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ワイドショーに芸(能)人、タレントが起用されることから考えたことーーーいまこそ求められるメディアリテラシー

こんにちは。

ずーっと気になっていて、最近「そうか」と自分なりに腑に落ちたことを書いてみます。

コロナ禍以前は、通勤前に、朝のニュースショーをチラ見してましたが、あれはたいていアナウンサーの方々がMCおよび共演者ですね。局アナにしてもフリーにしても。

で、これらの番組が8時頃に終わると民放各局一斉にワイドショーに突入します。考えてみると、すごいですよこれ。ここから夕方のニュースワイド開始まで、番組変えつつもおよそ8時間ですから。それからニュースワイド3時間ですよ。月金の帯でね。ちょっと話は変わりますが、出演者も大変だろうけど、下請の制作会社もキツいだろうなあ。

それでえーと、ワイドショーになると途端にMC、コメンテーターとやらが芸(能)人、タレントになるんですね。コメンテーターには本業を別に持ってらっしゃる方もいますけれども、まあ、レギュラーなんだからひとくくりに「タレント」といってもいいでしょう。

毎日オフィスに通勤していた頃は、私はもちろん、こういう番組は見られませんでした。しかし、コロナ禍以降、在宅勤務が増えると、なんとはなしに見る機会が増えたのですね。

で、ずーっと、漠然と思ってたんですよ。そうした芸(能)人さんたちを見てて「○○も偉くなったもんだな。。。」と。いやこれ、ほんと上からで申し訳ない。

だけども、素朴に「なんでこの人が?」と思いませんか? 政治から経済から国際関係から事件・事故から、それこそいまはコロナですよ。あ、もちろん芸能ニュースもあるけれども。それを全部カバーできるほどの教養、知識があるのか? 

まあ、こんなことイキリたつほどのことではないんで、頭の隅でね、ぼんやりと思ってました。もともと、そういう番組見ないんだし。

ところが最近、ああそうか、となんとくなく自分なりにわかってきたことがあるんですね。なぜ、ああした人たちを起用するのか? 私は、そのわけは大きくは二つあるのではないかと思っています。

1)視聴者に親しみやすい(と制作者側は思っている)

2)視聴者は何も知らないと(制作者側は)思っている

1)は、一見いいことのように思えます。けれど制作者側は、2)と思ってるから「程度を下げる」というか「難しいことをわかりやすくしている」イメージを出したいわけですね。「視聴者代表」として、いろいろ「専門家」やら「コメンテーター」やらに質問をなげかけるにもちょうどいいレベル(最近の流行りでいうと、視聴者目線ですか)という印象の人がいい。

2)は制作者側の心の内はこんなもんかな、と思います。「どーせ、こんな時間にテレビなんか見てるのにろくなのいないだろ。そういう連中はちゃんとしたニュースも新聞もろくに見ないだろ。だから俺たちが、わかるように説明してやるぜ」という考えが背景にあるのではないでしょうか。

MCだって、ほとんど台本どおりしゃべってるわけですが、となると、その芸(能)人の、いわゆる「回す力」「仕切る力」が、視聴率獲得のために重要になってくる。本人の教養、知識関係ないですね。

このように、テレビ番組はじめメディアの情報というのは「作られている」ということを考えると、ワイドショーだけではない。ごく普通のニュース番組にしても、新聞記事にしても、それは「切り取られている」したがって「なんらかのバイアスがかかっている」わけで、これはつまり「編集されている」ということとほとんど同じなんですね。

これまでは、良心に基づいて編集されている、つまりメディアの信頼性をある程度無批判の前提としていました。それでまあ、大きな間違いはなかった。

しかし最近は、インターネットによって、容易にフェイクニュースが拡散されやすくなってきています。そこで、メディアリテラシーを身につけようという動きが、すでに小学生から始まっています。

小学生だけではありません。ニュースを受け取る側のメディアリテラシーが、子供から大人まで、いまほど求められる時代はないかもしれません。

いつの時代でも「誰かが何かを言うことの自由・権利」は保証されなければなりません。一方で、「その言っていることの背景は何か?」「それは事実か?」について、受け取る側はより注意深くなくてはならなくなっています。

「かくされた悪を注意深くこばむこと」というのは、谷川俊太郎さんの詩「生きる」の一節ですが、40年前にこの詩にふれた時からずっと、この一節を大事に胸に抱いています。

みなさんも「かくされた悪を注意深くこばむこと」を心がけてみませんか。

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