですね。でも違いますよ。天宮花束――それが私の母の名です。顔も少し若かったですが間違いなく母でした」
「いや、だけど――」
 護留は少しためらってから、以前に死体漁りをした時に見た幻覚の内容や護留自身のことを告げることにした。お互いの疑問を解消するためには情報の共有は積極的にすべきだと判断したからだ。
 頭の中声。幻覚。悠理も自分と同じく『Azrael』と呼ばれる存在であること。
 今度は悠理が混乱する番だった。
「ちょ、ちょっと待ってください。今のお話の通りですと、その――私が死んでませんか?」
「ああ。でも甦った。光の胎児として――天宮理生、君の父親は『天使』と呼んでいたな。
 死んで、甦る。ここだけ抜き出すと僕にも似ている。『Azrael』ってやつの特性なんじゃないか? 『プロジェクト・アズライール』がどういう物か知らないが……君を参考に僕が造られたんじゃないかって気がする」
「……私も、私の知り得る情報をお話した方がいいでしょうね」
 そして悠理も、彼女がこの五年間で調べた知識を語った。
 眞由美ともう一人の〝じぶん〟の死、天宮、空宮、都市救済、『プロジェクト・アズライール』――現実離れした話ではあるが、二人ともリアリティ等とはかけ離れた体験をしてきた者同士だ。護留は質問も疑問も挟まずに黙って聞いていた。
「五年前、か」
 悠理からの詳しい話を聞き終えて、護留は呟いた。
「ええ。たぶん、最初のそもそもは15年前――『プロジェクト・ライラ』と呼ばれる都市救済計画の失敗から。そして『プロジェクト・アズライール』が本格的に始動し、父が動き始めたのが五年前です」
 情報を反芻し、整理しながら悠理は喋る。
「父と母の仲は冷え切っていました。それも――本当の母が実験で死に、体裁を繕うための再婚だったと考えれば納得できます。それにしても、眞由美を殺した側の母が、昔はあんなに仲良くしてたなんて……」
「その花束って人は、なんで倒れてしまったんだ?」
「詳しくは分かりません。ただ、思い返せば母は昔から私のことをどこか恐れていたように思えます。唯一笑顔を向けてくれたのが、父が私の『機能障害を正す』と言った時でした。ただ、それは多分上手くいかなかった――そしてそれは母にとってとても不都合で、怖ろしいことで……それで一切のチャンネルを閉じてしまったのだと思います」
「その機能障害っていうのも、『Azrael』絡みか」
「きっとそうです。私が『Azrael-01』なのか、もう一人の自分わたしがそうだったのかは分かりませんが」
「引瀬眞由美は自分は人質だと言っていたな。『ライラ』失敗の原因は分からないけど、引瀬由美子博士に対する制裁とも考えられる。君と眞由美を近づけたのも、まとめて監視ができるくらいの理由じゃないか」
 悠理は顔を曇らせる。
「……悪い」
「いえ、いいんです。恐らくは、それが真相でしょうから」
「それにしても、君と出会ってから幻を見る機会が増えた気がする――と言ってもまだ二度目だが、前はそんなに頻繁ではなかったんだ。せいぜい〝声〟が聴こえるくらいで」
「『Azrael』の『01』と『02』が揃ったからではないでしょうか? 以前あなたが幻覚を見ていた状況は、お聞きしたところ特定の〝キーワード〟――例えば『母』とか――となんらかのエネルギー源、死者の残留はくや擬魂の残滓が揃った時に見えていたように思えます。
 きっかけとなるキーワードなら私たちはたくさん抱えているようですし――エネルギー源も特殊な擬魂であるお互いの『Azrael』があります。
 フライヤーとさっきの状況を鑑みるに、恐らく――私たち二人がその……み、密着することにより共振が起こり、幻が見えるのではないかと推察できます」
「……君は、余り動揺しないな。自分が人間以外の〝なにか〟――『Azrael-01』だと判明したのに」
「ああ――それは幼い頃から私の中にはもう一人の〝じぶん〟が居ましたから。自分は他人とは違うものだと認識しながら生きてきました。それに――」
 悠理は護留の目をしっかりと見据え、気丈に笑う。
「今は護留さん、同じ存在である、あなたがいますから」
「……言ってて恥ずかしくならないか、それ」
「んなっ! どうしてこのタイミングで茶化すんですか!? 今はそういう流れじゃないでしょう!」
「流れと言われても……。とにかく君は立派だな。僕なんて、自分が人間じゃないということに悩み続けた五年間だったよ」
「私には――五年前までは友達がいましたから。護留さんは、友達を作ろうとは思わなかったんですか?」
「……そんなこと考える余裕はなかったよ――いや違うな。天宮に対する憎しみと、君に対する執着で他は何も見えなかった、ってのが正解だ」
「わ、私に対する執着ですか?」
「ああ、これは言ってなかったか。五年前に僕が目覚めて持っていたのはそれだけだった」
「……それも、『Azrael』がそうさせているのでしょうか」
「かもしれない。だとしたら僕はまるであやつり人形だな」
「そ、そんなことは……」
 ないです、という言葉尻は口の中で消えた。昨日出会ったばかりの少年のこれまでの人生を否定するほどの権利は、当然自分にはない。だが護留は少し笑って、
「すまない。今のは少し自嘲が過ぎた。まあ例え僕が何かの役割ロールを振られただけの人形でも、その役割を全うしようって意志は少なくとも僕のものだ。
 そして、それを命じてくるこの〝声〟――『Azrael』のことについて、僕はもっと知らなくちゃいけない」
「それを知りたいのは私も同じです。先程の過去視は私が打ち切ってしまいましたが――私と眞由美になにが起こったのか、そして護留さんの昔の記憶を取り戻すためには積極的に見る必要があります。
 もう一度、試してみますか?」
 差し伸べられた悠理の手を見つめ、護留は曖昧に首を振った。
「自分からまた『抱きしめて』くれと言ってるようなものだぞ、それ」
「~~っ! ですから! なぜ! このタイミングで冷やかすんです! 私は真面目にですね――」
「いや、すまない。でも、まだ君の顔色が悪いままだから」
 悠理ははっとして自分の頬に手を当てる。冷たい汗に反して頬は熱い。幻覚を見ていた最中のような吐き気はもうなくなったが、心拍数もいまだ高いままだ。身体制御用ナノマシン溶液の手持ちは、当然無い。
「あ、その。こちらこそ、気を遣っていただきすみません」
 素直に謝る悠理に護留はバツの悪さを覚え、少し視線を逸らす。
 確かに彼女の体調を心配したのもあるが――不可抗力以外で悠理と抱き合う決心がつかないのが実のところ本音である。
 ――バレてないよな?
「確かに抱き合うのが恥ずかしいですよね、分かります」
 バレていた。思わず視線を戻すと、悠理は最高のカウンターを決めた格闘家みたいな笑顔を浮かべてこちらを見ていた。
「まあ私は誰かさんと違って? 真実を知るという大義のためには抱き合う覚悟を持ち合わせていてあいたぁ! 叩くこと無いじゃないですか!!」
「君が五年間社内で味方が居なかった理由がなんとなく分かる気がしてきたぞ」
 仕返しにぶんぶんと振り回される悠理の腕を避けながら護留は言った。
「こっちのセリフです!」

      †

西暦2199年7月4日午後3時00分
澄崎市南西ブロック海面下居住区内、第三階層中央通り、〝物乞い市場〟

「護留さん――あなたは無計画さが目立ちます」
 二人で市場へ向かいながら、悠理は断言した。護留は言い返しもせず、悠理より半歩下がって周囲を警戒しつつ歩く。
「私の誘拐の状況が、聞けば計画外の出来事が重なった結果じゃないですか。それで私を隠れ家にまで連れてきて――備蓄の食料が切れたなんて。まさか二日連続で有機発電機をお出しされて、しかもそれが最後の食料なんて思ってもみませんでしたよ。武器を買うより先に食べ物を買ってください」
「君の分の食料まで気が回らなかったんだよ。普通の人間はALICEネットからエネルギー供給されてるから」
「確かにALICEネットからのエネルギー供給は自動に行われますが、公社がその気になれば供給を閉じることもできますし、供給した相手の場所の特定も可能です。だから私はフライヤーの中で即座にネットから切断しました。……もしかして、私がこの処置してなければ、今頃もう市警軍に踏み込まれてたんじゃないですか?」
「……かもしれない」
「はぁ……。護留さん、本当にあなたは天宮が――父が私を殺すために雇った凄腕暗殺者なんですか?」
「凄腕暗殺者なんて自称した覚えはないぞ僕は。多分、『Azrael-02』だから選ばれたんだろう」
「ああ、なるほど。でもそれ以前には護留さんはその――悪いことをして、お金を稼いでたんですよね? そんなドジっ子で大丈夫だったんですか今まで」
「一昨日の意趣返しのつもりか、その言い草は……。別に悪いことなんてしてない。死体漁りハイエナとか、紹介屋経由で受けた市警軍の輸送車襲撃の仕事とか――」
「輸送車襲撃は充分悪事ですよ!?」
 複雑に入り組んだ路地。辺りはほぼ闇で、護留の持つ高輝度ライトが無ければすぐに道に迷ってしまいそうだ。
 地下居住区は90年前から公式上は無人――どころかその存在すら抹消されている。だが実際は護留のように、地上の廃棄区画すら追われた人間がナノマシン汚染の比較的少ないエリアに点在して住んでいた。複数階層が存在し広大な延べ面積のため人口密度は低いが、総人数はそれなりの数がいるらしい。
 土地の少ない地表は基本的に高層建築がそのほとんどを占めていたが、地下居住区は高くても五階程度のマンションがあるだけだ。天井を見上げると、かつては機能していたであろう巨大な太陽光採光パネルが、増光素子が増幅させた街灯の微かな明かりの中に浮かんでいる。
 護留のねぐらがある第二階層やこの第三階層は比較的人口が多く、代々の住人の努力によって除染も進められてきたためガスマスクなしでも出歩けるらしい。これ以上深層になるとナノマシンの影響で奇形化した動植物や元人間が徘徊する魔境が広がっているとのことだが、誰も確かめたわけではない噂だ。
 二人が歩く左右には民家やマンションが立ち並ぶが、当然灯りはついていない。しかし悠理は時々家の中から強い視線を感じ取り、身を硬くした。護留曰くここの住人たちは相互不干渉を徹底しており自治体や自警団なども存在しないとのことだったが――何度か見えない不審の眼を向けられるうち、知らず護留の手を握りしめていた。護留も、握り返す。
 市警軍はもちろん、犯罪組織シンジケートや企業も進出していない、文字通りの治外法権世界。地表でも金品のため、あるいは快楽のために殺人は頻繁に行われていたが――ここではむしろそのような『わかりやすい』理由で殺されることは稀であるという。
 今目指しているのは〝物乞い市場〟と呼ばれるこの地下居住区唯一のマーケットだ。住民が回収してきた地上のゴミや、地下で長年放置されている品物を辛うじて稼働するリサイクル・プラントを用いて再利用し、売買が成されている。食料も故障寸前の小規模なバイオーム・プラント数基から創りだされており、地下住人のか細い生活基盤を支えていた。
「着いた、ここだ」
 護留に言われなければそのまま通り過ぎていたであろう、それくらい今までの景色と違いがない場所だった。だが言われてみれば、灯りがわずかに多く、炊き出しの煙がとこどころで上がっている。
「あの――そう言えばここでお金って使えるんでしょうか?」
「基本は物々交換だけど、エネルギー源や生体素材としての価値もあるALC《アルク》紙幣なら使用可能だ」
「ALCは擬魂が入っているのは知っていましたけど、素材としても使えたんですね」
「造幣も君の会社が担っているはずなんだが」
「……私はお金って普段使いませんから」
「そういう問題じゃないだろう」
 食料品店を探しながら歩く。ここに来るまでは誰ともすれ違わなかったが、市場だけあってかぽつりぽつりと人を見かける。だがそのほとんどはあらぬ方向を見つめぶつぶつと呟いていたり、上半身を極端に曲げて歩いていたり――まともそうな人間は一人としていない。
「地下住人のほとんどは、ゾンビなんだ。精神や魂に著しい損傷を負って地上にいられなくなった人間の、吹き溜まりなんだよここは」
 悠理も知識としては地下居住区やゾンビのことは知っていた。だが実際に目にするのは当然初めてだったし、ましてや澄崎市の足元にこのような世界が広がっていることは想像出来なかった。
 自分は〝内〟と〝外〟と二つに世界を分けて考えていたが――その〝外〟にすらこうやって別の世界が広がっている。五年前に立てた誓いは無駄だとは思いたくないが、なんだか自分はずいぶんと矮小なことをしていたのではないかと、少し気恥ずかしくなった。
「僕もゾンビなのかと昔は思っていたが、どうもそうでないらしい。だからねぐらにはほとんど寝に帰るだけで基本は地上で暮らしていた」
 居場所を逐われた者達のヘイヴンでも疎外感を覚える生活。徹底的に世界の外に立つ者であると思い知らされる日々。
 でも、
「今は、私がいますよ」
 悠理がぽつりと漏らした言葉に、護留は一昨日のように茶化したりはせず、悠理の手を握る力を強めることで答えた。

 食品屋の店主は、顔が半分ない男だった。大規模な遺伝子改変も含む身体改造を行った後、ろくなメンテをしなかったため時間をかけて少しずつ崩壊していったらしい。見かけによらずに明るい性格の男で、結構な量の干物や缶詰を割引いて売ってくれた。
「前来た時は見なかったな、あの店主。意外と人の入れ替わりも頻繁なんだ、ここは。だから新顔の君もそんなに目立たたないと思う」
 悠理と護留の目や髪の色は、遺伝子治療が進んだ澄崎市ではあまり見られないものだ。そういうファッションも存在するが、空宮が文化維持という名目の下に進める統制は市民の画一化を促しておりやはり迫害の対象となっていた。だがここはそもそもそういった治療を受けられなかったものや、追放された者たちの最後の居場所だ。
「住むにはともかく、隠れ場所としては最適なんですね」
「天宮もここのことは当然把握しているとは思う。だけどここはナノマシンがないからALICEネットの機能もほとんど制限されるし、住民も非協力的だから捜索は難航するだろうな」
 食品屋と同じ通りにあった雑貨屋では地上の新聞も取り扱っていた。一通り目を通してみるが、最新の日付でも四日前のものしかなく、地上がどうなっているのかは結局分からなかった。売り子に尋ねてみても地上の噂はここ三日全く入ってきていないという。
「――情報統制でしょうか」
「だろうな。爆破テロに天宮家当主誘拐事件なんて大ニュース、いつまでも隠し通せるものではないと思うけど、僕たちを見つけるまでの間くらいなら捜査のためと偽ってかなり無茶な情報封鎖も可能だろうし。上では戒厳令が敷かれているかもしれない。逆を言えば、こちらに情報が入ってこない間は、向こうもこっちを探している最中ってことだ。
 ……しかし目立たないし、見つけにくいとは言えやっぱり君の格好は人目を引きすぎるな」
 悠理は、未だ黒のドレスを着たままだった。護留の替えの服はサイズ調整の効かないツナギや市警軍の放出した軍服だけしかなかったので、既に着の身着のままで三日過ごしている。シャワーは浴びているが(とはいえ護留のねぐらにあるのは水しか出ない代物だった)そろそろレッドゾーンに突入する頃合いであり、悠理も割と女性としての危機を感じていた。大気中のナノマシンがないとまさかここまで自分の体臭が強くなるとは思ってもみなかった。
「うっ……。でもこれも護留さんの準備不足だと思うんですけど。私の誘拐を企てるなら、もう少し女性を迎え入れる用意をして欲しかったです」
「――いや着替えをわざわざ用意する誘拐犯なんているか? 別にそのままでも死にはしないんだし……」
「目立ったら! 駄目! なんですよね!」
「ああ、うん」
 悠理の気迫に押し切られて服屋を探すことになった。
 一軒目は割とすぐに見つかったが、シースルー専門店というあまりにもアヴァンギャルドな品揃えで悠理は顔を真っ赤にして店から飛び出した。人口の絶対数が少ない地下でこのような店がなぜ成り立つのか護留は店主と話をしてみたくなったが、悠理にきつく睨まれたので仕方なく離れる。
 二軒目は臓器屋と移植屋に挟まれた立地にあった。まともな神経の持ち主ならこんな場所にはまず店を構えないと思うが、地下の住人にはもともな人間は誰一人としていないだろうからこれでいいのだろう。取り扱っている服は立地に反してごくまともだったが、問題は店と商品全体に染み付いた腐臭だった。元違法ブローカーだったいう店主が勧める試着を愛想笑いで断って二人は店を出て深呼吸した。
「あの――護留さん。先ほどはわがまま言ってすみませんでした……。外で服を探すのってこんなに大変なことだったんですね……」
「……わかってくれればいいよ」
 悠理は何やら激しい誤解をしているようだったが護留は敢えて正さずにおいた。
 三軒目は中々見つからなかった。帰宅を提案する護留とそれを却下する悠理のやりとりが五回目に達した時、市場の通りの終わりにひっそりと佇む看板を悠理が発見した。
「ここが駄目ならもう諦めますから」
 既に諦めたような顔をして悠理はそう言ったが、予想に反して並べられている商品は普通の古着だった。透けてもいないし血や死臭が染み付いてるわけでもない。護留があくびをこらえて待つ間、悠理は真剣な顔をして服を見比べていたが、ついに一着手に取ると試着室に入っていった。
 ここの店主は左の眼だけ蒼いのが印象的な女性で、地下の住人には珍しく口数が多かった。地上ではもう見かけることがない紙巻たばこを吸いながらあれこれ質問してくる。
「彼女かい?」
「違う」
「じゃあ奥さんだ」
「違う」
「あの娘が着てるドレス、あれならうちの古着10着と交換してもいいよ」
「駄目だ」
「下着もつけてくれたら20着あげよう」
「なあ、そろそろ黙ってくれ」
「じゃあ君の下着でもいいよ」
 無視する。
 最近自分の忍耐力を試される機会が多すぎるのではないかと思いながら待っていると、ようやく試着室から悠理が顔を出した。
「ど、どうでしょうか」
 黒の無難なワンピース。胸元のレースが清楚さを醸し出す。悠理の好きな色なのだろうか。地味ではあるが、白い髪と白い肌によく映えて、
「おー似合ってる似合ってる。他に似たようなのあるからそれも買っていってよ。下着もオマケするよ、だからさー」
「いやきちんと金は払う」
「あ、ありがとうございます」
「ちぇー」
 店主は未練がましく悠理が脱いで畳んだドレスに眼を向けていたが、護留の無言の圧力に負けたのか他の服も持ってきて会計を済ませた。
「まいどありー。服も彼女も大事にしてやんなよ」
 最後まで一言多いやつだった。護留は無視してさっさと帰路につくが、悠理は店主に向かってわざわざお辞儀をしていた。
 しばらくお互い無言で歩く。市場を抜けようかという頃、悠理が唐突に喋った。
「彼女でも奥さんでもないのは当然ですけれど、私は護留さんにとって一体なんなんでしょうね」
 ――聞こえていたのか。
「人質だ」
「ですよねー。着替えをわざわざ用意してくれる優しい誘拐犯さんの人質でしたねー私は。
 で、その誘拐犯さんに聞きたいんですけど、この服、どうですか」
「――似合っているよ」
「こちらの目を見てもう一度言ってもらえますか?」
「囚人服みたいだ」
「それはちょっと酷すぎませんか!」
 小一時間ほどかけて歩いて帰ってくる。護留のねぐらは悠理がここで目覚めた時に推測した通りの廃棄倉庫で、地下居住区でもかなりの外れに存在した。外から見たら完全に廃墟で、一瞬入るのを躊躇するくらい入り口はおどろおどろしい。だが錆びた鉄格子を押し退けると護留が増設した様々なセンサーが張り巡らされていて、主人不在の間の番を担っていた。
「さて。じゃあ食事の準備をするから待っててくれ」
 買ってきた荷物を検めながら言う護留に、悠理は尋ねてみる。
「あの……失礼ですが護留さんって料理できるんですか? 肉は生食されてましたし――キッチンらしきものも部屋の隅にありますけど使用された跡が見受けられないんですが……」
「缶詰なんて中身温めればいいだけだろ」
「あ、駄目っぽい」
「栄養補給ができればどうだっていいだろう。ALICEネットによるエネルギー補給がどういうものか僕は知らないけど――擬似的に食事を体験できるわけでもなくただ腹が膨れる感じなんだろ?」
「まあ、そうなんですけど。普段からそうやってあまり食事をしないが故に食事に対する憧れというものがあってですね」
 護留の露骨にめんどくさそうな目を無視して、悠理は宣言した。
「とにかく! まともな料理が食べたいんです私は! 護留さんにも、振る舞ってあげます」
「振る舞うって……君が作るのか――作れるのか?」
「バカにしないでください。私は天宮家当主ですよ?」
「今の発言で期待値が一気に下がったんだが」
「と、に、か、く! 待っていてください!」
 悠理は早速作業に取り掛かる。まずは埃だらけのキッチンの掃除からだ。
 パタパタと働く悠理を、護留は空きっ腹を抱えてソファから眺めた。

「――そう言えば、悠理、君は科学者だったな……」
「……」
「科学者ならば、薬品の分量などは正確に計るよな……どう計ったら肉と魚の缶詰からあんこのような何かが生まれるんだ? それとも魂魄制御技術っていうのはそこまで進歩していたのか? じゃあ失効テクノロジー認定されてしまえよそんな科学」
「……護留さんって、罵倒のバリエーションが豊富ですよね」
「君の料理を食べたら舌が回ってしかたないんでね」
「その――すみませんでした……」
 異臭が漂っている。その発生源は木机の上に置かれた鍋(悠理が積まれたコンテナ群の中から発見した)だ。中には悠理が作った料理であるあんこのような黒い――いやあんこよりも明らかに茶色いドロっとしたもので満たされていた。おぞましいことに火に掛けていないのにふつふつと音を立て、虹色の泡を立たせている。
 しかしそれは半分ほど減っていた。護留が一人で処理したのだ。ちなみに悠理は一口食べた後、無言でまだ開けていなかった缶詰にそのまま手を伸ばした。
「あの、無理して食べなくても大丈夫ですから……」
「普段料理を滅多にしないどころか、食べない人間に台所に立たせた僕も悪かったしな」
 悠理はただひたすらしょんぼりしている。
「そう言えば、包丁で手を切ったりしなかった――って切っても治るんだったな、僕らは」
「えっ? ――あの、確かに指を少し切ってしまいましたが……まだ治ってなんか、ないですよ」
 ほら、と差し出された指を、護留は弾かれたように凝視する。赤い線のような細い切り傷が確かにそこにはあった。少しかさぶたになっている。
「ど、どうしたんですか? 顔が怖いですよ、護留さん」
 叫びたくなった。
 喚き、そこら中の物に当たり散らしてしまいたかった。
 同じ、だと思っていた。
 この世で唯一の同種だと、勝手に信じ込んでいた。
 ――勝手に死ねない化物認定するなんて、考えてみれば失礼な話だ。
 悠理が『Azrael』であるのは確かかもしれないが、彼女は過去の記憶もしっかり持っている。怪我も瞬時に完治しないしE2M3溶液を体内で循環させることなども出来ないだろう。
 彼女に抱いていた親近感の幾分かは身勝手な〝同族意識〟だったのは間違いない。ろくなものじゃないな、と自嘲する。
 急に黙りこくってしまった護留を訝しげな表情で悠理は見つめていたが、ああ、と気づく。
「そう言えば、護留さんは傷がすぐに治るんでしたね」
 やめろ、と内心で叫ぶ。
 同情も好奇も羨望も嫌悪も侮蔑も――他の人間から毎日のように浴びせられてきた。気にもならなかった。
 周りは全員敵か、いずれ敵になる者たちだったから。
 だが悠理――天宮から殺せと頼まれ、頭の中の声は護れと命令した彼女から、もし同情や好奇や羨望や嫌悪や侮蔑を向けられたら、自分は折れてしまうだろう。わずか三日程度しか一緒に過ごしていない少女に、知らずのうちにここまで依存している自分に驚く。
 しかし続けて悠理が口にしたのは、護留の予想からは大幅にずれた言葉だった。
「ありがとうございました」
 感謝。またしてもきっちりと三度お辞儀をしている。
「――え」
「傷が治るといっても、痛いんですよね?」
「そうだけど――それでなんで礼を言われたんだ、僕は」
「だって、私のことを護って、助けてくれましたから。ここに来るまでに、その能力ちからで」
 悠理は笑顔で言った。
 ――だって、あたしのことをまもって、助けてくれたから。
 名も知らぬ少女の言葉が脳裏で谺し、それと同時に護留の口元には微苦笑が浮かんでいた。
 ――喜ぶといい。
 君が会いたがっていたお姫さまは、君にとてもよく似ている。
 同族意識なんて、どうでもいいことだ。それは所詮、彼女に抱いた親近感のうちのほんの一部にしか過ぎない。
 どうやらそれ以外のほとんどの部分で、自分は彼女に惹かれ始めているようなのだから。
「悠理――君は本当に子供っぽいな」
「んなっ!? お礼したのにいきなりなんてことを言うんですか!」
 顔を赤くして反論する悠理を眺めながら、護留は残りの料理を口に運んだ。

      †

 それから二日後。
 発掘された調理器具が増え、買い足された食材や調味料が並べられたキッチンからはいい匂いが漂ってきていた。
「やりましたよ! 成功です!」
「……そう言うのはこれで二度目だけどな。今朝のも匂いだけは良かったのを思い出すんだ」
「今回こそ大丈夫ですから!」
「その言葉はこれで三度目だな」
 運ばれてきたのは、ビーフシチューだった。少なくとも見た目と香りは。
「いただきます」
 スプーンを口に運ぶ護留を悠理は固唾を呑んで見守る。
「い、いかかですか?」
「――うまい」
 驚いた顔を皿に落とす護留に対し、悠理は喜ぶより先に胸を撫で下ろしていた。
「良かったぁ、ちゃんと思い出せて」
「そういえば、最初からシチュー――みたいなものを作っていたな。好きだったのか?」
「ええ。昔、一度だけ眞由美が、シチューを作ってくれたことがあるんです。記憶にある限りでは、それが私の最初の食事でした」
「君と眞由美の間には、思い出がたくさんあるんだな」
 食事の手を止めて、護留が言った。連れられてきてからの五日の間にも、しばしば悠理は眞由美に言及していた。
「ええ、たくさん。彼女がいなくなった五年の歳月も、彼女との思い出があったからこそ辛くて――彼女との思い出があったからこそ耐えられました」
「どんな人だったんだ?」
「そうですね……優しくて、おっちょこちょいで、でも私の知らないことをたくさん知っていて――眞由美からはたくさんのことを教わりました。当時既に禁制になっていた絵本のお話とか、逆に一部で細々と受け継がれていたあやとりとか」
「あやとり……」
 護留は懐に手を入れる。逃亡の最中の混乱でも失われず、それはそこにあった。
 焦げ目のついた、赤いあやとり糸。
「それは?」
 悠理は驚き、ついで懐かしさに顔を綻ばせた。
「――君のファンだった女の子が持っていた物だ。これは、多分君が持つのが一番いいと思う」
 悠理は戸惑いながらも差し出された赤い糸を受け取る。
「私の……ファン?」
「祭りの場で、一人で泣きそうになっていた子供の面倒を見たらお礼に貰ったんだ」
「そう、ですか。お祭りで……」
 悠理はそれ以上深く聞いてこなかった。多分護留の言葉や表情から、少女の末期は察したのだろう。糸の焦げ目を指先でそっとなぞっていた。
「そうだ、それで〝塔〟を作れるかい? 僕が見せてもらったのはなんだか捩れてたから、きちんとしたのを見てみたいんだ」
「ええ、できますよ。どうしても縒れちゃうんですよ、最初の頃は。私も眞由美に教わったばかりの頃はぐにゃぐにゃでしたから」
 指をさっさっと動かし、糸を外したり取ったりする。そして出来上がったのは、
「はしごです。これの上をすぼめれば、塔ですね。幾つかバリエーションもあって二人で作る塔もあります」
 喋りながらも淀みなく指を動かす。きっと何度も何度も作ってもう手がすっかり覚えているのだろう。親指の糸を外して束ねたりし、先程より少し複雑な形が出来上がった。
「この真ん中を引っ張ってもらえますか……そう、そこです」
 護留が菱型模様の真ん中を摘んで持ち上げると、電波塔のようなシルエットが立ち上がった。
 悠理はそれを見て、ほんの数日前まで自らが所属して公社の建物を思い出し、独り言のような調子で口を開く。
「――公社は、天宮は今どうしているでしょうか」
「さあな」
 護留は糸を摘む指を離した。
 塔が、崩れる。
「相変わらず地下には何の情報も降りてこない。地上に出るのはまだ剣呑過ぎるし、ALICEネットを使えばたちまち逆探知されるだろう。まだしばらく様子を見て、変わりがなければ人を雇って上へ――」
「――回りくどすぎます」
「万全を期しているだけだ」
「護留さんは、天宮が憎い――んですよね? 『』とお母さんを返してもらうとフライヤーの中で言ってましたが……一人で目覚めたときには既にお母さんは天宮に連れ去られていたということですか?」
「そう、だ」
「お母さんは、どんな人だったんですか?」
 悠理の質問に、護留はびくりと身を震わせた。
 母さん――母さんは……いない。連れ去られた。
 誰に?
 天宮に。
 そうだだから僕は天宮が憎いんだ母さんを奪い僕から死を奪った天宮を許さない――僕? 僕の名前は引瀬護留違うこれは僕の名前じゃない僕の本当の名前は、
「僕は――ぼくは、誰だ」
 記憶の欠如、認識の齟齬、思考の撞着。
(・――これから、あなたを酷い目にあわせるよ――・)
(・――最期に、一言だけ。ごめんなさい、そして――・)
「――さん! 護留さん!」
 悠理に揺さぶられ、護留は混濁した意識を取り戻す。
「大丈夫ですか?」
「ああ――いや」
 母のことは何も覚えていない。ましてや屑代に会うまでは自分を『Azrael』にしたのは天宮だという確たる証拠もなかったのだ。
 それなのに五年間、自分は天宮から逃げ続け、憎み続けてきた。自分の過去を本気で調べようとしたことすらなかった。
 押し着せられた名前――そして改ざんされた記憶と認知。その異常性を護留は今やはっきりと認識していた。以前は母のことを考えてもこんな状態にはならなかった。悠理と出会った時の完全覚醒、あるいは魂の開放の影響だろう。
「悠理」
 正面から目を合わせ、護留は少女の名を呼ぶ。
 消された過去、偽りの認識の中で、唯一の真実だったその名前を。
「僕は――僕がなんなのかを知りたい」
「私も――私を囲む世界と運命について知りたいです」
 護留は頷き、そして言った。
「幻を――過去を見よう。二人で。一緒に」
「――はい!」
 護留は、悠理の細い体を抱き締める。
 悠理もそっと護留の背中に手を回す。
(阿頼耶識層へのアクセスを確認……承認)
 二人の抱き合う強さ、思いの強さに比例するかのような長い幻が、始まった。

「プロジェクト・ライラの実行日。ついに、この日が来ましたね、悠灯先輩。緊張してますか?」
 引瀬由美子は、柔らかな物腰の女性に、少し緊張した面持ちで話しかけた。場所は前回の幻と同じオフィスだ。
「まあ、それなりにはね。でも――悠理と、この街の人々のためですもの」
 愛おしそうに笑み、ふっくらと膨らんだお腹を擦る。
「歴史上の全人類の悲願――不老不死化。その記念すべき第一号になれるのは喜ばしいし、誇らしいわ」
「でも――もうやっぱり少し実験を遅らせることはできなかったんでしょうか。悠理ちゃんを産んでからの方がリスクは少ないと思うんです」
「無理よ」
 変わらぬ笑みのまま、女性は――天宮悠灯は断言した。
「もう、あたしの身体自体が限界なの。空宮が天宮に対して優位に立とうとして行った種々の人体実験のせいでね。元々身体が弱くて、空宮の跡目には相応しくないと言われていたあたしを、なんとか一族の出世レースの中で勝ち上がらせようと両親も必死だったから」
 由美子は唇を噛む。
「すみません……」
「そんな顔しなくていいのよ、由美子。結局、実験は全て失敗。ボロボロになって半ば放逐されるように市大へとやられたけれど――そのおかげで理生君やあなた達に会えたんだから。そして今こうやってみんなで研究した計画で私と――そして都市は救われようとしている」
「しかし未だに分からないんですけど。先輩ほどの人が理生のどこに惚れたんですか?」
「あら。人の夫に対してずいぶんな言い草ね?」
「私の親が公社の副社長だったので、理生との付き合いは長いですからね。理生は子供の頃から天宮の次期当主として――技術発散を抜本的に解決しなければ、このままいずれ遠くない未来に滅びる澄崎を担う者として育てられてきましたから。一々言動が虚無的で、昔はそれでよくイライラして喧嘩になりましたよ」
「確かに、出会ったばかりの頃はなんて虚ろな人なんだろうと思ったけれど――でも誰よりも強く都市を救いたいと願っている人だった。それに、プロポーズの言葉はとっても情熱的だったのよ」
「り、理生の情熱的なプロポーズ……」
 由美子はなんとも微妙な顔をした。笑いを堪えているらしい。
「聞きたい?」
「え、遠慮しときます」
 聞いたら間違いなく噴き出す、といった顔で由美子は断った。
「そうだ、先輩、今日の実験が終わったらまたあやとり教えてください。最近、眞由美もやり始めたんですよ」
「ええ、もちろんいいわよ」
・――この人が、天宮悠灯。私の、母親? あやとりも――この人が……――・
 悠理は当惑した顔で、悠灯を見る。
・――空宮から、嫁いできていたのか――・
 護留も驚いていた。天宮と空宮。二つの組織は不倶戴天の敵同士だと思っていたからだ。
・――ライラは、不老不死化の実験だったんですね――・
・――確かに、不老不死になってしまえばいくら技術が発散しようとも構わないからな。都市は救われるだろう。もしそんなことが可能ならば、だけど――・
・――護留さんが見た幻では、この後の実験は……――・
・――ああ、失敗する。そして、その中で生まれた『天使』――悠理、君を利用したプロジェクト・アズライールが始まるんだ――・
・――……――・
・――辛ければ、また止めるか?――・
・――いいえ。最後まで、見届けましょう――・
 護留は頷いて、視線を室内に戻す。がやがやと数名の人間が続けざまに入室してくるところだった。メンバーはこの前の幻でも見た女性二人。花束と哉絵。そして続けて実験失敗の場面で見た男性三人。理生、眞言、雄輝。
「みんな、揃ったようだな」
 眞言が一同を見渡して言った。
「眞言さん、眞由美は?」
「眞由美ちゃんなら、うちの雄哉の面倒を見てくれてますよ」
 哉絵が由美子の質問に答える。
「いやー助かるぜ、雄哉のやつ眞由美ちゃんが側にいるとピタッと泣き止むからな。俺に似ていい女ってのを見分ける目を持ってんだな――あいてっ」
 哉絵が雄輝の後ろ頭を叩いて無駄口を止めた。
「本日は、我々の都市救済計画『プロジェクト・ライラ』の実験を実施する。手順は昨日のプレテストでやった通りだが各々再確認をしておいてくれ。
 さて――『ライラ』は知っての通り、不老不死を作り出すための計画だ。不老不死――即ち情報の永遠の固定、〝発散〟を食い止める概念。
 僕一人で研究していたが、天宮と空宮に危険視され、失効テクノロジー認定が下されそうになったところを救ってくれた理生と悠灯先輩には感謝してもしきれない。ありがとう」
 眞言が頭を下げる。
「頭を上げてください、眞言。むしろ感謝しているのはこちらなんですから。私たちだけでは悠灯も都市も救うことは決して出来なかった」
 理生がとりなし、順にメンバーの顔を見渡す。
「そしてもちろん、魂魄制御技術の各分野でのプロフェッショナルである皆さんの協力なしには今日この日に辿り着くことはなかったでしょう」
「ま、俺はオマケみたいなもんだけどな。大学の席次もみんなと違って真ん中以下だし」
 雄輝が肩を竦める。理生はそんな雄輝を揶揄するような調子で、
「あなたの成績が悪かったのは授業をサボっていたからでしょう。それに、天宮家当主の私より予算の折衝が上手くて、外部組織とのパイプが太い人にそんなことを言われましてもね……。
 ついでですからこの場で発表してしまいますが、公社の役員会議の結果、次期情報部の長はあなたに決まりましたよ、雄輝。おめでとうございます」
 おお、と周囲はどよめく。当の雄輝は「ついでかよ!」と不満そうに叫ぶが嬉しそうだった。
 終始和やかな雰囲気。だがそれを眺める護留と悠理は不穏の気配を嗅ぎとっていた。今まで薄っすらとした笑みだけを浮かべ、一言も口を挟まない女性――花束から。
・――……この先を見ましょう、護留さん。母が――いえ花束さんが何をするのか、確かめなければいけません――・
・――ああ、だけどどうやって切り替えればいいんだ、これ――・
・――阿頼耶識層に格納された記録の世界なんですから、たぶん二人で強く願えばいいと思います――・
・――願いか。まあやってみるか――・
(阿頼耶識層への別個データへのアクセス要求を確認……承認)
  周囲の景色が捲り上がる。だが幻は続くようで、その下から別の場面が立ち現れた。
・――本当に変わるんだな――・
 護留の呟きは叫び声にかき消された。
「――何が起こった!? 第壱実験室の様子はどうなっている!」
 眞言だ。ありとあらゆる警報装置が明滅し、室内を染める。大量のモニターが並ぶ、管制室のような場所だった。
『第一級アラート。研究部第壱実験室にて、クラスAAAの魂魄災害ソウルハザードが進行中。研究棟への全通路の緊急封鎖完了。自動滅菌・鎮魂処理が正常に終了しなかった恐れがあるため、現在入退室を無制限に禁止しています。繰り返します』
「実験室でチャンバー内監視をしていた花束は何をしていたの!? 全ての数値が反転してる! これだと不老不死の反対、永遠の死と全ての解体――〝発散ダイバージェンシー〟が起こる……!
 悠灯先輩が……消えちゃう!」
 哉絵の悲鳴。
「緊急停止コマンド!」
「駄目、受け付けない! 通信も途絶したままで……」
「二人とも落ち着け! このフロアの隔壁封鎖は解除した。実験室のやつは最終防壁だから権限A以上の認証コードが二人分いる! 眞言、来い!」
 雄輝が声をかけ、部屋を飛び出す。眞言と哉絵もそれに続いた。
・――これは……この場面は実験失敗直後ですか――・
・――そうみたいだな。でも花束はこの時第壱実験室にはいなかったはずだ――・
 二人は管制室から外に出る。先ほどまでけたたましく鳴り響いていた廊下の警報は止まり、非常灯のオレンジの光と静寂に染められていた。
 そこに彼女はいた。
 壁に背をもたれさせ、涙と鼻水で汚れた顔。ブツブツと何事かを呟き続けている。
「やってやったやってやったやってやった。ざ、ざまあみろ。そ、空宮の売女なんて理生先輩には相応しくないんだそうだあいつが来なければわた、私が天宮夫人だったんだからここ子供まで作りやがってケッケケケッ権利を取り取り戻すだけなんだからそうなんだから……」
 狂的な呟きとは対照的に、顔はどこまでも青褪め――かなしみに歪み。泣いていた。
「それにそれにそれに私は悪くない私は悪くない。失敗を知らせなかっただけなんだからみんなの準備が甘かったのが悪いんだから私は悪くない私は悪くない私は悪くない――!」
 悠理は口を開こうとして、閉ざし。
 震える拳を握り締めて、開き。
 睨もうとして、目を逸し。
 耳を塞ごうとして、やめ。
 泣こうとして、苦笑し。
 様々な感情の波がお互いを打ち消しあった、平坦な声で、ただ一言だけ漏らした。
・――かわいそうな人……――・
 曲がりなりにも、花束は悠理にとっては母親として10年間接してきた相手だ。顔を幻で初めて見る母親と――それを殺した育ての親の様を見た彼女に、なんと声をかければいいのだろう。
 護留の逡巡している時間は短かったが、悠理はその間に感情の整理をつけたようだった。
・――その――大丈夫か、悠理――・
 ほとんど意味のない質問を投げかける護留に悠理は頷く。
・――ええ。五年前に、私は既に両親を敵として認め、生きてきましたから。ただ――哀れみしか浮かびません――・
・――君は強いな……――・
「ここにいましたか、花束さん」
 いつの間にか悠理と護留の間に割って入るような場所に、理生が立っていた。
 悠理が息を呑む気配が伝わってきた。護留も戦慄している。何故なら理生の手には――
「――あ。り、理生先輩……!?」
「私と、悠灯さんの子供です。あなたには――責任を持って育てていただきたいですね」
 光り輝く嬰児みどりごが、抱かれていた。
「ひっ――!? ひいいいいいいいいいいいいいい!」
 花束の絶叫がを無視して、理生は愛おしそうに赤子を抱き直した。

・――護留さん――場面を変えましょう――・
 流石に顔を蒼白にして悠理が言った。
・――分かった。……だが幻はまだ見るんだな?――・
・――はい。まだプロジェクト・アズライールも、護留さんの過去についてもなにも分かってないですから――・
 護留は頷くとさっきと同じように強く願う。
 真相を。自分達の過去を。
(阿頼耶識層への別個データへのアクセス要求を確認……承認)

 護留と悠理は身動きが取れない自分たちに気付いた。視点すら固定されている。そして思考を覗き見るような感覚。
 それらの持ち主は引瀬由美子。即ち、以前まで護留が見ていた幻に戻っていた。

・――どうやら辛うじてお互い意思疎通はできるようだな――・
・――ええ……でもなぜ動き回れないんでしょうか――・
・――さっきの君の精神ショックが原因かも知れないし――あるいはより深く『プロジェクト・アズライール』を知るためには引瀬由美子の内面も重要なのかもしれない。今は集中して見守ろうか――・
・――はい――・

「もう、一年か」
 私は独り言を漏らす。こうやって誰もいない部屋で監視カメラに囲まれて研究していると自然と独り言は増える。
『プロジェクト・ライラ』の失敗――勿論花束がすぐに失敗の一報を入れなかったのが最後のトリガーだったのだが――その根本的原因はとある理由により、全くの不明だ。他のみんなにも解明することは不可能だろう。
 もっとも、この一年で私を含むプロジェクトのメンバーの状況は激変したので確かめることは永久にできないのだが。
 まず理生は全てが変わってしまった。全く別種の生物になったようだった。たまに研究の進捗を伝える時にしか会うことはないが、プロジェクト・アズライールに狂信的なまでに全てを捧げるその姿は痛々しいを通り越して恐怖しか覚えない。
 悠灯先輩が死んで半年もしないうちに花束と再婚した時に、私は全てを諦めた。
 そして、哉絵。彼女は――天宮から逃げ出した。幼い一人息子、雄哉を連れて。その理由は良く分かる。自分たちが雄輝の人質として扱われないようにするためだ。私に対する眞由美のように。
 その雄輝は万が一にも妻子に対する追手が掛からないように、理生の走狗と化した。元の名を捨て、屑代《くずしろ》等と名乗り内外の理生の敵の排除を淡々とこなしている。
 最後に眞言さん。
 私の夫は、自殺した。
 実験失敗の後、すぐに私は隔離させられ、家族ともバラバラになった。だから死に目には直接合っていない。遺体との面会すら叶わなかった。だが眞言さんが失敗の責任を取り自殺をするような人ではないことを私は知っている。彼はこれまでどんな失敗を犯しても、それを覆す成果で報いてきた。
 自殺の報は雄輝――屑代が伝えてきた。余計なことは何一つ喋らなかったが、去った後にデータグラスをわざと置いていった。そこに入っていったデータを研究の合間に監視の目を盗んで解析した結果――眞言さんは、理生に殺されたことが判明した。プロジェクト・アズライール中止の活動を行ったために。私を救い出すために、死んだ。実感が全く湧かない。軟禁されているからもあるだろうが――多分精神の防衛機構が深く考えることを拒否しているのだろう。

・――そんな……眞由美のお父さんまで、父が……――・
・――大丈夫か? さっきのこともある。辛いなら止めても……――・
・――いいえ、続けましょう――・
・――分かった。だが何かあればすぐに言えよ――・

 それに今の私にはやるべきことがある。おぞましいが、歩みを止めることはできない。
 ――『プロジェクト・アズライール』。
 理生が全てを巻き込み、その全てを捧げてでも成し遂げようとし、私がシステムの中枢を開発しているその計画とは、プロジェクト・ライラ――全市民不死化計画の失敗の産物である『天使』天宮悠理を用い、全市民の魂魄を抽出しALICEネットごと格納。そのことによって澄崎市を覆う大規模事象結界を無効化し外界へと脱出する、というものだ。
 全市民の死を以って果たされるエクソダス。成功したとしても、それを確認するものがいない、極限の手段のための窮極の目的。

・――これが、プロジェクト・アズライール……――・
・――無茶苦茶な計画だな。800万人を殺して悠理だけ外に出る? なんの意味があるんだ、そなんこと――・
・――願ってこの場面に来たということは、きっと全ての答えはここにあります。私は――天宮悠理は、見届ける義務がある――・
 二人は再び引瀬由美子の記憶に集中する。

 プロジェクト・ライラの要だったハイロウ現象。即ち魂子‐反魂子はんごんし対生成機構。対生成の際、常に魂子だけが多く生成されることにより世界は命で溢れている。
 生と死の対称性の破れ。それを証明したのが眞言さんだった。
 だがライラの失敗により条件によっては反魂子が――死だけが大量に生成されうることが判明した。ALICEネットと人の精神場の中だけで制御可能な死のハイロウ。それを物理次元でコントロールするための存在、それが『天使』だ。
 それはつまり、人の死と生を自在に操る者。神話に語られる告死天使。神を助けるものアズライール
 なぜ悠理ちゃんがそんな存在になったのか――推測に過ぎないが、恐らく悠灯先輩が一つの身体に二つの命が宿る妊婦だったことが鍵だったのだろう。
〝死〟の過程を母親である悠灯先輩が一身に受け、悠理ちゃんは〝死〟の結果だけを享受することができる存在となった。
 死――それは魂と肉体の結合解除。ALICEネットに接続された市民はもちろんのこと、アズライールの力を持ってすれば非接続の市民の魂魄、擬魂すら全て回収できるだろう。
 全市民の抹殺。そんなことをしてまで果たして都市の外に出る意義はあるのだろうか?
 ある、と理生は言った。
「私は見たのです。生と死の連鎖対消滅反応の果てに、悠灯さんが阿頼耶識層の更に上層へとシフトする際に。ALICEネットの自己防衛反応により阿頼耶識層が開き、その深奥に隠し持っていた、この街の建造された理由を」
 その時理生が熱っぽく語った〝理由〟とやらを、私なりに理解すれば次のような物になる。
 技術的発散とそこから連なる戦争の結果、天宮により魂魄制御技術は生まれ、それを以って空宮と天宮は澄崎市を創りあげた――初等科の授業で習う、この街の縁起だ。
 この歴史は、完全な欺瞞だった。
 逆だったのだ。魂魄制御技術の発見とALICEネットの発明に伴い、技術的発散は発生した。
 当時の政府であった空宮とその直属の研究機関だった天宮は、戦争のために魂魄制御技術を開発し、そして人類はその繁栄を絶たれた。
 魂魄制御技術とは発散を起こさない唯一の技術などではなかった。真逆、技術発散を起こすための技術だったのだ。ALICEネット――人々の精神を利用した共時性通信網。生命維持エネルギー供給までも可能とする夢の発明。
 それは人類の集合無意識にエントロピーを捨て、魂魄からエネルギーを汲み上げることにより稼働する。
 その弊害として技術的発散が発生する。集合無意識の汚染と魂魄の虚弱化。それが発散の原因だ。
 つまりALICEネットを捨て去れば、発散は防げる。だが魂魄制御技術と問題の発散そのもののお陰で戦争に勝利した政府はそれを良しとしなかった。
 代替として生み出されたのが擬似魂魄、そして洋上閉鎖都市への疎開だった。
 擬魂をエネルギー源として用いることによりある程度の魂の弱体化の補填は可能だったが、完全ではなかった。そのためALICEネットの利用には魂の質により制限がかけられた。魂の質――それは〝燃料〟としてのランク付けであり、良質な者ほどネットからのエネルギー供給をより受けられるが、それは自分の魂をすり減らすことに他ならない。
 洋上閉鎖都市建設とそこへの移住。それは発散の影響を抑えるためなどではない。これも逆だ。発散を起こす魂魄制御技術を思う存分使うために、ALICEネットと市民の魂を用いて澄崎市を除いた全世界に事象結界を張り巡らし、発散をそちらに押し付ける。
 事象結界とは時間以外の全ての物理的事象を封じる技術だ。つまり澄崎市の外の世界では今でも人間は存在し、そして彼らの築いた歴史の結晶とも言える技術は我々のせいで消滅し続けている。彼らの気づかないうちに。
 理生の語ったこれらの内容が真実であるとする確証は私にはないが――傍証なら存在する。
 プロジェクト・ライラに関するあらゆるデータが、消えていたからだ。深く関わった私ですら、何をやっていたのかは思い出せるのだがどうやったのかは――全く思い出せない。
 失敗時に起こったALICEネットに対する高負荷のせいで、技術的発散が発生したのだ。
 欺瞞の歴史。傲慢な技術。不正と負債に満ちた街。それらを無邪気に信じ、都市を救うなどとはしゃいでいた私たち。
 今の理生にとっては天宮も空宮も、都市も等しく無価値だろう。だがそれでも理生は都市を救うと言っていた。
 それはずっと、悠灯先輩が言っていた言葉でもある。人々の魂と今までの記憶だけの脱出行。それは確かに世界にとっての救いで、我々にとっての百年の罪に対する禊でもあるだろう。
 私――私は、何をやっているのだろう。稀代の虐殺者になろうとしている理生。その手助けか。眞由美を人質にされているとはいえ何も知らない市民のことを思えばこのような研究に手を染めるべきではない。
 市民だけでなく――悠理もだ。
 視線を有機量子コンピュータのモニターから逸らす。そこには第壱実験室と良く似たチャンバーがあり、その中には異様な光景が広がっていた。
 子供部屋だ。
 カラフルな動物の絵が壁には描かれ、おもちゃが散乱している。あちこちに貼られたホログラムのシールから浮かび上がった御使いたちが、揃って喇叭を吹いていた。無機質な実験室には全く似つかわしくない。部屋の中心にはベビーベッド。そこにはもちろん赤ん坊が眠っている。
 天宮悠理。
 そう呼んでいいのか――私には分からない。何故なら彼女の身体は、『Azrael』というコードネームがつけられたその魂が無から作り出し、意識も眞言さんの研究に基づいて私が制作した仮想人格ペルソナが埋め込まれているからだ。もう、何一つ悠灯先輩と理生の子供である部分は残っていない。
 ライラ失敗直後に発生した彼女は、ただ存在するだけでALICEネットを崩壊させ都市を発散させるほどの高密度な反魂子をその身に宿していた。そのため、私は彼女の魂を分割し、そのうちの一つを『Azrael-01』として彼女に改めて挿入し、制御し易い性格付けのなされた仮想人格を埋め込んだ。
『天使』に対して、悪魔のような所業だ。眞由美を人質に取られているとはいえ、友人の娘にしてよい仕打ちではなかろう。だがこれは私のささやかな抵抗でもあった。
 仮想人格を組み込んだのは理生の指示だ。分割され脆弱になった魂を保護するのが目的だった。
 私はそこに罠を仕掛けた。仮想人格が存在する限り、悠理の中の『Azrael』が起動しないようにしたのだ。二重人格による精神障害を起こさないように魂と仮想人格のバイパスは切っておくのが普通だが、私は細いパイプを残しておいた。
『Azrael』――本物の悠理が、寂しくないように。仮想人格を通じて外の世界を見られるように。
 互いに認識することはないだろう。悠理は仮想人格が送る情報を夢のように愉しむ。それだけでよい。仮に相互認識出来たとしたら――無理やり仮想人格を消し去ることで、悠理を覚醒させてしまうことが可能だ。
 理生は10年ほどの経過観察期間を置いて、肉体がある程度成長さえすれば分割した魂を彼女に戻し、プロジェクト・アズライールを遂行するつもりだ。そうなれば私にはもう計画自体を止める術はない。
 ならばせめて――死の天使としての運命を背負わされた悠理に、少しでも長く人としての生を、そして幸せを。それだけが私の今の願いだ。
 視線をモニターに戻す。そこに表示されているのは『Azrael-02』の情報。こちらは現在は解析中であり、終わり次第、都市の外の世界で『Azrael』が遭遇するかもしれない脅威に対抗する自衛用の様々な機能――超再生モルフォスタシス能力や戦闘用機動能力が入力される予定だった。
 私は――――…………

・――これが、私……わたし? わたしは……なんの……いったい――・
・――なんだ? 幻が――途切れる? 悠理、大丈夫か――・
 由美子の思考が感じ取れなくなる。
・――悠理?――・
 返事がない。そして、
(阿頼耶識層からの強制切断処理を確認……実行)

 現実が唐突に戻ってくる。
 悠理の様子がおかしい。激しく浅い呼吸。大量の発汗にも関わらず、ぞっとするほど体温を感じられない。唐突に膝の力が抜け、全体重を護留に預けてきた。
「悠理!」
 抱きしめていた彼女から伝わる鼓動は、とても弱くなっていき――ついには停止した。

第五章 天使は舞い、都市は堕ちる Azrael in Azure

西暦2199年7月8日午前4時00分
澄崎市南西ブロック海面下居住区内、第二階層〝護留のねぐら〟

 暗い円形の部屋。床は青白く微発光し、虫の羽ばたきのような低音が流れている。
 ああ、と悠理は気付く。これはいつもの悪夢だと。気付いた瞬間にはもう、十字型の拘束台に縛りつけられていた。
 正面には液体で満たされたガラスのシリンダー。
 中にはボロボロの少女。
 眞由美。
 夢の中ですら、涙は出ない。
 五年前は、もう一人の私、いや――〝本物〟の悠理、『Azrael-01』が私を眠らせてくれた。だが彼女も消え、更には夢の中でどうやって眠ればいいのか悠理には分からない。だからいつもこの悪夢は最後まできっちり見ることになる。
 眞由美が首を持ち上げる。紅い瞳と瞳が交差し、眞由美が唇を開く。悠理は強く目を閉じる。そうすれば目の前の景色を消しされると信じる幼子のように。
 しかし流れ出てきたのは、いつものような救助の哀願と殺害の懇願ではなかった。
「悠理様」
 液体とガラスに隔てられて決して届くはずのない声を悠理は聴く。
「――え?」
 戒めが解け、床に足がつく――動ける。
 悠理はシリンダーに駆け寄った。
 眞由美は――優しい顔のままだった。苦しみも呪詛もない、楽園の住人のように穏やかな表情。
「悠理様――すみませんでした」
「な……」
 悠理は震える声を絞り出す。
「なんで眞由美が、謝るの?」
 私のせいで。不用意な一言が。あなたを殺したようなものなのに。
 鼻の奥がツンとする。それでも涙は流さない。
 私はもう眞由美と同じ年齢で――言葉を護り、約束を留めることができるということを見せるんだから。
「母と、昔から決めていたんです。悠理様が〝役目〟に目覚めるのを、できるだけ先延ばそうと。人として少しでも長く生きてもらおうと」
 この夢の直前まで見ていた幻。そこでは引瀬由美子も同じことを考えていた。
「母は贖罪の気持ちも込めていたようでしたが――私はただ純粋に、悠理、あなたを護りたかった」
「眞由美は――眞由美はいつだって私を助けてくれたし、護ってくれたよ! むしろ、私がそこまでしてくれた眞由美を護れなかった……」
「でもその護ろうという意志のせいで――逆にこのような事態になって、悠理を傷つけた」
「でもその護ろうという意志のおかげで――私はその後も生きられた」
 自殺を考えたことは何度もある。その度に思い起こしたのが、『強く生きてください』という眞由美の言葉だった。
「そうだったんですか。良かった、それだけが気になっていたんです」
 眞由美はにっこりと笑った。
 いつの間にか周囲の風景は変わっていた。壁いっぱいに澄崎市の景色が広がり、ホログラムの御使いがあちこちで喇叭を吹く、悠理の部屋だ。眞由美は、メイド服。悠理も昔の服装に戻り、ベッドに腰掛けていた。
「そうだよ。だから眞由美、あなたにはこれだけは伝えたかった」
『ありがとう』
 お互いの声が、綺麗に重なった。二人は顔を見合わせて、クスクスと笑った。
「これはさっきまで見ていた幻と一緒なのかな。会話できてるから、違うような気もするけど」
「いいえ、残念ながらただの夢幻ゆめまぼろしです。もちろん阿頼耶識層からのデータの流入なども関係していますけれどね」
「そうなんだ。じゃあいつか覚めちゃうんだね……ずっとお話していたいけれど」
「今の悠理は、もう私の手からは離れた大人ですから。待たせてる人もいるでしょう? 早く目覚めないと、大変なことになりますよ」
「大変なこと?」
「ええ、大変なことです」
 そう言って、眞由美はいたずらっぽく微笑み、悠理の服を指差して――

      †

「ぁふ? くしゅん!」
 目覚めと同時にくしゃみが出た。寒い。護留のねぐらにある唯一の防寒具が今悠理の上に掛けられている毛羽立った毛布で、ここにきてからはずっと悠理だけが使っている。ほぼ匂いというものが存在しない環境で暮らしてきた悠理は最初の頃は洗われても微かに残っていた護留の匂いにドギマギしていたが、今では完全に自分の体臭で上書きしてしまい、唯一公社に置いてきて後悔しているお気に入りの枕の次くらいには既に愛着が湧いていた。その毛布を首元まで引っ張り上げようとして気づく。
「え?」
 白い身体にうっすらと鳥肌が立っている。
 全裸だった。
「は?」
 思わず見直す。
 15歳にしては慎ましやかな胸。成長しないのはきっと恐らく職場環境のストレスのせい絶対そう。ここにきてからはバストアップ体操をしていないが一週間サボったくらいならまだ大丈夫だよね? 胸は少し残念だがボディラインには自信があり、腰のくびれから太腿、足のつま先にかけての流線は航空力学的優美さを感じるほど滑らかであり、ムダ毛無し、シミなしで我ながらうっとりしてしまうが自分にはナルシストの気があるのだろうか。
 見直しても、全裸のままだった。
「え、ええええええ!?」
 毛布で急いで胸元を隠す。そこにちょうどキッチンから濡れタオルを持ってきた護留が戻ってきた。
「起きたのか」
 護留は悠理を見て、安堵の吐息を漏らす。
「少し待ってろ、今果物の缶詰でも持ってくるから」
「いえ、あのですね」
「どうした、果物も食べるのが辛いならまだ少し寝ておくか? でも何か食べた方がいいと思うぞ。自分じゃ分からないかもしれないが君は大分消耗している」
「あ、でしたら白桃の缶詰があったはずですから、それをいただけますか」
「分かった」
「――そうじゃなくてですね! なんで私が裸になってるんですか!」
「毛布は掛けておいたはずだが」
「そういう問題ではなくてですね!」
「あのな、君はさっき幻を見てる最中に、心停止寸前までいったんだぞ」
「え……?」
「魂魄に過負荷が掛かったからだろうな。途中で気付けなかった僕も悪かった。幻が終わったら心拍数は回復したが――服を脱がせたのは寝汗を拭くためだ」
「そ、そうだったんですか……何度もご迷惑かけて、すみません」
「謝らなくていい。幻を見たのは僕の願いでもあるんだから、半分はこちらの責任だ。それに体を拭くのは二度目だから慣れてるし」
「――二度目?」
「初日にここに来た時、血や埃塗れだったからな。いくら声をかけても揺すっても起きないから、身体を僕が拭いた」
 さらりと言ってのける護留に対し、悠理は涙目になって顔を真っ赤にして口をパクパクとさせる。
 まさかこんなことで泣かないという誓いを破ることになるとは――確かに、大変なことになった。
「いつまでもそのままだと風邪引くぞ。缶詰食べる前にまずは服を着ろ――うわ!」
 悠理の投げつけた毛布が護留の顔面に直撃した。
「着ますから! あっち向いててください!」

「もうこれ以上、君と一緒に幻を見るのは止めにしようと思う」
 悠理が食べた缶詰を片付けながら、護留が言った。
「そんな――どうしてですか。まだ護留さんの過去が判明してないのに」
「でも君の過去は分かっただろ。プロジェクト・アズライールのことについても」
「ええ、ですから次は護留さんの――」
「これ以上君に倒れられても困るからな」
「……倒れたのは私の覚悟が足りなかったからかも知れません。だから次は必ず――」
「幻の中で見たことを忘れたのか? 君が――少なくとも今僕と話している〝君〟が消えたりしたらこの街は消え去るんだぞ。あるいは天宮は、僕たちがこうやって過去を見て君が倒れるのを目的にしていたのかも知れない」
「でも、私の中のあの子、『Azrael-01』はもう五年以上反応がないですし――それに護留さん一人でどうやって幻を見るんですか?」
「前は一人で見ていた」
「でも、それには人の残留思念や擬魂が必要じゃないですか」
「天宮以外にも魂魄制御技術に通じた企業は、少ないが一応ある。そこと――交渉をする」
「――私を材料に、ですか?」
「そうだ。君の保護の交渉だ。君は――君を想う人たちから生きるのを期待されている。
 だったら、とことんまで足掻き、強く生き続けろ」
 護留の言葉に、悠理ははっとして――やがてこっくりと頷いた。
「分かりました。でも一つ条件があります」
「条件?」
「はい。護留さん、あなたも一緒に保護されることです」
「いや、それは……」
「じゃないと私はここからずっと動きませんから!」
 ふんすと鼻息を荒くする悠理を見て、護留は渋々頷く。
「分かったよ……でも僕も一緒となると交渉の難度が上がると思うぞ」
「その時は――護留さんもここにずっといればいいじゃないですか」
 唐突に悠理の言葉に、異を唱える男の声が上がった。

「それは困りますね、『お嬢様』」

 護留が弾かれたように立ち上がり、声の方角にナイフを投擲する。だがナイフは声の主に届く寸前、傍らに控えていた黒い仮面に黒いマント、黒色の貫頭衣の存在――グリムリーパーが振るった白鎌リヴサイズに軌道を逸らされた。
 護留は動き続ける。まずは悠理の横たわるソファをひっくり返す。「きゃあ!?」悲鳴は無視。悠理がソファで遮蔽されたのを確認すると、ひっくり返した下に存在する武器ラックからオートマチック拳銃を取り出す。セーフティを解除し、グリムリーパーに向け全弾を叩き込む。マントがはためき、銃弾は全弾絡め取られた。
 四方に積まれているコンテナ群が、大音響と共に破砕、生じた穴からグリムリーパーが一体ずつ姿を表した。
 くそ、センサーには反応がなかったのに――!
 ギリリと下唇を強く噛む護留をニヤニヤと眺め、声の主――執事服などという場違いにも程がある格好をした男が言った。
「敷設されていたセンサーやトラップ類はほぼ市警軍の横流し品――いくらか改造が施されてはいたが――『自分たちで作った』ものに引っかかる間抜けはいないだろ? 負死者などとご大層な呼ばれ方をしている割には、がっかりだよ」
「――少し前に、似たようなことをほざいた負け犬がいたよ。そいつがどうなったか知りたいか?」
 男の挑発で逆に冷静さを取り戻した護留は、手の平から白銀の刃を生やし、構える。
 だが男はヘラヘラと笑うばかりで護留のことは見ていない。その視線はひっくり返ったソファに固定されている。
「お嬢様、お迎えに上がりましたよ」
 悠理はソファの下でその声を聞く。聞き慣れたその慇懃無礼なその声の主は間違えようはずもない、
時臥峰ときがみね!?」
「左様です。前当主のご命令で、家出娘を連れ帰りに来ました」
「――ならば当代天宮家の主として命じます。そのまま帰りなさい」
「今この場で何の後ろ盾もない小娘の命令を何故私が聞く必要が?」
「後ろ盾なら、存在します。そこにいる、引瀬護留が私の矛であり盾です」
 スプリングがないかわりにソファの内側にはナノカーボンファイバーの防弾布が貼り付けてあり、ライフルの狙撃すら防ぐ。ひとまず悠理にはそこに居てもらう。
 一番の脅威は勿論グリムリーパーだ。護留は紹介屋の仕事で一回だけこの死神とやりあったことがある。あの時は1体相手に痛み分けだった。それが5体。全力でやれば3体までは行動不能に追い込める。それ以上は悠理を守りながらだと厳しいだろう。センサー類の情報が届く端末にはいざという時のためにこの部屋を物理的に埋め立てる機能もあるが――護留はともかく悠理が無事でいられる保証がない。ないが、使わざるを得ないかもしれない。
 悠理の返事を聞いて、時臥峰が護留を見る。舐め回すような視線を這わす。
「ふぅん。そうか、負死者とデキてたのか」
 無表情。だが次第に表情筋が奇妙に歪み始める。異状すぎて、それが怒りの顔だと気づくのに護留は一拍遅れた。
「はあ。じゃあもう犯ったわけかお前、悠理と」
「何を言って――」
「っとーにマセガキがよお!!! こちとら公社にいる間に何度あのメスガキ犯すチャンスがあったのに我慢したと思ってんだ!? ぶっ殺すぞクソが!!!」
 唐突に怒鳴り散らすと、一気に落ち着きを取り戻し、
「まあでもお前は死なないんだよな。だからこういうのを用意してきた」
 4体のグリムリーパーが進み出て、それぞれ背負っていた荷物を下ろした。
 4つの、棺桶。
「悪趣味だろ? 良く言われる」
 時臥峰は楽しそうに言い、物凄い勢いで棺桶を蹴りつける。悲鳴、怯える声、呻き声。死体ではなく、生きた人間が入っている。
「出てこいお前ら。オヒメサマに対してきっちりご奉公しろ」
 啜り泣く声と共に、棺桶が内側から開く。護留は目を見開いた。何故なら、出てきたのは時臥峰と同じくらい場違いな存在だったからだ。
「――メイド?」
 時代がかったフリルのついたエプロンドレス。頭にはホワイトブリム。まごうことなきメイドだ。それも4人。全員酷く顔を腫らしていて、怯えきっていた。
 思わず漏らした護留の声に、悠理が意外なほど強く反応した。
「メイド? その声は、まさか」
「よかったよかった。『そんな端女はしため知りません』とでも言われたら盛大に滑るところだったからな」
 時臥峰は満足そうに頷く。
「悠理サマ、あんたのお付きの侍女たちですよ。負死者が動いたら一人殺す。ご当主ドノが出てこない場合は10秒ごとに一人殺す。ハイ用意スタート」
「なっ――」
「動かないでください、護留さん!」
 あまりの常軌を逸した言動に、まずは時臥峰を肉塊に変えるべく足に力を込めた護留は、悠理の制止で辛うじてその場にとどまった。
 ソファーの下から悠理が、這い出してくる。
「――今更、私を呼び戻してどうするつもりなのですか、父は」
 決まっている。今の悠理――仮想人格を消し去りプロジェクト・アズライールを遂行するのだろう。だがそれには『Azrael-02』たる護留も必要なはずだ。
 だから、時臥峰に向かって行く悠理は護留の側を通る時に、逃げて、とだけ言った。
 ――クソっ! 悠理を置いて逃げるなんて、今更そんなことは――だがそれが一番天宮理生の企みを頓挫させる可能性が高い選択肢だ。
 ……母さんに続いて、悠理までも連れ去られてしまっていいのか?
 良くないに決まっている。
 護留が目の前を通り過ぎる悠理の肩を掴んだ、その時。
「ああ、何か勘違いしてらっしゃいますねお嬢様」
 パンパンパンパン。
 4発の銃声。
「帰ると言っても、無言の帰宅というやつなんですよ」
 人質だったはずの、悠理のお付きの侍女達が構える銃口から発した音だ。
 軽い音とは裏腹に、重い石を立て続けに投げつけられたようにガクガクと悠理は痙攣し、
「ゆう、り?」
 ガツン。
 硬い音を立て、床に上半身を捻った格好で倒れ伏す姿は、操糸の切れた人形のようにも、遊び終わった後そのまま放り出されたあやとり糸のようにも見えた。
 抱き起こす。抱き締める。
 反応がない。血が温かい。

 天宮悠理は、死んだ。

      †

 更に銃声。
 護留の身体にも穴が開くが即座に治癒する。だが悠理の傷は塞がらない。
「ふん。やはり死なないか。お前たち、御役目ご苦労」
 時臥峰が虫を払うように手を振ると、四人の侍女はくたりとその場に力なく崩れ折れた。擬魂と有機アクセラレータを取り付けられた、〝動く屍ゾンビ〟だ。地上やこの地下にいる生きる屍ゾンビとの違いは身体が機能しているかしていないかだけ。昔、重犯罪に対する刑罰として用いられた手法だ。本当に悪趣味なやつだな、と護留はぼんやりと思う。
「これで、天宮が企むプロジェクト・アズライールもご破算というわけだ」
 時臥峰の言葉に、曖昧になっていた護留の思考が焦点を結んだ。
「なに――?」
「現当主である悠理の抹殺、そして『負死者』――『Azrael-02』である引瀬護留の確保。ついでに市税局から貸与された徴魂吏グリムリーパーも持ち帰るか」
 五体のグリムリーパーはじわりと護留の包囲を狭める。
「財団にとって満足すべき結果だ。これでプロジェクト・アズライールも我々が描いた姿へと修正することが可能になるな」
「貴様ら……財団――空宮そらのみやか……!」
「今は天宮の情報部長サマだぞ俺は。前当主――理生のやつは、財団を完全に過小評価してあんな見せかけの計画に騙されたと思っていたようだが。公社の中にも財団派は多いのを知らないわけじゃあるまいに」
「――……」
「うん? 言いたいことがあるならはっきりと言えよ。お前は持ち帰ることになってるからな、道中仲良くしようぜ」
「強く生きるって言ったそばから、死んでる場合じゃないだろうがっ! 悠理!」
 護留の掌からE2M3混合溶液製のナイフが生える。
 決断は一瞬。
 床に転がる悠理の心臓に、突き立てる。
 ――紛い物の生を過ごす自分には、紛い物の死しか与えられない。
 致死傷を負わせた対象は、護留と同じように再生を開始するが大抵の場合、護留のように人型には戻らず肉塊へと成り果てる。
 ――だが悠理なら。
 元は一つの魂から分かたれた、護留と同じ存在である『Azrae-01』なら。
「とっとと起きないとまた脱がすぞ!」
 ドクン。
 脈動が、ナイフから護留の手へと、伝わった。
「気でも狂ったか? おいさっさと拘束してしまえ」
 時臥峰は眉を顰め、グリムリーパーに指令を下す。五体のグリムリーパーは一斉にリヴサイズを振りかぶると、白銀の三日月のような残像を描きながら致死の勢いで打ち振った。
 轟音。
 グリムリーパーの鎌は――護留には当たらなかった。

(『Azrael-02』との深深度接続を確認。全機能の転移を承認……終了。超再生モルフォスタシスプロトコル、全ローテーション……終了。『Azrael-01』、再起動……成功。仮想人格ペルソナとの融合を開始……終了。耐発散機構アンチダイバージェンスシステム展開中……終了。完全魂魄制御アストラルコントロール開始。内丹炉機構リアクター群起動……臨界達成。ハイロウ・フェノメノン確認。反魂子機関アンチアストラルマターエンジン始動。魄体アバター及び擬似魂魄イミテーションゴースト全て正常に稼働中。エナンチオドロミー処置開始……終了。阿頼耶識あらやしき層ALICEネットへ接続中……成功)

(『止揚アウフヘーベン』、完了。システム『Astral Angel Azrael死を告げる天使』完全起動、成功)

(久しぶり――そしてゆうりの中へようこそ、悠理わたし

 振り下ろされたリヴサイズは全て光る粒子に阻まれ、空中で静止していた。
「悠理――?」
 悠理は、宙空1メートル程度の高さに浮かんでいた。床に散った血液は燐光を放ち、悠理に再吸収される。護留の刺したナイフも胸の中にずぶずぶと沈み込んでいった。
 周囲の空間に光る粒子――反魂子が、溢れ返る。それらは渦を巻いて悠理に纏わりついた。
 悠理の白銀の髪の毛が床まで伸びる。それはまるで羽根のようにも、ゆったりとした衣のようにも見える。4つの銃創は反魂子が撫でるように通り過ぎると跡形もなく消え去った。
「これは――これはなんだ! 悠理も負死者だったのか!? 屑代のやつは、『Azrael-01』は殺せば死ぬと確かに……」
「違う、これは負死者なんて不完全で醜悪なものじゃない」
 時臥峰の喚きを護留は静かに否定する。ナイフを刺した時に、護留にも〝声〟が流れ込んできた。
『Azrael』が、完全覚醒したのだ。
 護留が、悠理の暗殺を依頼された理由。引瀬由美子によって掛けられた鍵――仮想人格の消滅と『Azrael』同士の深深度接触における魂魄融合、それらを一気に起こす手段。
 それが今、偽の情報に踊らされた時臥峰と、悠理を救おうとする護留の行動によって、成された。
 空中の悠理が、目を開く。
 その色は元型アーキタイプ変質により脱色された紅色でなく、透き通るようなアズール
 澄崎市が失った、空の色。
 悠理は自分の身体の調子を確かめるように軽く手足を動かす。反魂子がその度にきらめく跡を残す。
 髪の毛が、広がる。反魂子が毛先の一つ一つにまで宿ってゆく。今やそれは黄金よりなお眩い輝きを放っている。
 悠理がつと、上を向いた。手を伸ばし、天井を掴むような仕草をする。
 カタカタという細かい振動が起こった。すぐにそれは激震となり立つのもままならなくなる。頭上からは、先の轟音に100倍する破壊音が迫ってきた。
 地下居住区全体が、天井を構成する巨大パネル――つまり地表の廃棄区画にとっての地面の落下により押し潰される音だった。
 護留のねぐらも地下の端にあったが当然巻き込まれる。護留の視界は二転三転し――何も分からなくなった。

      †

西暦2199年7月8日午前4時40分
澄崎市極東ブロック特別経済区域、占有第三小ブロック、天宮総合技術開発公社・本社ビル

 黎明の澄崎に、その破壊音と振動は響き渡った。同時に市の全区域で停電が発生。警報が鳴り始める。
 本社ビルは、市税局が集めた市民の魂からエネルギーを供給されているので影響はない。最上階にある社長室から見ると他のブロックも重要施設は電源が回復してポツポツとした光が識別できるが、南西の廃棄ブロックだけは真っ暗だった。元々夜の商売が多く、違法な発電も多く行われている廃棄区画だが、今や完全に沈黙している。
 高感度カメラや赤外線、思念波、魂魄波動レーダーを統合した映像が論理網膜に映し出される。
 奈落が口を開けていた。
 地下居住区の相当深くまでに亘って陥没している。
 そして、穴の中心には思念波や魂魄波動レーダーのみで明るく輝く〝何か〟が写っていた。
 天宮理生はそれを見て、満足そうに微笑んだ。
 ALICEネット阿頼耶識層で複数回確認された縁起律シンクロニシティの偏向から、『Azrael』シリーズの潜伏場所が特定されたのが三時間前。屑代が抜けた後に情報部長の地位に収まった時臥峰をグリムリーパーと共に即座に派遣した。
 結果が、あの大穴だ。
 あのサイコパス気味の空宮のエージェントは、こちらの期待通りユウリを殺し――そして『Azrael-02』がそれを助けたのだろう。
 停電とほぼ時を同じくしてALICEネット接続にも障害が発生している。『Azrael』覚醒による反魂子の過剰生成とそれに伴うネットの輻輳と高負荷現象――技術的発散テクノロジカルダイバージェンシーの兆候だ。残された狭い回線を使って理生の元には様々な報告や連絡が届いているが全て無視していた。
 全ては、もう終わるのだから。
「電話くらい出たらどうだ?」
 いつの間にか社長室の入り口付近に一人の男が立っていた。暗灰色のスーツにデータグラスを装着している。
「屑代、裏切り者が今更何をしにきたのです?」
「退職金を受け取りに、な。それとその名はもうやめたよ」
「名を捨てたり戻したり。忠誠を誓ったり裏切ったり。
 忙しいことですね――葛城」
 屑代――葛城雄輝かつらぎゆうきは肩を竦める。
「別に、忠誠を誓った覚えはない。引瀬や哉絵たちを護るために嫌々やってた仕事だしな。まあ、給料は良かったが」
「あなたがもう少し協力的なら都市の救済も、もっと早くに済んでいたのですがね」
「救済? 破滅だろ」
不生ふせいに満ちたこの街にとって、〝おわり〟こそが救いです。この街の無駄な延命の結果、外では人類が正常に築き上げてきた知識と技術が喪われ続けている。100年の負債を清算する時がきたのです」
「生き延びるために他者を犠牲にするのは仕方ないと思うがね」
「葛城、あなたも〝発散〟がどういうものかプロジェクト・ライラの失敗で知ったはずだ。今では――私も悠灯さんのことを詳しく思い出すことができないでいる」
「やっぱり、悠灯先輩か。あの人がいない街なんて無価値だから滅ぼすってところか?」
「そんな思いがあるのも否定はしませんよ。ただ、私はもう発散によって苦しむ人が増えるのを良しとしないだけです」
「そういうクソ真面目なところは変わらんな、理生。最後にそれを確認出来ただけでも良しとしようか」
 かつて葛城と席を並べていた大学時代にそうしていたような気軽さで、天宮理生は気のない相槌を打った。
「そうですか」
「ところで、警備は呼ばないのか? 俺は今社長室に不法侵入している訳だが」
「呼んだところで貴方を捕られるとは思えませんし、捕らえたところで無意味です。退職金なら、この公社にあるものを好きに持って行ってくださって構いませんよ」
「じゃあ話は早い」
 葛城の姿がぶれ、音すら置き去りにする速度で瞬時に理生のもとまで到達すると――そのまま、殴り抜けた。
「ぐ、がはっ、ごほっ」
 理生は血反吐を吐き散らしながら倒れ込んだが、すぐによろよろと立ち上がる。速度の割には、明らかに手加減された一撃だった。
 理生は少し意外そうな顔で問うた。
「――殺さないのですか?」
「今更お前を殺したところでどうにもならん。お前が殺した仲間たちのことを思えば八つ裂きにしても足りんが、今は時間もない」
 ――〝子供たち〟は、何処にいる?」
「なぜ、貴方がそれを?」
「おいおい、俺は情報部長だぜ。元だけどな。ただ流石に『グリムリーパーの素体』の生産元の場所の特定は、市税局の手前大っぴらに出来なかったが」
「――99階のクローンプラントです」
「そうか。じゃあきちんと退職金は頂いたんで、これで。
 最期に気の利いた言葉は特に浮かばんが――お前のことは嫌いじゃなかったよ、理生」
 葛城が出て行くのを見送ると、理生は論理網膜に映る景色を再度見つめる。
 水平線の彼方から、太陽が顔を出し、空を灰色に染める。
 それとほぼ同時に、廃棄区画の穴からカメラやレーダーの全波長で眩く輝く物体が勢い良く飛び出した。
『Azrael』=悠理は己を包んでいた輝く八面体――反魂子の宿った髪の毛をはらはらと解くと、しばし滞空する。
 すると、そこに〝色〟が生じた。
 悠理を中心に、ALICEネットで編まれた事象結界が解けていく。
 世界の外と内を隔てる境界線が消えていく。
 あるべき色を取り戻した、夜明け直後の茜と群青の空を、天使が舞う。

      †

西暦2199年7月8日午前4時20分
澄崎市南西ブロック海面下居住区跡地・陥没孔

 気を失っていたのは一瞬。護留はすぐに起き上がる。
 周囲は瓦礫の山。上を見上げると、やや明るみ始めた空。増光素子が入った建材も尽く倒壊しているのに何故こうはっきり見えるのか。
 その答えは護留の目前に浮かんでいた。『Azrael』完全覚醒体――悠理が発する光のおかげだ。
 光は全周から集まってくる。青白い、魂の光だ。この崩壊で死んだ者たちの魂を悠理が己が裡に格納しているのだ。
 ――名も知らぬ少女の母親や、物乞い市場にあったあの変な服屋の魂も、きっとその中にはあるのだろう。
 護留と悠理の周囲半径5メートル程には瓦礫は全く落ちていなかった。
 ――悠理が護ってくれたのか。
 悠理は蒼い目を少し先の瓦礫の山に向ける。と、そこは中からの衝撃で崩れた。グリムリーパーが三体、そして時臥峰が姿を現す。傷だらけだが、生きて立っている。その足元には二体のグリムリーパーが滑稽なほど平らになって潰れ、死んでいた。
「護留さん」
 誰が発した声なのか、一瞬分からなかった。聞いたことがない声だから、ではない。むしろ聞き慣れていた――頭の中で。
 五年間ずっと自分の中で響いてきた、『Azrael-02』の声。だからそれが外から聴こえることに違和感を覚えた。
 発言の主は、もちろん悠理だ。
「――いってきます」
 そう言って微笑むと、金色の髪の毛が殻のように悠理の体を包み込み、衝撃波とそれに伴う金切り音を伴い、一気に遥か上空まで昇って行った。
「……挨拶の返事くらい聞いてから行けよ」
「おい、引瀬護留、今のは――なんだ。あのメスガキは、天宮悠理ははどうなったんだ!」
 時臥峰がヒステリックに詰問してくる。
「僕が知るかよ」
 もちろん何が起こったかは把握している。ナイフを刺した部分から逆流してきた〝声〟は全て聞いていた。
 そしてその結果自分がどうなるかも、もう理解している。
 掌から新たにナイフを生やす。
「今さらもう、どうこう言っても遅いけど。いずれ起こる不快で不可避な、既定の基底だったとしても。お前が来なければこうはならなかったんだ」
 低く、宣言する。
「だからせめて意趣返しはさせてもらう」
 混乱の極みにあった時臥峰はナイフを構えた護留を見て、冷静さを取り戻す。
「とにかく『負死者』、てめえだけでも確保する。――やれ」
 グリムリーパーに命ずる。三体の死神は手に持つリヴサイズを構え、戦闘速度で護留に向かって突進した。
 護留の左右を挟むように、二体のグリムリーパーが時間差をつけてリヴサイズを横に薙いできた。右は胴体を、左は脚を狙っている。そして正面から更に一拍遅れて三体目。
 護留はどちらも躱さず、ただ目前の敵の腕を狙った。鎌の刃が護留を貫き、熱した硫酸を血管に直接注ぎ込まれたような、劇的な痛みが襲ってきた。常人ならば魂を引き剥がされ、即死だろう。そうでなくてもこの痛みでショック死は免れない。だが護留は死なない。
 死の為に生きてきた者が、今は死を従えて戦っている。
 下から掬い上げるような斬撃は、死神の装甲服の隙間に吸い込まれていき、リヴサイズを持つ腕を一太刀で叩き斬る。そのまま腕を落とした反動で喉を掻き裂くと、手刀に構えた逆手で頚椎の副脳を貫いた。
 まずは一体。
 胴体は防刃ナノ繊維が特に集中して編み込まれている部分だったので、斬撃は肋骨を圧し折るだけにとどまった。体内で折れた骨が自ずから動き元の場所で癒着する。食道を飛び出そうとした血も逆流していく。
 だが脚を狙っていた鎌は狙い過たず物理攻撃モードで護留の肉と骨を断ち斬った。護留は派手に転倒し、グリムリーパーが死体に集る鴉さながらに徹底的な追撃を行った。振り下ろされる鎌、鎌、鎌、鎌、鎌、鎌。
 ここまでで5秒。
 続く1秒で護留は蘇生、全身86ヵ所の致命傷を回復しながら手近のグリムリーパーに頭突きし、その黒い仮面を粉砕する。もちろん自分も同様のダメージを負うが構うことなく腕と脚を出鱈目に動かし、肉帯や鋭い骨片を使って包囲から脱出した。頭から零れた頭蓋骨や脳漿はすぐに体内に格納される。
 頭突きをくらったグリムリーパーは顔面を抑え、ガクガクと痙攣している。擬魂と体内のナノマシンが全力で傷を治癒している。だが助からない。何故なら、頭突きの際にわざと相手の体内に血肉や骨が残るようにしたからだ。
 グリムリーパーが一際強く痙攣すると、治癒プロセスに乗っかり全身に巡ってしまった護留の血液が、肉が、骨が体を突き破って飛び出してきた。まるで体内で爆弾が爆発したかのように、グリムリーパーは四散した。
 残り一体。
(警告。『Azrael-01』への内丹炉リアクター群の移譲により、体内での反魂子生成が停止中。超再生モルフォスタシス機能に障害発生中。再生効率42%。『Azrael-02』の機能維持率15%)
 護留の傷は完全には塞がらず歪な形に固まる。その隙間から血液と、体内を循環する銀色のE2M3混合溶液が溢れては引き戻される。再生力の基になる反魂子が不足しているのだ。
 最後のグリムリーパーは己が擁する9つの内蔵擬魂を全てリヴサイズに注ぎ込む。鎌は青白く発光・発熱し、持ち主の手すら焦がし始め、ブスブスと煙が立った。人工心筋が極端な拍動を刻み、超高圧の血流が毛細血管を破り、グリムリーパーの周りに紅い霧が立ち込める。
 足を砕きながら地を蹴り、マントをはためかせ、上空から一閃する。自らを顧みないその戦い方はまるで護留と同じだ。
 覚束ない視界と足取りで護留はそれを迎え討つ。
 魂魄徴収モードのリヴサイズは護留の心臓を寸分違わず貫く。
「生憎だけど、支払える手持ちが今ないんだ」
 護留はそう呟くと、リヴサイズを構成するE2M3混合溶液の制御を自分の体内のE2M3混合溶液で逆に乗っ取った。ALICEネット阿頼耶識層最上位端末である『Azrael-02』だからこそ出来る理不尽な荒業だ。
 リヴサイズに宿っていた、グリムリーパーを駆動させる9つの擬魂が全て消滅する。唐突に制御系を失った死神の身体は、戦闘用に極限まで高められていた体温の排熱を行えずに、自然発火を起こし倒れ伏した。
 倒れこむ死神の鎌の先に宿るのは、通常の魂魄の青白い光ではなくか細い光の粒子――護留の体内に僅かに残っていた反魂子だった。
 護留の中にあった魂は、悠理に吸収された。
『Azrael-02』が入った魂を悠理に渡すこと。それこそが護留に課せられたたった一つの役割ロール
「こんな――こんなことが認められるかあっ!!」
 時臥峰は叫ぶと護留に向けて銃弾を全弾撃ちこむ。
 撃たれながらも、護留はリヴサイズを拾い上げる。耳が吹き飛び腹には大穴が開き、左肘はちぎれかけている。
 周辺を漂う残留思念と反魂子が反応する際の眩い輝きと、非ユークリッド状に歪められた空間の鈍い悲鳴を上げるそれを、護留は片手で担ぐと助走をつけて、時臥峰に叩き込んだ。
「屑代より全然弱いな、お前」
 ぞり。
 鎌が触れた端から、時臥峰の肉体と魂魄が消滅していく――Azraelの力によって発散していく。
「弱いし、悪趣味だ。消えちゃえよ」
「あ? ああああ! あ――――」
 振り抜き終わると、そこには何も残らなかった。
 ふと護留は、今何を切ったのか分からなくなっている自分に気づく。
 途方も無く疲れていた。護留はグリムリーパーの死体の上に、仰向けに倒れこむ。
超再生モルフォスタシスプロトコル、全ローテーション……失敗・中断。『Azrael-02』、再起動……失敗・中断。再試行……失敗・中断。再試行……失敗・中断。再試行……失敗・中断。『Azrael-02』の機能維持率0.3%。反魂子余残量0%)
 再生が、始まらない。
 それどころか、体の端から緩慢に崩れていく。指先の肉が沸騰し、腐爛し、液状化して流れ去る。掌から見慣れた筋肉繊維が飛び出し、そのまま黒く萎れて溶けた。毛髪がどんどん抜け落ちる。
「……ぃ、――――」
 息を吸おうと口を開けたら、顎がなくなっていた。肺からは、血ではなく比重の重たい輝く液体金属――E2M3混合溶液が逆流してきた。身体中の皮膚が逆剥け、融けていく。
 再生能力が消失している。止揚アウフヘーベンが起こった時――悠理にナイフを刺した時に、『Azrael』としての機能を全て悠理の側に持って行かれたからだ。
 さっきの戦闘での回復能力と、未だに聞こえる〝声〟は長い間にこびりついた残滓のような物だろう。だが、それも使い切った。
 周囲はところどころで崩落する瓦礫の音しかしない。この有り様では地上と、地下に住んでいた人間に生存者は皆無だろう。
 これからこの街の全域でこれと同じことが起こり――その魂は悠理が全て回収し、外に運び出す。
 それこそが告死天使アズライール役目ロール
「悠理、君は――」
 もはや声にならない声を上げ、護留は空を見上げる。
 灰色の空。
 そこに浮かぶ光点を中心に、光――否、あれは色彩だ――失われたはずの色が広がっていく。
 夜明けを迎えた蒼穹と、朝焼けの赤が澄崎市を覆っていく。

      †

 色彩を取り戻した街で、殺戮が始まった。
 崩落した南西ブロックの調査のために地上に展開した市警軍やその他の戦力に向かって、悠理はまるで舞うように、くるくると回転しながら急降下していく。
 翼のように拡がった髪の毛が燐光を発し、グリムリーパーの胴を柔らかく薙ぐと、一度痙攣し二度と動かなくなる。特邏が乱射する徹甲弾も、悠理の周りで浮遊する高濃度の反魂子に阻まれ、接触したそばから発散する。そして黄金の髪の隙間からは、悠理の蒼い眼が覗いており、魂持つ者総てを捕捉していた。
 グリムリーパーが開放する擬魂の輝き。特邏の撃つ曳光弾の筋。そして数多の吸い上げた魂が宿った悠理の髪の毛が振るう輝跡。それらが空間に残像を残す。
 背景は灰色のベールが剥がれた、蒼穹の大空。
 踊るように魂をさらう、死の天使。
 戦闘ヘリや装甲車までもが全て悠理の発する光――反魂子を浴びた傍から機能不全に陥り、墜落し、衝突した。
 公社の本社ビルの周囲では空宮の部隊と天宮の防衛機構が激しい戦闘を繰り広げていたが――悠理はそのどちらも意に介さずただただ魂を吸収していく。
 全ての抵抗を等しく無力化し、悠理は滑りこむように、天宮総合技術開発公社・本社ビルの最上階にある社長室に進入を果たした。

      †

「あなた、この間後を継いだ天宮の新当主ね? あたしに関わらないで。二度と姿を見せないで。
 ――天宮も、空宮も、この街〈澄崎〉も……全部消えてしまえ」

 初めて会った時の彼女は、取り付く島もないくらい周りに壁を作っていた。
 孤高――でも孤独がもたらす寒さに、震えていた。

「あなたもしつこい人だね。あたしはもう余命が決まっているの。取り入っても、天宮にとってなんの得も旨味もないよ」

 自分以上に未来を諦めている彼女を見て、初めて――救いたい、と思った。
 彼女と、彼女が生きるこの街を。
 全てを解決する機械仕掛けの神としての役割を期待されて生きてきた自分にとって、それが初めての――そして最後の願いとなった。

「――え?」
「ですから、不老不死です。眞言の理論と、貴女が考案した擬魂の超効率的生産方式を合わせることにより、ALICEネットにかける負荷を最小限にしつつ実現できます」
「ば、馬鹿じゃないの? 不老不死って、そんなものあるわけ――」
「眞言以外にも前に紹介したメンバー全員が、本気でできると信じて、取り組んでいます。
 ――悠灯さん。共に、生きましょう。
 生きて、この街をずっと見守りましょう」

 青すぎる言葉。
 でも心の底から信じていた。だけど――

「――理生。あたしは、もう駄目みたい。だから」
「待って下さい悠灯さん! くそっ! 結界が――悠灯!」
悠理この子と、この澄崎を。救ってね」

 そう言って。
 彼女は光と共に消え去った。

 悠灯が消滅した時と同じ光がまぶたを貫き、理生は回想を打ち切り、目を開けた。
「ユウリ――いや悠理さん。久しぶりですね」
 悠理は長い髪をふわりと巻き上げ、50センチほどの高さに浮いていた。悠理が侵入してきた壁には穴すら開いていない。そんな物理的な障壁など最早今の悠理には何の意味もない。
「お父様――あなたを回収しに参りました」
「ええ、待っていました」
 理生の中にある魂――15年前、生まれたばかりの悠理を抱き上げた時に入り込んできた『Azrael』の欠片。分割された魂の最後の一つ、『Azrael-03』。
 それを取り込むことによって、悠理は真に完全となる。
『Azrael-03』の能力は、ALICEネットの吸収。ここ五年間のALICEネット帯域消失は理生が能力のテストのために引き起こした物だ。
「聞きたいことや、恨み言があるならどうぞ仰ってください」
 理生は腕を広げ、穏やかに言う。これから消滅する人間とは思えない落ち着き。15年間ずっとこうなるのを望んでいた者の平穏。
「いえ、特にないですね。あなたのことも、母のことも今はもう全部知っています。一発引っ叩いてやろうかとも思ってましたが、何やらもう殴られたあとのようですし」
 悠理は、まるで道行く人に声をかける露天の売人のような気安さで、あっさりと答えた。理生は苦笑する。
「そういう物の言い方は、本当に悠灯さんにそっくりですね」
 金髪、蒼い眼。『Azrael-03』の権能ちからを使って幾許かサルベージ出来た思い出の中の悠灯と、今の悠理は良く一致していた。
「ああ、でも私の『ユウリ』だった部分がお父様に伝えたいことがあるみたいです。ええと――
『外に出してくれたおかげで、大事な人に会えました』」
「……それはどちらかと言えば、引瀬博士に言うべき言葉ですがね。彼女があの『負死者』の少年と、あなたの出会いのシナリオを描いたようなものですから」
「ええ、それも知っています。けれど他に言うべき人間もいませんし」
「葛城がまだいますよ」
「葛城さん〝達〟は、もう都市を出ましたから。私の管轄外ですね」
「さすがは動きが早い」
 理生は笑う。開放された都市から最初に脱出する人間で――恐らくは最後の人間になる友人に少しばかり思いを馳せる。
「……では、もう言い遺すこともありませんので――ああ、いえ。
 ――最後に、一言だけ。ありがとう、悠理。生まれてきてくれて」
 理生は頭を下げる。悠理は少し驚いた顔をした。
「ALICEネットの『基憶』に在る限り、あなたに親らしい言葉をかけてもらったのはこれが初めてのようですね。今の私は控え目に言って万能ほどではないにしても千能くらいの力はあるのですが、なんと答えていいものやら分かりません」
「私の魂はこれからも貴女と共にあります。返事は後で考えれば良いでしょう」
「それもそうですね。ではさようなら、お父様」
「さようなら、悠理」
 悠理の髪が金属質の光沢――E2M3混合溶液――で覆われ、護留のナイフに良く似た形の刃を形成する。それが真っ直ぐに理生の胸を、貫いた。

      †

 その瞬間――ALICEネットは悠理の中に全て格納され、その機能を停止した。
 同時に市内のあらゆる公共機関が制御を失い、暴走した。
 1000人近くを載せた始発のリニアレールは時速200キロを維持したままカーブを曲がり切れずに脱線し、道路の信号は全てダウンした。自動運転のフライヤーはあさっての方向に飛んでいき機関が耐え切れずに爆発して下に向かって炎と残骸を撒き散らす。
 ヘリコプターは落ち、運河を航行中の船舶は岸壁に突っ込むか座礁した。医療機関は電力供給が途絶え、自家発電に切り替わったがそれすらも停止する。市警軍の基地では弾薬庫が爆発を起こした。
 浮遊ナノマシン群は全て機能を喪失し、洋上の強い風に吹き散らされていく。
 空の蒼はますます澄み渡り、その風景は遥か昔にこの街に『澄崎すんだみさき』という名を付けた人々が見た景色を彷彿とさせた。
 高層ビル群が崩落を始め、人影が宙に大量に放り出され濡れた音を立てて地面に落ちた。白い泡を立てながら海水がそれを洗い流す。水はどんどん市街地に浸透していく。都市はゆっくりと沈み始めた。
 だがこの壊滅的な状況による死者は、誰一人としていなかった。
 なぜなら、ALICEネットが停止したその瞬間――
 全ての人間は既に死亡していたからだ。
 ALICEネットに接続されていた全市民の魂魄は、階級付けを問わず即座に悠理に吸収された。
 擬魂で動いていたゾンビたちもALICEネットの停止により擬魂の制御が不可能になり、息絶える。
 寝たきりで動かなかった天宮花束は最後の瞬間、何を見たのか。
 許しを乞うように、あるいは差し出された手を取るように、宙に向かって腕を伸ばし――その手が微かな光に包まれると同時に、息絶えた。
 そして――廃棄区画と同じ崩壊が各ブロックで始まる。
 街の基礎である超浮体構造〈テラフロート〉の連結に至るまで全てALICEネットの制御下にあり――人々が意識的に、無意識に、その魂を懸けて存続を望んでいた街。
 ただ存在するだけで外の世界に不正な負債を押し付け続けた都市。偽りの歴史を信じ、不生と負死に満ちた街。

 澄崎市はこうして、百年の歴史に幕を下ろした。

終章 よろこびに満ちた楽園へ Soul Filled Shangri-La

西暦2194年11月15日
澄崎市北東ブロック第1都市再整備区域50番街E14号通り

「そう――ついに悠理ちゃんが」
 葛城哉絵は、天宮から逃亡してきた引瀬由美子を匿い、一通りの話を聞くと溜息をついた。
「ええ。眞由美と雄輝が時間を稼いでくれたからここまで逃げてくることができた」
「眞由美ちゃんは――助からないでしょうね。雄輝くんでも今のあの理生は止められないでしょう」
「……昔から、決めていたのよあの子。自分を犠牲にしてでも、悠理を護るって」
 二人はしばらく黙りこむ。沈黙を嫌ってか、哉絵は話題を変える。
「それにしても、良く診療所ここがわかりましたね。雄輝くんにも詳しい場所は教えてないのに」
「紹介屋で腕のいい闇医者を紹介してくれって頼んだら、三軒目でここを引き当てたわ。雄輝から哉絵は闇医者をやっているらしいって話は聞いてたから」
「まあ、それ以外に食べていく術もないですからね、私には。天宮から逃げてくる時に色々失敬しましたから機材はそこそこ充実してますよ」
 哉絵は肩を竦める。
「まさか公社の制服もそのままだなんてね。それでよくもまあこれまでバレなかったものだわ」
「まあ、雄輝くんが裏で便宜を諮ってくれてましたからね。それに元天宮って方が顧客に対する説得力も違います」
「その天才闇医者様に、頼みたいことがあるわ」
「……先輩、まさか、『Azrael』を」
「ええ。『Azrael-02』を、私に移植して欲しい」
「そんな――先輩が犠牲になることはないじゃないですか」
「犠牲ではないわ。『Azrael』の力があれば、これからも私は逃亡し続けることが出来る――そして私が逃げ続けていれば、それだけ悠理は長い時間人として過ごすことが出来る。チャンスがあれば、天宮に戻って悠理を連れ出すこともできるかもしれない」
 由美子の表情から本気を読み取ると、哉絵も覚悟を決めた。
「――分かりました。いつやりますか」
「時間がないの。できれば今すぐ――」
 その時、部屋のドアを開けて、少年が一人入ってきた。
「母さん、患者さんが来たよ」
「あら雄哉、今日は大事なお客さんが来てるから休診の看板出しておいてって言ったじゃない」
「したよ。でも急患だからどうしても見てくれって――」
「……雄哉くん?」
「え、はい。どちら様でしょうか?」
「ああ、母さんの古い友達よ。引瀬由美子さん。学校と職場の先輩だったの。雄哉も昔――と言ってもまだ赤ちゃんの時だけど――に会ってるのよ」
「そうなんだ。えーと。はじめまして、でいいのかな。葛城雄哉です」
「ええ、はじめまして、雄哉くん。元気に育ってるみたいで安心したわ」
「この診療所を開くまでは大変でしたけどね。今は悪ガキながら丈夫なもんですよ」
「悪ガキって……ひどくない? それより患者さんが来てるんだって」
「ああ、そうだったわね。どんな人?」
「なんか、仮面をつけた変な人で――」
 雄哉は最後まで言葉を紡ぐことはできなかった。
「かはっ――」
 その胸から、白銀の刃が生えていた。
 刃の先には群青色に発光する、雄哉の魂。
 リヴサイズの先に雄哉をぶら下げたまま、仮面をつけたプロトタイプ・グリムリーパーがぬうっと姿を現す。そのまま鎌を振り抜き、無造作に雄哉を部屋の隅に投げ捨てた。
「――う、わあああああああああああああああ!!」
 あまりのことに固まって動けない由美子の隣を、喉の奥から振り絞るような叫び声を上げつつ哉絵が突進した。グリムリーパーに体当たりし、揉み合う。その拍子に、グリムリーパーの仮面が取れた。
 そこから現れた顔に哉絵も由美子も呆然となった。
 白髪。赤目。だが見紛うはずもない。それは、
「眞由美!?」
 引瀬眞由美。間違いなく、自分の娘だった。
「……先輩、早く逃げてください! 目的は先輩の持ってる『Azrael』です! 裏口はあちらに!」
「で、でも」
「――全部捨ててでも成し遂げると、決めたんでしょうが!」
 ぼぐん、という鈍い音。哉絵の右手が完全に砕かれていた。それでも怯まずに哉絵はグリムリーパーを抑え続ける。
 ――そうだ、こんなところで捕まるわけには、いかない。
 死神が白銀の鎌リヴサイズを哉絵に振りかぶる。
 絶叫を後ろに聴きながら、由美子は、哉絵を見捨てて走り出した。

      †

 ――一体どれだけ走ったのだろう? 一体いつまで走ればいいのだろう?
 解体を待ち続ける灰色のビル群の隙間を縫って、引瀬由美子はひとり疾走する。
 雨が降っている。まるで天が流す涙のように大粒の雨だ。
 彼女は荷物を抱えていた。それはかなりの重量があるらしく時々前のめりになる。それでも、由美子はそれを手放さない。
 目の前を、何かが過ぎった。思わず速度を殺そうとして重心を後ろにずらすが――荷物のせいで派手に転んでしまう。
 過ぎったもの――溝鼠はキッ、と一声鳴くとそこら中に放置してある粗大ゴミの陰に駆け込んでいった。
 一度座り込んでしまうと立ち上がるのは困難だった。高揚作用のあるナノマシンはもうないし、有機外部アクセラレータも死んだ。体からは湯気が立ち上り、詰まった排水溝から溢れ出た汚水が羽織った公社の白い制服を茶色く染める。
「――っ」
 激痛が走り、足首を押さえる。過負荷に構わず全力で走っていたため、関節は半ば砕けており、大量の内出血で紫黒に変色して倍近くに膨れていた。
「――っはあ、はあ、はあ、」
 呼吸を落ち着かせようとするが、上手くいかない。寒さと苦痛――そして恐怖。それらが全身を萎縮させているのだ。たっぷりと水を含んでだいぶ重くなってしまった、背中まで届く長い髪をかきあげる。感情を自制するときの癖というか、儀式だ。
「……ふう」
 少し、落ち着いた。爆発しそうな勢いで鼓動を刻んでいた心臓も、わずかばかりの静かさを取り戻す。
 遠く、時に近く、サイレンの音が聞こえる。特邏たちが包囲を狭めているのだろう。立ち止まっている暇はない。
「そうだ、私は、逃げなくてはいけない――」
 由美子は、自身に言い聞かせるように呟く。
 逃げ切らなくてはならない。〝妹〟を救うと決意した眞由美のためにも、そして自分のもう一人の〝娘〟である悠理のためにも。
 そして……手に持つ荷物――彼女の親友たちの息子、葛城雄哉。彼の死を無駄にしないためにも。
 彼女が、公社から逃げ出したのは今から四日前のことだ。
 本来相互アクセスが不能であるはずの『Azrael-01』が、悠理に認識できる段階にきた。
 どうやら悠理は以前から気づいていたらしいが――普段の態度や精神検査からは全く検知されなかった。研究主任である自分すら娘から報告を受けるまで予想していなかった事態だ。
 眞由美の前だからこそ隙を見せたのだろうが、悠理の精神年齢と知能指数は相当高い。自分の内なる人格を、狡猾な大人たちから隠し通せるように立ち回ることが可能なほどに。眞言さんが仮想人格を高性能に創り過ぎたのか、それとも悠灯先輩や理生の遺伝子のいたずらか。
『Azrael-01』が自意識を持ち、既に活動を開始しているのならば、理生は間違いなく分割した『Azrael』の止揚アウフヘーベンを行おうとするだろう。
 それは即ち人としての悠理の終わり、そして澄崎という街の終焉。
 それを防ぐために、逃げてきた。公社に置いてきた偽装データを使って止揚実験を行っても、無駄だ。むしろ『Azrael-01』を抑制するウイルスを織り交ぜてある。
 しかし天宮は追手を――恐ろしい追手を差し向けてきた。
 先ほどの〝あれ〟は、由美子が大学時代に研究していた複数個の擬魂で並列制御するIGキネティック全身義体の試作品そっくりだった。結局義体ではなく適性のある生身の肉体がなければ無理だと判明したのでお蔵入りしたものだ。
 それが、眞由美の顔を持って現れた。由美子に対する精神的動揺を狙った物か――それともあれは本当に、眞由美が……。
 頭を振る。今は考えるな。
 手に抱く雄哉の死体を見つめる。外傷は一切ないが、魂を摘出され即死していた。
 診療所から脱出する時に、放置しておくのは忍びなくて運んできた。死体など持ってきても、何の意味もないのに――。
 ――否。意味はある。都合がいいから、持ってきたのだ。科学者としての自分が冷静にそう指摘するが、感情がそれだけはいけないと拒絶する。
 ああ――それだけはいけない。
 魂のない空っぽな雄哉の死体に、『Azrael-02』と由美子の魂を入れて蘇生し、自分の目的を達成させるなど。
 そう、絶対に、許されることでは、ないのだ。
 だけど――。
「……ふ」
 こんな葛藤は、もう10年も前に済ませたはずではなかったか?
「私は、逃げ続けなければいけないんだ……」
 雄哉の死体を、スプリングの壊れたソファの上に横たえる。
 そして哉絵の診療所から逃げる時に持ちだした、真空パックに封入されているE2M3混合溶液を取り出す。雄哉が持っていたナイフを触媒にし、亜生体メスを形成。メスとALICEネットをリンク、エラー。舌打ちする。阿頼耶識層にある由美子のアカウントをBANできるのは理生だけだ。完全にこちらのことを切り捨てている。もう由美子抜きでも計画を遂行できるということか。亜生体メスの制御を自らの精神に変更、成功。
 魂魄移植術式の正規作業環境を満たしていないため、少しでも精度を上げる必要がある。魂のエネルギー供給先を、肉体からE2M3混合溶液に変更。
 ぶつり、という幻聴を聞く。それは溶液と魂が精神を介して繋がるのに成功した証だ。今この瞬間から、由美子の肉体は死に、E2M3混合溶液が主体となった。
 主脳が死ねば、当然意識も消失する。ALICEネット上の自己バックアップは、出奔の際に全て公社に〝された〟。残された時間は脳細胞が酸欠で壊死するまで。ナノマシンによる組織強化や、副脳の補助を受けてもせいぜい1時間弱。その間に自分の魂魄と『Azrael』を全て雄哉の死体に遷さねばならない。
 躊躇している暇などない。
 少しでも時間を短縮するため、意識容量の全てをこれから行う術式に割り当てる必要がある。つまり、これが引瀬由美子が人間として思考できる最後だ。
 ――雄哉君……
 メスの切っ先を、死体の額にあてる。
 私はこれから、あなたを酷い目に遭わせるよ。

      †

・――メッセージを再生します――・

 私はあなたに絶対に許されない行為をした。既に死んだ雄哉君を更に殺すような行為だ。
 ここに私があなたにしたことを記す。あなたがこのメッセージを発見し、読む可能性は少ないだろう。それでもこのファイルを遺すのは私のエゴだ。
 私は自らの魂にある物を入力し、天宮を出奔した。それは、『Azrael-02』とそれに関するこの10年間の研究の全て。
 これをあなたに護り留めて欲しい。逃げ続け、天宮の手に渡らないようにして欲しい。だから、とても勝手だけれど、あなたの新しい名前を「護留」と設定した。姓は私の物である。
 そして逃げるのが叶わなくなった時――あるいは彼女と出会った時に、この魂――私と『Azrael-02』を悠理に渡して欲しい。
 あなたの仮想人格ペルソナに天宮への憎悪と、悠理を護り助ける感情をセットした。相互に矛盾する情動はあなたの精神を不安定にするだろう。
 だがこれは必要な措置だと、私は信じている。私が娘の眞由美を引き換えに逃げてきたのも、そしてその巻き添えで哉絵と雄哉君が死んだのも――言ってしまえば全てはこのためなのだから。
 もう私の力では――旧友たちの力を借りても、この澄崎の滅びを回避することは不可能だ。
 ならば悠理に、この街の最期を看取る彼女に、せめてもの慰めを。
 彼女に魂を渡すまでの少しの間だけでいい。彼女と、一緒に過ごしてやって欲しい。
 たのしい時間を、送らせてあげて欲しい。
 計算された出会い、演算された恋愛、清算されてお終い。
 例えおままごとのような、役割ロールが決まった仮初めの関係でも。
 彼女に、せめて誰かを愛してほしい。
 偽善だろうか。欺瞞だろうか。それともこれは犠牲だろうか。
『Azrael』となった彼女が我々の魂魄を、生きて死んだ証を、どのような世界で、そしてどのような形で告げ知らせるのかは想像もつかない。
 だがそこに一片でもいい、美しい思い出があれば――我々の魂はきっと福音として新世界に鳴り響くだろう。
 あらゆるかなしみや苦しみから開放された楽園シャングリラ。そんな世界に、我々の魂は放たれ、満たされるだろう。
 だが残念なことに私があなたに託すこの魂は、あなたにとってただ苦難をもたらす重荷となる。
 そしてこの魂と役割のせいで、あなたは確実に、死ぬ。
 けれど。
 身勝手な思いだとは分かっている。このようなメッセージを魂魄の片隅に隠してもなんの意味もないことだと知っている。
 けれど――
 私は、願わずにはいられない。
 あなたに託す私の魂が、いつか、あらゆるかなしみと苦しみから開放され、大切な人たちが待つもとへ――涙も、叫び声もいらない場所へ辿り着くことを。
 皆の魂と共によろこびに満ち溢れた日を迎えることを。
 ――最後に、一言だけ。
 ごめんなさい。そして――

 あなたと悠理が、しあわせになれますように。

・――AD.2194/11/15 引瀬由美子――・

      †

 ――引瀬由美子……母さんの友だちに謝られる夢を見た。
 仔細な内容も克明に思い出せる。それはただ一つの感情で彩られていた。
 悲哀。
 夫と娘を殺され、友人を殺され、そして僕を死なせてしまったことに対する、深くて大きなかなしみ。
 自分の名前も、思い出せた。
 母さんのことも、思い出せた。
 そして人から託された願いも――思い出せた。
 自分のものではない記憶とおし着せられた復讐心に衝き動かされ、やることは全て裏目に出て、結果悠理を死なせてしまった――そう考えていたが、案外悪くない結末を迎えられたのかもしれないと、そう思える。
 廃棄区画に出来た崩落孔は大量の海水と泥が流れ込み、瓦礫とシェイクされ埋め立てられていた。護留は辛うじてねぐらにあったコンテナの一つに這い上がり、溺死を免れる。
 どうせ死ぬなら、この蒼穹を眺めながら死にたい。ALICEネットが消え去った今、結露を呼ぶナノマシンも吹き散らされどこまでも空気は澄み渡り、なるほど澄崎という名前に相応しい。
 周囲のビル群が音を立てて破砕されていく。東に見える巨大な天宮の本社ビルも、傾ぎ、擬似水晶体の窓を大量に剥落させていた。煌めくそれらの中でも一際明るい光が落下し――まっすぐこちらに向かってくる。
 わずか数秒で、傍らに静かに降臨した。
「――――」
 語りかけようとしたが、喉が潰れ、舌も融けて口咥内に癒着してしまっていては奇怪な音を搾り出すのがやっとだった。
 光を放つものが、徐々にその明度を下げていく。輝きが消えた後に立つのは、一人の少女。悠理であって、悠理でないモノ――天使アズライールだ。
「護留さん」
・――君も、僕の前の名前、もう知ってるだろ。そっちでは呼んでくれないのか?――・
「ええ。だって、護留さんは護留さんですから」
・――思考が読めるのか――・
「はい。今まで忘れていた、色々なことを思い出しましたから。ええと、読むというより、舐めるって感じですね。ぺろぺろっと」
・――はしたないな――・
「護留さんには言われたくないですね!」
 そう言って、悠理は「くくく」と細い笑いを喉で鳴らした。
・――少し……変わったか?――・
「ええ。性格も外見も構成元素も、前とは全くの別物になっていますよ。でも――悠理の情報は全て引き継いでいます」
・――それはなによりだ。あそこで死なれていたら、後悔でおちおち死んでもいられないからな。それはそうと――やっぱり、君は行くのか? 外の世界へ――・
「ええ。それが私の両親の意志であり、私が創りだされた意義であり、私が存在する意味ですから」
・――そうか。じゃあ引き止めるのはやめにするよ。願いを果たすってのは、いいものだからな――・
「――とどめが、いりますか?」
 柔らかい笑顔のまま、悠理が問うた。
・――いや、いい――・
「でも」
・――全然、苦しくないんだ。とても温かで――そう……まるで、楽園にいるみたいだ――・
「楽園、ですか」
・――魂がもうない僕は、天国には入れないだろう。でも楽園なら――夢見ることくらいなら、できそうだから――・
「さあ、それはどうでしょうかね。そもそも天国って。護留さんは悪人ですから行けたとしても地獄ですよ、きっと」
 悠理はわざと意地悪く言う。
・――……酷いな――・
「護留さんの、真似ですよ」
・――酷いな……――・
「くふふ。とどめがいらないのなら、せめてお願いを聞いてあげますよ」
・――いいのかい? じゃあ、お言葉に甘えよう。欲しいものが、一つあるんだ――・
「なんですか? なんでもあげますよ。庭付きの一戸建てと白い犬だって作って差し上げます」
・――君にあげたあの紅いあやとり。実は僕も『塔』を作ってみたいと思っていたんだ。だから練習するために、くれないか?――・
 悠理は目を丸くし、次いで吹き出した。
・――駄目かな?――・
「くくく……いえ、いいですよ。――大事にしてくださいね」
 悠理が白い手を軽く振ると鈍い輝きが生じ――一瞬で紅い毛糸が現れた。焦げ目まで寸分違わない。物質転送ではなく、情報からの実物質の創造。神にも等しい行為。ALICEネットに封印されていた発散テクノロジーと失効テクノロジーを、悠理は呼吸でもするかのように自在に使いこなしていた。
 護留は手を伸ばしてそれを受け取ろうとするが、どす黒く変色していたそれは持ち上げるとぼとりと、糸を引きながら落ちた。苦笑する。残った顔面の右半分が、その拍子にずるりと崩れる。
「あーあ、男前が台なしですよ。せっかく護留さんは私の好みの顔をしていたのに」
・――……そうだったのか?――・
「そうじゃなきゃ、まず初対面で誘拐犯の男の子とあんなに仲良くしようとしませんよ?」
・――そういうところは、案外と普通の女の子だったんだな君も――・
「お年頃ですからね。護留さんはどうでした? 私のこと、どう想ってました?」
・――それも、もう知ってるだろう――・
「知っていても直接聞きたい複雑な乙女心をわかってくださいよ」
・――植えつけられた偽の情動、お仕着せの記憶。僕が君に抱いていた感情はそんな風な、恋とはとても呼べない、幼稚で杜撰な代物だったんだよ――・
「……それでも、私は嬉しかったですよ?」
 悠理は、もはや半分以下の大きさになってしまった護留を優しく見下ろす。
 護留の自壊は止まらない。もはや悠理にもそれは止められない。ALICEネットの最も基礎的なプログラムによって護留の発散は実行されている。
 ネットは全て悠理が格納したが、800万分の1ほどの機能が残響として市に存在していた。即ち、護留一人ぶんだけ。
 自らの『Azrael』としての機能を悠理に渡すまで維持し、役割ロールが終わったら自己を消す。ただそれだけのために存在した空っぽの容器うつわ。それが護留だ。
 引瀬由美子博士による処置だった。崩壊していく体に、まだ意識が残っていることも含めて。
 それが護留にとって救いか――或いは呪いかは、もはや今の悠理が詮索することではない。
・――君は、なにかないのか。これが最後だからな。僕にできることならなんでも聞こう。まあ、できることはかなり限られているけどな――・
「じゃあ――最後に、一つだけ。実は一緒に地下で過ごしていた間にこっそり何度か試そうとして、できなかったことがあるんです」
・――なんだ、僕になにをしようとしていたんだ君は……――・
「いや、そんなに身構えなくても大丈夫ですから。別に痛くはしませんよ」
 悠理は一旦俯くと、やがて意を決して顔を上げ、言った。
「――キスを、させていただけないでしょうか?」
・――……いいのか?――・
「ここで女の子に聞き返すなんて果てしなく台無しですよ! まったく本当に護留さんにはデリカシーがないですね!」
 少し怒ったように言って。だけど悠理は笑って。
 護留のもはや存在しない唇に、自分のものをそっと重ねた。

      †

 ビルが崩れる粉塵、ガラス片の乱舞、そして湧き立つ飛沫――安全圏まで距離を取っても、小型艇の船上からは、澄崎市が沈没する様はよく見えた。
「わあ……きれいだねえ」
 グリムリーパー化されなかった引瀬眞由美のクローン、その最後の一体である少女の心からの感嘆に、葛城雄輝は深い溜息で答えた。
 そのことが不満だったらしく、眞由美はこちらの向こう脛を蹴ってくる。その仕草はオリジナルの眞由美の幼い頃にそっくりで、葛城は苦笑した。
 結局公社のプラントから追手の攻撃を避けて連れ出せたのは彼女一人だけだった。何かの意味はあるのだろうか? だが少なくとも慰めにはなる。葛城と、そしてかつての同僚たちへの。
 哉絵。悠灯。理生。眞言。由美子。花束。
 皆、死んだ。
 そして彼らの遺体が眠っている場所も、今沈みつつある。だが彼らのことを少なくとも自分は覚えている。そしてALICEネットも彼らを記憶しているはずだ。ならば――この行為も無駄ではなかろう。
 傍らではしゃぐ眞由美を改めて見やる。
 彼女が成人し、いつの日か葛城の代わりに庇護してくれる相手を自身で見つける時まで。今度こそ護り留めよう――守ってやれなかった息子に、雄哉にはしてやれなかったこと、出来なかったことをしてやろう。
 市を覆っていた事象結界は今や取り払われた。蒼い空に碧い海がどこまでも広がる。市民の意識の空リソースと魂を使用して演算されてきたそれが消えた今、長年患ってきた病が癒えたような、得も言えぬ開放感をただ感じる。
 実際、この都市は病んでいたのだろう。長い長い――百年という歳月の間、ずっと。
 もう、この街に出るのも入るのも自由だ。もっとも出て行くにしても、この街に今生きている人間が自分たち以外にいるのか疑問だったし、入るにしてもあと数十分足らずで沈みきってしまうのだが。
 都市の外は未知の世界だ。二人がこれから支障なく暮らしていける保証などどこにもない。
「さて……どっちに進んだものかな」
 その時、ふと頭上に影が差した。
 予感に駆られて、見上げる。

      †

 崩壊する都市から飛び立ち、遮るものが一つとしてない蒼穹を、天使が昇りゆく。
 遍く世界に、澄崎という街の死と、そこに至るまでの物語を告げ知らせるために。
 その動きが、ふと止まる。
 沈みゆく街が生んでいる大渦を眼下に、天使は何かを探すように左右に少し揺れ――諦めたのか、それとも望むものを見つけたのか――そのまま上昇しこの世のモノが出すことのできない速度と動きで去って行った。
 テラフロート群上の建造物はことごとく倒壊し、海水が全てを押し流す。
 大量の廃材や死体が浮かぶ泡立つ水面。
 そこに一本のあやとりの糸がないか探しみても――恐らくは、無駄である。

      †

 視界を一瞬、白い光が横切り――それだけだった。肉眼で〝それ〟の存在を捉えられるわけがない。
 だが。
「なあに、あれ? おそらにみちがあるよ!」
 眞由美が指差したのは、一筋の長い雲だ。
 天使が残した航路。
「あっち、あっち、あっちにいこー!」
 ぴょんぴょん跳ね回りながら、眞由美が叫ぶ。
「……そうするか」
 呟き、船の自動航行装置を調整し始めた葛城に、眞由美が質問した。
「ねえねえ、あのみちは、どこにつづいているのかなあ?」
 葛城は機器を操作する手を止め、一拍置いて答えた。

「――楽園さ」

      †

 植えつけられた情動、お仕着せの記憶。それによる、強制された好意だったとしても。
 恋とはとても呼べない、幼稚で杜撰な代物だったとしても。
 計算された出会い、演算された恋愛、清算されてお終い。
 それでも――

 も、あなたのことが、好きでした。


Soul Filled Shangri-La ~The Reincarnation of the Angel.~
Sumizaki City Chronicle Part Ⅶ.

The End.

PS5積み立て資金になります